エンターテイメント日誌

2004年08月29日(日) みんなが知ってる<誰も知らない>

映画「誰も知らない」はカンヌ国際映画祭コンペに正式出品されると決まったときには誰もが「それって一体何?」と首を捻ったが、柳楽優弥くんが史上最年少の14歳で主演男優賞を受賞したことで、俄然日本でも認知度が上がった。無論日本人初の快挙である。おかげで柳楽くんは文部科学大臣表彰まで受けた。

カンヌの審査委員長、クエンティン・タランティーノ監督は「毎日多くの映画を見たが、最後まで印象に残ったのは彼の顔だった」とコメントしている。

映画を観て、確かに柳楽くんの表情、特にその意志の強い目が強烈に心に焼き付く。しかし、それをそのまま彼の演技力に直結させるのはいかがなものかという疑問は湧く。それはむしろ少年少女たちの素直な表情を見事にすくい取った、是枝裕和監督の功績なのではなかろうか?ウォン・カーウァイ監督の「2046」に出演し、主演男優賞確実と言われていたトニー・レオンは「14歳の少年に演技の何が判るんだ!?」と悔しがったと噂されるが、そりゃあ怒るのも無理はないだろう。

筆者のこの映画に対する評価はC。確かに力のある映画だとは認めるが、僕にはこの映画に登場する無責任な母親も、彼女に見捨てられた子供たちが他人に頼らず自分たちだけで生きていこうとする姿勢にも全く共感できなかったし、どうしても納得いかない。

「だって実話じゃないか」という反論もあろうが、こんな納得がいかない理不尽な事件を映画にしようとする製作者たちの意図が理解できない。結局是枝監督は映画の中で子供たちの選んだ道を肯定しているように見受けられるが、僕にはそれで彼らが幸福を得られたとは全く想われず、その姿勢に疑問を抱かざるを得ない。



2004年08月25日(水) この辛さに貴方は耐えられるか? <オアシス>

最近は「身体障害者」のことを「障碍者」と書くらしい。「害」の字がいけないそうだ。アホくさ。まるで同和問題における言葉狩りみたいだ。被差別者、絶対弱者のユダヤ人が誰も文句が言えないことをいいことに、イスラエルを建国しパレスチナ人を虐殺している情景を想い出した。

韓国映画「オアシス」は刑務所から出所したばかりの社会に適応できないチンピラと、重度脳性麻痺の女性の愛の物語である。

イ・チャンドン(李滄東)監督は公式ページ(←クリック)にこの映画はファンタジーだと宣言しているのだが、ゆめゆめ騙されてはいけない。ファンタジーはファンタジーでもこれは超激辛。余りのハードな内容に吐気を催して途中放棄する観客がいても全然不思議じゃない仕上がりなのだ。覚悟して観るべし。しかしながら、確かに激辛ではあるが、その味は極上。筆者の評価はBである。え?どうして極上なのにAじゃないのかって?それはただ単に好みの問題だ。最高級品のキムチだというのは認めるけれど、本来キムチという食べ物自体が好きじゃないーそういうことだ。(以下映画の内容に多少触れます。未見の方はご注意を。)

主人公はどうしようもない駄目人間である。脳性麻痺のヒロインに近づくのも、「セックスが出来るなら誰でもいい」という呆れかえる動機なのである。おまけにその兄はひき逃げの罪を弟に押し付けて平然と暮らすような輩だし、ヒロインの兄は彼女をぼろアパートに残したまま、自分は妻と二人で身障者用に支給された広い新築マンションに暮らして、役所の視察があるときだけ誤魔化すために妹を連れてくるという極悪人なのだ。

そんな救いのない物語に後半光がさし始め、主人公とヒロインがそれぞれのオアシスを見出していくところにこの映画の醍醐味がある。掃き溜めに鶴というか、ヘドロにまみれた泥沼に美しい蓮の花が咲いたようなハッとする瞬間が最後に用意されており、観る者の心を打つのである。なんとも清々しい幕切れであった。

主人公を演じるソル・ギョング(薜景求)とヒロイン役のムン・ソリ(文素利)の演技は絶品。百聞は一見にしかず。勇気を出して是非御覧あれ。

余談であるが、映画冒頭に出所した主人公が豆腐を買って生で食べる場面が登場する。調べてみると韓国では刑務所から出所したらすぐに豆腐を食べる慣わしがあるらしい。豆腐は真っ白なので、罰を受けた体や心を清めるという意味があるそうだ。こういった文化や風習の違いを知ることが出来るのも、映画を観る愉しさの一つだろう。



2004年08月21日(土) 前作を遙かに凌駕した<スパーダーマン2>

映画の続編が一作目を凌駕したり、あるいは対等に張り合える仕上がりになる前例は極めて少ない。僅かに「ゴッドファーザーPart2 」と「スターウォーズ/エピソード5 帝国の逆襲」を想い出すくらいである。ちなみに「ロード・オブ・ザ・リング」はこの範疇に含めない。何故なら原作は一つの長大な物語であり、映画化に際して上映の便宜上3つのパートに分けたに過ぎないからである。

筆者の「スパーダーマン」第一作の評価は極めて低い。せいぜいDである。展開が弛緩しているし、悪役にも面白みがない。特撮もなんだか安っぽい感を免れない。しかし、「スパーダーマン2」の出来の良さには舌を巻いた。サム・ライミ監督はここまで溜めていたエネルギーを一気に放出した感がある。「死霊のはらわた」「ダークマン」の頃のパワフルなライミが今、鮮やかに甦った!悪役のDr.オクトパスも実に魅力的。対決シーンの迫力には手に汗握る。相変わらずオバサン顔のヒロインの魅力は皆無だが、その欠点を補って余りある長所をこの映画は持っている。評価はB+だ。

ダニー・エルフマンの音楽もご機嫌で爽快。ただしテストスクリーニングの結果、相当の規模で再編集が決定し音楽の修正が必要になったが、エルフマンはすでに別の映画に着手していて手が空いていなかった。そのため、ジョン・デブニーとクリストファー・ヤング、スティーヴ・バーテクが新たに曲を提供することになり、全体としての統一感が損なわれたのは実に残念であった。

それにしても救い難いほど容姿の色褪せたキルスティン・ダンストだが、そろそろ第3作目でお役御免にして貰いたい。007やインディー・ジョーンズ・シリーズみたいにヒロインは毎回交代で良いではないか。



2004年08月18日(水) <シュレック2>は第1作を超えたのか?

お伽噺の世界では最後に結ばれて幸せになれるのは美男美女ばかりで、例えば「美女と野獣」にしてもどうしてふたりはそのままの姿では幸せになれないのか?何故野獣は最後に王子に変身する必要があるのか?人間の価値は外見ではなく、その心にあるのだというのが主題なのではないのか?と、従来の童話に対して異議を唱える姿勢=反骨精神にこそ映画「シュレック」の面白さはあったのだと想う。技術的には素晴らしかったけれど、物語展開が凡庸だったピクサーの「モンスターズ・インク」を抑えて第一回アカデミー賞長編アニメーション部門を受賞できたのも、その型破りなユニークさが評価されたからなのだろう。

しかし「シュレック2」はどうか?確かにプロットはよく練られていて退屈はしないのだが、残念ながら筆者には前作の二番煎じにしか想えなかった。結局「シュレック2」の主題も<人は見かけだけじゃない、心なんだ。>という、前作と大同小異のことを言っているに過ぎない。だからこの映画の評価はB-である。

新キャラクターの<長靴をはいた猫>は秀逸。ディズニー作品のキャラクターのパロディ(虐待?)も前作より過激さが増していて楽しい。アイズナー会長と喧嘩してディズニーを追い出された製作総指揮ジェフリー・カッツェンバーグの積年の恨みがこめられており、しゃれにならない迫力がある。

しかし前に述べた理由により、「シュレック2」が今度のアカデミー賞受賞で受賞するのは難しいだろう。「シュレック」は3作目、4作目も企画されているらしいがマンネリ化は避けられそうもない。

音楽の出来の悪さも気になった。良く言えばバラエティに富んでいるが、悪く言えば統一感がなく散漫。これは往年のディズニー作品の方に一日の長がある。



2004年08月14日(土) 大林宣彦監督の最新作は14分の短編映画である。

大林宣彦監督が久しぶりに音楽アーチストのプロモーション・ヴィデオ(PV)を撮った。まだ「愛は勝つ」が大ヒットする前の無名時代のKANのPV「BRACKET」以来、実に16年ぶりである。余談だがKANは大林作品「おかしなふたり」「夢の花・大連幻視行」「異次元OKAYAMA・モモとタロのかくれんぼ」等の音楽を担当している。

CANCIONとはスペイン語で<うた>という意味を持つ言葉で、古谷智士と繁本穣のふたりからなるユニット。大林映画ファンだったふたりが、アコースティックギターを持って監督に直談判し、目の前で「嘘つき」など3曲演奏したところ、大林監督は「君たち、僕を泣かしたね。」とつぶやき、申し出を快諾したという。

今回制作されたのはPVだけではなく、ふたりを主演とする14分の短編映画も同時に制作された。その短編映画本編とヴィデオ・クリップはここ(クリック!)から観ることが出来る。

大林監督は「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」の尾道三部作が有名だが、実は新・尾道三部作の掉尾を飾る「あの、夏の日〜とんでろじいちゃん」以来6年間、尾道から遠ざかっていた。監督の古里に対する想いと、尾道市の街づくり(街おこし)の方向性に齟齬が生じてきたからである。

筆者も大学生の頃から何十回となく尾道を訪れ、ロケ地巡りをしたり、実際に大林映画のロケを見学させて貰ったりしてきたのだが「転校生」に登場した鄙びた風情のあった尾道駅周辺も再開発で巨大なビルが建ち並ぶよそゆきの顔をした見知らぬ面持ちになってしまったし、「さびしんぼう」や「あした」等に登場した雁木(がんぎ)は今はもうない。そんな風にして時と共にいつしか僕の足も尾道から遠ざかっていった。

大林監督は「なごり雪」を撮った大分県臼杵に新たな日本の古里を見いだし、臼杵から発信する映画作りを決心されたばかりである。なんと土地まで購入されて映画の名残館「クランク・イン!」をオープンされている。

そんな、ある意味では尾道と決別された大林監督が久しぶりに古里でキャメラを回す。CANCIONのふたりが「転校生」で小林聡美が駆け抜けた通学路を、「時をかける少女」で原田知世がタイム・スリップした神社を、「さびしんぼう」で富田靖子が自転車で走り込んだフェリーを、そして「ふたり」で瀕死の中嶋朋子と石田ひかりが手を握りあった坂道を彷徨う。これがどんな意味を持つのか、果たして尾道映画再生へと繋がっていくのか、その答えは貴方自身が視聴してじっくりと考えてみて下さい。



2004年08月07日(土) 韓流怪奇映画 <箪笥>

今、韓国映画には勢いがある。まあ、確かに「シルミド」とか「ブラザーフッド」「ラブストーリー」のような、どうしようもない駄作はあれど、一方で「ほえる犬は噛まない」「殺人の追憶」を撮ったポン・ジュノ監督みたいな途轍もない天才が現れたりする。正に玉石混淆の状態である。やはりこの状況は現在映画の製作本数が多いことに起因するのだろう。日本で喩えるならば、成瀬巳喜男・小津安二郎・黒澤明・木下恵介らが活躍した1950年代、あるいは松竹ヌーベルバーグ、日活プログラムピクチャーが全盛を誇り、鈴木清順・増村保造ら破天荒な監督たちが気を吐いた狂騒の60年代と状況が似ている。

そんな韓国からホラー映画の秀作が届いた。「箪笥」の評価は傑出したB級映画という意味を込めてB+である。

「箪笥」という作品は館(やかた)が主人公という意味ではヒッチコックの「レベッカ」、ロバート・ワイズの傑作「たたり」、最近の作品ならアメナーバルの「アザーズ」を彷彿とさせる雰囲気がある。また、幽霊の造形については「リング」「呪怨」などジャパニーズ・ホラーの影響が色濃い。しかしながら少なくとも「アザーズ」よりは脚本の出来が数段上だし、映画の完成度においても「リング」や「呪怨」を凌いでいるかも知れない。

とにかく耽美である。美人姉妹が主人公という設定が良い。映画冒頭から印象的な俯瞰ショットで始まるなど演出の映像センスが光っている。室内装飾も凝っており、怪奇映画としての堂々たる風格がある。意外な結末も練りに練られており、ドリームワークスが史上最高額でリメイク権を獲得したというのも頷ける。同じドリームワークスが買った「猟奇的な彼女」よりも「箪笥」の方がハリウッド・リメイクが早く実現しそうな予感がする。

面白いなと想ったのは欧米のホラー映画って恐怖の対象が「悪魔」だったり「狂人」や「疫病」だったり、襲ってくる理由がないんだよね。理不尽なんだ。「エクソシスト」だって「悪魔のいけにえ」や「13日の金曜日」「エルム街の悪夢」「ゾンビ」「エンゼル・ハート」だってみんなそう。神の怒りとか最後の審判といった類の宗教的な意味合いが強いから、対決する相手が神父だったりすることも多い。だから日本人の僕なんかにはどうもピンとこない。怖くない。

しかし日本の怪談の場合、「東海道四谷怪談」を例に挙げるまでもなく怨霊とか死者の恨みが恐怖の原因であることが最も多い。入江たか子さん主演の化け猫映画とか、「リング」「呪怨」だってそう。襲ってくる正当な?理由があるんだ。だから「箪笥」は明らかに日本の怪談に近いので嗚呼、同じ文化圏なんだなぁと非常に親近感を覚えた。結局、最も恐ろしいのは人の心なのである。



2004年08月04日(水) これはミステリーか? <スイミング・プール>

フランソワ・オゾン監督の「スイミング・プール」が評論家を中心に評判だ。しかし宣伝文句ではこの映画はミステリーだそうだが、果たして本当にそうだろうか?僕にはむしろ「ビューティフル・マインド」と同一ネタの二番煎じという気がして仕方なかった。この映画に仕組まれたトリックに騙されるようでは映画ファンの風上にも置けないだろう。しかも「ビューティフル・マインド」は一定のルールを守っていて、真相が明かされると嗚呼、成る程と腑に落ちるのだが、「スイミング・プール」はルール無視で脚本が破綻しており矛盾だらけである。これはフェアじゃない。(以下ネタバレあり)

大体オゾン監督が過去にこの映画の主演でもあるシャーロット・ランプリングと組んだ「まぼろし」を観ていれば、「スイミング・プール」の主人公は「まぼろし」のヒロインの延長上にあることは直ぐに判るだろう。「まぼろし」の最後でランプリングは失踪した夫の幻を見いだし、その幻に向かって彼女が駆けていくところで映画は終わる。「スイミング・プール」はその白昼夢の続きに位置するのである。

評論家はランプリング演じるサラが赤を基調とした世界に住み、一方でサラが翻弄される若い娘ジュリーのイメージが青を主体としているその色彩設計を褒めているようだが、まあ確かにスタイリッシュではあるがそれ以上でも以下でもない。だからどうした?って感じ。そういう訳でこの映画の評価はC程度だなぁ。

むしろこの映画で最も驚異的で、一見の価値があるのは惜しげもなく披露してくれるランプリングの衰えぬ裸体であろう。彼女は1946年生まれ。彼女が一世を風靡したのは何と言ってもリリアーナ・カヴァーニ監督の「愛の嵐」(1973)であろう。ナチス親衛隊のダーク・ボガードに弄ばれたユダヤ人少女役。その退廃的な雰囲気の中、ランプリングの艶めかしい肢体は強烈な印象として残った。しかし「スイミング・プール」での彼女の齢は既に57歳である。にもかかわらずその裸体は「愛の嵐」の頃と全く変わりのないプロポーションを保っていたのだから腰を抜かした。あまりに乳房の形が奇麗なので「これはシリコンを注入しているに違いない。」などと下司の勘ぐりをしたのだが、彼女が横たわるとその形態が変わるのでシリコンでないことが判明してさらに驚いた。ひや〜、こりゃあ現代の驚異だわ。シャーロット姉さん、一瞬でも貴女を疑ってご免なさい。お見それしやした。


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雅哉 [MAIL] [HOMEPAGE]