世界とのツナガリを

 大体に於いて休日というのは、外で映画を観ているか、自宅で映画を観ているか、自宅でダラダラと本を読んでいるか、或いはそのすべて、といったテイで、仕事さえなければ「引き篭もり」とやらになっていたに相違ない感じにダルダルです。
 否、現代に於いて「引き篭もり」は、TVやインターネットといった世界とのツナガリが在るといった点では、必ずしもネガティブな方向へ向かう現象ではなく、単に家を出なくて済むので出ない、とうケースもあるのではないか、と。

 TVは殆ど見ず、インターネットもボチボチ、といった人間であるワタシにしても、映画を見る、本を読むといった行為は、世界とのツナガリを辿らずには有り得なく、ネガティブでも「引き篭もり」でもなく、単にパッシブなだけなのかな。

 しかしながら、そういう状態を維持するにも当然金銭が不可欠ですし、それを得る行為(=労働)とは、全くの不可能ではないにしろ、少なくともおいらには容易に両立できる筈もなく。
 でも出来るならそうしたい、と考えている時点でダメですか。そうですか。



 ま、そんなこんなで、パッシブな生活を少しでもアクティべイトさせるべく、世界とのツナガリを辿り辿って、WEB上に日記を公開してしてみりしているわけです。こんな方向にしか発現できないところがどうにも情けないのですが。
2004年02月29日(日)

どうにも困ったネ!

 このところ毎朝、起きることが苦痛で苦痛で仕方ありません。
 巳年生まれのためか、ハタマタいつもの怠けグセなのか、冬場は特に寝汚い。頭蓋骨に貼りついた睡魔を追うのに苦労します。
 その分早く床につけヨ、と思うことは思うのですが、しかし染みついた宵っ張りの悪癖はそう容易く克服できず。
 うーむ、どうにも困ったネ!

 眠れないときのオマジナイとして羊を数える、というのは、sleepとsheepで韻を踏んでいるからなのだとか。つまり有効なのは英語圏のヒトだけってことか。
 どなたかいい睡眠導入法(?)があったら教えてクダサイ。
 薬とアルコホル以外の手段で。


 
 レンタルビデオ屋で無意識に好きな映画ばかり手に取ってしまうことに気付き、漸く疲労を自覚してみる今日この頃。
 新しい映画を観る、というのはそれなりの気力が必要ですよね。
 というより、不本意なコンディションで初見の映画を観るということに、どうも罪悪感を感じてしまう。

 というわけで、大林宣彦監督の「青春デンデケデケデケ」(1992年日本)を。
 嗚呼、もうタマラン。
 少し元気が出たところでオヤスミナサイ。
2004年02月25日(水)

メンドクサイですネ。

 「死刑台のエレベーター」のサウンドトラック、ありました。
 マイルス・デイビスが録音当日にラッシュを観ながら即興で演奏したものを録った、というエピソードを聞いたような聞かないような(ぉぃ)。
 改めて聴いたけれど、良いです。映画を観たことがない方にもオススメです。



 妹が平原綾香さんの「ジュピター」をオートリバースで聴いていたりするのを隣の部屋からこっそり聴いていたりするのですが、しかしアレの歌詞はイッタイどこから出てきたものなのでしょう。ホルストさんもビックリしような。
 ま、エリーゼさんへのラブソングを「キッスは目にして」などと軽快に歌われてしまったベートーヴェンさんに比べたらカワイイものですか。

 そういえば著作権使用料の値上げに、オケ連が激しく反発しているのだとか。
 著作権の有効期限は作者の死後50年、でしたでしょうか。従ってストラヴィンスキーやショスタコービチや小山清茂や伊福部昭なんかを演奏する度に使用料が発生するわけですが、これが時々すんごい金額になってしまうのだとか。
 金額をどういう基準で決めるのか、具体的な計算式はよくわからないのですが、確か営利、非営利の別や、ハコのキャパシティには関わるハズ。仙台などではそう大きな演奏会はないけれど、確かに都会の大きなハコで演る場合は大変な金額になるのかも。
 現代音楽の発展の妨げになるというオケ連の主張もわかります。
 「クラシックの現代音楽」、ってなんだか妙な云いまわしですが。


 最近はメッキリ見なくなりましたが、個人運営のホームページなどで時折見かけるMIDIやMP3にも、実際は著作権料が徴収されなければならないわけですし。作者の権利を守る、という主旨は理解できるのですが、うーむ。

 CCCDもそういった主旨からくるものなのでしょうけれど。
 ま、ワタシなどは音楽は専ら家で聴くばかりで、たまにPCで聴くくらいことしかできないヘナチョコユーザーですから、痛くない腹を探られても別にかまわないのですが。
 「壊れてもしりませんヨ」などという無責任なモノのほかに選び得る選択肢もナイ、というのはやはり納得がいかなかったりするわけで。
 あー、メンドクサイですネ。
2004年02月17日(火)

御免

 妹の結婚話がこじれている模様。
 無論彼女の幸福を願ってはいますし、そのために手を貸すことも吝かではありませんが、当の本人がハッキリしないのでは、伸ばした手の行き場もなくなるというもので。
 そんな滑稽な役回りは御免です。
 確りしたまえ。



 先日の日記でクレーンやドリーを多用した映像について触れながら、ふと北野武監督の「座頭市」(2003年日本)を思い出しました。
 アレも妙に視点の定まらない映画でありました。それが画期的であった一昔前とは違い、俯瞰も地面スレスレから人物を追い上げる映像も、そう撮る「必然性」がなければ面白くも何ともない。どんな映像も、(お金と技術、或いは時間があれば)有り得る、撮り得ることを知っている現代の観客は驚かないのです。逆にそこまでして撮った映像の語る内容が空振りだったりすることの方が、ピンとこないわけで。
 いずれはこんなことを考える必要もないほど、それはありふれた技術、ありふれた手法になるのでしょう。現にそうなりつつありますし、無論それが悪いというのではないのですが、しかし、効果に乏しく誰も気付かないような努力、というのは、自己満足の域を出ないのではないだろうか、などと考えたりもします。
 「頑張ったネ、良かったネ」で済むのはアマチュアだけデス。


 お金を払った消費者のハシクレなので好き勝手なことを書きます。
 御免。
2004年02月16日(月)

「嗤う伊右衛門」を観た。

 昨年12月に見た蜷川幸雄さんの「ハムレット」のお芝居、冒頭に流れるジャズは、ワタシの記憶が確かならば、映画「死刑台のエレベーター」(1957年フランス)の曲じゃなかったかなァ…。マイルス・デイビスですね。
 手元にサウンドトラックがないので確認取れないのですが。
 舞台は、客席中央にステージをつくり、本来ステージだった部分に客席を設けた多面的な構造。抑圧的な空気のなか、役者の動きがよく考えられ、きちんとコントロールされていたのが印象的でした。


 と、そんなことをぼんやりと思い出したのは、先日シネアートで「嗤う伊右衛門」(蜷川幸雄/2003年日本)を観たから。
 原作は云わずと知れた京極夏彦さんの同名小説。京極夏彦さんの著作のなかでも最も忘れ難く美しく、ワタシは勝手に最高傑作だと思っていたりするのですが。


 さて、映画。
 面白く観ました。
 映画中盤まではキリキリと緊張感の糸を巻くように、キチンと抑制されていてよかったのですが、どうもクライマックスあたりからグダグダというかグズグズというか。高めた緊張感が空中で、有耶無耶に霧散されてしまう。それも悪くはないのだけれど、不完全燃焼というか消化不良というか。無理矢理終わらされて、取り残されてしまった感じがしたのです。
 中盤までは確りコントロールされていただけに、惜しい。


 私は映画を観る前に仕入れた情報は、観る段になるとスッパリ忘れるというオメデタイ人間なので、今日改めて原作を読み返して気付いたのですが、台詞は実に原作に忠実です。
 しかし原作に忠実である、ということは、反面、小説の台詞のない部分(で尚且物語の進行から切り離せないところ)は、ト書き、つまり映像や映画話法で解決しなければならない、ということであり。それに成功していたかは、やはり「映画と小説はベツモノ」ですし、ここで兎や角云うべき問題ではないのでしょう。


 カメラがよく動くのが気になりました。
 クレーンやドリーを多用しているのかな、技術的なことはよくわからんのですが。監督は多面的、立体的に見せることに、なにやらコダワリがあるのでしょうか。確かにこれは映画ならではの手法だとは思いますが…ラストのVFXといい、そんなに技術に拘らなくても、などと考えてしまうのです。
 寧ろ「物語」そのもの、の方が大事ですよね。
 お芝居と映画が違うということは、観客は、観客こそが、ようっくわかっていると思うのですけれど。

 否、蜷川幸雄さんの舞台をそれほど観たわけでもなく、3本しかないフィルモグラフィも「魔性の夏 四谷怪談より」(1981年日本)しか観ていないのでエラソウなことは書けないのですが(その割に結構書いてますが)。


 岩役の小雪さんは、凛とした佇まいが、武家女らしく高潔で美しい。
 台詞は少し聞き取りづらいけど、ま、梅役の松尾玲央さんや直助役の池内博之さんに比べれば気にならない。彼の台詞には字幕が必要ですね。
 それにしても、いや〜唐沢寿明サン、イイですね。
 ここ数年の出演作というか、キャリアの積み方というか、イイなァ、イイ感じだなァ、と。
 うーん、脱がしたい…、ていうか引ん剥きたい。
 や、ヘンな意味でなく、もっと色々な表情を見たいという意味で(ダレに言い訳してるンだか)。
2004年02月15日(日)

つぇーつぇーつぇーでー

 ノラ・ジョーンズの新譜が出たので、帰りに閉店間際のヨドバシカメラへ。
 あった。
 あった、けど…。
 CCCDだった。
 うーん。
 よくわからないけど、なんかコワイのでやめる。
 CCCDについては以前、友人某氏が悪し様に罵倒していたっけ。
 せめて選択肢として輸入盤を置いて欲しいのだけれど。


 そういや明日は「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」の公開日か。
 なにが楽しみかってそりゃ、公開後に出るであろうDVD-BOXだな。このために前ニ作は我慢したのダ。
 映画は落ちついた頃に観に行こうかと。
 コージンチェフ監督の「ハムレット」のDVDがあったので購入。
 いつの間に出たンだろうか…マッタク。


 最近、母上が本棚や書庫(別名物置)から本を持ち出して、色々と読んでいるようです。横山秀夫さんと東野圭吾さんなどは大変お気に召したらしい。
 本の話ができて少し嬉しいけれど、母上に貸すと汚れて返ってくる。カバーが破れたり、油染みができていたり。
 ま、本などは読むためにあるので、活字が読めればそれで良いのですけれども。
2004年02月13日(金)

食いかけリンゴに憬れる

 先頃発表された下半期芥川龍之介賞の受賞作が「文藝春秋」誌に掲載されていたので、早速購入。電車の中で金原ひとみさんの「蛇にピアス」を。
 「賞」のステイタスはやっぱりどうでもよかったりするですが、「ツカミ」にはなり得る。恐らく受賞しなければ、手に取ることすらもなかったとは思います。面白く読みました。
 ま、芥川賞といえば「新鋭の純文学作家」に贈られるわけですから、要するに「今後に期待」ってことなのでしょうね。しかし次の発表作を読むだろうかと聞かれれば、うーん、どうかな、という感じ。嗜好の問題だろうか。

 21日発売の「オール讀物」誌に直木三十五賞の選評が掲載されますが、受賞者は正直「今更」な感じがしないでもないふたり。近年の直木賞は、どうも山本周五郎賞の後手に回っていますよね。
 やっぱりどうでもいいンですけど。




 相変わらずご機嫌ナナメなDynabookちゃんを恐る恐る騙し騙し扱うことにも少し疲れ、この頃は買い替えを考えています。
 次は食いかけリンゴマークブランドにしようかな、と。
 ビル・ゲイツ氏よりスティーブ・ジョブス氏のほうが好感が持てる、とか、まァ、理由はそれだけではないのですが。
 一応重要なデータを預かる身としては、こう頻繁に「重要な欠陥」だとか「緊急の障害」だなどと云われると、必要以上にビビッてしまったりもするわけでして。
 何より昔からあのリンゴマークには憬れを抱いていたのですヨ。
 リンゴユーザーの同僚に相談してみよう。
2004年02月12日(木)


 お正月に、民族学校に通う従弟に会いました。
 今春高校三年生になる彼は、学校生活や部活のこと、バイクのことや将来のこと、受験への不安をことば少なに幾分はにかみながら話していました。
 毎年の事ながら、眩しいほど若く、希望に満ちた可愛い従弟に、ほんの少しの羨望を覚えながら、奮発したお年玉を渡したのです。




 後輩が亡くなりました。
 従弟のクラスメイトでした。
 私は家族は知っているけれど、彼本人と親しかったわけではない。
 私に思い出せるのは、初級部の校舎で従弟と遊んでいた幼い面影だけ。


 どうしようもなく理不尽で、冷酷なほどに一方的な、突然の決別でした。
 或いは死とは、常にそういったものなのかも知れない。
 事故であろうが、病死であろうが、自死であろうが、他殺であろうが。

 けれど、つい先日まで、10年前においらがいたその教室で、従弟と机を並べて学んでいたはずの彼。
 眩しいほどに、あまりに若い彼。
 その彼に訪れた、あまりにもくだらない諍いによる、あまりにも唐突な、死。


 もう戻らないという、このリアリティのない現実
2004年02月02日(月)

メイテイノテイ / チドリアシ

My追加 エンピツユニオン
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