読書の日記 --- READING DIARY
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 The Voyage of the Arctic Tern/Hugh Montgomery

●The Arctic Tern─キョクアジサシ
●Plymouth
・イングランド南西部の港町。海軍基地。1620年、Mayflower号の出港地。
・米国マサチューセッツ州の港町。1620年、Mayflower号の到着地点。


イングランドの港町プリマスを舞台に、時代の違う3つの物語が語られる。しかし、登場人物はいずれも前の時代に登場した人物の生まれ変わりのようで、彼らは皆どういうわけかプリマスにひきつけられ、航海と宝探しの夢を追う。

メインの物語は2番目の話で、イングランド女王の命を受けたハンター卿が、スペインの王を救う話なのだが、そこに集まった仲間たちが、時代を超えて、3番目の話で再び現代に蘇るのだ。

海賊マッド・ドッグ・モーガンは、スペイン王を暗殺し、自分が王座につこうという企みを持っていたのだが、それをハンター卿らに邪魔され、裁判にかけられる。しかし王の情けにより、国外退去処分で済んだ。王からお礼の宝をもらったハンター卿の一行は、Arctic Tern号でイングランドに帰るのだが、途中に待ち受けていたのは、腹の虫が収まらないマッド・ドッグであった。

マッド・ドッグに船を盗まれ、しかも船は難破して、宝もろとも海の底へと消えていってしまった。マッド・ドッグの命もそれまで。

しかし、宝の夢を捨てきれない猟師ブルーノは、ずっと海に潜って宝を探し続けていた。果たして現代まで生きていたのは、そのブルーノであったのだろうか?ハンター卿らの生まれ変わりたちが、現代のプリマスに集まり、海底に沈んだ船を見つけるのだが、いざブルーノが宝の箱に近づいてみると、そこには大ダコの化け物が宝を守っていた。マッド・ドッグには、タコの刺青があったことを思い出し、ブルーノはマッド・ドッグの執念の深さを知る。

大ダコとの戦いのあと、ブルーノは消えた。心配した仲間が潜って目にしたのは、何百年も前に沈んだとは思えないほど美しく見えた船が、見るも無残な姿に変わり果てていた光景だった。

時代を超えて受け継がれてきた夢と執念。輪廻転生を思わせる物語である。仲間たちが集った居酒屋「マクブライド提督」には、今でもブルーノの席があるという。翌日、ブルーノのために用意されたビールも食べ物もなくなっており、ジャーの中には銀貨が入っている・・・。

ちょっと不気味な海洋冒険物語だった。このほか、いきなり霧が立ち込めて、その中から12艘の船が現れたりとか、怖い場面もしばしば。マッド・ドッグが大ダコに生まれ変わっていたというのは笑えたが。

2004年01月31日(土)
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 Molly Moon's Incredible Book of Hypnotism/Georgia Byng

内容(「MARC」データベースより)
孤児院のいじめられっ子モリー・ムーン。ある日、偶然図書館で出会った一冊の本が、彼女の人並み外れた「催眠術」の力を花開かせた。めくるめく冒険の数々。しかしそこには思わぬ落とし穴が…。女の子版ハリー・ポッター。

<参考・邦訳>
モリー・ムーンの世界でいちばん不思議な物語 ハリネズミの本箱/ジョージア ビング (著), Georgia Byng (原著), 三好 一美 (翻訳)
価格: ¥1,800
発送可能時期:通常24時間以内に発送します。
単行本: 444 p ; サイズ(cm): 182 x 128
出版社: 早川書房 ; ISBN: 4152500018 ; (2002/10)
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「女の子版ハリー・ポッター」という、うたい文句に懐疑的になったとしても、本を閉じた瞬間、そんな気持ちは露と消えているにちがいない。いたるところにしかれた伏線と巧みな文章構成に読者は膝をたたき、人間の欲望や暗い部分にもふみこんだ人物設定に自らの一面を見、本書から目を離すことができなくなる。なにより、この本を子どもたちに独占させておくのは惜しい、そう思わせるところが「ハリー・ポッター」的である。

孤児院ハードウィックハウスに暮らすみなしごモリー・ムーン。不器用でトラブルメーカー、お世辞にもかわいいとはいえない彼女は孤児院でも学校でもいじめられてばかり。

しかし、ふとした偶然で手にした「古代の技が語る 催眠術」という1冊の本が、彼女の眠っていた才能を花開かせた。催眠術を武器に、モリーは孤児院を飛び出し、ついにはブロードウェイのスターとなる。しかし、そんな彼女をつけねらう悪徳教授ノックマンの手はすぐそこにまで伸びていた。

いじめられっこが、催眠術を通して自分に自信をもち、数々の難題に果敢に挑んでいく。そして、周囲にちいさな幸せの種をまくその姿は、鮮やかな印象を残し、多くの子どもたちに勇気をあたえることだろう。

早川書房が子どもたちへ贈る「ハリネズミの本箱」シリーズ第1弾のうちの1冊となる本書。「エサを巣にためておくハリネズミ」のようにいつまでも本棚にとっておきたくなる本である。(小山由子)



孤児でいじめられっ子のモリー・ムーンが、催眠術を使ってアメリカで大成功をおさめる話。と思ったら、あれ?と思ううちに話は二転、三転していく。結末は明かせないが、めでたし、めでたしといったところ。

だいたい人に催眠術をかけて、自分の思い通りにするというのは、卑怯じゃないのか?とずっと思っていた。しかも劇場やテレビでも催眠術を使い、アメリカ中の人(モリーはイギリス人だが、催眠術を使ってアメリカに渡る)を虜にするなんて、詐欺じゃないかと。飛行機のファーストクラスや、ニューヨークの最高級ホテルのスイートも、すべて催眠術のなせる技なのだから。

結局そんなショービジネスの世界は寂しいとわかったモリーはイギリスに帰ってくる。しかもあんなに嫌っていたハードウィック・ハウスへ。そこはモリーが出て行ってから、ひどい有様になっていた。けれどもモリーの優しい心で、孤児たちは皆幸せに暮らせるようになるのだが、もうけして催眠術は使わないと決心するモリー。しかし、その裏には、驚くべき事実があったのだ!

最後に、なるほどねー!と思うのだが、それでもやっぱり催眠術を使って人を操ったことには変わりなく、ちょっとばかり首をかしげながら終わった物語だった。

それにしても、モリーがいつも食べていた「ケチャップ・サンドイッチ」って、どんなんだろう?それと、「女の子版ハリー・ポッター」というのも全然見当違い。これはこれでそれなりに面白いが、ハリー・ポッターの世界とは似ても似つかない。

2004年01月30日(金)
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 続・ママは決心したよ!/ベイリー・ホワイト

出版社/著者からの内容紹介
ジョージアの田舎を舞台に著者とその一族の奇天烈な活躍が笑いと感動を呼んだ『ママは決心したよ!』に待望の続編登場。今回も奇人変人たちが人生の奥深さをしみじみ感じさせてくれる。


本書は『ママは決心したよ!』(原題は『Mama Makes Up Her Mind: And Other Dangers of Southern Living』で、ママが決心した以上の意味があるようだ)の続編となっているが、原題は『Sleeping At The Starlite Motel: And Other Adventures on the Way Back Home』で、実際はべつに続編ということではないようだ。『ママは決心したよ!』のおかしさを期待すると、がっかりするだろう。小説というより、むしろエッセイといったほうがよさそうな作品。

それに、女傑のママもあまり出てこないから、ママはいつ出てくるんだろう、あのママのファンなのに・・・と思う人にはちょっと物足りないだろう。というわけで、タイトルは前作を気にせず、原題を生かして訳出して欲しかったと思う。

でも、底辺に流れている暖かさとユーモアは健在で、読んでいるとなにかほのぼのとしてくるのだが、やはりこの人は真面目!学校の同僚の先生と、コンピュータ・スクールをさぼってドッグレースに行くくだりなどは、いつの時代の話?と思うくらいだ。

だいたい「さぼって」いること自体が不埒なのに、ドッグレースで賭けるなんてとんでもないことだわ!と思うその判断基準に苦笑。そのあたりの気真面目さや、授業風景の描写などから(今回の作品は学校での話が多い)、ミス・リードの『村の学校』を思い出してしまった。

前作のユーモアには笑わされたが、今回はそこにペーソスが加わっていて、「ちょっといい話」的なものもある。そして、もっと自然に近づいた描写が多かった。アメリカ南部の緑深い自然の、濃密な空気の中で呼吸しているような、そういう感じが伝わってきた。


2004年01月29日(木)
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 ママは決心したよ!/ベイリー・ホワイト

出版社/著者からの内容紹介
毎週毎週ラジオの音楽番組に同じ曲をリクエストし、国道で轢かれたてのほやほやのウズラや七面鳥を料理し、台風のさなかベランダのベッドで平然と眠るママ。恐ろしく風変わりでかつ愛すべきママと、それを取り巻くさらにおかしな家族の物語。抱腹絶倒保証付きの全米ベストセラー。


作者のベイリー・ホワイトは、ジョージア州南部で母親と暮らしながら小学校一年生を教える女性教師。雑誌にエッセイや短編を発表するかたわら、ナショナル・パブリック・ラジオ局の自作朗読で国民的人気を博す。─カバーより


評者は翻訳家の青山南氏で、氏がアメリカでこの本を買ったとき、「とんでもなく無愛想」で「もうくたくたってな顔で、口をきくのも面倒臭そうだった」本屋のレジの女性が、この本を見たとたん、わざわざ「これ、おっかしいよ」と言ったので、そのおもしろさを確信し、読んでみたらやはり「じつにおっかし」かったと述べている─訳者あとがきより


というわけで、前評判は上々。冒頭から笑える話で、ずっとクスクス笑っているような本。ベイリーの母親が半端な人じゃないし、ご近所の人々も皆どこか風変わり。アメリカ南部の独特の雰囲気の中で、そういう人たちが右往左往して暮らしている話というのが、なんだか妙におかしさをかもし出している。

しかし、ベイリー・ホワイトは小学校の先生というだけあって、根はすごく真面目な感じがする。つまり、大真面目に一生懸命やっているからこそ、そこに何ともいえないユーモアが生まれるのだろう。そういう娘には、必ず肝っ玉の太い、あるいはかなり偏屈な母親だか父親(この場合は母親だが)がいて、なんでも自分の思うとおりに采配をふるい、娘たちを困らせるというのが相場だ。ホワイト家もその例に漏れない。

これは長編なのかと思っていたが、ひとつひとつの話はそこで完結しているから、短編集になるのだろうか?でも、すべての話が、家族や町に繋がっているのだから、長編ととれなくもないが、時間などはまったくバラバラだから、やはり短編集になるのだろうか。

こういうお気楽な本は、とても楽しい。南部の情景もよくわかるし、ミミズやヘビなんかがよく出てくるのはちょっとぞっとしないが、そういった自然も、生活の一部となっているのだろう。

ところで、ホワイト一族がよく読んでいる、アンソニー・トロロプという作家が気になった。日本では1冊も翻訳が出されていないが、原書ではたくさんあった。そのうち読んでみたいなどと思っている。こうして読書の幅が広がっていくのは楽しい。

2004年01月28日(水)
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 優雅な生活が最高の復讐である/カルヴィン・トムキンズ

優雅な生活が最高の復讐である
ISBN:4845701227
カルヴィン・トムキンズ(著);青山南(翻訳)
リブロポ−ト 1984/05出版

◇カルヴィン・トムキンズ=「ニューヨーカー」美術記者、伝記作者。


中身がピンクと黄色のザラ紙でできている、ちょっと変わった装丁の本だが、どんな内容か全くわからないまま、とりあえず青山先生の翻訳なので読んでみた。

内容はジェラルド・マーフィとセーラ・マーフィに関するノンフィクションなのだが、この夫婦は何者?と最後まで疑問がつきまとった。最後のほうにジェラルド・マーフィの描いた絵画の写真があるので、画家なのかとも思うが(「キュナード汽船の甲板」という絵に見覚えがある)、それだけにはとどまらない人物のようだ。

ところが、この本の主役はF・スコット・フィッツジェラルドのような気もする。というのは、フィッツジェラルドがマーフィ夫妻をモデルにした小説『夜はやさし』を書いたからだ。この本にはフィッツジェラルドのほか、ヘミングウェイやピカソ、ドス・パソスなど有名人がたくさん出てくるのだが、どれも脇役にすぎず、フィッツジェラルドが一番目立っている。スコットの妻ゼルダが一番強烈に印象に残ると感じる人も多いようだが、私はゼルダについてはほとんど無知なので、やはり多少でも知っているスコットのほうが印象に残った。

しかし、このフィッツジェラルドの『夜はやさし』は残念ながら不評だったようで、その後のマーフィー夫妻との付き合いにも影響を及ぼすわけだが、それでもマーフィー夫妻は、スコット・フィッツジェラルド&ゼルダ夫婦を愛していた。

というようなわけで、マーフィ夫妻とフィッツジェラルド夫妻との付き合いを通して描かれた、当時の芸術界、文学界の状況といったところだろうか。ふと、ジョージ・プリンプトンのオーラル・バイオグラフィ『トルーマン・カポーティ』を思い出した。

さて、タイトルにある「復讐」とは、誰が誰に対してのものだったのだろうか?

2004年01月27日(火)
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 オレンジガール/ヨースタイン・ゴルデル

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哲学をやさしく説いてベストセラーとなった『ソフィーの世界』の著者、ヨースタイン・ゴルデルが描く、ヤングアダルト向け小説。歴史上の哲学者たちの言葉を指針とした『ソフィーの世界』に比べ、本書は家族という、誰にとっても身近なものを題材にする。生と死、そして世界の在り方について、親しみやすい観点から描いた作品である。

15歳のゲオルグ少年のもとに突如届けられた、11年前に死んだ父からの贈りもの。生前の父が未来の息子へと宛てたその手紙には、若かりし父が出会った風変わりな女性、オレンジガールとの物語がつづられていた。偶然のように何度も現れる彼女に魅入られた父は、その姿を捜し求めてノルウェーからスペインまで足を運ぶ。オレンジガールの正体をめぐる旅を書くことにより、父が遺していった大きな問いとは何だったのか。

手紙を読み進めるうちに、主人公と共に読者は謎解きの世界に引き込まれていく。特に、ゲオルグが強く引かれていた「ハッブル宇宙望遠鏡」と、父とのつながりが明らかになるくだりは、ミステリアスだ。また、父が示した命についての根源的な疑問は、親子の関係を通し、過去から未来へと続く生命の意味を考えさせられる。「この世でのぼくたちの生は、この1回限りだ」という言葉を鍵にした、父と息子の心の旅は、若い読者だけでなく、子どもを持つ親たちの胸にも響くだろう。(砂塚洋美)

出版社/著者からの内容紹介
ゴルデルが久々に発表したうヤング・アダルト小説。
2003年10月10日、フランクフルト国際ブックフェア会場で本国ノルウェーをはじめ、世界同時に発表されて話題を独占。



ヨースタイン・ゴルデルは好きな作家だった。なぜ過去形?と思って考えてみたら、これまでは英語版でしか読んだことがなかったので(日本語版の『ソフィーの世界』は途中で挫折している)、日本語訳で丸々1冊読んだことがなかったのだ。で、日本語訳は退屈で嫌だなあというのがまず第一の感想になってしまった。

ゴルデルの作品は、私の中では2つに分かれている。『アドベント・カレンダー』のようなファンタジーっぽいものと、『ソフィーの世界』のようなしっかり哲学しているもの。ソフィーを途中で挫折しているくらいだから、当然ながらそちら系の作品はあまり好きではない。

本書は子供向けとはいえ、そのしっかり哲学している系の話で、言いたいことはわかるのだけど、それを素直に考えなくちゃいけないのかなあ?と思うと、どうも拒否反応が起こってしまった。

それに、いくら亡くなった父親が残した手紙とはいえ、父親の恋愛(相手はオレンジガール<ここではネタばらしはしません)の話とかって聞きたくないなあとも思う。これは作品が文学的にどうこうというよりも、個人的な感情によるものなのだが、それが前面に出てしまって、どうも作品全体としても受け入れられなかった。

2004年01月26日(月)
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 The Winter Room/Gary Paulsen

これも『One Wintry Night』同様、ああ、騙されたー!という感じの本。ニューベリー賞って、ほんとに外れる。というか、本の解説に、ウィンター・ルームでのデイヴィッドおじさんの素晴らしい話が書いてあるとあった。それはたしかにそうなのだが、丸々1冊そうだと思ったら、全然そうではなかったのだ!

アメリカ西部の農場に、エルドンとウェインという兄弟がいた。家には両親とデイヴィッドとネルという年老いたおじさんが住んでいる。その一家の春夏秋冬が描かれているのだが、まずは家の中の部屋の配置から説明される。その中には「Winter Room」という、冬に皆が集まってすごす部屋がある。なぜかというと、そこにしかストーブがないからだ。(^^;

というわけで、農場の春、夏、秋と話が続き(農業好き、あるいは自然が好きな人なら面白いかもしれないが)、やっと冬になって、「Winter Room」が登場してくる。ストーブの横で物語を語るデイヴィッドおじさんだが、どうやらおじさんはノルウェーからの移民らしい。だからノルウェーの昔話などが語られる。

最後に「Woodcutter」という、両手に斧を持って、気を切り倒す力持ちの話をするのだが、その後エルドンの兄ウェインは、おじさんは嘘つきだと言って軽蔑するようになる。「Woodcutter」みたいな人がいるはずがないと。弟のエルドンのほうは、だって、あれはお話なんだから・・・と弁護するのだが、どういうわけか、兄のほうが聞き分けがない。思春期の難しい年頃なんだろう。

ある日、兄弟はおじさんが裏庭で薪を割っているのを見る。普通の大人でも無理だろうというくらい大きな丸太を割ろうとしているおじさんを見て、エルドンは怪我をするのではないかと心配するが、ウェインは黙って見ている。すると、おじさんは難なく丸太を割った。結局、ウェインは、再びおじさんを尊敬するという話。

つまりは最後の話だけが重要なのだが、あまりに短いので、春、夏、秋の農場の風景も付け加えたといった感じ。おじさんの物語と、おじさんの薪割りのエピソードだけなら、べつに農場を舞台にする必要もないし、部屋の配置を全部説明することもないのだ。

2004年01月25日(日)
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 ゾエトロープ [blanc] (B+)/フランシス・フォード・コッポラ(編)

内容(「MARC」データベースより)
新人作家を発掘し、映画の原作となる短編を産み出すために創刊された文芸誌『ゾエトロープ』の日本向けオリジナル傑作選第4弾。クオリティの高い短編小説8編を収録したスタイリッシュ小説集。



短編のアンソロジーは、全部が面白いということは絶対にないだろう。これもその例には漏れないと思う。ただ、ここから話題になる作家が出てくるのも事実だし、やはりコッポラの影響も大きいと思う。しかし自分としても、多少なりとも短編の読み方が前とは違ってきているとはいえ、コッポラの選ぶ短編が全ていいとも思わないし、毎回、なぜこれを入れたのかな?と疑問に思う作品もある。しかもこれは日本向けに編集し直されているので、面白い作品が抜けているかもしれないし、これを「ゾエトロープ」そのものとして捉えてしまうと、片手落ちだろう。

「ゾエトロープ」のオリジナルは、こちらのサイトで全て読める。
<Zoetrope All Story>

今回の日本版で気にいったものは、マーゴ・ラブ「物語の綴り方」、ジェニファー・イーガン「さようなら、僕の愛しいひと」、リック・バス「オガララ」あたりか。特にジェニファー・イーガンは、以前にもBOOK PLUSから『インヴィジブル・サーカス』という長編が出ていて、それは個人的に全然好きな作品ではなかったのだが、それに比べたらだいぶ良くなったという感じを受けた。

2004年01月24日(土)
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 フライド・グリーン・トマト/ファニー・フラッグ

内容(「BOOK」データベースより)
満ち足りない日々を送る中年の主婦エヴリンは、ふとしたことから快活な老女ニニーと知り合う。ニニーが語るのは、数十年前のアラバマに生きた自由奔放な女イジーと物静かな美女ルースの物語。女たちの生き方、友情、愛を描いて、心に焼きつく不滅の傑作。

※画像は原書『Fried Green Tomatoes at the Whistle Stop Cafe』/Fannie Flagg



この本にはすっかりはまってしまい、お正月以来なかなか本に集中しなかったのが嘘のように、久々に本を読みふけった。やっぱり、ただ単に集中できないんじゃなくて、面白い本ならいつでも集中するんだな。。。(^^;

前々から、この本は面白いと聞いてはいたのだが、話の作りがややこしくて(時間などがバラバラになっているのと、登場人物が多いこと、いくつもの舞台設定があることなどがややこしいと感じた理由)、原書は途中で中断したままだったのだが、はまってしまったら、一気に話にのめりこんで、泣いたり笑ったり感動したり、自分も同じ町の住人であるかのような錯覚にとらわれるほど面白かった。

そういう感覚はアリス・ホフマンの本にもあった。どちらもアメリカ南部の話だし、またこの『フライド・グリーン・トマト』には、私の大好きな『アラバマ物語』『クレイジーインアラバマ』を彷彿とさせるような、人種差別を含めた社会問題も追求しているというところが、ああ、南部の話だなあと感じ、話に深みを与えている気がした。

困ったのは、時々おいしそうな南部の料理が出てきて、ダイエット中の空腹の身には辛かったこと。でも、バーベキューを「焼肉」、グリッツを「あらびきトウモロコシ」と訳しているのは、全然違うんじゃないか?と。「焼肉」は韓国の焼肉を想像してしまうし、「あらびきトウモロコシ」では、あのおかゆ状の食べ物は絶対に思い浮かばないだろう。

ともあれ、登場人物たちもみな魅力的で、1920年代から80年代にかけてのアメリカが詳細に描かれていて、もう一度原書で読んでもいいと思える本だった。南部の話は本当にハズレがない。

登場人物たちは、それぞれに辛い思いや悲しい思いをしているのだが、誰ひとりとして後ろ向きではない。「満ち足りない日々を送る中年の主婦エヴリン」でさえ、その胸中には共感できるものもたくさんあるが、いつしかそれを克服し、しっかりと乗り越えていく姿が、他の登場人物同様、魅力的である。

あまり詳細には描かれていないが、流れ者のスモーキーの気持ちを思うと、とても切ない。けして口に出さなかったが、ルースをずっと愛しており、道端で死んだときに持っていたのは、ルースの写真ただ1枚だけだったというのが哀れだ。けれども、口にしなかったからこそずっと思い続けていられたのかもしれない。

そのほか、殺人、暴力、同性愛などなど、深刻な問題もたくさん含まれた話なのだが、ホイッスル・ストップの暖かな空気に包まれると、いつしか悲惨な事件もカフェのひとつのエピソードとなって、人々の心に懐かしく思い出されるといった感じになっていく。エピソードがたくさんありすぎて、何度読んでも「こんなことあったっけ?」といった、その都度新鮮な思いにとらわれるのではないだろうか?

2004年01月23日(金)
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 愛している/アン・ビーティ

内容(「BOOK」データベースより)
緑あふれる季節をむかえたヴァーモント―1984年。ニューヨークで大人気のシックな雑誌『カントリー・デイズ』の本社はここにある。人生相談のコラムを連載中のルーシー・スペンサーもここに住み、編集長のヒルドンと愛人関係を続けながら、手紙の最後にいつも「愛している」と書いてきた別れた恋人のことを忘れかねている。この静かな田園を、ある日突然小さなハリケーンが襲った。ルーシーの姪でハリウッドの子役スターであるニコルが、休暇で訪ねてきたのだ。テレビのソープオペラ『情熱の輝き』で有名になった、むずかしい年頃の14歳である。夫の浮気に気づいたヒルドンの妻、ホモの記者、雑誌の内幕を取材にきた女性ライター、ニコルのエージェント、『情熱の輝き』のノヴェライゼーション作家などがいりみだれて始まった、なつかしい1984年の夏の行方は…。ユーモラスにエレガントに、アメリカの時と人々を封じ込めた代表的長篇。



私の苦手なアン・ビーティである。これまで短編集ばかり3冊読んだが、もしかしたら長編なら・・・と思ったのと、青山南先生が翻訳されているということで、手にとってみた。

「シチュエーションの作家」と言われているように、短編ではさまざまなシチュエーションが描かれており、その点では、こういう状況もあるのか・・・と感心させられた部分もあるが、長編でもそういったシチュエーションを重ねて描いているように思う。つまりシチュエーションを並べて見せて、あとは読み手が登場人物たちの気持ちを汲み取りなさいと言っているような気がする。そのあたりが苦手だと思う要因かもしれないと思った。映像は浮かぶが、こちらの気持ちをぐっと掴んで離さないといった部分が、私には見つからないということだろうか。


●訳者あとがきより

この作品を絶賛した小説家のアン・タイラーはうまいいいかたをしている。
「アン・ビーティは、またひとつ、アメリカのある部分の人類学的なレポートを、あばたもえくぼもろともに、まとめあげた。隅から隅まで楽しめる─あばたのところなんか、とくにたっぷりと」


私はここで納得した。私の2大苦手「アン」のアン・タイラーが絶賛し、しかも彼女の言う「あばたのところ」がたっぷりと描かれているとなれば、これはもう私にはどうしたってだめなのだ。

マーガレット・アトウッドは、アン・ビーティを評するのにジョーン・オースティンの名前を出しているが(「ジェーン・オースティンがオスカー・ワイルドと交配され、さらに初期のイーヴリン・ウォーと交配され、そうしてできあがった新生物が、20世紀末のメディアにすっかり囲まれたアメリカのちょっとビューティフルな人種のなかに放り込まれたら、きっとこういうものを書くだろう」─訳者あとがきより)、アン・ビーティからジェーン・オースティンの名が出るとは、全く思いもよらなかったことだ。

ところで内容には関係ないが(あるかも?)、青山先生はなぜ、「彼」を「かれ」とし、「思う」を「おもう」としたのだろう?「彼女」は漢字なのに、「彼」はどうして平仮名なのだろう?たしかに、「思う」は1秒もかからずにすっと読んでしまうが、「おもう」と平仮名になると、そこでブレーキがかかり、何を「おもった」のか?と再度確認してしまうような効果があった。しかし青山先生の真意は、果たしてどういうことだったのだろう?非常に気になる。

2004年01月22日(木)
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 ペール・ゴリオ─パリ物語/オノレ・ド・バルザック

内容(「BOOK」データベースより)
パリのヴォケール館に下宿する法学生ラスティニャックは野心家の青年である。下宿にはゴリオ爺さんと呼ばれる元製麺業者とヴォートランと名乗る謎の中年男がいる。伯爵夫人を訪問したラスティニャックは、彼女が、ゴリオの娘だと知らずに大失敗をする。ゴリオは二人の娘を貴族と富豪に嫁がせ、自分はつましく下宿暮らしをしていたのだ。ラスティニャックはゴリオのもう一人の娘に近づき社交界に入り込もうとするが、金がないことに苦しむ。それを見抜いたヴォートランから悪に身を染める以外に出世の道はないと誘惑されるが、ヴォートランが逮捕され、危やうく難を逃れる。娘たちに見捨てられたゴリオの最期を見取った彼は、高台の墓地からパリに向かって「今度はおれとお前の勝負だ」と叫ぶ。



これはバルザックの「人間喜劇」を代表する作品で、中でも特に面白いという評価を目にしてきたので、かなり楽しみにしていたのだが、このところちょっとフランス文学の雰囲気に飽きていたせいか、正直言って、単純に「面白い」とは感じられなかった。テレビで観たジェラール・ドパルデュー主演の『レ・ミゼラブル』とかぶってしまったせいもあるかもしれない。時間の制約なしで、もう一度じっくり読んでみないとだめだなという感じ。

ゴリオ爺さんの娘に対する愛情そのものはよく理解できるのだが、あまりにも手放しの愛情は、いかに親子といえどもうっとうしいものであるし、また特に娘というものは、いつしか父親からは離れて、別の家の人間になってしまうものだから(特にこの時代では)、そこを覚悟していなかったゴリオにも非はある。むしろ『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンのように、自分は身を引くべきであるとするほうが、どれほど娘の心を捉えることだろうかと思う。かといって、娘たちの父親に対する仕打ちもひどいものだというのは否定できないが。

この物語での主人公は、ゴリオ爺さんというより学生のラスティニャックなのだろうが、これもまた学問に身を入れるというよりは、なんとか社交界に取り入って、高い身分の女性の力で出世したいと考えている男だから、ゴリオ爺さんがどうこうとは言えない人間だろう。むしろ悪漢ヴォートランのほうが、人間としては好ましく見える。

ここに登場する人物の何人かは、この物語だけではなく「人間喜劇」のほかの作品にも登場する。思った通り、ヴォートランの話は面白そうだが、ラスティニャックにまつわる話はやはり首をかしげたくなるような話らしい。それらすべてを読んで、初めて彼らの人間性がわかるのではないかと思うが、バルザックの生涯そのものも「人間喜劇」に値するような、興味深いものだ。「あのバルザックからこの人間喜劇」といった感じだが、どうも個人的にはフランスの文化があまり好きではないようで、バルザックをとことん読んでみようという意識は芽生えなかった。

『レ・ミゼラブル』の作者ユゴーとバルザックは友人であったが、比べてみると(未読だがドラマで見た限りでは)、ユゴーの作品のほうが落ち着いた作品のように思えるし、また人間の高潔さを描いている。対してバルザックは、人間のありとあらゆる人格を描いていて、そういった部分では面白いと思うが、個人的好みから言えば、ユゴーのほうが好みかもしれない。さらにそこにデュマのようなドラマチックさが加われば、絶対にお気に入りになるだろう。

また副題に「パリ物語」とあるが、それを考え合わせると、各個人についての話というよりは、当時のパリの風俗を描いた作品ともとれる。他のフランス文学などとも合わせてそうした目で見ると、フランスという国には、私には理解しがたい面がたくさんあるようだ。

2004年01月21日(水)
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 トード島の騒動(上・下)/カール・ハイアセン

内容(「BOOK」データベースより)
陽光あふれるフロリダのトード島―「ヒキガエル」という名を持つこの小島で、突然大がかりなリゾート大開発がはじまった。大量に生き埋めにされたカエルたちをよそに、利権渦巻くプロジェクトは進んでいく…さて、おせっかいな環境運動をたったひとりで展開するトゥイリーは、車窓からゴミを投げ捨てるという、許しがたい犯罪行為を目撃した。問題の人物は、やり手のロビイストとしてフロリダ政界で珍重されている、ストウトという男だ。怒りに燃えたトゥイリーの強烈な攻撃がはじまった。

内容(「BOOK」データベースより)
ストウトの罪は、ゴミの投げ捨てだけではなかった。トード島の開発にかかわり、カエルの大量虐殺に手を貸した大悪人のひとりでもあったのだ!ストウトの愛犬を誘拐して、トゥイリーはプロジェクトの阻止をはかるが、相手はロビイストとしての本領を発揮、事態は思わぬ方向に…知事、議員、開発業者から娼婦、殺し屋まで、変人たちが大暴走。入りみだれるプロットは、複雑にからみあいながら、手に汗にぎる抱腹絶倒のクライマックスへ!


ハイアセンお得意の環境問題のからんだミステリー。とはいえ今回の話は、それが結構しつこく描かれている。それというのも、主人公クラスのトゥイリーという男が、環境問題オタクのような人物だから。いつものごとく、どうしようもない悪徳政治家や、ちょっと変わった女たち、それとハイアセン小説の名物にもなっている、元フロリダ州知事スキンク(ニックネームだが)が登場。雰囲気は例によって例のごとくといった感じ。

ハイアセンの小説では、ひょんなところでひょんな人が殺される。それも死体がバラバラにされたり、生き埋めにされたりと、結構残虐なのだが、ハイアセンは殺人に重きをおいているのではなく、あくまでも環境問題や腐敗政治について描いているので、どういうわけだか殺人が「ちょっとゴミを捨てた」くらいの感覚で書かれている。

しかし、今回は「ちょっとゴミを捨てた」が大問題になっているのであって、環境問題オタクのトゥイリーが執拗に「思い知らせてやる」と息巻く原因となっている。元知事のスキンクもとんでもない変わり者だが、トゥイリーもまたどこか狂気に囚われている。それがユーモラスであったり、憎めないキャラクターであったりするのだが、やっぱりかなりおかしい。

物語としては面白かったが、ちょっと細部までしつこく書きすぎている感じがして、ユーモラスだけでは終わらないグロさも感じてしまった。ハイアセンの世界では、誰もが皆変人になってしまうのだが、度を越すと、やはりいただけない部分もある。


2004年01月15日(木)
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 A Wrinkle In Time/Madeleine L'Engle

主人公マーガレット・マリー(メグ)は、母親とサンディとデニーズの双子(10歳)、そして一番下の弟チャールズ・ウォレスの5人家族だ。物理学者の父親は行方不明。

ある日、風の音が怖くて眠れないので、夜中に起きてみると、キッチンにチャールズ・ウォレスがいた。4歳まで話すことのできなかった、ちょっと変わったところのあるチャールズだが、今では皆のためにサンドイッチをつくってくれたりする、とても気の利くいい子だ。メグはチャールズが大好きだと思う。

友だちのカルヴィンがメグの家にやってきたとき、チャールズと3人で、行方不明の父親を探しに行くことになった。その助けをしてくれるのが、「Mrs. Whatsit」(23億7915万2497歳)「Mrs.Who」「Mrs.Which」の3人の不思議なおばさんたちだった。

彼らは5次元の旅をして、「Messier101」星雲の中にあるマラクという星の第3惑星であるユリエルという星に到着する。そこで、父親が闇の影のうしろに隠されているということを知る。

Camazotzという街に着くと、「CENTRAL Central Intelligence Building」というところに連れて行かれ、透明な円柱の中に、父親が閉じ込められているのを発見するのだが、チャールズもまた催眠術をかけられ、敵の手に渡ってしまったことがわかる。目の前にいるのはチャールズであって、チャールズではないのだ。その敵とは、「IT」と呼ばれる巨大な脳だった。そして闇の影にいる「Black Thing」。

父親を助けることができたメグは、「IT」に数学の問題を出されるが、やはり催眠術にかけられ、体が麻痺してしまう。それを助けてくれたのが、毛むくじゃらで手が4本ある「Aunt Beast」だった。やさしいビーストの手によって、次第に回復したメグだったが、チャールズを助けるために、再び「Black Thing」と戦わなくてはならなかった。

チャールズを助けることができたのは、数学でも物理でもない、「愛」であった。ただひたすらチャールズを愛していると念じて、「Black Thing」の催眠術を解いたのだ。ここまでついてきてくれた「Mrs.」たちは、実は「Gurdian angels」=「神の使い」であった。


だから、なんなの???
文中には相対性理論や原子の名前、平方根の計算、シェイクスピアのテンペストから謎を解くなどなど、あれこれ出てくるのだが、キーワードは「tesseract」、つまり「四次元立方体」という言葉だ。それがどう関わっているのか、よくわからなかった。時空を超えて父親を探しに行くというのはわかるのだが、そこで四次元立方体がどうしたの?って感じ。もう、面倒だなあと思いながら読んでいたので、ため息ばかり。

でも、そんなことには全く関係なく、最後は「愛」でしめくくるなんて、あまりに安易すぎる。これまで数学や物理に頭を悩ませてきたのはなによ?という感じでしょう。他人のカルヴィンが、どうして一緒にメグの父親を探しに行かなくちゃならないのかもよくわからないし、双子に至っては、全く存在意義がない。「Mrs.」たちが実は天使だったというのも、ちゃんちゃらおかしい。

やっぱりニューベリー賞受賞作ってこんなものかと、変な意味で納得。最初の頃はヨースタイン・ゴルデルに似ているかもと思ったが、読み終えたら全然違っていた。ゴルデルさん、ごめんなさいって感じ。

2004年01月08日(木)
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 マーティン・ピッグ(B+)/ケヴィン・ブルックス

カバーより
マーティン・ピッグ。それは僕の名前だ。「ブタ」となじられたことは数知れない。いまはもう慣れたけど、それはぼくの心に傷を残している。父は酔っ払いだ。母はどうに出て行った。どうしようもない家族。でもそれももう慣れた。幸せなんて遠い存在だ。でもアレックスがいる。隣に住む年上のアレックス。彼女はすてきだ。最高にいかしてる。

そんなぼくの日常の中で、事件は起きた。すべての責任を誰かや何かに押し付けるつもりはない。たくさんの不満があったとしても、偶然か、あるいは必然だったのかもしれない。事件にアレックスを巻き込んだのも、彼女のクソったれな恋人が首を突っ込んできたのも、自分でも信じがたい計画を思いついたのも。

クリスマスの一週間前、ぼくは父を殺した。これはその一部始終を綴った、いまはもうなきぼくの青春の記録。



ピッグというおかしな苗字でいじめられ、飲んだくれですぐ暴力を振るう父親に虐待されている少年。楽しみと言えばミステリを読むことと、近所に住む女の子アレックスとお喋りすることだけ。そんな主人公が誤って父親を殺してしまう。死体をどうやって始末しようかと悩むところから事態は思わぬ方向へ発展し、最後の鮮やかなどんでん返しまで、読者のみなさんはページをめくる手を止めることができなかったのではないでしょうか。
─訳者あとがき

あとがきにあるように、後半はたしかに途中でやめられなくなった。まさか!と思う展開になったからだ。しかし、最初は宣伝文句の「ライ麦畑以来の傑作」という先入観に囚われて、「ライ麦畑」みたいな小説なのか・・・と思って、疑り深く、慎重に読んでいた為、全然入り込めなかった。そういう宣伝をする出版社の罪である。

でもそのうち、これは「ライ麦畑」なんかと全然違うぞ!と思ったら、俄然面白くなってきて、一気に読めた。結論は、面白かったということ。余計な宣伝文句は迷惑なだけだ。

実際サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(または『キャッチャー・イン・ザ・ライ』)とは雰囲気も何も全然違う。どちらがいいとか悪いとかは言わないが、無理矢理比べるなら、私はこちらのほうが好き。青春小説といえば「ライ麦畑」というのは、いい加減うんざりだ。ファンタジーといえば、「ハリー・ポッター」を引き合いに出すのも同様。

作者のケヴィン・ブルックスはサリンジャーが好きらしいが、それよりも、やはりコナン・ドイルやレイモンド・チャンドラー、コリン・デクスターなどの影響のほうが大きいように思う。これは青春小説でもあるが、ミステリの要素もあり、その部分が面白いからだ。

というわけで、詳細に書いてしまうと、ミステリの面白さがなくなってしまうので書けないのだが、くどいようだが、サリンジャーの「ライ麦畑」とは似ても似つかない、面白い本だったということだけは強調したい。

主人公は悪い子ではないし、悪ぶっているわけでもない。その普通の子(家庭は普通じゃないのだが)に突然ふってわいたような事件を、ミステリ好きの15歳の少年が、あれやこれやと考えていくところが面白い。シェークスピアを「あご髭を生やし、大きな白い襟をつけた禿の男」と言い捨てるところなんて、なるほど現代の15歳の子には、いかに偉大な文豪でも、ただの禿げたおじさんか、と思うとめちゃくちゃおかしかった。

この主人公は、青春ものによくある、世の中に認められず(と勝手に思い込んでいる)、生きがいもなく、何をしていいかもわからない、ただドラッグとセックスと暴力にのめりこんでいるような少年とはまったく違う主人公で、それなりに前向きな子であるというのが、個人的には非常に気にいった。自分から悪い事をしようという子でもない。家庭は悲惨だが、自分の居場所があるというのはいいことだとも思っている素直ないい子なのだ。ただ、ミステリが好きだったがために・・・その事件が起こった原因と結果を結びつける思考がまたユーモラスで、人が死んだり、殺されたりしているにも関わらず、なぜかおかしい。

結末でも事件は何も解決していないのだが、この子ならなんとか立派に生きていけるだろうと希望が持てるような主人公だ。そういった点では、カール・ハイアセンの感覚にも似ているところがあるかもしれない。

2004年01月07日(水)
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 ギャスケル短篇集/エリザベス・ギャスケル

内容(「BOOK」データベースより)
ごく普通の少女として育ち、結婚して子供を育て―とりたてて波瀾のない穏やかな生涯の中で、ギャスケルは、聡明な現実感覚と落ち着いた語り口で人生を活写した魅力的な作品を書いた。本邦初訳四篇。

目次
ジョン・ミドルトンの心
婆やの話
異父兄弟
墓掘り男が見た英雄
家庭の苦労
ペン・モーファの泉
リジー・リー
終わりよければ

●翻訳者・松岡光治氏の「エリザベス・ギャスケルのサイト」
「日本ギャスケル協会」


<気にいった作品>

●「異父兄弟」

これは父の違う兄弟が、片方は可愛がられ、継子のほうは冷たく扱われるというよくある話ではあるのだが、ここでは最後に、冷たく扱われている継子の兄のほうが、自分の命を犠牲にして弟を救うという話で、とても感動的で胸を打たれる。「自己犠牲」のテーマは、様々な小説に描かれているが、なんと高潔な行為だろうか。ともすれば自分の幸福のことばかり考えてしまう私たちだが、この話は自分を犠牲にしても、人のために何かをすることの大切さを教えてくれる。それと、親の思いひとつで、子どもの人生のなんと変わってしまうことか!それもまた身のすくむ思いがした。


●「墓堀り男が見た英雄」

これもまた「自己犠牲」の話だ。喧嘩を売られても、絶対に買おうとしない男。彼は恋人にもあいそをつかされて、別の男にとられてしまうのだが、ある日その二人を自分の命と引き換えに助けるという話。ここでは「自己犠牲」も重要ではあるが、喧嘩をしないという精神的な強さについて重きが置かれている。たしかに、売られた喧嘩を必要もないのに買うのは馬鹿である。どこかの国の大統領や首相に読ませたい。大事なことは見せかけではなく、いざというときに示されるものだ。


●「家庭の苦労」

妻として、母として、家庭を守る女は大変な苦労がある。通り一遍に読めば、そういうことなんだろうが、これは女だから・・・ということではないと思う。たしかにこの時代には「女は家庭にいるもの」というのが当たり前であっただろうが、これはそういうことではない。相手の気持ちを思いやるということの大切さを描いているのだと思う。

相手の立場や、相手がして欲しいと思っていることを汲み取り、自分本位ではなく、お互いに思いやるということだ。そうすれば、家庭もさることながら、人間関係は円滑に行くということだろう。女だから、男だからということではないのだと思う。そういう意味で、この話もまた「自己犠牲」のひとつだと思うが、「家庭がちゃんとしていなければ、帰って来たくなくなる」という部分は、耳が痛いかも。

しかし、それは男も女も一緒である。夫婦だとか男女とかの差別なく、お互いに相手の気持ちを考えて、思いやりの心を持てば、どれほど忙しくても、どれほど辛くても、おのずと自分のしなければならないことが見えてくるということだろう。

時代背景というのはどうしても無視できないが、今のように男女平等でもなかった(今でも完全に平等とは言えないが)と思うし、この話では父親がいないため、家を支える者としての兄の立場は大きいのだろう。

けれどもその一方、別の意味で女性が家庭を支えていなければ、家庭は崩壊してしまうということも言っているのだと思う。つまり、お互いに支えあっているということ。現在ではどちらがどちらの役割かはどうでもいいが、当時はやはり男女の役割は変えられないことだっただろうと思うので、ひとつの例え話として男女の区別なく受け止めれば、家庭でも職場でも通じる話だと思う。文字通りに受け取ってしまうと、現代ではフェミニストの反感をかうことになるかも。



最後の「終わりよければ」もなかなか良かった、というか面白かった。たしかに牧師の妻だけに、非常にキリスト教的で、なにやら説教めいた部分があるのは否定できないが、この短篇が掲載されたディケンズ編集の雑誌の種類を考えれば、致し方ないことかもしれない。

それでも時代を超えて、人間のあるべき姿というのは、変わらないと思う。一見、女性の生き方について書いているようだが、人間の生き方としても間違いではないだろうと。どの話も、自分のことばかり考えていてはいけないといましめているようで、たしかにそうだなあと納得。

『女だけの町』とは全然雰囲気も違うが、文章はやはり上手いし、読ませる力も変わりはないように思う。おそらく『女だけの町』のほうが特殊だったのだろうと思う。ディケンズが好きかどうかはともかくとして、ディケンズに白羽の矢を立てられたというだけのことはあると思う。

日本ギャスケル協会のギャスケルの「文学的特質」というページの中で、特に気になった部分を下に抜き出してみた。(●印の記事)

●たしかにギャスケル夫人の描いた小説は人間性の善意の本質にその根底をおいている。基本的に単純さを信条とするギャスケル夫人の小説を評価するにはやはり批評家の単純な心を必要とする。ポラード氏は「現代の批評は偽の複雑さを探求することにあまり熱心で、それらの批評家のたわごとに我々はまどわされがちである。」と述べている。ギャスケル夫人の真価はそれらの現代の批評家たちには認められなかったことは当然のことであるように思われる。

●エリザベス・ギャスケルは人間生活の失意や災難に対して目を覆うことなく、事実を直視し「いかに生きるべきか」という人間の根本間題に立ち向って行ったのである。このような作家態度には今まで時折間違えて真に理解しなかった批評家がギャスケル評に用いた「なまぬるさ」という形容詞の入る余地はないのである。考え方がなまぬるいのでなくて純粋なのである。視野が狭いのでなくて深いのである。個性の強さの点で欠けるものという従来の批評はもっとも当を得ないものであって、彼女ほど世俗と妥協しないきびしさで人間の生き方を探求して行った個性的な作家は数少ないといえる。



現代の批評家は、まさに上にあるように「偽の複雑さを探求すること」にのみ熱心で、シンプルな小説はあまり評価されないように思う。ギャスケルのように善を描いている作家は軽んじられ、むしろ悪を描いているほうがもてはやされているように思えてならない。悪を描いている話のほうが、読む人間は良心の呵責を感じず、心が痛まないからだ。

また、「いかに生きるべきか」というのは、ここにあるように「世俗と妥協しないきびしさ」であると思う。そこには、基本的に男女の別は関係ないと思うし、ギャスケルがたしかに妻として、母として立派であったとしても、そのことだけに注目するのではなく、妻として、母としての経験を取り入れた上での大きな意味での人間性を見るべきであろうと思う。

2004年01月06日(火)
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