「トムとジェリー」とドグマ95

 耳鼻科の待合室の大きなモニタがあって、いつ行っても「トムとジェリー」が流れています。老若男女がクスリともしないで「トムとジェリー」を凝視する様子はナカナカに妙です。面白い。

 さて、トムもジェリー、トムはいつもジェリーにやっつけられて、紙のようにペラペラになったり、驚きに目だまが飛び出たりするンですよね。頭をぶつけると星がでてピヨピヨになったりする。
 その表現は、決して「リアル」ではない。
 しかしそういったトムの痛みの表現は、本来の弱肉強食の構図が逆転してトムがジェリーにやり込められるというストーリーの小気味良さを演出するために、「リアル」ではないことが要求されるンだと思うのです。

 物語を表現するためには、ときとして「嘘」をつくことが必要がある。
 これはアニメーションに限った話ではないナ、と、デンマークの監督集団ドグマ95を思い出しました。

 近年では「清貧の誓い」(或いは「純潔の誓い」とも。詳しくは公式サイト参照のこと)の規定を満たした作品ならば「ドグマ」作品として認定されるらしいのですが、ま、それはともかく、このドグマ作品の手持ちカメラで撮った人工光を用いない影像というのは、やはりどこか「不自然」なのです。「カメラ」の存在、そのものが既に「人工的」だもの。注視すべきものを注視した人間の眼には、あのようには映らないデショ。逆に「人工くささ」を強調してしまうと思うのです。
 尤も、ワタシは彼らの「ハリウッド」に対する反発や意地なんかが窺えて寧ろ可愛く思ったりしちゃうのですが。


 映画という虚構に於ける「リアリズム」というのは実に曖昧です。
 だからこそ人間の行動や影像を「リアル」に見せるための「嘘」が、やはり必要なのだと思います。
 虚構は虚構でしかない。けれどそこに「リアル」を導き出そうとする映画人や映画が、おいらは愛しい。
2004年03月30日(火)

再び『イノセンス』を。

 年度末で決算の準備に入らないといけないし、やるべきことはベラボウにあるのですが、今日もまた残業を「中抜け」してシネアートで『イノセンス』を。
 埋め合わせとして終電まで頑張ったからヨシとします。


 前回は口をポカーンと明けて、ただただバトーにシンクロしながら観ていたのですが、今回は幾分気持ちを落ちつけて。
 それでも終始鳥肌がたっていましたけれど、いや〜面白い!
 中盤までの退廃的で緩やかなテンポが心地いいし、クライマックスにかけてキリキリと引き締まる感じもいい。
 今回提示された「人間はなぜ自分の似姿を造ろうとするのか」というひとつのテーマは、ハラウェイ、そしてキムとの対話を経て緩やかに展開してゆく。ラストシーンは実に印象的です。


 影像は確かに「スゴイ」のですが、「スゴイ」3DCGと「スゴイ」セル画の「切り替わり」部分に違和感を感じることはありました。
 すべてが「演出」ではないと思うので、処理技術の問題だろうか。やはりワタシには技術的なことはよくわかりません。


 「スゴイ」セル画背景から人物が浮いている(実際発光しているンですが)のも少し気になるといえば気になるのですが、しかしそれは決してマイナス材料ではなく、うーん、なんというか。
 人形は人間に似れば似るほどその死を強調する、という(主旨の)ことばをどこかで読んだことがあるのですが、バトーやトグサは「リアル」ではないからこそ、「生きて」いるのかも知れない、などと思ったりするンです。
 3DCGにしろ2DCGにしろ、実際に描いて造らなくてはいけないアニメーションというのは、紛れもなくすべてが虚構だからこそ、「生きて」いるのではないか、なんてね。
 うーん、どうにもまとまりません。
 サテ、次はいつ観にいこう…。
2004年03月29日(月)

『イノセンス』を観た。

 さすがにL’Arc~en~Cielの新譜に非CCCDの輸入盤はないだろうし、気は進まないけれどCCCDを買うしかありませんかね。
 L’Arc~en~Cielはベースの動きがなんとなく面白いような気がするのですが、どうなんだろう。どういう位置にあってどういう評価を受けているのかよくわからん。単に、相変わらず知ろうとする気がない、というだけですが。



 先日、残業を「中抜け」して『イノセンス』(押井守/2004年日本)を観ました。
 すごいことになってます。

 「アート」か「エンターテイメント」か、という区分は(定義すらできない)ワタシには不本意ではあるのですが、敢えて云うなら「エンターテイメント」性を備えた「アート」フィルム、という感じ、かな(なんのこっちゃ)。
 サスペンスとしても面白いし、『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』(押井守/1995年日本)の「続編」としてきちんと機能し、成立している、というのが「エンターテイメント」性を認めるなによりの所以。

 20億円(!)という制作費を回収するなら当然の措置なのかも知れませんが、それにしてもタイトルから「攻殻機動隊」をはずしちゃマズイように思います。
 『マトリックス リローデッド』を『マトリックス』なくては楽しめることができないように、これは紛れもなく『GHOST〜』の「続編」以外のなにものでもないンですよね。
 これから観に行かれる方でもし『GHOST〜』を未見なら、是非一度予習(復習)されることをお勧めします。

 さて、いつまで公開しているのか知りませんが、あと何回観に行けるだろうか。 『ホテルビーナス』よりこちらに「リピーター割引」が欲しいナ。
2004年03月27日(土)

アチコチからアレコレと

 思えば日曜からその予兆はあったのだけれど、ヘッドホンからの音で漸く気付いた。どうも左耳の聞えが悪い。というか、ほとんど聞えていない。
 子供の頃から耳が弱く、風邪をひいたりすると鼻よりも先に耳が「ぐずる」のだけれど、今回は単に体力がおちてるということなのでしょうか。

 そんなこんなで月曜は耳鼻科で午前中を潰してしまい、午後はそれを取り戻すのにひと苦労したのですが、もらった抗生物質が効いているのかいないのか、今日も相変わらず聞えが悪く集中力に欠け、恒例というか条件反射というか、例によって自分のなかからの「幻想交響曲」のフレーズを追ってみたりしてぼんやりと。またもや残業です。

 それにしても電車は便利ですネ。
 仙台市内に住んでいたときは、21時台の「終バス」に悪態をついたりもしたのですが、終電は24時直前まである。ヤホー。
 それでも飲んだときのことを考えると、タクシーで深夜料金込み二千円強で帰ることができる市内のほうが、やはり便利といえば便利。
 まあ正体をなくすほど飲まなければいいだけの話ですが。



 さて、久々に行った学生の頃からお世話になっている耳鼻科では、古参らしき看護婦サンに「久し振りだねー」などと声をかけられたりも。学生時代の被扶養者用の保険証は通称名で、現在のそれは本名なのだけれど、当時制服(チマチョゴリ)で通っていたせいもあってか、よく覚えられていたようです。

 保険証といえば、母上をワタシの扶養に入れる手続は思ったより難航しています。
 母上とワタシの姓が違うこともあって続柄を証明するのはいつも苦労します。外国人登録済証明書は同居家族や世帯主としては記載されても、続柄を証明するには至らないらしく、原票の原本証明をもらわなくてはいけない。

 更に父上の死亡を証明する書類も必要になるですが、何しろ亡くなって十数年経っているので、こっちは原票にも記載されず。
 これはもう「国」から取り寄せるしかない。

 日本人なら戸籍謄本一通で済む話なのですが、どうにも煩雑ですね。
 ニューカマーなら本国から戸籍謄本を取り寄せるという手もあるらしいけれど、オールドカマーでしかも三世ともなると、本国にも戸籍はない(あるのはじいさんまでで、じいさんとの続柄を証明するのにまた「国」からイロイロと取り寄せる必要がある)。
 「ないはずないでショ」と軽ぅく云われても、ないもんはない。

 こんなときに、「ザイニチ」の不確かな境遇をヒシヒシと実感します。

 取り敢えず受理はしてもらったものの、まだまだアチコチからアレコレと取り寄せなくてはならない書類があり、ああ、もう、めんどくせー。
2004年03月23日(火)


 今日はお葬式でした。
 お通夜の席で既に盛大に泣いたワタシは、幾分落ちつきを取り戻し。
 けれどやはりぐずぐずと泣き。
 「喪の仕事」ということばをふと思い出し。
 同名の映画を思い出し。
 また小説「レディ・ジョーカー」の加納のことばを思い出しました。


 この歳ですので死に接した経験もそれなりにあります。
 そのたびに思い、再確認するのは、この喪失がうめられ充足されることは永遠にない、ということです。当たり前のことのようですけれど。
 喪われるたびに、自分のどこかが欠けていくのだろうと思います。
 永遠に、その欠けたものを抱え続けて生きていくのだと思うのです。
 喪失をうめることはできない。
 喪失は、この喪失の痛みは、躰のなかの「収める場所」に収まってワタシの一部となり、永遠にワタシのなかに在りつづける。
 欠落しながらも、欠落したものとして、確かにずっと在りつづけるのだ。



 そんなことをぼんやりと。
 今夜までは喪失とその痛みに泣こう。
 明日からはまた仕事で、しかも明日はゴトウ日で。
 仕事に厳しい彼だ。いつまでも泣いていては叱られよう。
2004年03月14日(日)

ぐずぐずと

 最後にことばを交わしたのは、亡くなる前日。
 仕事について細かい指導を受け、冗談を交わし、小さな愚痴をこぼし、「もう少しかかるから、がんばって」と云った受話器越しの声を忘れられない。


 一夜明けたいまも、ひとりきりになるとぐずぐずと泣いてしまう。
 病との闘い、その苦痛、家族への想い、なにより死への恐怖。
 そんなものを想像したとして、それはやはり勝手な想像に過ぎない。
 わかるはずがない。わかるはずがないのだ。

 だから安易な同情のことばには嫌悪を感じる。
 そしてワタシも、安易に泣くべきではないのかも知れない。


 けれど生が常に当人だけのものではないのと同じように、その終わりもまた、当人だけのものではない。
 確かに同じ時間を共有し、確かに生の一部に関わった。
 その機会が喪われた。その生が喪われた。
 それが、嫌だ。哀しくて悔しい。
 ワタシの感情、ワタシだけの感傷だ。
 利己的で身勝手な、独り善がりの個人的な感傷だ。承知している。
 けれど頑是無い幼子が駄々をこねるように、ぐずぐずと泣くことを止めることができないのだ。
2004年03月12日(金)

結論と訃報

 経理ならずとも、仕事に正確を期するのは最低条件ですが、マニュアルの通りにやって済むのは、全体の仕事の実に3割(当社比)。実際には現場に応じてフレキシブルに対応してゆくことが求められます。そこで活路となるのは経験とか閃きとか、あとは周囲とのコミュニケーションを重ねていくほかありません。それでなんとかできるところはするし、譲れないところは譲ってもらう、と。

 現場に立つことはなく、事務所でひとり数字とにらめっこするワタシは、なにより現場の人間に自由に動いて欲しいと思います。勿論採算性は無視しません(できません)が、お客様にも取引業者にも、誰にも不自由を感じて欲しくない。そういったところから「パーフェクト」であろうと思うのだから、やはりこれも選択なのだ、と思います。
 不承不承そうしているのではなく、切り捨てているのでもなく、それを優先しているのだ、と。
 やはりワタシは基本的、というか本来的に前向きストなのだなァ…。



 と、自己の仕事への姿勢について一応の結論を見出した感じ。
 しかしながらまたしても膨大な事務処理に忙殺されそうになっていた今日、入院中だった上司の訃報が届きました。
 弔電や供花の手配、社内外への連絡をバタバタと事務的にこなしながら、けれどすべての同僚が退社してひとりになったとたん、こみ上げるものを堪えることができませんでした。
 泣くのは不遜だと、ずっと戒めてきました。
 いまも、泣くべきではないと思う。けれど。


 彼から学んだことは多く、学ぶことができなかったことも実に多く。
 しかしそんなことより、いまはただ彼の不在、彼の喪失が哀しく悔しい。
2004年03月11日(木)

仕事はパーフェクトに

 頑迷に停滞し続ける反面、うつろいやすく不確かな自己を自覚します。
 決して卑下しているのではなく、自己嫌悪というよりは寧ろ明確なる事実と認識しているので、別に落ち込んでいるわけではありません。従ってご心配をおかけしたのは本意ではありませんが、今後は自嘲も程々に、と思う次第。




 さて、あるひとつのミスという事実の要因に、一厘でも自らの非を認めるのであれば、あらゆる非難、叱責、罵倒を甘受します。
 けれど九分九厘を負うヒトから非難されれば、甘受したい、しよう、すべきだ、しなければ…と自制しつつも、やはり頭にくるし、胃にもくる、と。


 心底から謙虚な人間は、「我慢している」という自覚なしに、頭にも胃にも負担をかけることはないのだろうけれど、ワタシは到底そうなり得ない。
 否、昔はそれができた。恐らく自覚せずとも。
 しかし人間というのは年齢を重ねる毎に見えるものが増え、一旦理不尽に気付いてしまうと我慢を自覚する羽目になる。自己の成長や発展に繋がらずとも、見えないものが多い方が、少しは幸福だったかも知れない。
 ま、こんなことをボヤいても始まらず。

 仕事はパーフェクトに。
 誰にも何も云わせないほどパーフェクトに。
2004年03月07日(日)

あーあ。

Off to the movies we shall go
Where we learn everything that we know
'Cause the movies teach us what our parents don't have time to say!
And this movie's gonna make our lives complete〜♪




 「サウスパーク無修正映画版」はミュージカルとしての完成度がヒジョーに高く、何度観ても楽しめます。
 既存のミュージカルへのオマージュがギッシリと詰まっていて、尚且つそれらを知らないひとにも充分に楽しめる完成度。素晴らしい。これを(マーク・シェイマンが編曲を手懸けたとはいえ)トレイ・パーカーが全曲作詞作曲したのだというから更にスゴイ。


 コレに比べたら(比較対象が間違ってますが)、三谷幸喜さんのミュージカル「オケピ!」の曲にはどうにも決定的にインパクトが弱く、少し残念な感じもします。「オケピ!」の曲でおいらがすぐに口ずさむことができるのは「ところてーん、ごぼうてーん、サバの缶詰ー♪」だけだったり。尤もこれは貧弱な記憶力の所為でもあるのですが。



 冒頭はオープニング曲「Mountain Town」より。
 職場にいる以外は映画館か、或いは自宅にいてもやはり映画を観ていたりして、尚且つそれを改める気もあまりないというワタシなどは、親や実体験より遥かに映画に得るところが多く、また音楽などの嗜好も映画に因るところが大きいわけで。勿論それで充足されないので、外に出たり或いは本を読んだりもするのですが。
 これでは耳年増で青臭い綺麗ごと好きのアホになるハズだよな。
 あーあ。
2004年03月06日(土)

書いて在るうちは

 ひっかかるのはただ単に、私情を「外」に垂れ流すこと、その是非ではなく、そのどこまでを自分が由とするか、という点なのです。
 否、それほど深刻な問題ではなく、書けることと書けないことに差があって苦悩しているわけでもなく、単にこうして書くということは、「外」に発信しているのだということを忘れたくないし、忘れるべきではないと思うわけです。
 自戒として。自覚として。

 はぁ、ツマランことを長々と書いてしまいました。
 これまで書いてきたことを想起してみれば、数少ない奇特な読者サマが日常の羅列を読みたくて読んでいるとは到底思えず、否、しかしかといって、日常の羅列以外に取りたててアンガジェしていることもなく。
 嗚呼、ワタシは実に進歩のない毎日を送っていることだナ、などと今更乍ら自己の日記の存在価値についてぼんやりと。
 はぁ、クダラナイ。
 そんなもの、ハナからありはしない。
 インターネット上、或いは生活での「外」ですら、削除してしまえば、失われ、あとは忘れ去られるだけのワタシという存在です。


 しかしそれでも。
 こうして書いているうちは、書いて在るうちは、
 いま、確かにここに在る。


 そうして「外」に向けて、クダラナイ日常の羅列を今日もグダグダと書き殴るおいらなのです。
2004年03月05日(金)

目眩とヨダレが

 「インターネット」というのはあくまでも、内ではなく外ですよネ。
 そこに関与する意志がある以上、それは「ポジティブ」だったり「アクティブ」だったりする方向への発現に繋がるのではないか、と思ったりするのですが、「インターネット」にアクセスする行為に、それほど大変な手間や障害がないのも現実。とはいえ内と外を混同する、というのはどうにも、やはり「アホ」なんじゃないかと。まぁそんなことをグダグダと思ったりする今日この頃です。

 こうして私情を「外」に垂れ流しにしているのですが、まぁこれでもそれなりに慮っていますので(いるンです)、一応家の中で云う「独り言」とは決定的に違うと認識してはいるのですが。しかし嘘を吐いてまで取り繕うはメンドクサイ、と考えていたりするので、その内容はやはり「独り言」と大差ありません。
 イヤハヤ、底の浅いニンゲンですヨ、ワタシは。



 サテ、最近ではDVDもだいぶ普及してきて、ヨドバシカメラなどに行くと、その数に目眩とヨダレが止まらなかったりするのですが、しかしこの業界というのは流れが速く、廉価版になるのが速い速い。つまり通常盤が廃盤になるのも速い速い。購入のタイミングは逃せないわけです、特に好きな映画は。
 各社の春のラインナップを見ると焦る焦る。内容や映像特典がほとんど同じならいいか、と思うこともあるのですが、どうもね、好きな映画だとね、やっぱりね。
 嗚呼、俗なニンゲンですヨ、ワタシは。
2004年03月04日(木)

メイテイノテイ / チドリアシ

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