読書の日記 --- READING DIARY
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 すべての美しい馬/コーマック・マッカーシー

内容(「BOOK」データベースより)
1949年。祖父が死に、愛する牧場が人手に渡ることを知った16歳のジョン・グレイディ・コールは、自分の人生を選びとるために親友ロリンズと愛馬とともにメキシコへ越境した。この荒々しい土地でなら、牧場で馬とともに生きていくことができると考えたのだ。途中で年下の少年を一人、道連れに加え、三人は予想だにしない運命の渦中へと踏みこんでいく。至高の恋と苛烈な暴力を鮮烈に描き出す永遠のアメリカ青春小説の傑作。


苦手だと思ってずっと手を出さなかった、コーマック・マッカーシーの『すべての美しい馬』を読み終えた。これは純文学だし、中身にも哲学的な部分があるから、なにか小難しい言葉を並べた感想を書くべきなのかとも思ったが、そもそもこれを読むきっかけが、そんなたいそうなことではなかったのだから、感じたままに書く。

これはたまたま、映画「オーシャン・オブ・ファイヤー」を観て、カウボーイってカッコイイなあと思ったのがきっかけで、読むなら今しかない!と読み始めたときにも書いたのだが、文体がとりつきにくかっただけに、この主人公はヴィゴ・モーテンセンであると激しく思い込み、無理矢理そういうイメージを作り上げて読んだと言っても過言ではないかも。(^^;

ところが、この主人公ジョン・グレイディは16歳なのだ。40歳もとうに越えているヴィゴとはちょっとギャップがありすぎる。しかし、この主人公は16歳にしては落ち着いていて、年齢が16歳だということなど、ほとんど頭に浮かばないほど大人っぽい。一人で行動のできるしっかりした男だ。まさに「孤高のカウボーイ」という感じでカッコいい。こんな16歳の男の子って、今時いるかな?

ところで、映画「すべての美しい馬」では、ジョン・グレイディ役はマット・デイモンなのだが、年齢的には彼のほうがはるかに合っていると思うし、彼のジョン・グレイディも、きっと素晴らしいだろう。でも、すっかりヴィゴのイメージで読んでいたので、いきなりマット・デイモンが出てきても、すんなり受け入れられるだろうか?マット・デイモンも好きなので、彼が出演しているっていうのはいいのだけれど、ちょっと複雑。

この『すべての美しい馬』を含む、コーマック・マッカーシーの「国境三部作」も読んでみたいと思ったが、2作目の『越境』は在庫切れ。3作目の『平原の町』は単行本で入手可能。『越境』は主人公が違うのだが、『平原の町』は、ジョン・グレイディのその後という内容らしいので、大いに興味あり。少しは大人になってからの話だから、無理矢理ヴィゴのイメージでもいいだろう。<何が何でも「カウボーイ」といったらヴィゴ・モーテンセンなのだ。(^^;

それにしても、絶対嫌いだろうと思っていたマッカーシーを気にいるとは!やはり読むタイミングというのも大事だが、本は読んでみなければわからないのだなあとつくづく思う。ただ、この本を買ったときに読んでいたら、間違いなく嫌いになっていただろうと思うが。

しかし、マッカーシーの文章は、そのすべてとは言えないが、時折素晴らしい描写があることは確かだ。彼のストイックな生き方も含めて、すごい作家だなと思う。マッカーシーは書くことにこだわり、極貧の生活だったのに、「言いたいことはすべて売れない本の中に書いてある」と主張し、2000ドルの講演依頼も断ってしまうくらいのストイックさだ。貧乏話を売るオースターとは全然違う。

オースターも作品は好きだが、貧乏話のエッセイは受け入れかねる。貧乏が悪いと言っているわけではけしてないが、お金のことなど言及せず、「清貧に甘んじる」といった精神のほうが、私は好きだ。オースターに関しては、マッカーシーとはまた別の話になるが。


2004年04月30日(金)
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 ストラヴァガンザ─仮面の都/メアリ・ホフマン

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15歳の少年ルシアンが時空を越えて旅をする「歴史ファンタジー」。本書は「ストラヴァガンザ」3部作の第1作にあたる。

21世紀のロンドン。少年ルシアンはがんに冒され、つらい化学療法を続けながらベッドの上で過している。16世紀のべレッツァ。この都はルシアンの暮らす世界と並行して存在するもうひとつの世界(パラレルワールド)にあり、絶大な権力を持つ女公主によって統治されている。ある日、マーブル模様の手帳を父親からもらったルシアンは、突然べレッツァへと時空を越えた旅(=ストラヴァガント)ができるようになる。16世紀のべレッツァで過す時のルシアンは、体調も万全。ロンドンとを巧みに行き来しながら、魔法の師匠ロドルフォからさまざまなことを学ぶうち、女公主シルヴィアを救う大冒険に巻き込まれていく。

圧巻なのは、美しいものを描写する著者、訳者の表現力である。水に浮かぶベレッツァという都そのもの、豪華なドレスやガラスでできた仮面はもちろん、小さな焼き菓子さえもぴったりの表現を与えられて輝いている。花火の打ち上げられた夜空を描写する文章はとりわけすばらしく、頭のなかには尾をひいて水の中に消えて行く花火がいつまでも残るだろう。

本書にはいわゆる「悪役」も登場するが、それ以外の人物も決して清廉潔白で完璧な人間というわけではない。都を治める女公主シルヴィアは優雅で美しく、人々の信頼を集めているが、恐ろしいほど無慈悲で残酷な一面を持つ。ルシアンの師匠ロドルフォは思慮深く教養あふれる美しい銀髪の紳士だが、愛する人の前では嫉妬深いただの男になってしまう。著者は生々しい感情もきちんとすくいあげて描くことで、血が通った人物たちを作り上げている。

また、物語には常に「死」の暗い影が見え隠れする。それは終盤になるにつれどんどん濃くなり、物語を一気に意外な結末へと導いていく。この死の存在もまた、本書にどっしりとした魅力を与えている。(門倉紫麻)

内容(「MARC」データベースより)
ふとしたことで時空をこえる術を身につけたルシアンは、異次元の世界、16世紀のベレッツァへと旅立つ。ベレッツァで出会うふしぎな人たちとパラレルワールドの大冒険がはじまる。



このところ、続けて最近のファンタジーを読んだが、どれも今いちだった。その中で、この作品は、まあまあ読むに耐える出来かなとは思うものの、個人的には好みではない。

内容は上に書いてある通り。ストラヴァガントするという行為そのものに、疑問点がたくさんあって、それがどこまで読んでも解決されないままなのが不満だし、登場人物にもあまり魅力を感じなかった。ルシアンの病気や、死というものが、この物語に必要だったのかとも思うし、なんとなく暗い雰囲気を残したまま終わってしまう。

現実の世界での「死」によって、ロンドンに戻れなくなってしまったルシアンだが(その後、時折元の世界のロンドンへ、ストラヴァガントするのだが)、いずれベレッツァでも死が待っているだろう。命あるものは必ず消滅するのだから、この結末は、むなしい。

2004年04月27日(火)
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 L.A.ウーマン/キャシー・ヤードリー

内容(「MARC」データベースより)
失敗続きの男関係、問題はなにがいけないのかわからないコト。いちばん大事なものは違うけど、さみしくて、わがままなL.A.ウーマンたちの人生は!? 「最悪」を「おいしいトラブル」に変えるL.A.マジック。


これも「BJ」本の一種だけれど、結構はまって、そのまま一気に読み終えた。ちょっと前に読んだ、ウェンディ・マーカムの『恋する熱帯魚』も、軽薄なタイトルに似合わず、意外に深くて面白かったが、これもなかなか面白かった。

この手の本には、必ずゲイの友だちが出てくる。彼らが登場しないと「BJ」本じゃないっていうくらいに。そんなことをゲイのともちゃんに話したら、男は信用できないし、女は裏切る。だからゲイがいいのよ、と。たしかに。。。

この主人公は、婚約者とロサンゼルスで暮らすつもりで、一足先に田舎から出てくるのだけど、その婚約者がなかなか出てこない。その間に、ルームメイトや周囲の友人の影響で、オシャレに目覚めたり、クラブ通いをしたりして、どんどん自立していくという話。

何かもうまくいかなくなって、一度は別れた婚約者と、ついに結婚するということになるのだが、最後の最後に、これは違う!と気づく。映画「卒業」みたいな結末だが、ま、気づいて良かったねという感じ。

ここに出てくるルームメイトの女友達は、それなりに問題はあるものの、責任感の強い友だち甲斐のある女性。こういう女友達って、実際いるの?と思う。この手の本を読んでいて、そういう女友達がいるというのが、一番うらやましい。

2004年04月26日(月)
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 魔法の声/コルネーリア・フンケ

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ドイツの人気児童文学作家コルネーリア・フンケが、「書物と文字」をテーマに紡ぎだした長編ファンタジー。べネチアを疾駆するストリートチルドレンの活躍が痛快な『どろぼうの神さま』、若き竜と悪しきモンスターとの闘いを壮大なスケールで描いた『竜の騎士』に次ぐ、3冊目の邦訳となる。600ページを超える大著ながら、大胆な発想と古典的なファンタジーの要素を巧みに取り入れた物語は、読み手の心を最後までひきつけて離さない。

読書が大好きな12歳の少女メギーは、本の修繕を仕事にする父親モーと2人で、ひっそりと暮らしていた。ところがある雨の夜、ひとりの怪しい男が庭先に現れてから、メギーの運命は一転していく。「ホコリ指」という奇妙な名前の男は、モーを「魔法舌」と呼び、「あれを手にするためなら、やつはなんでもするぞ!」と警告を発する。親子の身には、想像もつかない危険が近づいていたのだ。モーの秘密、ホコリ指の正体、母親の行方、そして恐ろしい敵カプリコーンとは。メギーは、いくつもの謎を抱えながら、モーとともに南へと旅立つ。 

物語の鍵となるのは、書物の中の登場人物たちを現実の世界へと呼びだす魔法である。『ピーター・パン』のティンカーベルが本から飛び出したり、逆に物語の中に人間が消えてしまったりと、書物の世界と現実とがスリリングに交錯する様は、同じくドイツのファンタジー作家ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』を彷彿(ほうふつ)とさせる。また、物語に触れる喜びや、想像力が欠如しつつある世界への警鐘が込められているのも、エンデ作品に共通する点といえるだろう。古今東西の名作のエッセンスや、ファンタジーの持つ普遍的なメッセージに存分に浸りながら、文字の生み出す不思議な力に、じっくりと身をゆだねてほしい。(中島正敏)

内容(「MARC」データベースより)
少女メギーの父は、本の中の登場人物を現実世界へ呼び出す魔法の力を持っていた。その為、悪と立ち向かうはめに! 物語の中にのみこまれてしまった母を助け出せるのか? 本をめぐるハラハラドキドキの冒険ファンタジー。



この本は、訳がいやで、かといって原書はドイツ語だし、とりあえず日本語で読むしかないのだが、作者のアイディアは面白いのに、残念。しかし、フンケの作品には、必ず強がりを言って大騒ぎする人物(または生き物)が登場するので、それがこの人の作品の特徴でもあると言えるのだろうが、今回は、いい大人がその役割をしているのがどうも・・・。

本の中の人物を呼び出すというアイディアは、『文学刑事サーズデイ・ネクスト』で、すでに体験済みだが、そもそもこちらは児童書だから、ここでそれを比較するのも意味がないのでやめておくが、言わずと知れた・・・という感じ。このテーマは、深く考えると頭が痛くなりそうなのだが、それにしても、ちょっと疑問がありすぎ。

ただ、主人公メギーと、その父親が秘密の通信をするのに、『指輪物語』の「エルフ語」を使ったというのには驚いた。それは、トールキンが言語まで架空のものではなく、実際にも使えるほどしっかり作り上げたという証明にもなる。


2004年04月24日(土)
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 アルテミス・ファウル─妖精の身代金/オーエン・コルファー

内容(「MARC」データベースより)
伝説的な犯罪一家に育った12歳の天才少年・アルテミスは、コンピュータを駆使して「妖精の書」を解読、巨万の富を得ようとする。しかし、妖精たちはハイテクで武装した集団だった! 世界的ベストセラーの翻訳。


ジョークのつもりで書いている部分がちっとも面白くなくて、気の毒なくらい。妖精たちのドタバタも好きじゃない。第一、タイトルになっている主人公アルテミス・ファウルの出番が少なくて、シリーズ1作目としては、軸になる主人公のインパクトが弱い。

2004年04月22日(木)
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 ミスティック・リバー/デニス・ルヘイン

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デニス・ルヘインは、なんて残酷な創造主であろう。過酷な運命を課しておいて、それでも幸福を求めて抗おうとする人物を描こうとする。やるせない哀しみの中に、しかし、どこか優しさが宿ってもいる。これは並の小説ではない。

25年前、11歳だったショーン、ジミー、デイヴは、遊び友だちでいながらも、互いに住む世界が違うことを感じていた。3人が路上でケンカしはじめたとき、ちぐはぐな友情を完全に終わらせ、かつまた生涯にわたって彼らを縛り続けることになる事件が起きる。警官を装った2人組の男が、ショーンと殴り合っていたデイヴを車で連れ去ったのだ。4日後、デイヴは自力で脱出を遂げ、帰還する。しかし、人々はデイヴを好奇の目でさげすみながら避けるようになる。デイヴは男たちに何をされたのか。大人たちは口を閉ざし、物語もそれを描写しない。

25年が経ち、不幸な運命が再び3人を出会わせる。ジミーの最愛の娘、ケイティが惨殺されたのだ。警察官となったショーンがこの事件の担当になった。そしてケイティが最後に寄った店にはデイヴがいた。

登場人物のそれぞれの視点で語られる物語が真相を先送りにし、最後まで緊張の糸は緩まない。それにしてもこの読後感はなんであろう。静かにぬめるように流れるミスティック・リバーが、心の闇によどみを作って離れない。忘れられない1冊。(木村朗子)

内容(「BOOK」データベースより)
境遇を越えて友情を育んできた、ショーン、ジミー、デイヴ。だが、十一歳のある日、デイヴが警官らしき男たちにさらわれた時、少年時代は終わりをつげた。四日後、デイヴは戻ってきたが、何をされたのかは誰の目にも明らかだった。それから二十五年後、ジミーの十九歳の娘が惨殺された。事件を担当するのは刑事となったショーン。そして捜査線上にはデイヴの名が…少年時代を懐かしむすべての大人たちに捧げる感動のミステリ。



ここに出てくる3人の少年たちには、初めから狂気が宿っていた。だから、この子たちは普通じゃないと思って、ずっと読んでいた。この中の誰かが殺人を犯しても、全然不思議じゃないのだ。

「少年時代を懐かしむすべての大人たちに捧げる感動の・・・」という解説は、私には納得できない。そういうのはカポーティの『草の竪琴』みたいなものをいうのだろうと私は思っているからだ。個人的には、この小説に「感動」という文字は全く無縁。なぜなら、登場人物すべてが、自分のことしか考えていないからだ。それぞれのエゴしか見えないからだ。どうしてこの小説に、「少年時代を懐かしむすべての大人たちに捧げる感動の・・・」という言葉が浮かんでくるのか、私には理解できない。

「四日後、デイヴは戻ってきたが、何をされたのかは誰の目にも明らかだった」というのも、腑に落ちない。何をされたのか、はっきり書いてよ!という思いで、ずっとフラストレーションを感じている。たぶんあんなこと・・・と思うが、それが勘違いだったら?全然違っていたら?そう思うと、やはり事件の内容ははっきり書いて欲しいと思う。

ジミーの娘のケイティが殺されたところにしても、どうやって?という疑問がつきまとう。最後にはそういうことが明らかになるのか?と思って、分厚い本のページをただひたすらめくっているのだが。。。

そういう肝心なことが書かれていない割に、不必要じゃないのかと思えることが、延々と書かれている。細部にわたって緻密な書き込みをする作家は好きだが、これはそういうのとはまた違う。不必要と思われる事柄が、何かの伏線であるとかいうならわかるが、どうもそうでもないらしい。余計なことが多すぎる。だから必要以上に分厚い。これは「ミステリ」なんだから、もう少しテンポ良く、無駄を省いてもいいんじゃないかと思う。

結末は、なんとも後味が悪い。少年時代のトラウマを抱えたデイヴも、殺されたケイティも、その他の人たちも、誰一人救われない。しかし、これは実際の現代社会の現実を描いているのだろうと思う。それが現実なだけに、やりきれない思いだけが残る。

この小説、内容説明には「感動のミステリ」とあるが、「クソ」がたんまり。けして少なくはない登場人物すべてが「クソ」と言っているんじゃないかと思うくらいに頻繁に出てくる。

以前に読んだジョージ・ソウンダーズの『パストラリア』もそうだったけれど、あまりに頻繁に「クソ」が連発されると、それだけでうんざりして、ストーリーうんぬんよりも、そっちのほうが気になって、白けてしまう。出てくるたびに、また「クソ」か!と、げんなりしてしまう。

前に、アイリッシュパブで近くに座った外国人が、「Fucking...., Fucking..., Fucking...」と、始終連発しているのを聞いて、食欲が失せたのと同様。デニス・ルヘインは、その外国人と同じようなしゃべり方(Fucking...を連発する癖がある)なんだろうかと、余計なことまで考えてしまい、どうもいけない。

小鷹信光氏が、F言葉をなんでもかんでも「クソ」と訳さないでもいいだろうと言っていたが、その通りだ。訳者は「クソ」以外のバリエーションを考えるべきじゃないか?馬鹿のひとつ覚えみたいに「クソ」だらけなんて、いい加減うんざりだ。

基本的にそういう言葉が連発されている小説は好きじゃないので、この作品も、そういう意味では好きになれないし、作家も好きになれない。文庫で660ページ以上もある分厚い本だが、この中に一体何回「クソ」が出てくるのか、考えただけでため息が出る。怒りも悲しみも絶望も、みな「クソ」だし、喜びの表現すらも、「クソみたいに嬉しい」だ。文中に、この「クソ」がなかったら・・・と思うと、非常に残念。

2004年04月21日(水)
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 ミラー・ドリームス/キャサリン ウエブ

内容(「MARC」データベースより)
華麗なる魔法使いリーナン、夢見人レナ。美しき者たちがパラレルワールドを駆け抜ける! 眠っている間、人間の魂がここではないどこかに漂い出す…。世代を問わず楽しめるファンタジー。14歳の少女が書いたデビュー作。

※画像は原書 『Mirror Dreams』(Amazon.co.uk)


14歳の少女が書いたという鳴り物入りのファンタジーだが、14歳にしてはよく書けていると思う。しかし、やはり14歳だなと思う部分もあって、いいのか、悪いのか、判断がつかない。年齢を考えれば、すごい!とも思うし、年齢に左右されるのもおかしいだろうし。

地球の人間が寝ている時に夢を見て作り出した国が、主人公リーナン・カイトのいる国で、人間は「夢見人」として、その国を訪れるのだ。逆に、カイトたちは、夢を見たときに地球を訪れているという。そして、カイトの国の首都ともいうべきところが「安息郷」である。その安息卿を悪夢が襲い、王を殺してしまう。

その頃、地球では昏睡状態に陥る人が続出し、このままでは地球と夢の国の双方とも滅びてしまうというわけで、「偉大なる大魔法使い」リーナン・カイトが立ち上がり、悪夢の魔王に挑むという話。

この作者は、ずいぶんたくさんの本を読み、勉強もちゃんとしているんだなという印象を受ける。使用している言葉などから、理科系が得意なのかもと思うが、コンピュータの影響も否定できない。どこかゲームオタクっぽいところが見え隠れする。

一番残念なのは、リーナン・カイトのキャラクターだ。ちょっと斜に構えたクールな感じのカイトだが、大人はそんなことしないよと思う部分がちらほら。500年も生きている大魔法使いの割には、妙に子どもっぽく、威厳も何もない。そういうところが、やっぱり14歳だから・・・と思わせる原因だろうと思う。

それと、歴史などもよく勉強しているらしいのはわかるのだが、物語のイメージが統一されていない。現代の話なのか、中世くらいが舞台なのか、夢だからなんでもありなんだろうが、そのあたりがイメージ的にまとまりがないし、読んでいる側としては、どういう画像を想像すればいいのか迷うところだ。これは翻訳のせいもあるかもしれない。日本語の選び方が統一されていないせいで、現代なのか、はたまた中世なのか、と思ってしまうのだろう。

また、「黒騎士」というのが出てくるが、「黒騎士」とはイギリスでは「リチャード獅子心王」のことだ。この言葉を悪役のほうで使ってほしくなかったなあ。それに、中国のイメージを語っているところで、「キモノ」や「サムライ」が出てくるのも、このインターネット時代に、日本と中国はまだ混同されているのか、とため息をついてしまった。

細かいところをあげればきりがないが、全体として見て、彼女の想像力はすばらしいと思う。大人の書いた下手なファンタジーよりは、全然ましだ。ただ、主人公のキャラが、大魔法使いにしては幼稚で耐えられないので、2作目までは読まないだろうと思う。見習いの若い魔法使いという設定なら、まだ受け入れられるだろうと思うが。

それと、作者は完璧にファンタジーの世界に入り込んでいないと思う。読者はたびたび現実に引き戻され、その世界に浸りきることができない。夢の世界のようでいて、コンピュータの内部のような感じもするのだ。


2004年04月18日(日)
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 The Edge Chronicles (1) Beyond the Deepwoods/Paul Stewart

内容(「BOOK」データベースより)
「飛空船には、背の高い若者の活躍する場所は常に用意されているぞ」おそろしいはずの空賊の、その言葉が忘れられない。ウッドトロル族の村は自分の故郷ではないと知り、旅立った少年トウィッグだが、神秘的な森に魅せられて思わず道をはずれたとたん、死ととなりあわせの旅がはじまった。トビムシ退治、ホフリ族との一夜、食肉植物チスイガシとの死闘、オオハグレグマとの友情と別離、ヤシャトログに飼われる日々―。次々遭遇する妖しい怪物の脅威をくぐりぬけ、深森にすむ友だちができても、そこは、自分の居場所ではない。進むしかない―。虚空にはりだす船首像のように切りたった崖の国で繰り広げられる、壮大な冒険ファンタジー大作第一部。

<翻訳>
『崖の国物語〈1〉深森をこえて』/ポール スチュワート (著), Paul Stewart (原著), Chris Riddell (イラスト), 唐沢 則幸 (翻訳), クリス リデル
内容(「MARC」データベースより)
自分は捨て子と知った少年トウィッグは、暗く神秘的な深森で道をはずれ、妖しげな怪物との死闘や奇妙な種族との遭遇を通して成長し、終に運命を見極める。壮大なファンタジー。



<「THE EDGE CHRONICLES : 崖の国物語」固有名詞対訳表>

この本は出版された時から気になっていたものの、表紙のイメージから、子供向けのドタバタなファンタジーだろうと思い込んでいて、バーゲンでPBを手にするまで、敬遠していたものだが、読んでみたら意外にもオリジナリティあふれる、優れたファンタジーだった。

奇妙、奇天烈な化け物に遭遇しながら、深森を抜けていくのだが、主人公トウィッグのキャラも淡々としていて好感がもてるし、変な生き物たちも面白い。一見、荒唐無稽な話のようだが、細部にわたってよく考えられており、穴がない。

1巻目は、トウィッグがウッドトロル族の家を出て(実の両親でないことを知らされて)、旅に出、上にも書いたように、様々な生き物に遭遇して、深森を抜けていく話に終始し、これといった事件というのもまだ起こらないプロローグのようなものだ。崖の国、あるいは深森とはどういう世界かという紹介のようなものだろう。けれども最後に空賊に出会い、その飛空船の船長が実の父親であったことを知り、2巻目からは、空賊トウィッグとして、さらに冒険をしていくのだろう。

ところでここに出てくる固有名詞は、ほとんど作者の造語で、上の内容説明を読んでも、オオハグレグマ?ヤシャトログ?という感じで、ピンとこなかった。イラストが多数入っているので、それぞれのイメージはわかるのだが、どうしても原語と訳語を比べてみたくなって、対訳表を作ってしまった。

それが<「THE EDGE CHRONICLES : 崖の国物語」固有名詞対訳表>である。2巻目からを読む場合にも、きっと役に立つだろう。かなり苦労したので、役に立ってくれないと困るが。

作者の造語をうまく日本語にあてはめるのは、結構難しいことだと思うが、あまり違和感もなく、なるほどという感じで、スムーズに受け入れられた。これが頭に入れば、2巻目も日本語でのイメージも加味しながら、楽しめると思う。

2004年04月17日(土)
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 Ruby Holler/Sharon Creech

ハーパー・コリンズのパリパリ本(ページをめくるとパリパリ音がしてうるさい本)なので、お風呂の中で読んでいた。お風呂用なので軽いものをと思ったが、予想は外れず、ほんとに軽かった。というか、シャロン・クリーチに内容の濃いものを期待するほうが間違っているとは思うが、あとに何も残らなかった。


双子の孤児ダラスとフロリダは、生まれたときから孤児院育ち。孤児院のトレピッド夫妻は、厳格で理不尽な大人。イジメともとれる彼らの厳しい躾に、この話はあのレモニー・スニケットの、不幸な孤児たちを描いた<不幸な出来事>シリーズのような話なのか、はたまた同じ孤児院話の『Molly Moon's Incredible Book of Hypnotism』のようなものなのかと思ったが、全然似ても似つかない。

ダラスとフロリダは「Trouble Twins」で、何度か養子に出されたが、どの家でももてあまされて(ダラスとフロリダが悪いわけではないのだが)、結局、毎度孤児院に戻されるのだった。そうこうするうちに孤児院では最年長。いつか孤児院を逃げ出して、列車で遠くに行こうというのが二人の夢だった。

夏休みになり、二人は「Ruby Holler」という大自然に囲まれた土地に暮らすティラーとセアリーという老夫婦の家に休みの間だけという条件で引き取られるが、孤児院とはまったく勝手の違う生活に、どうせまたすぐに孤児院に戻されるに違いないと思い、近いうちに逃げようと考えていた。

ところが、ティラーとセアリーは二人を気にいり、それぞれが計画していた旅に連れて行くことになる。その間に孤児院のトレピッド氏が、家の周りにある石の下に隠したお金を盗もうと企む。その企みを手伝うのが、謎の「Z」という人物なのだが、彼は二人のものと思われる出生証明書を見て、彼らが自分の子であることを知り、逆にトレピッドをわなにかける。

結末ははっきりとはわからない状態で、この先どうなるのか不明。結局ダラスとフロリダは、ティラー夫妻の家を我が家とも思えるほどになっていたということなのだが、はっきりと養子になるというところまでは書かれていないし、実の父親である「Z」氏の動向もよくわからない。この子たちは幸せになったのだろうか?

話が進んでいく間に、登場人物それぞれの過去が語られる。それはいいとしても、全体がなんとなく教訓めいた感じがして、どうも馴染めない。

例えば、エリザベス・ギャスケルの短編など、いかにも教訓めいたものもあるが、あれはあれで、作者が対象をつぶさに観察し、それを描くことで、自然に教訓を生み出しているのだが、これは作者が意図して教訓を書いているように思える。だからなるほどと納得できない部分がある。

子どもを叱るばかりが躾ではないけれど、まったく叱らないのもどうかなと思ってしまった。例えば、ダラスがだまって果物を入れる青いボールにミミズを入れてしまったのだが、ティラー夫妻は怒らなかった。人のものを借りるときには、使ってもいいかと聞くものだくらいは言ってもよさそう。私だったら、無断で果物用のボールにミミズを入れられたら、子どもだろうが、大人だろうが、絶対に怒る!ちなみに、この子達は13歳。言葉のわからない赤ん坊ではないのだ。

登場人物それぞれの個性があまりなくて、子どもたちはこの子たちでなくてもいいだろうし、ティラー夫妻のような立場の人間も、べつにティラー夫妻でなくてもいいだろうというくらいに、それぞれの存在感がない。どうしてもこの子達でなくては!という強い思いが感じられない。それと、この話に実の父親「Z」氏の存在は必要だったのか?と思う。

2004年04月16日(金)
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 小説家を見つけたら/ジェームズ・W・エリソン

内容(「BOOK」データベースより)
NYの下町ブロンクスに生まれ育った16歳の高校生、ジャマール・ウォレスには誰にも言えない内緒の愉しみがあった。それは文章を書くこと。学校では文学少年である一面はまったく見せない彼だったが、読書から得た知識の豊富さと書くことへの熱意は誰にも負けないものがあった。そんな彼がある日偶然にも出会ったのは、処女作でピューリッツアー賞を受賞し、その後、姿を消した大作家ウィリアム・フォレスターだった。フォレスターは自分のことを絶対に口外しないことを条件に、ジャマールへの指導を引き受けることになるが…。


これは映画のノヴェライゼーションで、脚本をもとに小説化されているので、作中の小説家ウィリアム・フォレスターは、どう想像してもショーン・コネリーでしか有り得ない。先日読んだ『プレシディオの男たち』も同様で、やはり映画のノヴェライゼーションは、その配役の俳優以外には考えられなくなってしまうのが難。とはいえ、内容はなかなか良かった。

この小説家は、かなり偏屈な小説家なので、個人的にはジーン・ハックマンでもいいんじゃないかと思ったけれど(黒ブチの眼鏡をかけてほしい)、ウィリアム・フォレスターという名前もなんとなくイギリスっぽいし(アメリカの作家、ウィリアム・フォークナーからとってるのか?とも思ったが)、年齢的にもすでに70歳を越えているので、やはりショーン・コネリーのほうがいいのか・・・。

主人公のジャマールは頭もよく、その上バスケットボールの才能にも恵まれており、ブロンクスの公立学校から、奨学金をもらって有名私立学校へと転校するのだが、そこでは教師による理不尽なイジメが待ち受けており、ジャマールが書いた小説が素晴らしいものだからこそ、貧乏な黒人の少年が書いたとは思えないという理由で、大切なバスケットの試合にも出られないような状態に追い込まれる。

フォレスターと喧嘩をして、自分は小説家などにはならず、バスケットの選手になって大金を稼いでやるのだと思い、教師の条件をのんで、文章を剽窃したとして謝罪文を出す決心をするのだが、結局フォレスターとのことを秘密にするという約束を守るため、バスケットの試合を放棄してしまう。

最後に助け舟を出したのは、人前には絶対に出ないというフォレスターだった。全校生徒の前で、フォレスターはジャマールを弁護したのだ。二人の間には、固い友情、あるいは父と息子のような愛情が存在しており、それが偏屈なフォレスターを動かしたというわけだ。

ジャマールがフォレスターの指導によって才能を開花させていく様子や、フォレスターを父のように思い、気にかける心に感動する。フォレスターは偏屈な年寄りなので、なかなか心を開かないが、彼はすでに自分の死期を知っていて、自分の成し遂げられなかった夢を、ジャマールに託していたのだ。フォレスターの死後、彼の新作の原稿を受け取ったジャマールは、そこに素晴らしいものを発見する。フォレスターが、いかにジャマールの才能を評価していたか、いかに彼を信頼していたかが、その一場面で鮮やかに浮かび上がる。

映画のノヴェライゼーションなので、文章がどうこうとは言えないが、ストーリーは良かった。最後はやはり感動する。


2004年04月15日(木)
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 ダルタニャン物語(2)妖婦ミレディの秘密/アレクサンドル・デュマ

解説
王妃をみごと救った四人の銃士たち。しかし、新たな闘いが始まる。枢機官から受けた密命を銃士たちに妨げられたミレディ女史は、汚名を注ぐべく四人に復讐を誓う。世にも稀なる美貌と悪事の才能を駆使して、英仏のにらみ合い、枢機官と銃士隊長の高まる緊張関係の中で、政界を暗躍する。英国の宰相を暗殺せしめ、さらにはダルタニャンから恋人を永遠に奪い去るという悲劇が次々に巻き起こる。しかし彼女には、四人の銃士のうち一人と、恐ろしくも哀しい過去と秘密があった。やがて訪れる戦慄の大団円と、銃士の苦悩。全ての戦いが終わった後、主人公ダルタニャンは晴れて銃士の誉れとなる。長大なる「ダルタニャン物語」の第一部「三銃士」の完結編である。

第一部のダルタニャンと三銃士のじゃれ合いといった感じから、やっと物語が展開してきた。しかし、ここでは妖婦ミレディが、どのように男を誘惑するかといった手練手管が詳細に語られており、「冒険活劇」としては今いち不満。

ダルタニャンたちの活躍も随所に描かれているのだが、この第二部は、政治的な事柄も、個人的な事柄も、すべてが恋愛による動機で進められている。「冒険活劇」にロマンスは欠かせないものだろうが、どうも動機が不純な感じがして、個人的にはどうしても「フランス人て・・・」という思いが先に立ってしまう。

この第二部で、一番の見せ場は、ミレディがダルタニャンの恋人であるコンスタンス(ボナシュー夫人)を毒殺して逃げ、その後捕まって処刑されるところだろう。ミレディも相当な悪女であるが、そもそもそういう女に簡単に誘惑されてしまう男たちが悪いんじゃないか?と、処刑の場面では、ミレディに同情さえ感じた。

最後に、悪の権化のような枢機官がダルタニャンの活躍を認めて、銃士隊の副隊長にするというのもまた、なんだか迫力がそがれたようで気が抜ける。物語が終わり、三銃士たちが各自それぞれの道を歩んでいくのはちょっと寂しいが、「ダルタニャン物語」としては、今後も三銃士の活躍は続くので、ここで終わりというわけではない。

デュマの語り口はさすがだとは思うが、『モンテ=クリスト伯』と比較すると、ドタバタ喜劇のようで、個人的にはあまり夢中になれなかった。『モンテ=クリスト伯』が普通の芝居だとしたら、「三銃士」はヨシモトのお笑いみたいな感じだ。ただ、三銃士の中のアトスだけが、お笑いに加わらず、モンテ=クリスト伯の雰囲気を漂わせているのが救い。

この話は、もともと「銃士隊副隊長ダルタニャンの覚書」という実際にあった文章をもとにしているらしいので、ルイ13世の頃に、実際にこういう話があったのだろうと思う。というわけで、やっぱり「フランス人て・・・」という思いは消えない。


2004年04月13日(火)
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 I Capture the Castle/Dodie Smith

内容(「MARC」データベースより)
1930年代、イギリス。作家志望の17歳の少女カサンドラの目を通して、古城での生活や風変わりな家族たち、はじめての恋を日記の形式でつづる。ロマンスいっぱいの物語。

内容(「BOOK」データベースより)
父は作家、継母は画のモデル。17歳の少女カサンドラは、個性的な家族とイギリスの古城で暮らす。決して便利とはいえない生活を豊かな想像力で楽しむ彼女と、心底いやになっている姉ローズの前に、突然二人のハンサムなアメリカ人青年があらわれた。何かがはじまる予感。


※ドディ・スミスは、『The Hundred and One Dalmatians』(101匹わんちゃん物語)の著者。


<登場人物>

カサンドラ─お城での貧乏暮らしを豊かな想像力で楽しむ知的好奇心いっぱいの17歳。将来の夢は作家。
ローズ─愛らしい外見とうらはらの型破りなおてんば。貧乏が心底いやになっている21歳。
スティーヴン─カサンドラを一途に思う美青年。お城の雑用をひとりでこなす生活力のある19歳。
サイモン・コットン─ハンサムで裕福なアメリカ人青年。遺産相続で、お城の所有者となる。弟とともに突然お城に現れた。文学好きのスマートな青年。
ニール・コットン(サイモンの弟)─皮肉屋だけど、気持ちはやさしい、さっぱりした男らしさが魅力の青年。ローズとは犬猿の仲。
ジェームズ・モートメイン(パパ)─『ヤコブの闘い』というベストセラーを書いた有名な作家。ママと喧嘩をしてナイフをふりかざし、監獄に入れられる。それ以来、1冊の本も書いていない。
トパーズ─ママ亡き後、パパの2番目の妻となる、元モデル。自然との対話が得意だが、本人も気づいていない一番の得意は、家事。
トーマス(弟)─冷静で頭脳明晰で勉強好きな15歳。大人のように複雑な見方はせず、単純明快な答えを出す。
ミス・マーシー─いつも図書館の本を持って来てくれる、心優しい先生。
司祭様─カサンドラにわかりやすく宗教を教えてくれる優しく親切な神父。
リーダ・フォックス=コットン─コットン家の親戚で写真家。スティーヴンの写真を撮る。
オーブリー・フォックス=コットン─リーダの夫。建築家。
ミス・ブロッサム─カサンドラとローズが時々話しかける洋裁用のボディ。
エロイーズ─愛犬。メスのブルテリア。
アヴェラール─愛猫。


これは楽しい本だった。
主人公カサンドラのパパが、壊れかけたゴッドセンド城にぜひとも住みたいと言い出し、40年契約で借りたはいいが、パパが本を書かなくなってから収入もないため、ひどい貧乏暮らしを余儀なくされるのだが、そんなことにはめげないカサンドラ。古城を取り囲むイギリスの素晴らしい自然の中で、日記を書き続け、様々な出来事をみつめることによって、成長していく。

遺産相続によって新しくゴッドセンド城の持ち主になった、アメリカ人のサイモンと弟のニールの出現により、古風で貧しいカサンドラの生活に変化が訪れた。姉のローズがサイモンとの結婚を決めたことにより、生活もいくらか豊かになり、カサンドラにも恋の兆しが・・・。

けれども、事態は思わぬ方向に進んでゆき、それぞれがそれぞれの思惑で傷ついたりするのだが、カサンドラ自身も、「夏至のイヴ」の祭りやミス・ブロッサムとのおしゃべりなど、少女時代の習慣から脱皮し、最後には日記を書くことも卒業するという、切なくも楽しい少女の成長物語が描かれている。

あまり内容を書いてしまうとネタバレになってしまうので、あらすじはこれくらいにしておくが、私が一番好きな登場人物は、スティーヴンで、カサンドラにはぜひともスティーヴンと結ばれて欲しかったなあ・・・と。でも、カサンドラは17歳。これから先はどうなるか誰にもわからない。今のところは正しい選択をしたのだと思える。

裕福なアメリカ人であるサイモンとニールもいいのだが(性格も悪くないし)、何があっても絶対に守ってくれそうなスティーヴン(しかも美青年)は、個人的には捨てがたいなあ。それと、恋愛の対象ではないが、弟のトーマスもなかなかいい感じ。

こう書きながら思い起こせば、この物語の登場人物は、皆いい人ばかりだ。カサンドラの性格が、もともと人間のいいところばかりを見る性格なのか、はたまた本当にそういう悪意のない人ばかりが集まったのか、ともあれ、誰をとってみても、気持ちのいい人間ばかり。ただし、スティーヴンの写真を撮るリーダだけはだめ。カサンドラへの恋が実らないと思って、リーダと関係を持ってしまうスティーヴンにもがっかりだったが、それでもスティーヴンはずっとカサンドラを思って、カサンドラのためにいろいろしてくれているのだから、まあ、許してあげよう。

登場人物を長々をあげたが、犬や猫に至るまで、作者のドディー・スミスは、愛情を持って描いているのだ。スミスの描くイギリスは、豊かで美しい自然に囲まれていて、非常に素晴らしいものだ。それだけでもこの本を読む価値はあると思うが、作者が人間や動物、草木の1本に至るまで、惜しみない愛情をそそいでいることが伝わってきて、ほのぼのとした気持ちになる。

また、初めて恋をしたときのどきどき感や、実らぬ恋に身を焦がす切ない感情が、とてもよく描かれている。サイモンやニール、はたまたスティーヴンとの恋の行方はどうなるのか?それが知りたくて、どんどんページをめくってしまう。いまどきの「ブリジット・ジョーンズ的」な恋愛物語ではなく、正統派の伝統的な(またはオースティン的な)ロマンスだと思うが、こういう素直な気持ちが、とても新鮮に感じられた。

2004年04月12日(月)
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 Governor Arnold: A Photodiary of His First 100 Days in Office/Andy Borowitz

これはもう大笑い。実際の背景と、映画や選挙運動中の写真をコラージュしてある。全ての写真に、「州知事シュワルツェネッガーは・・・」で始まる、いかにもなキャプションがついている。それが大真面目なキャプションなので、すごくおかしい。

でも、この写真はあの映画のあそこのシーンだというようなことがわかっていないと、その面白さがわからないかも。ジョークのわかるマニア向けですな。とはいえ、シュワちゃんの写真が100枚載っている本が、1000円ほどで入手できるわけだから、シュワちゃんファンなら、ぜひとも手に入れておきたい1冊だろう。



2004年04月11日(日)
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 ぼくはお城の王様だ/スーザン・ヒル

出版社/著者からの内容紹介
少年の邪悪な魂、それをもあなたは愛してしまう。
〈サマセット・モーム賞受賞作〉

11歳の子の罪深い心理を描写した衝撃作!
11歳のエドモントのお屋敷に母と一緒に居候することになってから、同じ年のチャールズの地獄が始まった。エドモントのチャールズへの執拗ないじめの始まりだ!

この本には希望がない、と退ける人もおりましょう。
が、希望とは、いつもいつも語ってもらうものでしょうか。
読者みずから、思索しつつ、語るものではないのか。
語る力を要求される、その意味で、これはきびしい作品です。
読者を選ぶ作品です。――(訳者あとがきより)

内容(「MARC」データベースより)
心根やさしい11歳の少年を追いつめてゆく魔物たち。人を殺すか、自分を殺すか。それしか道はないかのような、この絶望。少年の内なる世界、現実、そしてファンタジーを克明に語り、イギリスで長く読まれてきた作品の新訳。



●著者のことば

この物語の暗い面はいったいどこから生まれたか。少年二人のいだく敵意、餌食にされたキングショーの血を吐くような悲嘆と苦悶、フーパーの邪悪な心─わたしは「邪悪」とみなすので─はいったいどこから生まれたか。自分でもよくわからない。エリザベス・ボウエンは、ひそひそ話の中傷で子供たちがいかに仲間を傷つけるか、その現実を語っている。グレアム・グリーンは、最初の12年間を、子供時代をどう過ごしたかで作家人生は決まってくる、と述べている。その間に、いずれ書くことになる大事なことをすべて体験するのだと。

(中略)

『ぼくはお城の王様だ』は、おもに子供の話である。けれどもこれは、大人のわたしが大人のために書いた本だ。そういう作家はおおぜいいて、それらすばらしい作品群からわたしは多くを学んできた。ディケンズ、キャサリン・マンスフィールド、エリザベス・ボウエン・・・。子供の話だから、読むのも子供、子供がいちばんよくわかる、と決めつけるのはよろしくない、とわたしはつねづね思っている。時を経てこそ、むかしの自分が曇りなく見えてきたりもするものだ。

が、そうは言っても、この本が大人よりは若い人たち、ことに十代はじめの少年たちに多く読まれ、共感を呼んだことも、また事実である。世の親たちは、二人の少年の関係やこの作品の結末を、絵空事だ、納得できぬと非難した。親より息子たちのほうが、人の心を、世間を知っているようだ。

(中略)

これは邪の力と残忍性の物語だ。おさなごにすら、それはある。さいなむ者とさいなまれる者の物語と言ってもいい。だが、なによりここに書かれているのは、孤立と、そして愛の欠如だ。登場人物のだれひとりとして、愛することも愛されることもなく、心の闇を癒してくれる愛の力を知らずにいる。フーパーはその典型で、それゆえに、キングショーは苦しめられる。愛を知らぬ大人たちは、利己的で、鈍感、盲目、愚かである。ひとりフィールディング少年だけが、広く温かな、純な心を備えている。しあわせな子供たちが等しくそうであるように、きわめて自然に、愛情を注がれそして注ぎ返す。キングショーもフーパーも、それを感じ取っていた。が、フィールディングにも、二人を救う力はない。

(中略)

よく思うのだが、なぜ、なんのために、小説を書くかといえば、結局はこれに尽きる─あなたはひとりぼっちじゃないんですよ、と伝えるため。


著者の言葉を長々と引用したが、彼女が書きたかったことは、まさにこういうことであり、私が改めて書き直すより、このまま引用したほうが正確に伝わると思ったからだ。

この物語は、非常に衝撃的だった。著者も言っているように、とても暗い話だ。明るい部分はほんの微々たるほどしかなく、最後まで救われない。あっ!と思う結末には(そこがサマセット・モーム賞を受賞した所以だろうとも思うが)、ショックでしばらく呆然とした。本を閉じたあと、しばらくしてからじわじわと胸に迫ってきた。その理不尽さに泣いた。

これを、単なるいじめの問題として捉えるつもりはない。少年たちだけの問題ではないからだ。子供はそもそも残酷なものだから、こういういじめがあることも理解できないわけではない。

けれども、私が大きな声で叫びたいのは、周囲の大人たちの反応だ。著者も言うように、「大人たちは、利己的で、鈍感、盲目、愚かである」。キングショーの声を聞こうともしない。聞いているつもりになっているが、自分のことしか考えていない。「大人は誰もわかってくれない」とは、まさにこういうことなんだろう。

これはなにも子供に対することだけではない。大人同士にだってある。相手が本当に望んでいることを無視するということは(故意でないにしても)、相手に死ぬほどの絶望を与える。だからキングショーの絶望が、痛いほどわかる。そして、この物語の場合、キングショーは本当に死ぬほど絶望してしまったのだ。

子供でも、大人でも、世の中の理不尽なことにぶつかることはあるだろう。私自身も何度となく経験した。そういうときの、信じられないという思い、そうじゃない!と叫びたいのだが、叫んだところで聞き入れてもらえないもどかしさ、自分を信じてもらえない悔しさ、理不尽なことを平気でする人間に対する失望、そういう思いが、キングショーの思いと相まって、全身が震えてくるようだった。

しかし、話はこれだけではない。キングショーは普通の子だ。フーパーを憎んではいるが、彼が怪我をしたり、事故にあったりすれば、心配もするし、自分のせいではないかと、自らを責めたりもする。だがフーパーは・・・。最後のフーパーの感情には、慄然とした。ここまで邪悪になれるのか!と。

この本は暗くてどうにもやりきれない気持ちになるが、それでも一読の価値のある素晴らしい作品だと思う。基本的にハッピーエンドの話のほうが好きだが、ここまで徹底的に人間の邪悪さを書きつくしたものは見たことがないし、その衝撃は、なかなか伝えきることができない。嫌な気持ちになることは間違いないので、お薦めはしないが、私はこの本は好きである。ともすれば忘れがちになる人への思いやりや愛情を、再び蘇らせてくれるからだ。

2004年04月08日(木)
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 恋におちた人魚/アリス・ホフマン

内容(「MARC」データベースより)
親友同士の二人の少女が、閉鎖寸前のビーチ・クラブで見つけたもの。それは迷子の人魚アクアマリンだった。切ない恋に身をこがすアクアマリンのため、少女たちが思いついた計画とは?


おや?これって、シンシア・ライラントの本だっけ?と錯覚してしまうような物語。でも、こういう本に出てくる人魚って、だいたい性格がいいと思うのだけど、この人魚はわがまま。そこが、やっぱりアリス・ホフマンだと思える部分。

基本的に、主人公のクレアとヘイリーの二人の少女も、人魚が恋してしまうレイモンドという男の子も、人魚を見たことがあるというクレアのおじいさんも、皆いい人なのだが、なぜか人魚だけは性格が悪い。しかし、そこは「摩訶不思議な生物」ということで興味を持たれ、誰も泳いでいないプールに忘れ去られずに済んだというわけだが、クレアとヘイリーが、かっこいいレイモンドとのデートを仕組んであげたあたりから、この人魚の性格も変わってくる。

ここには二つの別れがある。実際はもっとたくさんの別れがあるのだが、メインの別れは二つ。フロリダに引っ越してしまうクレアと、ヘイリーの別れ。そして叶わぬ恋の、人魚とレイモンドの別れだ。どちらも胸がキュンとしてしまう、切ない別れだ。

けれども人生には、いろんなところで、いろんな別れがある。そういうことを乗り越えて、大人になっていくんだよ!みたいな。。。でも、どんなに遠く離れていても、貝殻に耳をつければ、わたしの声が聞こえるはず・・・きれいなファンタジーだ。

2004年04月07日(水)
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 ダルタニャン物語(1)友を選ばば三銃士/アレクサンドル・デュマ

解説
時は十七世紀、フランスはルイ十三世の御世であった。スペイン国境近いガスコーニュ地方から、一人の若者が宮廷での立身出世を夢見て、ドンキホーテのロシナンテ顔負けのしょぼくれ馬にまたがって、パリの都をめざす。快活、勇敢で、それでいて抜け目ないガスコーニュ人の気質を典型的に備えた十八歳のダルタニャンその人である。パリ政界は、枢機官リシュリューと銃士隊長トレヴィルが覇を競う。ひょんなことからトレヴィル隊長に付き従うアトス、ポルトス、アラミスの三銃士とダルタニャンは生涯の友情を誓うこととなる。しかし、悪化する英仏関係の中でアンヌ王妃が陥れられた陥穽からの脱出を、王妃の侍女ボナシュー夫人が恋人ダルタニャンの懇願する。ダルタニャンと三銃士は王妃を救うべく立ち上がリ、ドーバー海峡を渡らんとする。


『モンテ=クリスト伯』のようなドラマチックな展開を期待して読み始めたが、ダルタニャンが田舎から出てきて、三銃士のいる銃士隊に入れて欲しいと頼むまでが長い。そういえば、デュマの小説は、出だしはスピードのあるものではないかも。

それにしても、この時代のフランス人て、なんて喧嘩っぱやいのだろう。それも、たいしたことでもないのに、すぐに剣を抜く。サー・ウォルター・スコットが、『アイヴァンホー』で「フランス人は野蛮だ」と書いていたが、なるほどと納得。血気盛んなダルタニャンに、ついていけないという感じだ。

また、この時代のフランス人の常なのだろうか、人の妻などということには一向にとらわれずに恋愛をするダルタニャンなどは(ダルタニャンに限らずだが)、単なる恋愛感情だけでなく、相手を利用して出世しようという意図が丸見え。個人的には、「ダルタニャン、お前もか!」という感じ。本を読む前には、ダルタニャンは高潔な英雄かと思っていたが、どうして気の多い浮気性な男だったというわけだ。その最たる人物がポルトスというわけだが、ポルトスはいざ知らず、ダルタニャンにはがっかりだった。そういう意味では、私は女には見向きもしないアトスびいき。

しかし後半すぎて、デュマの筆も乗っていたのだろうか、いくらかテンポも良くなり、ダルタニャンもウィットに富んだ会話などもするようになり、田舎出の何も知らない青年も、だんだん大人になってきたかという感じ。

ともあれ、ダルタニャンと三銃士、主人公格の登場人物が4人いるわけだから、デュマも忙しい。それぞれ同じくらいの割で筆をさくわけだから、これじゃ話もなかなか進まないというものだ。この先続いて、第二巻もこの調子では退屈だが、いよいよ悪者が登場するので、話もドラマチックになるだろうと期待する。

●三銃士の性格

<アトス>:まだ三十そこそこの青年で、身体つきといい、気立てといい、稀に見る立派な人物だったが、いまだかつて浮いた噂を立てられたことがない。女の話など、絶対に口にせぬ男であった。

<ポルトス>:アトスとは全然反対の気性だった。口数が多いばかりでなく、声高にまくし立てた。相手が聞こうと聞くまいと、いっこう平気でいるところがこの男の身上だった。しゃべるのが楽しみでしゃべり、自分の声に聞きほれてしゃべるのである。学問以外の話ならなんにでも口を出した。

<アラミス>:年のころは二十か二十三くらい、無邪気なあどけない顔つき、黒いやさしい目を持っており、バラ色の頬には秋の桃みたいに、かわいらしいうぶ毛が生えている。ほっそりした口ひげが、上唇の上できれいに刈り込んである。ふだんは口数も少なく、ゆっくりしゃべるたちで、腰も低く、笑うときには美しい歯を見せて静かに笑う。

2004年04月06日(火)
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 文学刑事サーズデイ・ネクスト(1)─ジェイン・エアを探せ!/ジャスパー・フォード

内容(「MARC」データベースより)
1985年のイングランド。原本のページをめくり、消えたヒロインを追う文学刑事サーズデイ。凶悪な連続古典破壊犯ヘイディーズ。文学史上最大の捜査が始まった! 英米ベストセラーシリーズ第一弾。

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イギリス文学の名作の数々と、恋愛やアクションなどのエンターテイメント性とを見事に融合させた、知的でかつシュールな冒険活劇小説だ。舞台は1985年のイギリス。しかし、そこはわれわれの知っているイギリスとはだいぶ異なった世界である。クリミア戦争は131年目に突入しており、ジェット機は存在しないのに、クローンのペットが大流行している。そして国民最大の娯楽は、サッカーではなく文学。そのため日常生活では文学にからんだ事件が後を絶たない。主人公サーズデイは、それらの事件を取り扱う特別捜査機関(スペックオプス)に所属する「文学刑事」である。

彼女は、天才科学者の伯父が発明した、文学作品の中に侵入できる特殊装置「文の門」を巡って、悪の化身アシュロンと巨大軍事企業ゴライアス社と、三つ巴の死闘を繰り広げる。その戦いはなんと現実の壁を超えて、イギリス文学不朽の名作『ジェイン・エア』のなかにまで展開するという破天荒ぶりを見せる。著者はもともと映画畑の人間だったというが、映像世界に培われた感性が、従来の小説にとらわれない発想を手助けしたのだろう。

突拍子もない出来事と、意表を突くアイデアのオンパレードは、本書でも取り上げられている『不思議の国のアリス』もかくやと思わせる。そんな作者の「奇想」一つひとつに驚かされているうちに、読者はいつの間にか、息をもつかせぬパワフルでスピーディーな物語へと巻き込まれている自分を発見するに違いない。(文月 達)

※2作目『Lost in a Good Book』(2002)
※3作目『The Well of Lost Plots』(2003)



これはかなり面白い。ちなみにこの作品は、次のように評されている。

"James Bond Meets Harry Potter in the Twilight Zone."
"part Bridget Jones, part Nancy Drew and part Dirty Harry"

ジェイムズ・ボンドっぽくもないし、ハリー・ポッター的でもないのだけれど、全く違うキャラがトワイライト・ゾーンという、わけの分からない異次元で出会ったという例えは、言い得て妙だと思う。ダーティ・ハリーは頷けないが、たしかに主人公のサーズデイは、BJ的。

刑事が主人公なのでミステリかと思うと、予想を裏切って、かなりSFっぽい。ユーモアがいかにもイギリス的で、言葉遊びの感覚などは、ハリー・ポッターにも通じる。イギリス的ユーモアが鼻につかなければ、文学好きにはたまらない本かも。

子どもたちが遊んでいるトレーディング・カードが、ヘンリー・フィールディングの『トム・ジョウンズ』の登場人物だったりして、なるほど、登場人物が200人以上もいる小説だから、トレーディング・カードに向いてるかも。(^^;

「ソフィアをアミーリアと換えてやる」
「ふざけんな!」もうひとりが憤慨した。「ソフィアが欲しけりゃ、アミーリアだけじゃなくて、オールワージーとトム・ジョーンズもつけなくちゃだめだ!」
相手はソフィアがレア物であることを知っていて、しぶしぶ同意した。

と、こんな具合だ。子どものくせに、結構マニアック!

あらすじは、だいたい上に書いてあるようなことだが、最初、悪の化身アシュロンは、ディケンズの『マーティン・チャズルウィット』の手書き原稿を盗み出し、中からクウェイヴァリーという人物を連れ出して殺してしまうのだが、次に『ジェイン・エア』の中に自ら入っていく。

実はリテラテック(文学刑事)であるサーズデイは、子どもの頃から『ジェイン・エア』の中に入り込んでいた経験があり、ヒーローのロチェスターとも顔なじみだというから驚きだ。そのサーズデイも、アシュロンを追って『ジェイン・エア』の中に入る。

そこで、彼らが取った行動は、『ジェイン・エア』の中身を変えることとなり、結末までも変わってしまった。ブロンテ協会の怒りも、一般の「この結末のほうがいい」という多数意見には負けて、結局認められることとなるのだが、サーズデイ本人の恋愛もまた、『ジェイン・エア』の結末と同じ結果になる。

というわけで、『ジェイン・エア』については、有名な古典の名作だから、ほとんどの人が読んでいるという前提のもとに書かれているのだろう。残り4分の1ほどのところで、サーズデイが『ジェイン・エア』のあらすじを全部しゃべってしまう。私はまだ読んでいなかったのに・・・。この本を読まれる方は、ぜひとも先に『ジェイン・エア』を読んでおくべきだ。

とはいえ、それを知ったからといって、『ジェイン・エア』の中身が全部わかるわけでもないし、いまだに結局どんな話なのかわかっていないのだから、あらすじを全部しゃべられたからといって、特に害はないようだ。先に読んでいて納得するのは、結末が変わってしまったことの大変さくらいだろうか。

それよりも、私はディケンズの『マーティン・チャズルウィット』のクウェイヴァリーなる人物を本の中から探そうとしたのだが、見当たらなかった(探し足りなかったのかもしれないが)。本当に殺されてしまったのか?なーんてことも思ったりして、どこまでが本当にかかれていることで、どこからがフォードの創作なのか不明だということのほうが気になって、『ジェイン・エア』のネタバレなど、どうってことのないことである。しかし、実際に『ジェイン・エア』の結末はどうなっているのか、早急に確認してみたくなった。

ところで、この話は一体いつごろの話なんだろうか?飛行機でなく飛行船が飛んでいるし、かと思えばクローン技術が非常に発達している。クロノガード(時間警備隊)などというのもあって、タイムトラベルも行われている。だがクロノガードの大佐のジョークから、どうやら1985年であるということがわかるのだが、だからといって、この荒唐無稽な話の中では、何の役にも立たない。

サーズデイのおじであるマイクロフトが作ったブックワーム(本の虫)というのがいるのだが、これが文章の上を這い回って、いろいろと分析するのだけれど、エサは前置詞、ふんはアポストロフィーと&だというのには、笑えた。

けれども、シリアスなのかと思うとナンセンスだったりして、そういうところが非常にイギリスっぽくて、単純に笑えるところもあるのだが、イギリス的なユーモアが、逆に鼻に付く部分がなきにしもあらず。1冊読み終えると、もうお腹がいっぱいという感じだ。「ミスター・ビーン」を観て、大笑いしているのだが、時々ちょっとそれはやりすぎじゃないの?と思って気持ちが悪くなるといった感覚と一緒かも。

2004年04月04日(日)
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