へそおもい

2016年07月26日(火) 閉め忘れた扉

車に乗ろうと思ったら

浜の方から
竹のガムランのような音が
聴こえてきた。

誰かが流すラジオの音が
風に乗って聞こえてくるような。

なつかしい
バリの濃厚な空気を
思い出す。

どこからきこえて
くるのだろうか。

浜をのぞいても
どこまでも
誰もいない。

でも
確かにきこえる。

オトコビトを
待ちながら

しばらく
車のシートに座って
耳を澄ます。

やっぱりきこえる。

ポンポンポポンポン
ポポンポンポンポン

竹のガムランのような音。

バリの色を
思い出す。

あとからやってきた
オトコビトに
きいてみたら

オトコビトも
きこえるという。

ずっと耳を
澄ましていたかったけれど
もう出発しないと
いけない時間。

だれかが
バリにつながる窓を
閉め忘れたみたい。

うちの集落に
バリの空気が
流れ込んできていた。

不思議だけど
普通のような。

この時期の奄美は
まいにちが美しくて

現実感が
うすくなる。

ひさしぶりに
バリに行きたいな。

扉の開け方を
教えてちょうだい。



2016年07月23日(土) うんこからはじまる暮らし

朝起きたら
うんこが転がっていた。

猫氏の仕業だ。

猫氏は
トイレでうんこはするのだが
お尻のキレが悪いらしく
うんこが切れないまま
トイレから出て
部屋をうろうろするのである。

うろうろしている途中
何かの拍子に
うんこがおちるらしいのだ。

わたしは
かつて、
うんこになってみるワークショップをしたり、
野糞をしたり
お酒が入ると
うんこは地球の宝だ!
うんこが大好きだ!
と力説しだすほど
うんこに馴染みはあるのだが

まさか
目が覚めたら
うんこが転がっている人生になろうとは
なかなか
人生とはミラクルなものである。

でもまあ
そのままにしておくのも
暮らしにくいので

うんこはちゃんと掃除して
朝陽の映る海に挨拶に行って
朝の涼しいうちに庭の草取りをして

お昼からは街にでて
クーラーの効いた
涼しいお店で
コーヒーを飲みながら
仕事をして

おだやかに
オトコビトと過ごす休日。

島は
まいにちが美しい季節がやってきたよ。



2016年07月20日(水) ホー ミー

今夜も
びっくりするぐらい
美しい月夜。

昨日とはまた違う
オレンジピンク。

今夜は
いろんなイキモノたちが
空にダンスする。

練習中のホーミーを
月に向かって
やってみた。

とどくかな。
とどいていたら
いいな。



2016年07月19日(火) 道具の力を最大限に生かす

朝7時から
オトコビトとふたり
はりきって庭の草取りをして
あちいあちいと
汗をかいたので
海に入ることにした。

海の方を見ると
今日は大潮で
潮がひいている。

集落のはなれ山まで
渡れる道ができている。

久しぶりにはなれ山まで
お散歩にゆくことにした。

はなれ山とこちらの陸との間には
なにか独特の磁場がある。

あちらは太平洋の水平線と荒い岩場
人間が立ち入ってはいけない
みえないものの世界

こちらは穏やかな伊須湾
山々に守られた
人間の住む世界。

そこのあいだにたっていたら
とても複雑な泣きたい気持ちになってきた。
大好きだった亡くなったおばあちゃんが
心配そうにそんなわたしを見守っているような。

浜に戻って
海につかって
お家に帰って
気絶して
うとうとした意識の中で
さっきはなれ山で感じた複雑な気持ちが
言葉になってやってきた。



自分の身体を自分だと思ってはいけない。
取りちがえてはいけない。
身体は道具にすぎない。
この世界を感じるための感覚器官であり
この世界でやると決めたことをやるために
準備された道具にすぎない。
だから
もう
自分に文句つけたり
無理をかけたりしている暇はない。
無理かけるようなことは
やる必要はない。
もてるこの道具の力を
最大限に発揮して
自分のやりたいときめたことを
ただやることだ。
もう時間がない。


目が覚めたら
身体が軽くなっていた。



お隣の集落の友だちが
すてきな人たちを連れて
我が家に遊びにやってきた。

久しぶりに
安心して
自分のまんまで
のびのびいられる心地がした。

うたをうたったり踊ったり
ホーミーの練習をしたりした。

満月の映る海に飛び込んだ。

そう
身体は道具にすぎないのだから
それを
自分だと思ってはいけないのだ。

バリの友Wayanが
自分が魂だということを忘れない
と言っていたのを
思い出した。

とにかく
ものは大切に
大切に
使わなくては。



2016年07月18日(月)

昨夜
夜中近くに浜にでたら
凪の海に
十三夜の月あかり。

思わず服のまま
飛び込んだ。

身体の力を抜いて
大の字になると
身体の表に月あかりがふってくる。

波がやさしくて
やわらかく
身体を包んでくれる。

海からあがると、
大阪の賑やかな宴の場所から
電話がかかってきて
年末のソラネコのライブのことだった。

ソラネコのこと
こういう風に声かけてくれて
うれしい。

いま
わたしは
とっても表現したい身体nのだけど
うたったりおどったりしたいのだけど
ソラネコをぐんぐん動かしていく
エネルギーが
なかなか湧いてこない。

だから
声をかけてもらえて
とてもうれしかった。

ありがとう。

今朝も海にはいる。

3日間のドラムトリップツアーも
今日でおしまい。

わたしの身体の
月のものも
近づいてきたようで

身体が固まりがちで
頭が思うように
動かない。

きのう、
海にしてもらったみたいに
やさしく
やさしく
してあげようと思う。



2016年07月15日(金) ピンク色の空気を皮膚から吸いいれる

夕暮れ時
台風の前みたいに
世界の空気が
ピンク色になった。

急いで
ビールと島らっきょをもって
堤防に腰掛けて
海に向かった。

身体全部の皮膚から
このピンク色の空気を吸い込んで
身体の内側を
ピンク色で満たそうと思った。

風がちょうどいい温度で
となりに座っていたオトコビトと
美味しいねえ
気持ちよいねえ
しあわえだねえと
言いあった。

日が暮れたら
お家に帰って

ごはんを食べて
うたたねして

起きたら
オトコビトと
喧嘩になった。

わたしは、

客観的にみてー
とか
普通はー
とか
だれが見てもー
とか
そういう物言いが
とっても嫌いだということを
みつけた。

この世の中には
真実はなくて
人の数だけ
ものの見方があるだけだ。

人の数だけ
プラネタリウムがあるだけだ。

わたしのプラネタリウムには
わたしにとって最高にここちのいい
星空をうつしだそう。



2016年07月14日(木) 熟す

「熟す」といことが気になりだした。

熟れるのは枯れることにもなるし
その中には種もはらんでいる。
生と死が混ざってる。

ずっと陰に隠れていたものが
「機が熟した」ときに
ひかりのもとにあらわれてくることがある。

バラバラだったものが
「機が熟した」ときに
ぱっとつながることもある。

熟すことは
ほっとするけど
さみしい感じがする

熟してほしいと思っても
熟してくれないし
熟さないでと思っても
熟す時は熟すし

熟す時は
人間のコントロールの外にある。

その時のリズムに
耳をすますことが
したい。

「熟す」ということの
神秘を紐解きたい。

「熟す」ということを
言葉ではなく
身体で考えたい。

自分が「熟す」になってみたり
色と形で「熟す」を探したり
「熟す」音を鳴らしたり

そんな風にして
身体で「熟す」を探求する会を
開きたくなった。


島はパッションフルーツの香り。



2016年07月11日(月) ネコと男

一人暮らしだった我が家に
ネコと男が転がり込んできた。

男は褌一丁のざんばら頭で
家の中をウロウロと歩き回る。

ネコはニャアニャアと
奥の六畳間にわたしを呼んで
ゴロンと横になり撫でろという。

こんなことになるなんて
人生はわからないものである。



2016年07月04日(月) 新月の祈り

カラダから、湧き出る言葉でしゃべる。
頭の真ん中に、太陽が鎮座する場所をつくる。
奴隷たちは、すこしずつ、
イキモノらしさをとりもどし、
鳥たちが夜明けをうたう。
腑抜けのおっさんは
エンジェルの営む遊郭に放り込む。

さて、もうすぐ、
時が来たら、動きだそう。

お腹の真ん中には
マグマがふつふつした
あたたかい火山がある。

きょう、
祈りのそばにいることができた。

1974年生まれ
同い歳の
スコッチを飲んだ。

ありがとう。



2016年07月02日(土) 緑のにおいの雨 … 久しぶりに

奄美に移住して
1年がたった。

まさか、
1年前は、
1年後にこんな場所に
立っていようとは
想像もしていなかった。

そんな場所に立っている。


久しぶりに
実家に帰り
幼馴染にあった。

離婚したこと
今の状況
自分のカタチの
いびつさを
あらためて
なぞるようだった。

まっすぐに
問いかけてくれて
対話を持ってくれて

深い場所の
川の流れに
そおっと足をつけたような
そんな
気配がした。

自分が
自分で思っている以上に
実は
寂しいと感じていたことに
気がついた。


私たちには
子どもがいなかったけれど

ソラネコが
子どものようなもので

その子どもからつながる
仲間たちがたくさんいた。

子どもの
父ちゃん母ちゃんが
別れるとなると
子どもからつながるみなは
寂しい思いをするのだろうな。

うらぎられた気がするのだろうな。

わたしが母ちゃんだとしたら
母ちゃんが
子どもと夫を捨てたような
そんな風に
感じられるのだろうなと
思った。

外からは
そう見えるのかもしれないな。

その他
みんなそれぞれの視点から
いろいろなことを
投影するのだろうな。


実は
かあちゃんも
その家族の形がかわったことが
とても寂しくて
それで
あながぽかんと
あいていること

その穴にかぜが
すうすうと
通っていくことは
わからないように
なっていること

それは
ひっそりと
わからないように
抱えなければいけないのだと
思っていること。


幼馴染の中で
話しているうちに
わたしは

自分の本当の風景を
外に出さないように
していることに
気がついた。

波風立てぬよう
誤解されたまま
傷つけられないよう
守りにはいってる。

内側の風景を
わたしの立場じゃ
表現してはいけないと
感じているよう。

久しぶりに
お腹の真ん中同士で
話ができて
うれしかった。

久しぶりに
安心した。





金沢は
本土の梅雨らしい梅雨。
すこし肌寒い
緑のにおいの雨。

久しぶりに。


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はたさとみ [MAIL]

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