フーチーひとりごと。
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「お疲れさま〜。今年のカニは大きいじゃろぉ。」
生まれ育った小さな町。そんな町にも神社があり秋には祭りがある。 山から海沿いを通り町中を山車を引いて練り歩くだけの小さな祭りではあるが、子供たちは稚児舞いや笛や太鼓の練習を1ヶ月前頃から始め、本番が間近になる頃には少々飽きてくるのだが、それでも学校が終わり夕方みんなで集まっての練習はクラブ活動のような楽しさもありその時間が楽しく思えたものだった。
さて、祭りの当日。地元の祭りは、祭りには付き物の屋台などなく、昼前頃から始まり夕方には終わってしまう、子供にとっては物足りない小さな祭りだった。なので、子供たちは地元の祭りが終わり間近になると、友達同士で隣町の祭りに繰り出す打ち合わせを始める。 隣町の祭りは夜店も建ち並び夜を通して行われる大きな物で、祭り=夜店という発想の子供たちにはこっちの方が祭りの本番という感があった。 そんな小さな祭りが終わり、大人達が「夜の宴会こそ祭りの本番」と言わんばかりの様子で、一旦家に戻り風呂に入り出かける前の一服をしている頃、カニのおばちゃんがカニを配りにくるのである。 「なんで毎年カニなんだろう?」子供の頃から不思議に思っていたのだ。 そもそもこの地元の祭り、何の祭りなのか。神社は山にあるので、収穫と五穀豊穣を願ってのものだと俺は思っていたが思い返してみると、引いていた山車は舟形であり、神社にも船や魚など海を思わせる絵が飾ってあった。 ということは、この祭りは海の物なのか。だとしても、我が町が漁師町だったわけでもない。 いったい、どこからカニが来るのかわからないが、町内の全ての家々に家族の人数分だけ配られるのである。
我が家にも毎年5杯のカニが配られる。浜茹でされ真っ赤になったカニの磯の香りが家中に広がり、家族が台所に集まる。 箸で身を掻き出しながら「一口食べてみんさい、今年のは甘いわぁ」と皿にカニの身を取り分けてくれるのだが、俺はカニが苦手なのだ。 特に「あぁ〜、この磯の香りがなんとも言えんねぇ」と家族中が磯の香りに酔いしれてるところ申し訳ないが、俺は海鮮物から漂うこの磯の香りが何も言いたくないほど苦手なのだ。 しかし、無下に拒否してせっかくの祭りのひとときを白けさせても悪いので、一口食べてみるがやっぱり食べられない。 そのまま箸を置く俺に、母親がサツマイモのふかしたやつを持ってくる。 カニが食えない俺のために、毎年母親が用意してくれるこのサツマイモ。俺はサツマイモが好物だったわけではない。 ないのだが、カニの他にはこれしかないためサツマイモを食い続けるしかなかった。そしていつしか祭りの日にはサツマイモがふかされるようになり、「カニ食べる?」という誘いはなくなり、俺専用のイモとして家族内では定着してしまった。 台所にはカニの匂いが充満しているので、俺は隣の部屋でひとりイモを食うのである。 それが、高校を卒業するまでの俺の秋の味だった。
あれから、10年目の秋がきた。 物流システム、食品の保存方法や生産技術は急速に進歩している。 季節や旬を問わず、欲しい物が欲しい時に手に入る時代になった。秋の味覚に挙げられるほとんどの食材も年中を通して口にすることができる。 しかし、太古の昔から流れる自然の移り変わりは変わることなく、動物も植物もその本能は季節を感じながら生きている。 秋に大きく育ち食べごろになる野菜や果物、脂がのり美味しくなる魚。それらを欲する人間の舌。 秋に実る物を秋に美味しく食べるのが最も自然な形であり、贅沢なことではないだろうか。 ちなみに、今の俺にとってお秋味は回りまわって結局、サツマイモに辿りついた。 ちょっと贅沢に鳴門金時。甘くてしっとりとしてて秋味には欠かせないものとなっている。
*この文章はSMWに参加しています。
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