ヒトリゴト partIII
 Moritty



「弱さ」の意味=「強さ」

2004年01月28日(水)



この前の日記に「人間の弱さと愚かさの意味」について書いてから、実は密かにその意味を考え続けていた。そして、今朝出勤途中にふと気付いたのだけれども、弱さは時に、強さになるのではないか。例えば、樹齢700年の銀杏の木と葦の葉の強さを考えてみる。樹齢700年の銀杏の木は風が吹いてもびくともしない。葦の葉は少しの風でゆらゆら揺れる。銀杏の木は強く、葦の葉は弱い。でも、風速50m級の大型台風が来たとき、さすがの700歳の銀杏も折れてしまうことがある(実際に近所の遊行寺の大銀杏は折れてしまったっけ)。そして、それは二度ともとに戻らない。一方の葦の葉と言えば、風速50mであろうが、100mであろうが、倒れてもまた起き上がるのだ。つまり、弱い葦の葉は、実は銀杏の木より強いということなのではないか。そして、私が求めている強さは、多分銀杏の強さだったのだけれども、実際私に必要なのは葦の強さなのかもしれない。そう言えば、「人間は考える葦である」って、そういう意味も含んでいるのだっけ…??

な〜んて、一人で納得した。後は、「愚かさ」の意味だ。
うーん。。。

(写真:麻布の燃える空)



心の錯覚

2004年01月26日(月)



偏頭痛がしたりして、あまり体調が良くないせいかもしれないけれど、とても落ち込んでいる。身体がよろけて、何かにつかまろうと思って手を伸ばしたら、つかまるものがないと気付いたときのような不安感が心の中に巣くっている。

人は、何かを失いかけて初めてその重要性に気付くことが多い。砂時計の砂は、たくさんあるときはそれが減っていることにすら気付かないけれども、残りが少なくなればなるほど、落ちる速度が増しているかのように砂の粒が減っていくのが目に見えて分かる。でも、実際は落ちる速度は常に同じで、少なくなるほど減るのが速く感じるのは見る者の錯覚に過ぎない。時間も同じだ。若い時は限りなくあるように思うが、残された時間が限りあるものだと気付いたとき、時間が過ぎ去っていく足音すら聞こえるように感じる。人も同じ。当たり前のように一緒にいる人が、どこかに行ってしまうとわかったとき、その人の存在、共に過ごす時間の貴重さに気付く。それほど大切なものなら、何故たくさんあるときから大切にしなかったかと後悔する愚かな生き物は人間だけなのではないか。自分では抱えきれずに、神に救いを求めてしまうほど弱い生き物は、人間だけなのではないか。全てのものに意味があるとしたら、人間の「愚かさ」と「弱さ」の意味というのは、一体何なのだろうか。

(写真:大船観音)



人間的な生活

2004年01月22日(木)


十数年来の親友が姫路に引っ越すことになった。旦那さんの転勤のためだそうだ。その旦那と言うのは、生まれてからずっと同じ土地に住んでいて、地元を離れるのは初めてとのこと、かなりストレスを感じているという。新しい土地に移ると言うのは、確かに始めは緊張感もあるし慣習も違って苦労もあるだろうけれど、それはそれで楽しめるような気がする。少なくとも私は楽しもうと努力すると思う。そんなストレスを感じている夫の一方で、妻は姫路に住むのをとても楽しみにしている。やはり女性の方が順応性があるのかもしれない。今、東京の下町に住んでいる彼女にしてみれば、姫路は「空気がおいしい」「水がおいしい」「人間が少ない」「ゴルフ場が近い」「物価が安い」から、今よりずっといいそうだ。きっと、東京に住んでいるよりも人間的な生活ができるのだろう。実に非人間的な生活をしている私としては、ちょっとうらやましかったりする。



不条理

2004年01月19日(月)



陶磁器やオペラで知られる美しいドイツの都ドレスデンは、1945年連合軍の空襲により一夜のうちに焼け野原となってしまった。当時、捕虜収容所にいたカート・ヴォネガットは、そのときの実体験をもとに「スローターハウス5」という小説を書いた。SF小説ではあるけれども、テーマは戦争の不条理というところだろうか。著者の人生に対する絶望感の漂う作品だった。

イラクに派遣される自衛隊がインタビューに答えるシーンと、大虐殺を連想させるインフルエンザの鶏が埋められるシーンがテレビに繰り返し流れているのを見て、スローターハウス5の中で主人公が言うセリフを思い出した。確か、こんなのだった。

「願わくば、私が変えることができないことを受け入れる落ち着きと、変えることが出来ることを変える勇気と、その違いを見極める知恵を授けたまえ」

何故か、とても不安な思いに駆られる今日この頃です。

(写真:火事のように真っ赤な夕焼け)



日本語って面白い

2004年01月15日(木)



東京には空がない、と千恵子さんは言ったけれど、近頃の東京は真っ青な空が広がっている日が多い。

私の気分は天気に左右されやすいと思う。誰でもそうなのかもしれないけれど、雨が降ると落ち込んで、晴れると気分も晴れる。その傾向が人一倍強いように感じる。落ち込み気味ではあるけれど、太陽のお陰で何とか元気に生きている。そう言えば小さい頃から落ち込むと空を眺める癖があった。そして、空を眺めているうちに元気になった。その理由は、もしかして太陽の暖かさを感じたからかもしれない。

話は全然変わるのだけど、言葉の語源を調べていて、「さようなら」の意味を知った。「左様なら」という言葉から来ていて、「そうであるならば、仕方ないですね。」という意味だ。「あばよ」も「さあらばよ」で似たような意味。因みに、英語のGoodbyeは"God be with you"(神様があなたとともにいらっしゃいますように)という祈りの言葉である。中国語の「再見(サイチェン)」は言葉どおり再会を願う言葉であり、韓国語の「安寧(アンニョン)」は「平穏でありますように」という願いの言葉である。フランス語やイスラム語も似たような意味だ。そう考えると、日本語って面白い。「私は別れたくないんだけど、しょうがないなぁ…。」ふふ。

(写真:飛行機雲)



新たなる誓い

2004年01月13日(火)


今朝はとても寒かったが、午後には雨も上がりとても気持ちの良い天気になった。しかし、連休も終わり、いよいよ仕事も本格稼動しなければならないので良い天気を満喫する気分にはなれない一日だった。

昨日、今朝、そして今夕と立て続けに電話会議があり、英語力不足(特に語彙力)の悩みも本格化してきた。その昔、アメリカに住んでいた頃は英語で夢を見るほどスラスラと出てきたものだが、今は簡単なフレーズですらつかえてしまう。英語字幕の出るDVDでドラマを見ていても、信じられないくらいたくさんの知らない単語があることに気付く。もちろん、学生が使う英語と仕事上で使う英語はレベルが違うが、日本語のドラマならばたとえ法廷用語であっても知らない単語は殆どない。専門用語ならまだしも言い訳はたつが、日常会話だって知らない言い回しが結構あったりする。顔の皺が増加するのと反比例して脳の皺は減少していくわけだが、それにしても近頃の記憶力の衰えには目を見張るものがある。「寝ている間にあなたも英語が話せるようになる」みたいな怪しげで高額な学習セットが販売されているけれど、思わず本気で購入を検討してしまう。しかし、『学問に王道なし』という諺の通り、やっぱりこつこつ学んでいくのが一番の近道なのかもしれないと思い直し、一日三語の新しい英単語を覚えることにした。三日坊主の私のことだから、いつまで続くやら。(一日一語にしとこうかしらん。)

(写真:六本木の夕景)




職人 vs. 管理職

2004年01月11日(日)



思えば日記を書き始めてそろそろ一年になる。当初は寝る時間も惜しんで毎日書いたのだけれども、案の定長続きはせず、最近は一ヶ月に数回のペースになってしまった。(12月は1回しか書けなかったし。) その理由は、必ずしも忙しかったとか、怠惰だったとかではなく、私が自閉症気味だったせいもある。日記を書かなかっただけではなく、外に対して自分を出すことがシンドイと感じるようになってしまっていた。おかしな話だが、会社での責任が重くなるのと反比例して、自閉症がひどくなっていったような気がする。もちろん、原因はそれだけではなかったと思うが、一因であることは確かである。某中央線で線路に飛び込む中間管理職の悲哀が、何となくわかるような気がする。編集者をやっている友人と久しぶりに話をしたら、こんなことを言っていた。「私は管理職には絶対なりたくない。管理職の立場にいると、職人として良い仕事ができなくなるから。」本田宗一郎や松下幸之助の偉大な例もあるが、一般的には正しい考え方なのかもしれない。自閉症気味になってしまったということは、仕事人としての自分の生き方をもう少し真剣に考えなければいけないというサインなのかもしれない。大袈裟に考えすぎているのかもしれないけれど、新年だから少し真面目に考えてみよう。

(写真:空に向かってすくすくと伸びるサボテン)



新年

2004年01月05日(月)

今日は仕事始め。お正月休みに入る前は、この長い休みをどう過ごそうかなんて考えていたけれど、終わってみればあっという間であった。人生もこんななのかな、と、正月早々ふと思う。今この瞬間は長く感じるけれど、終わってみれば人の一生は実はとても短いのだ。何をしようかと考えている間に、時は過ぎ、気が付けば終わっている。

さて、今日は何をしただろう。病気の母が家に帰っているため、今実家に泊まっているので、ちょっと早めの朝6時に起床した。目が覚めたら寒かったので暖房をつけ、テレビを見ながら身支度をして、仏壇にお線香を上げてハム&レタスのせトーストとコーヒーの朝食を済ませた。7時前に家をでて、JRと地下鉄を乗り継いで8時半に会社に着いた。また、コーヒーで一息いれてPCを立上げ、メールチェック。プレゼン資料作成などの準備をしていたらランチタイムで、和食に飽きた会社の同僚とアンチョビとにんにくのピザを食べた。引き続き資料作成をしていると、もう真っ暗。家に一人でいる母の様子が心配だったので早めに帰宅した。地元のデパチカでお惣菜や野菜を買って食事。11時から毎週月曜定例の電話会議があってすっかり仕事モードで憂鬱になり、今、こうして日記を書いている。これからお風呂に入って就寝する。そして、また明日、同じような一日を繰り返すわけだ。ただ、この「同じような一日」も永遠ではない。過去を振り返ってみると、いろんな一日があって、そのときは永遠に続くと思って過ごしていたその一日は、二度と戻ってくることはない。だから、今という時はとても貴重なのだ。

そんなことを考えていて、思いついた今年の新年の誓いは「今を大切にすること」。毎年、新年の誓いをしながら、実行することはあまりなかったけれども、今年こそ実行したいと思う。

<< >>
Latest Index Comment Home

-->