東京の片隅から
目次|きのう|あした
今年の紅白は無観客だったけど、ドタバタ騒ぎがなくてちゃんと歌を聴かせる構成でよかったと思いますよ。毎年これでいいんじゃなかろうかと思います。
スキーに行ってきた。去年は少雪で行かれなかったスキー場で、いつもお世話になっているので、少しでもお金を落としたかった、というのもある。 行き帰りは車、スキー場ではリフトと食堂での受け渡しくらいしか人と接近しない。 食事も時間をずらして通気のいいところで。 寒かったのでサージカルマスク+フェイスマスクの完全防備。 この時期にしては雪も多く、コンディションもよかった。もっと心置きなく行かれる日が来ればいいな。 来年はどうなるだろうか。
本当に「創竜伝」が完結してるよ!アルスラーンも創竜伝も絶対完結しないと思ってたんだけどなぁ。
新しい職場で初めての仕事納めだが、いたって通常通り定時まで仕事なのであった。年末感ゼロだ。
鉄腕Dashは確かにTOKIOに新たな面を開いたけど、村や島という「泊まりがけで行って手入れし続けなければならない」時間的な拘束の強い真面目な企画は、かえって彼らの仕事の幅を狭めてしまったのではないか、と思うこともある。Dashで得たスキルが新たな仕事につながれば良かったのだけど。でもあれがなかったらここまでグループは存続しなかったのかもしれない。所詮部外者の考えだが、難しいところだ。
姉のところには図書カードを送ることにした。上の子は中学の入学祝いと合わせて少し多めに。もし現金がよければ交換してやってくれ、とメールしたが、上の子は漫画を買って終わっちゃうんじゃないかなぁ、と返信があった。今はジャンプコミックスも380円じゃないもんね。
叔母たちからお年玉を預かったと連絡が来たので、実家に寄った。叔母ときょうだいからであった。姉のところには何か送らねば。
そういえば、今年は街にクリスマス感が薄かったと感じた。 ディスプレイはクリスマス仕様になっているのだけど、あまり音楽もなく、このご時世だからか浮かれて出歩く人も少ない印象。 海外のクリスマス風景を見ても、ロックダウン中だったりそこまで行かずともいろいろ制限があったりするようで、どこの国でも同じ感じかもしれない。 音楽番組を見ていてもいわゆるベタなクリスマスソングはもうないんだよね。だから余計そう感じるんだろう。
2020年12月23日(水) |
「ホモ・サピエンスの涙」 |
ロイ・アンダーソン監督の新作。原題は「無限について」らしい。 原題も謎だが、邦題も謎。確かに泣く人は結構出てくるけど、それがこの邦題に結びつくのか。前作の「さよなら、人類」といい、いつもアンダーソン映画の邦訳は謎なんだけども、多分ちょっと古めのJ-POPが好きな人がいて、前作はたまの「さよなら人類」で今作はスターダストレビューの「木蘭の涙」あたりから引っ張ってきたのかな、と思っている。
タイトルが出てくる場面で、夜空に星が浮かぶように、真っ暗な画面に白い小さな点が増えていき、やがてアルファベットになる。それだけでももう素晴らしいのであった。あれがこの映画の全てを表している気がする。
1カットの長回しで、様々なショートストーリーが展開される。物語の冒頭で場面の輪郭を語る女性の声。監督はシェヘラザードをモチーフにしたらしい。ちょっと「夢十夜」を思い出させる。 とはいってもアンダーソン監督なので、短いシーンの間に「何か」が起こってしまうのか、それとも何も起こらないのか、見ているこちらはかなりの緊張感なのであった。なかなか心臓に悪い。
ほとんどがスタジオでセットを組んで撮影し、デジタルで組み合わせたとのことで、美術スタッフの凄腕に唸る。軍隊の行進シーンの背景以外は全部セットとのこと。 しかし作り物だからこその色彩や質感の統一感が素晴らしい。室内の風景はハンマスホイを思い出させた。
午前中半休を取って朝から映画を見てから出勤した。 なぜかというと朝一とレイトショーしかやっていなかったからである。 普段どおりに起きて、普段よりちょっと遅く家を出て、途中の駅で降りて、映画を見る。 映画を見終わって気分がいいところで早めのお昼を食べて出勤。 午後は仕事。
見たのはロイ・アンダーソン「ホモ・サピエンスの涙」。相変わらずシュールな世界であった。
ドイツだかどこかで、大人数での集まりは禁止されているが葬儀は例外とする、のような通達に対し、クリスマスはチキンのお葬式をやるから集まっていいんだ、という屁理屈があったらしく、いやそれはダメだろうと思いつつ、山田君座布団1枚、と言いたい気分はある。
今年のクリスマスケーキは何にするかでしばらく悩んでいた。 大体どこも同じ内容なので、近所のチェーン店は一通り頼み終わっている。 子どもに聞いたら「チョコレートのブッシュドノエルがいい」とのこと。十中八九どうぶつの森の影響である。 調べたら、途中下車はするけど家からは比較的近いケーキ屋にブッシュドノエルがあった。 チョコレート味ではなくコーヒー味であったがそれでもいいというので、会社帰りに予約済した。 ホールケーキよりは割高なのかもしれないが、場所を取らなくていいし、量も少なめなので、飽きる前に食べ終わりそう。
子世帯のミニキッチンを撤去してクローゼットにする工事。 もう使わないところは全部止めることにした。 キッチンの撤去と電気配線の始末は自分たちでできるのだが(解体は楽しい)、給排水とガス管の工事は業者に依頼した。 撤去したミニキッチンは実家から軽トラックを借りて、粗大ゴミとして持ち込んだ。 11月から週末の時間のあるときにのんびりやっていたが、年内はこれでおしまい。 来年になったら壁を貼って、床の欠けを埋めて、棚を入れる。 まだ食器棚が残っているので、こちらもぼちぼち整理する予定。
粗大ゴミを集積所まで持って行くために、実家に軽トラックを借りることにした。 お礼をといっても受け取ってもらえないだろうから、会社帰りに谷中銀座の腰塚ハムでハムやウインナーやコンビーフなど、いろいろ少しずつ購入。 老夫婦二人なら夕食のメインにもなるだろうし、母の調子が悪ければ父もこれなら料理できる。 美味しそうだな、今度自分たちでも買おうかな。
2020年12月17日(木) |
「西のはての年代記」 |
ル=グウィン「ギフト」「ヴォイス」「パワー」西のはての年代記シリーズ、読了。
みっちり組まれた世界設定はさすがル=グウィンだなぁと・・・。本の冒頭に地図があるだけでもワクワクですよ。 そして人物の造形が重層的。善なる面と悪なる面の両面が自然。 あと、主人公の一人称で語られるのが何だか新鮮だった。(「闇の左手」は一人称小説だけど) 全体を通して「ことば」「文字」がキーになっていて、結構重い話ではあるんだけど、ページをめくる手は止まらない。 主人公たちが自分の「ギフト」と向き合う過程は「影との闘い」を思い出したり。「ギフト」をどう使うか、というのはキリスト教世界の考え方かもしれないけど、東大入学式の上野先生式辞にもあったように、普遍的なテーマだと思う。
会社でアンケートに答えるように言われたストレスチェック、あまり意味ないなぁと。 これで「問題あり」と出るのはよほどの状態のときだ。
子どもにあれこれ本を薦めたら「お母さんみたいに読書ガチ勢じゃないから」と言われてしまった。 ええ・・・? 4年なら「ゲド」や「ナルニア国」はちょっとまだ早いかもしれないけど「冒険者たち」3部作、ケストナーやランサム(古いとは思うけど)、「はてしない物語」「モモ」神話伝説民話の類、ルパン、ホームズ、乱歩とか、いわゆる名作文庫あたりに載っているのは既に読破してるんじゃないの? 何か本当に違う人種なんだなぁということをひしひしと感じる。
ボールペンの芯を使い切ると気分がいいですねえ。
ベランダからふたご座流星群を見る。 今夜は雲もなく、絶好の天体観測日和だ。 流星群のきらめきは星の今際の際の最後の輝きなんだな、とふと思う。 オリオン大星雲も見える。 まだベテルギウスも見える。
最近テレビCMにアニメーションが増えたのかもしれない。 実際はどうだか知らないけど、これまではタレントを使っていた会社があれ、実写じゃなくてアニメになったんだ、と思うことが何回かあった。 広告宣伝費を削っているのかもしれないし、撮影現場の密を避けたせいかもしれないし、2次元のキャラクターならスキャンダルで炎上しないしという判断かもしれない。 これが流行として一過性のものなのか、それともこのままそういう流れになるのか、それはまだわからない。
那須雪絵の読み切りマンガに、顔のいいアンドロイドをモデルとして売り込もうとするけど今どきは全部CGだったかアニメだったかになっているので需要がない、という話があったな。
帰宅時の電車の車内、酔っ払いがとても少ないというかほとんどいないのが、例年と違うところ。電車の中が酒臭くない。忘年会をやらないところも多いんだろうなぁ、と思う。うちの会社もやらない。
このところの社会の空気に既視感があってそれは何なのか考えていたんだけど、あれだ、昭和末期の「自粛ブーム」。 天皇陛下がご病気だから歌舞音曲は控えるべしみたいな空気が蔓延していて、お祭りも延期されたり縮小されたり、テレビもバラエティ番組を控えたり、CMの台詞が不謹慎だとして台詞がなくなったり(あれはあれでさらに不謹慎感を増した気がする、だってにやけてる井上陽水だよ?)、なんというか窮屈な感じだった。 病気だからいつまでという期限がない。いつまでこれが続くんだろうと子どもながらに思った。
今もあのときに似ている。
あくまでシングルカットされてテレビで流れたりする曲での印象だが、ハロープロジェクトの一人称は歌っている当人たち=若い女性という印象を受けるが、AKBや○○坂の方は曲の作り手や聴き手=男性という印象を受ける。 一人称が「僕」だからだろうかとも思ったが、女性が「僕」と歌うのは別に今に始まったことではない。浜崎あゆみだって「僕」だった。今年流れまくっている「紅蓮華」も「僕」だが、あれはアニメのオープニングで主人公の立場から歌っているから「僕」である必然性がある。 秋元康だからかとも思ったのだが、彼が昔手がけた「おニャン子クラブ」は一人称が「私」だったような記憶があるし(小学生くらいなのでうろ覚えだが)歌い手のアイドルの一人称感が出ていたので、あくまで「今」の秋元康及びその周辺のおじさんたちが自分の気持ちを10〜20代の女の子に語らせてるんだろう。 って書くとなんだか歪んでいて気持ち悪いな・・・。 でも最近までそれが受け入れられていたわけだ。
おなかがへるとかなしくなるんだな
袖に刺繍が入っているブラウス、かわいいと思って買ったんだけど、着てみたら刺繍が肌に痛痒くて着続けられない。 今年に入ってから乾燥肌が進行していたけど、ここまでとは。 どうしようかなぁ・・・子どもが着られそうなら着られるまで待つ(来年か再来年くらいには着られるだろう)か、ダメなら解体して何かにリメイクか。
年末気分が薄いのはまだ平蜘蛛が爆発していないからだきっと。
2020年12月05日(土) |
サンタクロースっているんですか |
子どもはいつまでサンタクロースを信じるのか。 今年はちょっと疑っている。これだけ子どもがいたら一人じゃ間に合わないんじゃないか、トナカイも足りないんじゃないか、家の中に置くのは不法侵入なんじゃないか。 サンタは世界各地に支社がありそれぞれ分担していること、配達はクロネコヤマトみたいに一斉に配ってるんじゃないかな、荷物はベランダや玄関に置き配するからおばあちゃんかおじいちゃん(朝早い)が家の中に入れておいてくれたのかも。 まぁプレゼントはせいぜい小学生までかなぁ。
今週の通院で、母の胃に入れていた経管栄養チューブが抜けた、と連絡があった。 寒くなってきたので、湯船に入りやすくなるのはいいことだ。 本人はまだ調子が戻らないのに不安があるようだが、こういうのは時間がかかるよ、と伝える。 心細いのだろう、愚痴っぽくなっている。 まだ本調子ではないので、例年のお正月の集まりも中止する方向。 一斉に集まるのはナシにするが、年明けに顔を出そうと思う。
そういえば、この前展覧会を見たときに図工の先生を話をする機会があった。6年生は将来の夢を絡めて自画像を描いたのだが、最近はなかなか漫画チックになってしまって指導が難しいとのこと。まぁ私が子どもの頃もそうでしたからねぇ、ずいぶん先生に直されましたねぇというような会話をした。 水彩だから漫画チックな表現を脱却するのが余計に難しいのもあると思う。まず鉛筆で下書きをする。そのあとよほど濃く塗らないと下書きの線は消えない。人中や法令線があるのは理解しても、それを実際に線で描いてしまうと言うのは抵抗がある子も多いだろう。特に女子は。 これが油彩やアクリルガッシュのような塗りつぶせる画材なら、面で表現できるようになる。そうなるとまた表現が変わるのではないか、と思う。
もうひとつ先生の心配事は、夢を何も描けない子がいることのようだった。ありすぎて描けないならわかる。漠然とし過ぎていて具体的な職業を絞れないのもわかる。でも本当に何もない子がいるのだと。私はなりたいものがあったのだが、でもそれは少数派で、そういえば自分の時でも何もない子は大人に受けの良さそうなものを適当に書いていたなぁ、と思う。特に男子はの場合、思いつかないときは「プロ野球の選手」が鉄板だった。女子の場合「お母さん」はいても「お嫁さん」はいなかった。
積ん読が増えていく。いつも買っている作家さんなどの新作が出れば買う。目に留まったものも買う。ただ、読む時間がなかなかないのと、読む精神状態を作り出すのが難しい。あまりも気持ちがざわついていると、なかなか活字を見ても入ってこない。本当はこういうときは絵を描くといい。それもイラストではなく「塗る」作業を伴うもの。絵の具を出すのはなかなか難しい。「大人の塗り絵」的なものを買ってみようか。
買っておいたアドヴェントカレンダーを出した。さすがにチョコレートにつられて早起きしてくれる年でもなくなったが、朝の楽しみが一つあるというのはいいのかな、と思う。そしてクリスマスプレゼントはもう手配済みである。今年は準備万端だぜ。
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