読書の日記 --- READING DIARY
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 たんぽぽのお酒/レイ・ブラッドベリ

内容(「BOOK」データベースより)
輝く夏の陽ざしのなか、12歳の少年ダグラスはそよ風にのって走る。その多感な心にきざまれる数々の不思議な事件と黄金の夢…。夏のはじめに仕込んだタンポポのお酒一壜一壜にこめられた、少年の愛と孤独と夢と成長の物語。「イメージの魔術師」ブラッドベリがおくる少年ファンタジーの永遠の名作。


夏の始まりは、新しいテニスシューズとか、たんぽぽのお酒とか・・・。鮮やかな記憶を残す少年の日々。その夏、ダグラスが発見したのは、「生きている」ということ。「幸福マシン」とか「グリーンマシン」などなど、町にある様々な機械類は何をするためのものだろう。一風変わった町の人々の日常も交えて、ダグラスの夏は過ぎて行く。だが、そこにはいつも「死」の影がつきまとう。

ダグラスが「死」を意識しているわけではないが、「生きていること」と同じように、「死」というものが存在することを漠然と感じる子供たち。老人はかつて子供だったことがないなど、子供は時間の観念もないのだ。いつか「死」が忍び寄ってくることなど考えもしない。けれども、夏の初めに新しかったテニスシューズは、夏の終りが近づくにつれ、もう宙を飛ぶように走れなくなっている。そうして時は容赦なく過ぎて行くのだ。ブラッドベリの世界には、いつもどこかに影の世界がある。少年の生命の明るい歌声とは別に、気づかないうちにいつか年老いて、そして死に至る漠然とした影が。

2003年08月31日(日)
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 風と共に去りぬ(3)/マーガレット・ミッチェル

内容(「BOOK」データベースより)
アトランタの材木工場を男まさりのやり方で経営するスカーレットは、伝統的南部崩壊後、かつての魅力を失いかけた貴公子アシュレへの思慕をたちきれぬまま、野性の男レットへつよくひかれてゆくが、スカーレットを姉のように慕う天使のようなメラニーは、彼女と夫アシュレの噂をきいても二人の潔白を信じて疑わない。風のごとく現れて求愛をつづけるレットの情熱に屈してついに結婚したスカーレットは、ニュー・オリンズへの蜜月の旅へ出るが…。


いまやすっかり金持ちになったスカーレットだが、その奔放な行動が原因で、二人目の夫フランク・ケネディが死亡する。まもなくスカーレットはレットと結婚し、さらに富を得るのだが、相変わらず仕事に精を出し、金の亡者となっていく。彼女の趣味はまた成金趣味であったし、北部から来た連中とのつきあいも増え、昔の社交界の知りあいは皆そっぽを向いてしまうのだった。しかしメラニーだけはスカーレットをかばって、いつもスカーレットのかたをもってくれるのだったが、いつまでもアシュレへの思いを立ちきれないスカーレットであった。

一方レットとの間に生まれた娘ボニーは、レットの溺愛のため、日増しにわがままになっていく。そのわがままが昂じて、ボニーが事故で死んでしまうと、レットは荒れに荒れた生活を送るようになる。

メラニーが二人目の子供を流産し、その死のいまわの際で、「レットはスカーレットを愛しているのだから優しくしてやって」と言うのを聞き、この後に及んで頼りないアシュレの態度に嫌気がさしたスカーレットは、初めてアシュレを愛していないことに気づく。今までもけして愛してなどいなかったのだと。

そしてレットを愛している喜びを胸に帰宅すると、時すでに遅し、レットはすでにスカーレットに対する望みを失ってしまっていたのだ。レットはボニーにしてやったように、スカーレットをかわいがり、好きなことをさせ、完璧に自分の手のうちに入れたかったのだが、それは無理なことだったのだと諦めてしまったのだ。そうしてレットは出ていってしまうが、スカーレットが困ったとき、苦しいとき、助けてくれたのはレットだったと思うと、そんなにまでしてくれる人間は他にはいない。愛していなかったなら、そこまでしてくれるものじゃないと気づき、必ずきっとレットを取り戻してみせると決心するスカーレットなのであった。

まさに激動の人生。10年くらいの間に3度結婚し、それぞれひとりずつ、3人の子供をもうけ、戦争、飢餓、家族の死、商売、社交、などなど、休む間もなく押し寄せる運命に、スカーレットは立ち向かってきた。彼女はけして立派な人間ではないが、ものすごく強い人間だ。彼女を正しく導いてくれる人さえあれば、ずいぶん違った生き方もしたのではないかとも思うが、思ったことは絶対にやらなければ気のすまないスカーレットだから、この人生しかなかっただろうとも思う。

結局は全く違う世界に住むアシュレ。スカーレットにとっては何のプラスにもならない彼を愛していないことに気づいたあとは、ずいぶん素直で正直になったと思ったが、運命はやはり一筋縄にはいかないということを思い知らされ、だがそれでもめげないスカーレットは、本当に雑草のような、踏まれても踏まれても行きぬく力を持った女性なのだと思った。

もし、戦争がなかったらどうだっただろうか?厳しい社会の歴史の中で行きぬかなくてはならなかった彼女は、持って生まれた強さもさることながら、他の男性にもめったにない責任感と、いざという場合の前向きな立ち直りの早さをもってして、あの激動の時代を生きたのだろう。そういった時代であったということを抜きにしても、まったく感嘆すべき女性だ。いわゆる美しくて優しいヒロインとは違って、とんでもない個性のヒロインだった。

そういったスカーレットの性格を理解し、能力を評価して、彼女の価値を認めていたただ一人の人物がレット・バトラーであったわけだが、スカーレットはそれに気づくのが遅すぎた。今となれば、二人に甘いロマンスなど似合わないと思うが、二人がうまくいけばよかったのに、と思う気持ちは強い。きっと取り戻してみせる!と決めたスカーレットのことだから、いつかレットの愛を取り戻すことは間違いないだろうと信じて、本を閉じた。

スカーレット・オハラやレット・バトラーの魅力は、好き嫌いは別として、すでに語り尽くされていると思うが、アシュレについては優しく繊細な人物というくらいにしか聞いた覚えがない。しかし、彼は実際優しくもなく、繊細でもない、自己中心の人物だと思う。優しさなどどこで見せただろう?

自分の世界を大事にするあまり、他人を愛せない。メラニーと結婚したのも自分の世界を守るためであり、スカーレットを愛していると言ったのは、単に欲望のためではないか。それが証拠に、彼は妻のメラニーにも何もしてやれず、スカーレットに至っては弱さを見せるばかり。逆境にあって何も考えられず、ただ嘆くか諦めてしまうかどちらかだ。スカーレットとは違った意味で強いメラニーを妻にしたため、彼はメラニーに助けられて、生きていたようなものだろう。

つい映画のアシュレを思い浮かべてしまうので、けして美しい男性だとは思えないのだが、原作ではとても美しい顔立ちで、優雅な男性のようだ。美しいものを見るのは心がときめく。けれども、いざという時に何もできない男では、あのスカーレットに我慢ができるわけがない。最後にやっと、自分はアシュレを愛していなかったのだと悟って、読んでいるほうもほっとした思いだった。


2003年08月30日(土)
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 星を見つけた三匹の猫/ヨルク・リッター

内容(「MARC」データベースより)
体にそれぞれ障害をもつ3匹の猫とネズミの王との火花散る戦い! 天空をさまよう「ちび星」と、3匹の猫が夢に見る「星」の正体とはなにか? 魂の成長を描いた、感動のファンタジー。2000年刊の再刊。


猫、ネズミ、星、月、星座、「彼女」のいる塔・・・。
ファンタジーの要素はたっぷりだが、「魂の成長」とは?

それぞれどこかに傷を持つ三匹の猫がネズミの王と戦い、王には勝ったものの、結局人間によって海に流されてしまう。流れついたところから、三匹が夢に見る「彼女」のいる塔にまで達するのだが、その間に天空をさまよう「ちび星」の話が挿入されている。どのエピソードも、どこかで聞いた、あるいは読んだことがあるような感じがして、先が見えてしまう。どこかで読んだものの中には、私が昔書いた童話まで含まれているのだからびっくりだ。

「彼女」がいる塔は「グランドサークル」を呼ばれるところにあり、そこに至るまでの冒険でも書いてあれば面白いのかもしれないが、あっという間にそこについてしまうので拍子抜け。グランドサークルとは何だろう?翻訳者によれば、仏教の「輪廻」のようなことではないかということだったが、ここに描かれている世界の構図がはっきりしなくて、なおかつそこに天文学を無視した「ちび星」の話が入ってくるので、イメージがつかみにくい。

結局三匹の猫は「彼女」のもとを去り、これまでと変わらない世界へと戻るのだが、あれは夢だったのかな?という終わり方は納得できない。そもそも夢オチは好きではないので、最後に夢かと言われてしまうと、非常に不満だ。猫たちが海に流されて「彼女」のもとに到着するのに、ネズミとの戦いがなくても十分物語としては成り立つ。それぞれのエピソードが全て中途半端で、必然性を感じない。

何を一番書きたかったのか、また言いたかったのか、それもばらばらな感じで掴めなかった。ファンタジーはファンタジーっぽいお膳立てがあればいいというものでもないし、独自の世界観がないと、物語としては成り立たないだろう。結局、内容説明にある「魂の成長」とは何なのか、全然わからなかった。

2003年08月29日(金)
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 風と共に去りぬ(2)/マーガレット・ミッチェル

北軍に包囲された火炎地獄のアトランタを、スカーレットはレットが手綱を引く荷馬車に出産したばかりのメラニーたちをのせてタラに脱出するが、彼女を待ちうけていたのは、母の死、半狂乱の父、荒廃した屋敷と農園であった・・・栄華を誇った貴族的南部文明は、敗戦によって崩れ去り、戦争よりきびしい再建時代が始まる。飢えと戦いながらタラ復興を決意したスカーレットは、金策のため俄か仕立ての盛装に媚をこらしてアトランタにレットを訪ねるが・・・
─カバーより


2冊目に入ったら、どんどん面白くなってきて、集中してきた。レット・バトラーの助けで、アトランタからタラへと逃げるスカーレットだが、タラに帰ればなんとかなるという思いも、母の死によって、もろくも崩れ去る。それからは今日の食べ物をどうするか、自分がなんとか家族を養わなければならないという重荷を背負って、必死に働く。もう決してこんなみじめで辛い思いはすまいと固く決心し、毎日を必死で生き抜くスカーレット。だが、彼女の心情を本当に理解してくれるものは、レット・バトラーただ一人しかいない。

一難去って、また一難。次から次へと襲ってくる打撃に、ともすればくじけそうになるスカーレットを支えていたのは、タラの土地への執着とアシュレへの愛であったが、優しいアシュレは絶体絶命の状況下では、なんの役にも立たないのだ。意を決してアトランタのレットのもとへと向かうスカーレットだったが、その目的が果たせなかったため、妹スエレンの婚約者ケネディに取り入り、結婚することで家族の危機を救う。

そこから商売の才を発揮し始めたスカーレットだが、周囲のものの視線は次第に冷たくなってくる。この期に及んで、結局彼女の味方につき、彼女を守ってくれるのは、レットであった。しかし事業も軌道に乗り、うまく運んでいるにもかかわらず、彼女の心をさいなむのは、いつまた不幸のどん底に落とされるかという恐怖であった。そんな折、父ジェラルドの訃報を受け取ったところで、この巻は終わる。

この部分では、アシュレとレットの対比が際立ってくる。スカーレットもさらに気の強いところを見せ、けして褒められるような淑女ではなくなってくるのだが、生きるためには手段を選んでなどいられない。もう二度とあんな辛い目には会いたくないという気持ちが強く、孤軍奮闘しているのだ。しかしながら周囲はスカーレットに頼るばかりで、何の助けにもならない。このような状況で、スカーレットのような女性は、嫌でも強くならざるを得ないだろう。誰に頼まれたわけではないが、家族を守ろうという彼女の意志には感服する。

またレットの彼女を何としてでも守ってやろうという気持ちは非常に頼もしく、男はこうでなくちゃ!という思いにとらわれる。たとえ彼が無頼漢だとしても、「スカーレットのためなら・・・」といわれるのは、女冥利に尽きるのではないか。

一方終戦後タラに帰ってきたアシュレは、激情にほだされて、「愛している」とまで言い、スカーレットと激しい接吻など交わしてしまうのだが、あくまでも彼女を拒否するなら、そんな態度はどうなの?という感じ。

スカーレットは戦争が始まってからずいぶん成長したが、最初の結婚の時点では、まだまだ自己顕示欲の強い浅はかな子供だ。自己顕示欲が強いという点では、その後も変わらないが。そういう彼女の性格をよく知っていながら、アシュレのあの行動はやはり残酷だと思う。スカーレットは相手が結婚したくらいで、自分の欲しいものを諦めるような人間ではないから、はっきり言わないとわからないタイプ。だから「どうして言ってくれなかったの」ということになるのだろう。結婚してしまえばわかるだろうなどという考えは、スカーレットには通じないのかも。そうしたアシュレの態度はまた、メラニーに対しても失礼ではないかと思う。

ともあれ、スカーレットはけして誉められる性格のヒロインではない。普通のヒロインらしからぬヒロインだ。でも、今日の食べ物もない、家族を養わなければならない、絶体絶命のピンチに追い込まれたら、私も彼女と同じように、どんなことだってしようと思うだろう。税金をどうしたらいいのかという切羽詰まった現実的な問いに、哲学問答のような答えをするアシュレは、あの状況下ではまったくの役立たずで、私だったらそこで追い出すだろうと思うが、いつまでも夢を見ているスカーレットは、まだ浅はかで、若い情熱を持っているのだと、逆に言えばうらやましくもある。

2冊目に入ってから、アシュレとレットの対比はさらにはっきりしてくるが、でも、この物語を成り立たせるためには、アシュレが必要であることは否定できない。そしてまた、アシュレがいるからこそ、レットの力強さが引き立ってもいるのだろう。レットもスカーレット同様、素晴らしい人物であるとは言い難いが、少なくとも正直な人間ではあり、それが私には好意的にうつる。


次にアシュレとレットの対比がよくわかる文章をあげておこう。

なんの頼りにもならないアシュレ
300ドルの税金を払わないと、タラを手放さなければならないという絶体絶命の場面で

「けっきょく、どこかでお金を工面しなければならないとはお思いになりません?」
「そう思います」と彼(アシュレ)はいった。「しかし、どこで工面します?」
「それをあなたにおたずねしているのよ」と、彼女はじれったそうにいった。重荷をおろしてほっとする思いは消えた。たとい、どうにもならないにせよ、(ああ、気の毒に!)と、たったそれだけでもいい、もうすこし、なんとかなぐさめのことばくらいかけてくれてもよさそうなものだ。
(中略)
「ぼくは思うのですよ」と、彼はいった。「タラに住んでいるわれわれが、どうなるかということばかりでなく、いったい南部諸州の人間は、みんな、どうなるのだろうと」
彼女は思い切って、いきなり(南部の人間なんか、みんなどうなってもいいじゃありませんか!それよりも、いったいあたしたりは、どうなるのです?)と、どなりつけてやりたくなった。だが彼女はだまっていた。急に、これまでにもないほどの強い疲労感が、再びおそってきたからだ。アシュレはついに、なんのたよりにもならない。
「・・・・一つのゲッテルデンをも目撃するのは、あまりに愉快なことではないかもしれないが、すくなくとも興味のあることですよ」
「一つの何ですって?」
「神々のたそがれです。不幸にも、われわれ南部諸州の人間は、みずからを神と考えていたのです」
「お願いよ、アシュレ・ウィルクス!のんきそうに突っ立って、そんな愚にもつかないことをおっしゃるのはやめてくださいな。あたしたちがふるい落とされようという場合じゃありませんか!」

レットの真意
「税金のお金は、都合できましたか?まさかタラの戸口に、まだ狼が立っているわけはないでしょうね」
その声には、前とちがった調子があった。
彼の黒い目を見上げた彼女は、そこに、ある表情を読み取って、はじめはびっくりし、とまどったが、やがてふいに、微笑んだ。それは、このごろの彼女の顔には、めったにあらわれない、やさしい、魅力的な微笑だった。彼は、なんというつむじまがりの悪党だろう。だが、ときどき、とてもやさしくなることがある!彼がたずねてきたほんとうの理由は、彼女をいじめるためではなくて、彼女が絶望的になるほどもとめていた金を手にいれることができたかどうか、それをたしかめるためだったのだ。いま彼女は知った、もしまだ彼女が金を必要としているなら、それを貸そうと思って、釈放されるやいなや、彼は大いそぎで、しかも、すこしもいそがぬふりをして、たずねてきてくれたのだ。

レットから見たアシュレ
「アシュレは、ぼくのような卑俗な人間が理解するには、あまりに崇高すぎますな。しかし、どうか忘れないでくださいよ。ぼくが、あの樫の木屋敷における、あなたと彼の優雅な場面の目撃者だったということを。なぜかぼくには、あのときいらい、彼がちっとも変わっていないように思える。あなただって、そのとおりです。もしぼくの記憶がまちがっていないとすると、あの日の彼の態度は、そう崇高なものではありませんでしたな。そうして現在の彼が、より崇高だとは、ぼくには思えませんね。なぜ、彼は妻子とともにタラを出て仕事をさがさないのです?なぜタラにとどまっているのです?もちろんこれはぼくの気まぐれですが、タラにいる彼にみつぐためとあれば、あなたには1セントたりとも貸しません。男たちの間では、よろこんで女におぶさっている男を呼ぶのに、非常に不愉快なことばがありましてね」

レットから見たアシュレ(2)
「あなたは彼にとって、絶え間のない誘惑物です。だが、彼は、ああした人種の大部分がそうであるように、いかに豊かな愛よりも、このへんで名誉という名で通っているしろものを重く見る。そして、ぼくから見ると、あのあわれむべき男は、いま、自分を熱中させる名誉も恋も、もっていないらしい!」
「あのかたは愛をもっています!・・・あたしを愛しているという意味です」
(中略)
「もしあなたを愛しているなら、なぜ彼はあなたを、税金つくりにアトランタへなんぞよこしたんです?ぼくならば、自分の愛している女に、そんなことをさせる前に─」
「あのかたは知らなかったんです!考えもしなかったんです、あたしがなんのために─」
「彼は知っていたはずだと、あなたは考えたことがないんですか?」その声には抑圧された野性が顔を出していた。「あなたのいったような意味で、あなたを愛しているとしたら、絶体絶命におちいった場合、あなたが何をするかということくらい、彼にも、わかっていたはずです。あなたをここへ─よりによって、ぼくのところへなんぞこさせるよりも、いっそあなたを殺していたはずだ!」
「でも、あのかたは、知らなかったんですわ!」
「いわなければわからんような人間なら、あなたのことも、あなたの貴重な心のことも、けっしてあの男にはわかりっこない」


黒人問題
さて、恋愛のことだけでなく、ここでは南北戦争後の黒人の問題についても触れられているのだが、南部の黒人奴隷を解放したはずの北部の人間の黒人に対する差別は、どうも納得のいかないものである。それについて、スカーレットが激怒して思ったこんな部分がある。

「スカーレットは思った。北部の人間というのは、なんというわからずやの、妙ちきりんな人種であろう。あの女たちは、ピーターじいやが黒いからというだけで、自分たちとおなじように敏感に、人の侮辱がわかる耳も感情もないとでも思っているのだろうか。(中略)黒人について、黒人と以前の主人との関係について、なんにも知ってはいないのだ。そのくせあの連中は、黒人を解放するために戦争した。しかも、さて解放すると、こんどは、黒人とすこしでも交渉をもつのを、いやがっている。ただ、南部人にテロ行為をするときだけ、黒人を利用している。黒人を好いてはいず。信用もしていないし、理解もしていない。そのくせ、南部人は、黒人と仲良くやってゆく方法を知らないと、絶えずわめきたてているのだ」

これは南部人の側からの見方でしかないが、黒人を解放した北部人に、その大義どおりに差別意識などがなかったなら、アメリカに今でも人種差別が残っているはずがないだろうとも思う。


2003年08月24日(日)
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 めぐりあう時間たち─三人のダロウェイ夫人/マイケル・カニンガム

人生は謎。
時を超えてめぐりあう三人のダロウェイ夫人。
六月のある美しい朝。三人の女の特別の一日が始まる・・・

●ヴァージニア
ロンドン郊外。1923年。
文学史上の傑作『ダロウェイ夫人』を書き始めようとする・・・

●ローラ
ロサンジェルス。1949年。
『ダロウェイ夫人』を愛読する主婦。夫の誕生パーティを計画し、息子とケーキを作り始める・・・

●クラリッサ
ニューヨーク。20世紀の終わり。
『ダロウェイ夫人』と同じ名ゆえに元恋人リチャードにミセス・ダロウェイと呼ばれる編集者。文学賞を取った彼のためにパーティを開こうと、花を買いに行く・・・

異なる時代を生きる三人の「時間」はいつしか運命的に絡み合い、奔流のように予想もつかぬ結末へ・・・。

─カバーより


そもそもヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』がダメなので、すぐに拒否反応が起こってしまったが、ウルフの『ダロウェイ夫人』よりは受け入れやすかった。ただ、個人的にあの文体がダメなんだろう。

「彼女は足を踏み出す。靴は脱がない。水が冷たい。しかし耐えられないほどではない。立ち止まる。冷たい水が膝まで。レナードのことが思い出される。彼の手、彼の髭、・・・」

といった細切れな、それこそト書きのような文体。訳者あとがきに、『ダロウェイ夫人』に文体を合わせたとあったが、その必要はあったのだろうか?普通の文体であったなら、私も違和感なく溶け込めただろうと思うが、原文がそうなんだったら仕方がない。実はこれを読むまで、まさにその文体のことが心配だった。読んで、やっぱりそうか・・・と。

三人の中ではローラが一番親近感があったが、ケーキを失敗したくらいで、こ難しいことを言うなよー!って感じで、普通に主婦していて、いちいちこの人みたいに考えていたら、たしかに気が狂うわねと思ってしまう。

ローラが、図書館では人が多すぎるからと、本を読むためだけにホテルの部屋を取ったというのは贅沢でいいなあ・・・と。たしかに、家事なんかにわずらわされずに本が読みたいという気持ちには共感するが、なんだか小難しいことばかり考えていて、家族に対して素直な愛情とかが感じられないのが、どうも好きになれない。ホテルの件も、そこまでするほど家族がうっとうしいのか?夫や子供が気の毒だなと思ってしまった。たしかにそういう場合もあるだろうことは非常に理解できるが。

気になったのは、「少なくとも、と彼女は思う、わたしはミステリーやロマンスは読まない。少なくとも、自分の精神の向上を続けている。いま読んでいるのはヴァージニア・ウルフ」というところ。いや、もっと気を楽にして、ロマンスとか読んだらどう?と言いたくなった。(苦笑

もっと文学的な感想を書くべきなんだろうけれど(ウルフの『ダロウェイ夫人』との文学的な関わりとか)、物語として、ここに描かれている三人の女性の誰にも共感を得なかったし、カニンガムの作風はもっと違うものと思っていたので、とりあえず第一印象としては、がっかりだったとしか言えない。

「これは『ダロウェイ夫人』の模倣ではなく、オマージュであり、きわめて文芸的な作品である」などと言われても、そもそも『ダロウェイ夫人』がダメなのだから、そう言われても何とも・・・。世の評価はどうでも、個人的には面白い話とは思えなかった。作品ということでは、前衛的で面白い試みであると言えるのだろうが。。。批評家は、ストーリーの面白さではなく、そういう部分を評価するのだろう。そういう意味では、カニンガムはよく考え抜いて書いていると認めるけれど。

それでも、ヴァージニア・ウルフとローラの部分は、ウルフの『ダロウェイ夫人』に比べれば、はるかに理解しやすかったが、現代のミセス・ダロウェイの部分は、そのまま『ダロウェイ夫人』に重なって、真似ではないと言っているけれど、たしかに真似ではない。むしろそのまんまじゃないのか?と思った。

本のカバーに「予想もつかぬ結末へ・・・」とあったので、そこでたぶん『ダロウェイ夫人』にはない、あっと驚くすごい結末があるんだろうと期待していたのだが、それも裏切られた。「三人の時間が運命的に絡み合い・・・」というのも、どこで絡み合ってました?という感じ。

ともあれ、「意識の流れ」というのは苦手。サマセット・モームが批判している「日常の一部分を切りとって、そのまま放り出したような」描写は、私はあまり好きではないので。凡人の私の日常生活でも、たしかに「意識の流れ」というものはある。例の文体が頭から離れず、いちいちあの文体で考えていたりする。これはこれでうっとうしい。こんなことを「意識」していたら、本当に発狂してもおかしくはないだろう。

そういえばクラリッサの部分は、ゲイであるカニンガムのおハコというか、ホモだけでなくレズの描写もある。ヴァージニアにもローラにもそれはあるのだけれど、クラリッサの場合はエイズという問題が絡んでくるので、どうもやり切れない感じがする。カニンガムらしいと言えば言えるが、この手法で「ゲイの意識の流れ」なんてのを書かれても辛いなあ。

2003年08月23日(土)
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 夜消える/藤沢周平

内容(「BOOK」データベースより)
酒びたりの父親が嫁入りの邪魔になると娘に泣きつかれた母親、岡場所に身を沈めた幼馴染と再会した商家の主人、五年ぶりにめぐりあった別れた夫婦、夜逃げした家族に置き去りにされた寝たきりの老婆…。市井に生きる男女の哀歓と人情の機微を鏤骨の文章で綴る珠玉の短編集。単行本未収録の名品七篇。

目次
夜消える/にがい再会/永代橋/踊る手/消息/初つばめ/遠ざかる声


マイケル・カニンガムの『めぐりあう時間たち─三人のダロウェイ夫人』を読んでいて、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』ばりの文体が頭から離れなくなってうんざりしていたので、全然違う文章を読みたいと思って、珍しく日本文学を。

本当は上品なお武家の話が読みたかったのだが、藤沢周平では無理だったか。私はいつも山本周五郎と藤沢周平を間違ってしまうのだけど(共通しているのは一字だけなのに)、そうだ、私が読みたかったのは山本周五郎のほうだったとあとから気づいた次第。

それでも、江戸の本所あたりの裏店を舞台にした人情話というのか、そこそこに面白かった。ただ、下町の人達の話は、ほんとにこんなふうに喋っていたのだろうか?というくすぐったさのようなものを感じてしまうのが常。今回もそれにもれず。

読み終えて、同じ時代ものでも、山本周五郎とは全然違うと思った。決定的な違いは、藤沢周平のほうは、はっきりした起承転結はあるものの、どちらかというとシチュエーションで読ませるという感じ。山本周五郎のほうは、最後にあっと言わせる巧みなストーリー展開で読ませるといったところか。外国文学で言えば、サマセット・モームのような。文章も山本周五郎のほうが巧いと感じたが、それは個人の好みかもしれない。

山本周五郎も大衆文学と言われているが、藤沢周平はさらに大衆文学になるだろう。周五郎曰く、「読者が面白ければいい」。そうだ、そのとおりだと、藤沢周平を読んでも思った。次は『用心棒日月抄』を読めと言われている。

2003年08月22日(金)
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 ネフィリムとアヌンナキ─人類(ホモ・サピエンス)を創成した宇宙人/ゼカリア・シッチン

内容(「BOOK」データベースより)
公転周期3600年、太陽系未発見の第12番惑星Xに実在するエイリアン―ネフィリムとアヌンナキは太古地球に植民し遺伝子工学を駆使して人工生命体アダパ(=アダム)をつくり出した。このホモ・サピエンスこそわれわれの始祖でありエイリアンの奴隷だったのだ―。古代シュメール文献の科学的分析から導き出された衝撃の新説。

内容(「MARC」データベースより)
古代メソポタミア神話に登場する神、ネフィリムとアヌンナキ。彼らは単なる古代人の空想の産物ではなく、太古の昔に地球に植民してきた実在のエイリアンなのである。11か国語に翻訳された世界的ベストセラーの邦訳。


常々、原人とホモ・サピエンスの間で、絶対に遺伝子操作があっただろうと思っていたのだが、それを裏付けるようなノンフィクション。
文明発祥のおおもとは、すべてメソポタミアにある!つまり宇宙人はメソポタミアに降り立って地球に文明をもたらしたというわけで、ギリシア文明もエジプト文明も、すべてメソポタミアのシュメール文明を基礎としてなりたっている。なおかつ旧訳聖書の物語は、実際にシュメールの遺跡で確認することができると。しかも彼らは太陽系外ではなく、太陽系の未知の惑星から来た!というんですね。へええー!

こういう話は大好きで、地球の人類が一番知的な生命体で、他に宇宙人などいないと思っている人たちの考えなどまったく信じられない。この広大な宇宙に、地球にしか生命がないなんて、そのほうがあり得ないんじゃないかと。「神=宇宙人」であると思えば、宗教戦争などというくだらない代物もなくなるし、この説は地球に平和をもたらすと思うんだけどなあ・・・。そもそも十字架とは、第12番惑星の象徴なのだ。

で、実際にこの本を読んでわかることというと、次のようなこと。

◆人類は、なぜ突如としてアフリカに出現したのか?
◆時計に使われる12や、1週間の7といった数字は、どうして特別なのか?
◆エジプトのスフィンクスは、どうして人面と獅子のからだをもつのか?
◆ギリシャ神話や聖書の巨人伝説はどこからきたのか?
◆洪水伝説とノアの方舟は本当にあったのか?
◆ギルガメッシュ叙事詩の本当の意味は何なのか?
◆なぜ古代の人々は天王星、海王星、冥王星の存在を知っていたのか?
◆なぜ3600年周期で文明の飛躍的進歩があるのか?
◆12番目の惑星は本当に存在するのか?
◆人類は宇宙人によってつくられたのか?

原人とホモ・サピエンスの間にある進化のミッシング・リンクが、これを読めば解決する。遺伝子操作。これしかないでしょう。それに、地球自体も他の惑星とは違う成り立ちらしいし。

グラハム・ハンコックの『神々の指紋』では、地球の四大文明以前に、もっと高度な文明をもった何者かが存在していたのではないかという疑問を投げかけていたが、本書では、膨大なシュメールの遺跡の資料から、その何者かを特定しているのだ。『神々の指紋』で、いまひとつ物足りないと思っていた事柄が、ここで明らかにされている。さて、我々はこの第12番惑星のエイリアンに再び遭遇できるのだろうか?宇宙人たちは、自分達に似せて地球人を作っているというから(地球人は宇宙人のクローン)、今目の前にいる人が、その宇宙人かもしれない。


著者略歴

ゼカリア・シッチン

パレスチナ生まれ。言語学者で、考古学者。ロンドン大学で現代・古典ヘブライ語をはじめ、数多くのセム語系・ヨーロッパ語系の諸言語をマスターし、旧訳聖書及び近東の歴史と考古学を専攻。長年にわたりイスラエルを代表するジャーナリスト兼編集者として活躍。現在はニューヨークに住み執筆活動に専念。シュメール語を解読できる世界に数少ない学者の一人で、メソポタミアの粘土板に刻まれた古文書をもとに地球と人類の有史以前からの出来事を扱った『地球年代記(The Earth Chronicles)』(全5巻)は、11カ国に翻訳され世界的ベストセラーになった。本書はその第一弾である。


2003年08月20日(水)
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 風と共に去りぬ(1)/マーガレット・ミッチェル

内容(「BOOK」データベースより
アメリカ南部の大農園に生れた、勝気で魅惑的な美貌の持主スカーレットの、波瀾にとむ人生をたて糸に、南北戦争という激動の時代を背景に、いくつかの個性的性格が、あるいはひかれ、あるいは反撥しあいながら変転きわまりない人生のドラマをくりひろげてゆくさまが、息もつかせぬリアリスティックな筆致でえがきつくされ、全世界の人たちに語りつがれ、読みつがれる不巧のロングセラー。


●冒頭の印象

2段組の小さな字なので、なかなか進まない・・・というのは言い訳。実は冒頭ちょっと退屈でもあった。やはりこれ1作しか出さなかったマーガレット・ミッチェルは、たとえばオースティンやデュマなどに比べたら、未熟であると言わざるを得ないのかもしれない。

ようやくアシュレとメラニーの婚約発表までいったのだが、そこまでのスカーレットの描写は、けしてヒロインらしいヒロインではなく、わがままで自己中心的。下手をすれば、ヒロインに共感も何も抱けずに、このあたりで挫折してしまうこともあるだろう。しかし、映画で結末を知っているおかげで、スカーレットのこの比類のない強さこそが魅力なのだと思えるため、とりあえずこの部分は目をつぶっていようという感じかも。

もう少し集中して読めればいいのだが、やはりストーリーを知っているというのは集中力を妨げ、マイナスになるのかもしれない。話もなかなか進んでいかないので、不要な部分を削って短くすれば、もっと面白く、読みやすくなるのでは?という気もしないではない。


●読了してから

3分冊の1冊目は、南北戦争が始まり、南軍の旗色が悪くなって戦火がアトランタまでにまで押し寄せてきたところで終わる。そこまでに、スカーレットはアシュレとメラニーの婚約に対抗して、メラニーの兄チャールズと結婚し、息子ウェードをもうける(え!子供なんていたっけ?という感じ)。チャールズが戦死し、そもそもチャールズに愛情などなく、まだ16歳の若さで未亡人となったスカーレットは、地味な喪服を着て喪に服しているのが耐えられずにいるのだが、その本心をレット・バトラーにさとられ、以来、レットとのやりとりが始まる。レットはまたスカーレットがアシュレに愛の告白をしたことも知っている。いよいよ戦況が悪くなってきたとき、メラニーが妊娠していることがわかり、アシュレとの約束を守るべく、砲弾の飛び交うアトランタで、動けないメラニーと暮すスカーレット。一方、故郷タラでは、最愛の母と妹たちが腸チフスで明日をもしれない状況。メラニーさえいなければ、タラに帰れるのに・・・と思いながらも、メラニーの面倒を見るスカーレットである。

映画などであらすじは知っているが、原作を読んで一番驚いたのは、南北戦争の史実が予想外に詳細に書かれていることだった。少なく見ても3分の1はそういった描写だろう。なるほどこれでは長くなるわけだ。話が進まないなと思っていると、戦争が激化して、いつの間にか数年たっていたりして、あれ?という感じ。でも、アメリカ文学を読むなら、南北戦争のこともちゃんと知っておいたほうがいいだろうと思って読み始めた動機にはぴったりの本だ。もっとも、南軍のほうの歴史しかわからないので、片手落ちとは思うが。

さて渦中の男性アシュレだが、どうもこの人はおとなしく真面目な男性というよりも、ずるい男に見えて仕方がない。スカーレットが愛を告白したときに、はっきりと言えばいいものを、のちのちまで「愛情はある」ようなことをほのめかして、なんだかはっきりしない男だ。レット・バトラーも指摘しているとおり、まさに優柔不断な嫌いなタイプ。なので、アシュレなんかさっさとやめなさいよと思う。

レット・バトラーは、本の描写ではなかなか好みなのだが、映画のクラーク・ゲーブルのイメージが強すぎて困る。あのレットは好きじゃないのだ。顔がしつこすぎる。あの人に言い寄られたら、やっぱり嫌だと思ってしまうので、私の中では二人のロマンスが成り立たないのだ。

ところで、あまり触れられることはないと思うが、この中で一番不幸なのはスカーレットの息子のウェードではないのか?なんとも影が薄い。この先、どんな運命が待っているのか、ウェードに関しては映画での記憶がないので、未知のものというわけで、楽しみだ。しかし、物語全体としては、やはり結末を知っているせいか、夢中で読むという姿勢にはどうしてもならないのが残念。


2003年08月18日(月)
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 Keeping the Moon/Sarah Dessen

母ひとり、子ひとりで育った女子高生コリーは、母親がエアロビクスのヨーロッパ・ツアーに出かけるため、夏休みをノース・カロライナのコルビーに住んでいるミラおばさんのところで過ごすことになった。周囲では変人扱いされているミラおばさんと暮すうち、近くの「ラストチャンス・カフェ」でアルバイトをすることになり、そこで働いているウェイトレスのモーガンとイザベル、キッチンのノーマンと知り合う。

引越しばかりで友だちもいなかったコリー。ミラおばさんも含め、いつしか彼らはかけがえのない友だちになっていく。以前は太っていて、そのことでいじめを受けたりしていたのだが、母親の指導でとりあえず痩せた。でも、自分に自信のなかったコリー。夏休みの間に、自分はきれいで魅力的なんだという自信を、コルビーの友だちが与えてくれた。恋もダイエットも、諦めずに「One More Try!」なのだ。

いじめられっ子が自らそれを克服して、成長していく物語。初めはコリーの身の回りで起こる出来事ばかりだったのが、いつしかコリー自身の話になっていく。かけがえのない友だちになった彼らにも、それぞれに辛い経験があったりして、それでも強く生きているんだということに気づき、これまでの消極的な自分から脱皮するのだ。それにしても、こんな人は一生に何人も出会わないだろうというような、いい人ばかり出てきます。ヤング・アダルトものなので、こんなもんでしょう。大笑いするような話ではないけれど、作者のデッセンのユーモアが、ほのぼのと感じられる文章。



2003年08月16日(土)
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 火星のプリンセス―合本版・火星シリーズ<第1集>/エドガー・ライス・バローズ

目次
(1)火星のプリンセス
(2)火星の女神イサス
(3)火星の大元帥カーター


解説(1)

SFの鼻祖E.A.ポオ以降、その後継者を欠いて、大陸諸国にくらべれば一歩も二歩も遅れをとっていたアメリカで、スペース・オペラは突如として開花した。その光栄をになう男の名前はエドガー・ライス・バローズ。作品は火星シリーズ。そしてバローズの登場を契機としてアメリカはSF界の第一線に踊り出し、以来、今日にいたるまでその優位は失われていないのである。

バローズが第一作『火星のプリンセス』を発表した当時は、サイエンス・フィクションという概念はまだ成立していなかった。しかし地球と火星を舞台にした雄大なスケール、怪奇冒険小説のスリルとSF的興味が渾然一体となったその無類の面白さは、いわゆるスペース・オペラの典型を確立したものとして、20年代のSF興隆とともに多くの後継者を生むことになった。

ジョン・カーターの後輩はつぎつぎと大宇宙に飛び出していった。1930年ハリー・ベイツによる<アスタウンディングSF>誌の創刊により、SFの流行は一つの頂点に達し、スペース・オペラの舞台も太陽系宇宙からさらに銀河系宇宙へ、さらにアンドロメダ星雲へとその規模を拡大していく。いうなればバローズは、この絢爛たるスペース・オペラ時代の開幕投手の役割を演じたといえよう。

国民が青少年時代から愛読し、さらに老境に至って再読三読する偉大な国民文学ともいうべきものがある。アメリカにおいてそれを求めれば、まずこのバローズの諸作であろう。そして国民文学の魅力は、すなわち主人公(ヒーロー)の魅力に通じる。地球から単身、火星へ飛来し、妖怪変化のようなBEM(異星の怪物)を相手に縦横無尽の活躍をそ、逆境にあって屈せず、義に厚く情にもろい英雄ジョン・カーターの魅力を抜きに火星シリーズを語ることはできない。火星シリーズ全編を貫く作者の驚嘆すべき想像力、たくまざるユーモアと巧みな構成、効果的な伏線と強烈なサスペンス、要するに作者バローズは天成の物語作家であり、その筆の先から生まれたジョン・カーターは、いまや不朽の人間像(ヒーロー)として、ダルタニアンや孫悟空と肩を並べる存在となっているのである。火星シリーズは単なるSFの枠を越えた国民文学なのだ。

─厚木 淳


解説(2)

「バルスーム─バローズの火星幻想」

バローズと同時代に書かれたあの膨大なパルプ・フィクションが、忘れられるべくして忘れ去られたというのに、なぜ彼の作品には、これほどまで永続的な人気があるのだろう?この男の作品、とくにこの11巻の火星シリーズには、どんな魅力があるのだろう?

第一に軽視してならないのは、火星物語はそれが持つ、いくたの欠点にもかかわらず、依然として第一級の、手に汗握る冒険小説であるという事実である。アクションにつぐアクションの連続だが、そのペースはほとんどいつも快調で、鮮明に彩られ、愉快なほど異国的である。
(中略)
第二に火星の物語には神話のような真実性と極度の緊迫感と素朴な誠実さといった面がある。これがバローズの作品よりもっと洗練され、しかも技巧的な凡百の作品が及ばぬ魅力の世界を火星シリーズにあたえているのだ。(後略)
バローズはただ読者を楽しませるつもりで、この物語を書いた。少なくとも本人はそう公言した。しかし彼は当初の目的以上の成果を達成したのである。

─リチャード・A・ルポフ



■<第1巻>『火星のプリンセス』

内容(「BOOK」データベースより)
南軍の騎兵隊大尉ジョン・カーターは、ある夜アリゾナの洞窟から忽然として火星に飛来した。時まさに火星は乱世戦国、四本腕の獰猛な緑色人、地球人そっくりの美しい赤色人などが、それぞれ皇帝を戴いて戦争に明け暮れていた。快男子カーターは、縦横無尽の大活躍のはて、絶世の美女デジャー・ソリスと結ばれるが、そのとき火星は…。


アメリカの南北戦争が終わった頃、南軍の大尉ジョン・カーターは、幽体離脱のような状況に陥り、一瞬のうちに火星へと移動する。なぜ?と思ってはいけない。とにかくそうなのだ。この本が書かれた当時は、火星には運河があり、生物もいると思われていた。カーターの訪れた火星にも、緑色人や赤色人をはじめ、奇妙な動物が棲息していた。さまざまな冒険を経て、火星のプリンセス、デジャー・ソリスと結ばれるジョン・カーター。しかし、人工大気を作り出している機械の故障で、火星は瀕死の状況に。それをカーターが救いに行くのだが、彼はそのまま再び地球に戻されてしまう。どうやら死に直面すると、宇宙空間にテレポーテーションするらしい(?)。火星の大気はどうなったのか?デジャー・ソリスは生きているのか?プリンセスとの間に生まれた卵(!)はどうなったのか?

というわけで、これはもう単純に楽しめる物語。かなり古い話なのに、SFとしても古めかしい感じがしないのは、素晴らしい。火星であるという設定と、火星人の奇妙な外観を想像しなければ、アーサー王物語とか、指輪物語などの冒険ファンタジーを思わせる。いわば、騎士道の物語といってもいい。最初にこれを読んだときには、アーサー王も指輪も知らず、とにかく痛快で面白い物語だと思って、夢中で読んだ。それが今でも変わらずに面白いと感じるのは、SFの名作中の名作である所以だろう。

それにしても、細かいところはほとんど忘れていたが、地球人と火星人が結婚して産まれてくるのが「卵」だったとは、全く記憶に残っていなかった。もちろん当時も、地球人と火星人は結婚できるんだろうか?などと思ったのは言うまでもないが。

それに、いくら大気を作っているとはいえ、成分が違うだろうに、いきなり平気で呼吸できるって不思議!とも思ったし、カーターは火星に到着して、たった3日で火星語をマスターしている。それもまたすごいことだ!というか、いきなり外国に放り出されたら、何の知識もなくても、なんとかなるもんなんだろうなと思った。

このジョン・カーターの話をまとめて出版の段取りをしているのがバローズであり、カーターは彼の大伯父という設定になっているのが面白い。巻ごとに必ずバローズのまえがきがあるのだが、そこからすでに物語が始まっているのだ。


■<第2巻>『火星の女神イサス』

解説
第二作目の本書のテーマは、形の上では失われた恋人デジャー・ソリスの探索であるが、実はそれにもまして、火星という一つの惑星全体を太古の昔から精神的に4敗してきた邪宗、女神イサスを頂点とする強大なホーリー・サーンの一大宗教組織を、ジョン・カーターが打倒するのが全編の主題であり、デジャー・ソリスの救出は第三作へと持ち越されることになる。
─「スペース・オペラの開幕」厚木淳


一作目で突然地球に戻ってしまったカーターだが、地球で10年過ごしたのち、再び火星に舞い戻る。着いたところは火星人にとって「聖地」と呼ばれるところであったが、実はとんでもない場所であったのだ。ここで旧友の緑色人種タルス・タルカスと会ったカーターは、デジャー・ソリスとの間に生まれた息子カーソリスとも出会い、誘拐されたデジャー・ソリスを取り戻すべく、次々に波乱万丈の冒険を繰り返す。しかし、ここではあわやというところで思いかなわず、胸を引き裂かれるような別れの場面で終わる。

一難去って、また一難といった冒険の数々、火星の奇妙な生き物達やカニバリズムの風習など、一作目よりさらに奇想天外になっている。ハラハラドキドキもさることながら、デジャー・ソリスが目の前にいるのに助け出せないもどかしさに、ジョン・カーター同様、いらだたしさを覚える。早く、早く、とページをめくるのももどかしいくらい。それにしてもこのジョン・カーター、非常にポジティブでおめでたい人間だ。「私が火星で最高の戦士である」といううぬぼれも半端じゃない。しかし、愛する人を絶対に助けるのだという強い信念には心打たれる。


■<第3巻>『火星の大元帥カーター』

解説
火星シリーズ全作の中では冒頭の1、2、3作が三部作を成している。すなわち、カーターの火星到着、デジャー・ソリスの誘拐、彼女の救出という三段階で、ここでヒーローとヒロインは波乱万丈の冒険の果てにハッピーエンドを迎える。この三部作が、バローズの全作品中でも最高の、間然するところがない名作であることはすでに定評がある。・・・・・バローズの国際的な評価を示す一例として、つぎの事実をお伝えしよう。第二次大戦後にアメリカ本国ではバローズの全作品が爆発的にリバイバルしたが、時を同じくして1960年代の初めに、イギリスのオクスフォード大学出版部から国語教科書用テキストとして発行されている《ストーリーズ・トールド・アンド・リトールド》という権威あるシリーズの中に『火星のプリンセス』がいちはやく収録されたのである。ちなみにこのシリーズにしゅうろくされている作家は、ディケンズ、シェイクスピア、デフォー、スティヴンスン、ドイル、ウェルズ、サバチニといったそうそうたる顔ぶれである。
─「スペース・オペラの開幕」厚木淳


第二作目で目の前でデジャー・ソリスを連れ去られたカーターは、愛と執念で彼女を取り戻すべく、火星の両極にまで旅をする。冒険に継ぐ冒険に、息をのまずにはいられない。この物語が書かれはじめたのは1911年で、今から100年も昔のことだ。科学の発達した今では、当然ながら物語の中に多くの疑問や矛盾も見うけられるが、全体として古めかしく感じられないのはすごいことだ。たしかに疑問をあげればきりがないほどだが、そんなことは問題ではない。100年前にこんなことを考えたバローズの想像力には、ただただ驚くばかりだ。


2003年08月14日(木)
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 Addy Saves The Day─A Summer Story (The American Girls Collecton)/Connie Porter

児童書。南北戦争直後のアメリカの黒の女の子の話。
「風と共に去りぬ」も南北戦争が舞台、「火星のプリンセス」も時代設定が南北戦争の頃と、このところ南北戦争に縁がある。この本も、偶然その頃の話だった。

<The American Girls Collecton>は、1764年から1944年まで、時代を追ってアメリカの歴史を絡めた、それぞれの時代の女の子の物語シリーズ。これをシリーズで読むと、アメリカの歴史の流れが楽しく学べるかも。

戦争のために、一家がバラバラになったウォーカー一家。家に残っているアディは賢くて優しい女の子。戦争が終わり、奴隷制度もなくなったので、家族がまた皆一緒に暮せるようにと願う日々だが、この話の中には暗さは全くなく、アディの日常を明るく描きながら、当時の生活をも語っているという感じ。家の仕事の手伝いをしたり、アディが嫌っている高慢なクラスメートと仲直りしたり、泥棒をつかまえたりと、良い子の見本のような女の子の話で、教科書でも読んでいるような感覚になった。

この本は中の挿絵もカラーできれいだが、巻末には写真入りで、当時の歴史が説明されている。そんなところもちょっと教科書的だ。

<The American Girls Collections>



2003年08月11日(月)
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 トルーマン・カポーティ/ジョージ・プリンプトン

内容(「BOOK」データベースより)
「早熟の天才」とうたわれた米国の作家トルーマン・カポーティは、1984年、その60年の生涯を閉じた。「完璧」と評される作品とは裏腹に、彼の一生はあまりにも劇的なものであった。親の愛情に飢え、同性の恋人と愛憎劇を繰り返し、社交界にのめり込み、ハイソサエティの人々に愛され、そして蔑まれ、薬物とアルコールに溺れていく…。本書は、その稀有な作家カポーティの生涯を、彼を知る人々にインタビューし、得られた証言で描き出す「オーラル・バイオグラフィ」―聞き書きによる伝記―である。同じ手法で伝記『イーディ』を著し、高い評価を得た著者ジョージ・プリンプトンは、今回、カポーティの人物像を描くにあたり、彼の親戚、友人、知人、マスコミ・映画・ファッション関係者など、総勢170人以上にインタビューしている。愛情溢れる述懐、悪意を含んだ批評など、証言者による生々しい発現が、カポーティの奇矯な生涯を鮮明に浮かび上がらせる。カポーティの複雑な人物像を描くのに最適と思える手法を用い、当時を知る貴重な写真も満載された、力作伝記である。



この本は、私の手がけた「オーラル・バイオグラフィ」としては3冊目になる。このスタイルの魅力はいくつもあげられるが、何より、生の情報を得られるのが利点だ。たとえば、読者はトルーマン・カポーティの知りあいが大勢集まった会合─カクテル・パーティかもしれない─にたまたま迷いこんだような気になるだろう。グラスを手にして、あちらのグループ、こちらのグループと歩き回って人々の会話に耳を傾ける。思い出、論評、こきおろし、さまざまなエピソード。読者はトルーマンの生きた時間を追って話を聞いてゆける。最初に出会うのは、彼の故郷・アラバマ州モンローヴィルの人々だ。それから波乱に満ちた生涯を辿り、最後はクルックポンドでの彼の追悼式に出席した人々のつぶやきを耳にすることになる─。

─ジョージ・プリンプトン「読者へ」より



<カポーティを知る人々にインタビューし、得られた証言で描き出す「オーラル・バイオグラフィ」―聞き書きによる伝記>ということで、出版されたときから読むのをためらっていたのだが、勇気を出して読んでみたら面白かった。つまり人々の証言とは、いわば「噂話」と同様で、100%真実かどうかはわからないし、誇張もあれば、語り手の個人的な思惑も入っているということだ。それらを総合して全体を通して見てみると、噂の主がどのような人たちと、どのような付き合いをしてきたかがわかってくるというのが面白い。普通の伝記とは違って、順を追って書かれているとは限らないが、「早熟の天才」(アンファンテリブル)の崩壊が、痛ましいほどに描かれている。

カポーティは感受性が強く、あまりに繊細すぎたため、作家などになってはいけない人間だったのかもしれない。いつでも周囲を気にし、自分の持てる力を人に対して与え続けているのだが、たった一つの過ちで、全てを失うこととなる。そのとき、それまで彼が周囲に与えてきたものは、ほとんど戻ってはこない。それがナルシストであるカポーティには耐え難く、命を縮める結果になったと言えるだろう。

本書の手法は面白い。だが、カポーティの苦悩が痛いほどわかるのと同時に、人間の残酷な面を見せつけられた感じだ。たしかにカポーティのやった、あからさまに人を傷つける行為(『叶えられた祈り』で、仮名でではあるが、明らかに個人を特定できる、秘密の事柄を書いた)は良いことではないが、ここでも人間の「無視」と「拒絶」の残酷さには、目をそむけたくなるほど。カポーティの死は、ほとんど自殺に近いと言ってもいいのではないだろうか?人間の「無視」と「拒絶」が与えるダメージは、自殺をするに値する絶望なのだ。カポーティの気持ちが痛いほど感じられて、面白いのとは裏腹に、とても辛い本でもあった。

<参考>
叶えられた祈り/トルーマン カポーティ (著), 川本 三郎 (著), Truman Capote (原著)
単行本: 245 p ; サイズ(cm): 182 x 128
出版社: 新潮社 ; ISBN: 4105014056 ; (December 1999)
内容(「BOOK」データベースより)
ハイソサエティの退廃的な生活、それを見つめる虚無的な青年。実在の人物をモデルにして上流階級の人々の猥雑な姿を描いた問題作。カポーティが何より完成を望みながら、遂にそれが叶えられなかった遺作!この小説を発表したカポーティは、社交界を追われ、破滅へと向かっていった。


2003年08月09日(土)
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 バゴンボの嗅ぎタバコ入れ/カート・ヴォネガット

内容(「MARC」データベースより)
再婚した前妻の家庭を訪れ、世界遍歴の土産話を自慢げに語る男を待ち受ける意外な落とし穴とは…。男の悲哀をユーモラスに描く表題作ほか、笑いと文明批判の精神に満ちた23篇を集めた短編集。
目次
死圏/記憶術/お値打ちの物件/パッケージ/才能のない少年/貧しくてゆたかな町/記念品/ジョリー・ロジャー号の航海/カスタムメードの花嫁/野心家の二年生/バゴンボの嗅ぎタバコ入れ/パウダーブルーのドラゴン/サンタクロースへの贈り物/無報酬のコンサルタント/あわれな通訳/女嫌いの少年/自慢の息子/恋に向いた夜/夢を見つけたい/駆け落ち/2BR02B/失恋者更正会/魔法のランプ/雑誌記者としてのキャリアに関する結び


カート・ヴォネガットは、七年ぶりに書き上げた長編『タイムクエイク』のプロローグで、その作品を“わたしの最後の本”と呼び、事実上の断筆を表明しました。それから二年後、パトナム社から Bagonbo Snuff Box の題名で刊行されたのが本書です。といっても、先の断筆宣言と矛盾するわけではありません。本書は新作ではなく、1950年代から60年代初めにかけて雑誌に発表されたまま長らく埋もれていた作品を、洩れなく集めたものなのです。
(中略)
若き日のヴォネガットの作品を集めた本書は、先に早川書房から出た『モンキー・ハウスへようこそ』の姉妹篇といえるでしょう。先の短篇集では全体の3分の1強を占めていたSF・ファンタジー系の作品が、今回は「死圏」と「2BR02B」の2篇だけなのがちょっと淋しい点を除けば、スイートなラブ・ストーリイ、オチのきいたホラ話、新旧世代の対立を温かく描いた人情話、実体験にもとづく戦争のエピソードなど、バラエティゆたかな構成と、熱のこもったまえがきとあとがき(特に“短篇小説八つのルール”は必読!)が、この作家の新作を読めなくなった渇を癒してくれます。

─「ヴォネガット作品のルーツ」翻訳者・浅倉久志


<ブックリスト書評>

ヴォネガットの文学的なルーツがここにある。この一連の短篇を読むと、戦争の残酷さをただの思い出話に変え、テクノロジーを進歩の同義語にしようとひたすら腐心していたあの時代の空気があざやかによみがえってくる。臆面もないほど寓話的なこれらの作品は、ほろ苦いもの、スイートなもの、センチメンタルなもの、滑稽なものとさまざまだが、穏やかに現状打破を唱えている点では共通している。・・・控え目なユーモアと、いい意味の古風なモラルをたっぷり含んだヴォネガットの短篇は、辛辣であると同時に優しい。


<短篇小説八つのルール>

(1)赤の他人に時間を使わせた上で、その時間はむだではなかったと思わせること。

(2)男女いずれの読者も応援できるキャラクターを、すくなくともひとりは登場させること。

(3)たとえコップ一杯の水でもいいから、どのキャラクターにもなにかをほしがらせること。

(4)どのセンテンスにもふたつの役目のどちらかをさせること─登場人物を説明するか、アクションを前に進めるか。

(5)なるべく結末近くから話をはじめること。

(6)サディストになること。どれほど自作の主人公が善良な好人物であっても、その身の上におそろしい出来事をふりかからせる─自分がなにからできているかを読者にさとらせるために。

(7)ただひとりの読者を喜ばせるように書くこと。つまり、窓を開け放って世界を愛したりすれば、あなたの物語は肺炎に罹ってしまう。

(8)なるべく早く、なるべく多くの情報を読者に与えること。サスペンスなどくそくらえ。なにが起きているか、なぜ、どこで起きているかについて、読者が完全な理解を持つ必要がある。たとえゴキブリに最後の何ページかをかじられてしまっても、自分でその物語をしめくくれるように。




ジョン・アーヴィングの先生ということで興味を持っていたにすぎないヴォネガットだが、また作品も本書のほかには『タイムクエイク』しか読んでいないので、ヴォネガットという人について語るのは早すぎると思うが、本書のまえがきやらあとがきやらも含めて、読んでいるとなんだか胸が熱くなる思いがし、こんな人に教わったアーヴィングをうらやましいと思った。

翻訳者の浅倉氏は、ヴォネガット77歳の時の自宅の火事の件について、「あのドレスデンの大空襲を生きのびたほど運の強い人だから、そう簡単にはくたばらないだろうとは思っていた・・・」と書いているが、すでに80歳を越えたヴォネガットであるから、万が一、彼が亡くなるようなことがあったら、私は泣くだろう。世の中にはこんな人が必要なんだと強く思う。辛辣な風刺やユーモアの裏に、ニセモノでないホンモノの優しさが潜んでいて、文章を読んでいると、こちらの気持ちまで優しくなってくるのだ。

本書は、昨今の「日常の断片を切り取ってそのまま投げ出した」ような短編とは違い、起承転結があり、必ずオチがある安心して読める物語で、近頃の短編を読んでいて感じる、身の置き所のないような感覚には無縁の面白い話ばかり。SF系の話では、ふと星新一のショート・ショートを思い出して、懐かしい感じもした。それもそのはず、本書はヴォネガットが若い頃に雑誌に書いていた作品を集めたものだから。それでも全く古さを感じさせないというのは、素晴らしいことだと思う。せめて100歳まで長生きして、断筆宣言など知らん顔で取り消して、何でもいいから書いていてほしいと思う。

「ヴォネガット先生、あなたに神のお恵みを!」


2003年08月04日(月)
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