阪神の優勝が決まった。 あとはパ・リーグの優勝を待つばかりである。 昨日そのことで、西武ファンと言い合いになった。 原因は、先週末の西武vsソフトバンクの話になった時にその人が、「あの3連戦は1勝をそちらに譲っただけ。おれの中じゃ3連勝やった」と言ったのを聞き、カチンと来たぼくが、その人に対して意地悪い質問をしたことに始まる。
「今年、もし西武がプレーオフで勝ち抜いて、その勢いで日本シリーズを制したとしたら、やはり日本一と言われるんですかねえ?」 「日本一やん」 「そうですかねえ」 「だって、日本一決定戦やないね」 「おかしいと思いませんか?」 「何でおかしいんかねえ?」 「パリーグで3位じゃないですか」 「パリーグでどうあれ、日本シリーズで勝ったほうが日本一というのがルールやないね」 「それじゃあ、阪神ファンも納得せんでしょう」 「阪神ファンがどう思おうと、勝てば日本一やん」 「西武ファンはそれでもいいんですか?」 「いいよ、それがルールなんやけ」 「心情的にもそうですか?」 「そうよ」
何かと言えば、すぐにルールを持ち出す。 西武の伊東監督も同じようなことを言っていたし、この人はきっと伊東監督と一心同体なのだろう。 西武もいいファンさんを持ったものである。
「だいたいプレーオフという制度がおかしいんですよね」 「おれはそう思わんけど。下位のチームにもチャンスがあるし、第一、消化試合を作らんだけいいやん」 「それは後半戦のことでしょ。前半戦はちゃんと消化試合やっているじゃないですか」 「いや、それはいろいろ事情もあることだし…」 「それに、ホークスとライオンズが逆の立場で、そういうことになったとしたら、同じこと言いますか?」 「言うよ、そういうルールなんやけ」
その後、その人は「ホークスファンは巨人ファンに似てきた」などと言いだした。
「どこが巨人ファンに似てるんですか?」 「勝ちにばかりこだわって、負けたら選手を非難する」 「じゃあ、違うじゃないですか。巨人ファンは負ける原因がわかっているくせに、清原を擁護するじゃないですか」 「‥そりゃそうやけど」 「ホークスファンは自分のチームの選手を非難することはしても、、阪神ファンみたいに相手チームの選手を『殺す』なんてことは言いませんよ」 「ああ、そうやったねえ。金本にデッドボール与えた時に、三瀬が言われたんやったねえ」 「甲子園では三瀬投手は出さんほうがいいでしょうね」 「いや、それは大丈夫」 「えっ?」 「だって、西武が甲子園に行くんやけ」 返す返すも、西武はいいファンさんを持ったものである。
久しぶりに仏教のことを書いたので、収拾がつかなくなり、ついつい長くなってしまった。 延命十句観音経については後日談もあるのだが、早く終わりたかったので、その部分はカットした。 ということで、後日談は、どうしてもネタが浮かばない時にでも書くことにしよう。
さて、今日の午前2時半頃、うちの近くで事故があった。 ぼくはすでに寝ていたのでわからなかったが、その時けたたましいサイレンが鳴ったと近所のおばさんが言っていた。
まあ、車が電柱にぶつかって、運転していた人が死んだという普通の交通事故だったのだが、これを新聞やテレビで取り上げていた。 テレビに至っては、何と全国ニュースである。 何でそういうことになったかというと、実はこの車は、パトカーに追いかけられていたのだった。 交差点を右折車線からではなく、直進車線から右折したらしく、それを見つけたパトカーがその車を追っていき、「前の車、停車しなさい」と言った。 ところが、その車は停まらずに、そのまま逃走した。 そして、何とかパトカーを巻いたのだが、運悪く電柱に激突。 パトカーがその車を見つけた時は、すでに電柱にぶつかった後だったという。
近所のおばさんからその話を聞いた時は、このへんは暴走車が多いので、ぶつかったのはてっきり若い兄ちゃんだと思っていた。 ところが、ニュースを見てみると、死んだのは40才の男性である。 分別のある立派な中年が、何でこんなことになったのだろうか。
だいたい、右折車線があるのに直進車線で右折したといって、いったい何点減点されるというのか。 おそらくは1点減点か、もしくはお小言をちょうだいするだで終わる程度のことである。 いくらバカでも、運転免許を持てるぐらいの頭を持っているのだから、そのくらいのことは考えたらわかりそうなものだ。 だけど、彼は停まろうとしなかった。
ということは、停まれない事情があったとしか考えられない。 その事情を、ぼくは飲酒だと思っている。 時間が時間だし、充分にあり得ることだからだ。 他にも無免許だったとか、覚醒剤や銃刀を所持していたと考えることも出来るが、酒が一番妥当なところだろう。 確かに30万円以上の罰金は痛い。 逃げたくなるのも人情である。 だが、そう簡単に逃げ切れるものではない。 仮に逃げ切ったとしても、警察のほうはすでに車種やナンバーを控えているはずだから、無駄な抵抗にすぎない。 逃げれば逃げるだけ罪が重くなるだけだ。
ところで、この事故についていくつかの新聞やニュースを見たのだが、どれも「追求は適法な職務行為であった」という警察の言葉で締めくくっている。 しかし、それで終わられると、どうも警察の追求の仕方に問題があるように思えてしまう。 悪いのは、あくまでも死んだ運転手のほうなのである。 どうしてマスコミは、運転手が停まらなかった理由について言及しないのだろうか。
2005年09月28日(水) |
延命十句観音経霊験記(5) |
それ以来、ぼくは鬱状態になることはなかった。 おそらくこれからも、そういう状態にはなることはないだろう。 それは、延命十句観音経のおかげで、深く悩みに囚われたり、縛られたりすることがなくなったからである。 というより、悩みを持った時、ぼくはこの経を唱えることにしたのだ。 すると、同じように霊験は現れる。 例のヘソの下が、何かすっきりした気分になるのだ。 そうなるとしめたもので、すでにその悩みは消えているのである。
ある時には知恵をも与えてくれる。 困った問題が起きた時、自分の頭であれこれと考えて解決しようとすると、失敗することが多いものだ。 しかし、いったんこの経にすべてを預けてしまうと、意外なところから解決法が見えてくる。 それがまた絶妙な解決法で、問題のほとんどはそれで解決してしまう。 まさに仏の知恵というものだろう。
よくよく考えてみると、ぼくはこの経と縁があったのだと思う。 きっと鬱状態というのは、その経に入る方便として、仏が与え賜うたものなのだろう。 だからぼくは崩れなかったのだ。 そして、その後も霊験を見続けることが出来たのだ。 今はそれが長いお経でなくてよかった、と感謝するばかりである。 面倒くさがりのぼくのことだから、仮に長いお経だったら、きっとすぐに飽きていたことだろう。 鬱状態から解放されたあとに、一度だけ、観音経(妙法華経観世音菩薩普門品)に挑戦したことがある。 が、「念彼観音力」とか「福寿海無量」といった有名な言葉は覚えたものの、お経自体は覚えられず挫折してしまった。
ところで、冒頭でぼくが唱えることが出来るお経は二つあって、その一つは般若心経だと書いた。 その般若心経は、十句経を覚え鬱状態から脱出した後、そう観音経に挑戦していた頃に、勢いで覚えたものである。 この経も霊験あらたかで、霊障に遭った時にこの経を唱え、何度も救われたことがある。 だがこの経は、それほどぼくとは縁がないように思えるのだ。 なぜなら、このお経を唱えると、いまだにとちってしまうからだ。 やはり、ぼくには延命十句観音経しかないのである。
さて、タイトルにわざわざ『霊験記』などと謳っているので、何らかの奇跡を期待した人もいるかもしれない。 そういう人は、これまでの話を読んで、拍子抜けしたにちがいない。 中には「ただ単に、精神状態が元に戻っただけの話じゃないか」と思っている人もいるだろう。 しかし、はたからどう思われようとも、あの日のぼくにとって、あれは確かに奇跡だったのだ。 今もその思いは強く持っている。 だからこそ信じられるのだ。
− 延命十句観音経霊験記 完 −
2005年09月27日(火) |
延命十句観音経霊験記(4) |
しかし、それで治ったわけではなかった。 その夕方にはまた鬱状態が訪れた。 翌日もそういう状況だった。 それからしばらく、霊験が現れ、また鬱状態が訪れるという、一進一退の状況が続いた。 それでも諦めずに、ぼくは延命十句観音経を唱え続けた。 すると、およそ2週間ほど経ったある日、二度目の霊験が訪れたのだ。
場所は帰りの電車の中だった。 その日は仕事の関係で遅くなってしまい、最終の何本か前の電車で帰ることになった。 ちょうど快速が出たばかりで、ぼくの乗った各駅停車は、乗客がまばらだった。 そのためゆっくり座って帰ることが出来たのだが、あいにくその日は本を忘れてきていて、何もすることがない。 そこで、この時とばかり、目を閉じて静かに口の中でお経を唱えることにした。 そうやって、いくつかの駅を過ぎた時だった。 どこからともなく、ぼくが口の中で唱えているお経が聞こえてきたのだ。
低い男性の声だった。 ぼくは、ハッとして周りを見回した。 しかし、ぼくの周りにはお経を唱えている人はいない。 そこで立ち上がってその車両の隅々まで見回してみたが、しゃべっているのは女性客ばかりで、男性のほとんどは眠っている。 そうやって、ぼくが落ち着きなくキョロキョロやっている間も、そのお経の声は聞こえていたのだった。
その時は気味が悪いと思っていたのだが、家に帰ってよくよく考えてみると、これも霊験なのだという結論に達した。 「ということは、このお経の力が、確実にぼくを回復の方向に向かわせているのだ」 そう思うことにした。
そして、それから10日ほどして、三度目の霊験が現れたのだった。 それは仕事中のことだった。 その日は朝からヘソの下が何かムズムズしていた。 ところが、仕事中にそのムズムズ感は火照りに変わった。 別に下腹に熱が出たわけではなく、ヘソの下のある部分が火照っていただけだ。 そのため、最初は「おかしいな」と思いながらも、気にしないようにしていた。 しかし、午後になっても火照りはおさまらない。 「何か変な病気にでもかかったのかなあ」 と思った時だった。 ぼくはあることに気がついた。 その日は朝から鬱ではないのだ。 「もしかして治ったんかなあ」と思い、あることを試してみた。 ぼくはある悩みに囚われたり、縛られたりして、鬱状態になっていた。 もし治っているとすれば、その悩みに囚われたり、縛られたりすることはない、と思ったわけである。
さっそく悩んでみることにした。 すると、不思議な現象が起きた。 その悩みが、頭の中からストンと例のヘソ下の火照りのところに落ちてきて、悩みを燃やしてしまったのだ。 燃え尽きた悩みのあとには、燃えかすだけが残っていた。 つまり、悩みという記憶だけが残っているということである。 何度やっても、その都度悩みはヘソの下で燃やされる。 およそ一時間後、ようやく疑い深いぼくの心は、鬱状態から脱出を認めた。 それまでがひどい状態だっただけに、その時の喜びといったらなかった。
2005年09月26日(月) |
延命十句観音経霊験記(3) |
その本には、この短いお経を唱えて起きた奇跡の実例が書いてあった。 が、奇跡とはいうものの、何も突飛なことばかり書いているわけではない。 精神的な病から救われたとか、ものの見方が変わって幸福を得たような話も書いてある。 いや、どちらかというと、眉唾物の話より、そちらの方に重点が置かれているような気がする。
そこにはこの経の実践法なども書かれているのだが、このお経の真理を追究しろなどといった難しいことは一つも書いていない。 書いているのは、ただ不断にこの経を唱えろということだけである。
その宗旨が知りたいという人や宗教マニア以外、宗教書を好んで手にする人などほとんどいないだろう。 もしいるとしたら、それはかつてのぼくのように、精神的に追いつめられている人だけではないのだろうか。 そういう人は藁をもつかむ思いでその本を手にしたはずだから、当然物事を論理的に追求する余裕など持ってないだろう。 もちろん、白隠禅師もそれを見越していた。 それゆえに、不断にこの経を唱えろとだけ言ったのだと思う。
とにかく、2ヶ月も鬱状態が続き、いよいよ追いつめられた感のある、ぼくの精神状態である。 それまで自分なりにいろいろ手を尽くしてみたが、改善のきっかけすら見えてこない。 そんな時に、このお経が目の前に現れたのだ。 先に、ページの折れた部分が矢印に見えて、その先にこのお経があったと書いたが、そのこと自体、妙に霊験めいた気がする。 「今はこれを信じるしかない」 そう思うに至ったぼくは、このお経に賭けることにした。 ということで、その日から十句経三昧の生活が始まった。
その翌日、早くも最初の霊験が訪れた。 仕事中にその経を口の中で唱えていると、急に眠くなってきた。 よくある睡魔というものではない。 これ以上目を開けていられない状態になったのだ。 仕方がないので、ぼくは休憩室に行き、少し横になることにした。 目が覚めてみると、頭の中がすっきりしている。 けっこう長く寝たような感じがしていたのだが、時計を見ると、まだ10分ほどしか経過していない。 これで充分だと思い、ぼくはまた仕事場に戻った。 それからしばらくして、あることに気づいた。 精神状態が、鬱ではないのだ。 といって、躁の状態でもない。 以前のような、普通の精神状態に戻っているのだ。
ちょっと寝たことがよかったのだろう。 そのことがあって、「もしかしたら、ぼくの鬱状態というのは、多分に寝不足が影響しているのではないか」と、ぼくはその時思った。 「きっと、十句経を唱えたことで、本来の自分が目覚め、その時点で一番必要なことをぼくにさせたのだ」 そう思うことにした。
2005年09月25日(日) |
延命十句観音経霊験記(2) |
そういう状態が2ヶ月ほど続いたある日、ようやく打開のきっかけをつかんだ。 たまたま寄った本屋で、ある新刊の本を手に取った時だった。 ふと手が滑ってしまい、その本を落としてしまった。 慌てて本を拾い上げると、あるページに折れ目が入っているのが見えた。 「まずいな」と思いながら、そのページを開いてみると、ちょうど折れた先が矢印のようになって、ある文章を指していた。 そこを見てみると、そこには“延命十句観音経”という、短いお経が書いてあった。
“延命十句観音経”、初めて聞く名前である。 どんなお経だろうかと説明を読んでみると、そこには『非常に霊験あらたかなお経で、古今この経に救われた人は数知れず』などと書いてあった。 うさんくさい宗教書にありがちな表現である。 ところが、よくよくそれを読んでみると、その経を広めたのは、臨済宗中興の祖と言われる、あの白隠禅師というのだ。 「嘘だろう」と思い、その本を一端書棚に戻し、宗教書のコーナーに行ってみると、そこに『延命十句観音経霊験記』なる本が置かれていた。 作者の欄を見てみると、確かに『白隠禅師』と書かれている。 疑い深いぼくは、その経について語っている本を探しだして読んでみると、やはり白隠禅師が広めたと書いてあった。
「白隠が『霊験あり』と言うのなら、嘘じゃないだろう」と思ったぼくは、先ほど落とした本と、『延命十句観音経霊験記』と、それを解説している本と、計3冊の本を買って帰った。
観世音 南無仏 与仏有因 与仏有縁 仏法僧縁 常楽我浄 朝念観世音 暮念観世音 念念従心起 念念不離心 延命十句観音経というのは、たったこれだけの短いお経である。 短いといえば般若心経も短いが、このお経はさらに短い。 解説書には、この短いお経の中に仏教の真理があるのだと書いてあった。 しかし、その時のぼくに、真理を追究する余裕などない。 ということで、解説書は飛ばして、『延命十句観音経霊験記』のほうを読むことにした。
2005年09月24日(土) |
延命十句観音経霊験記(1) |
昨日、お寺に行った時のこと。 納骨堂の中で、伯母が突然“般若心経”を唱えだした。 最初は中央に鎮座していた大日如来像の前で、次に墓の前で大きな声で唱えているのだ。 その納骨堂は狭く、その声は堂内に響いた。 堂内には他の参拝客もいたのだ。 ぼくたちは、静かに参拝しているその人たちへの申し訳なさと恥ずかしさで、納骨堂にいる間ずっと下を向いていたのだった。 とはいえ、そのお寺には、般若心経を唱えたらいけないという決まりはない。 逆に、般若心経を知っているだけでも、「感心感心」と褒めてくれるだろう。
ところで、ぼくは二つのお経を唱えることが出来る。 一つがこの“般若心経”で、もう一つが“延命十句観音経”というお経である。 そのどちらとも黙読で覚えたものではなく、声を出して、つまり体で覚えたものだから、このお経を聞くと、すぐに体が反応してしまう。 昨日は、赤面して下を向いていながらも、気がつけばぼくも小さな声で、伯母に合わせて唱えていたのだった。
ぼくがこれらのお経を覚えたのは、昭和61年だった。 20代後半のこの年に、ぼくは精神的に病んでいたことがある。 あることに悩みを持ってしまい、それから抜けられなくなったのだ。 それが極まって、鬱に近い状態にまで陥ってしまった。 朝から心が晴れず、ちょっとしたことで沈みがちになり、すぐに自分の殻に閉じこもってしまうのだ。 自然、人と接触することも避けるようになった。 一日のうちで心が晴れるのは、風呂に入っている時だけだった。 風呂から上がって、寝るまでの間はその状態が続いているのだが、朝になるとまた心が暗くなった。
こういう状態が3ヶ月近くも続いたのだ。 とはいえ、その間、何もせずに手をこまねいていたわけではなかった。 「何とかしなければ」と思っていたのだ。 そのためにいろいろな本を読み、その解決法を模索した。 それは思想書であったり、自己啓発書であったりした。 が、そういう本で心の状態は改善しなかった。
こういう場合、人に相談すれば少しは気が楽になるのだろうが、人と接触するのが嫌になっていたから、相談する気にもならない。 たまに、ぼくのそんな状態を見かねて、「どうしたんか?困ったことがあるんなら相談に乗るぞ」と言ってくれる人もいた。 しかし、その心の状態を上手く説明できないのだ。 そのことがまた、心を暗くしていった。
2005年09月23日(金) |
「優勝はもらった!」と思いたい |
今日は休みだった。 祭日に休みというのは、前の会社ではタブーとされていた。 が、今の会社では許される。 そこまで締め付けが厳しくない会社だから、という理由もあるのだが、最近は祭日といっても、普通の日と変わらないことが多い。 つまり、仕事をしている企業が多いということだ。 それに加えて、3連休の初っぱなということもある。 それに今日は、世間は墓参りで移動しているはずである。 ということで、今日は休むことにした。
で、今日一日何をやったのかというと、もちろん墓参りに行った。 昼頃家を出て、帰ってきたのは夕方だった。 午前中はずっと寝ていたから、一日をほとんど墓参りに費やしたというわけだ。
その墓参りからの帰り、ぼくはずっとラジオで野球を聞いていた。 西武vsソフトバンクの試合である。 ご存知の通り、昨日のロッテ戦で、城島捕手が今季出場が絶望的となる大ケガをした。 これを受けて多くのマスコミは、今シーズンの優勝の行方を悲観的に伝えていた。 しかし、ぼくは今回の城島のケガを悲観的には捉えなかった。 『城島、足を骨折』という一報を聞いた時、直感的に「おっ、これでホークスが優勝をもらった!」と思ったのだ。
昨年のオリンピックの時に、城島が抜けた穴を埋めたのは田口だった。 しかし、今季はそうではない。 8月、城島が右肩の炎症で戦線を離脱した時に、マスクをかぶったのは的場だった。 最初は不安だった。 ところが、的場がマスクをかぶっていた時の成績は、10勝5敗1分けと、城島がマスクをかぶっていた時とほぼ同じペースなのだ。 8月に入ってから、12球団一の強力打線と謳われたホークス打線も、疲れのせいか目を見張るほどの得点をあげてはいない。 にもかかわらず、2勝1敗のペースで勝っている。
しかも、その間苦手ロッテや西武と5試合やっているのだが、全部勝っている。 特に西武に対しては、7月まで4勝7敗だったのが、8月を終わった時点で8勝7敗になっている。 さらに言うと、的場は9月の対西武戦3試合にマスクをかぶっているが、その成績は2勝1敗である。 つまり、的場がマスクをかぶった8月と9月は、対西武戦6勝1敗ということになる。 きっと西武は、城島対策しかやっていなかったのではないだろうか。
その西武戦は、明日と明後日2試合残っている。 その2試合で急きょ的場対策をやろうと思っても、資料が少ないので無理である。 おそらくプレイオフにも間に合わないだろう。 また、城島の配球癖を見抜いている節のあるロッテ・バレンタイン監督も、的場に対しての資料は持ち合わせていないだろう。 ということは、どちらが第2ステージにはい上がってきても大丈夫だということだ。 そういうことから、ぼくは「優勝はもらった!」と思ったわけである。
いつもは「城島さんのミットめがけて(※)」投げようとして、ピリピリしているように見えるピッチャーも、的場の時はノビノビと投げているように思える。 ペナントレース残り4試合とプレイオフ第2ステージが、非常に楽しみである。
※ … ホークスの勝利投手が、ヒーローインタビューの際に常套句としている言葉。突然それを言うので、何か不自然である。(笑)
今月の中頃から、またウィルスメールが届くようになった。 それを受信しているメールアドレスは2ヶ月ほど前に取得したのだが、こちらが信頼しているポータルサイトにだけしか使用してないのだ。 いったいどこでそのメールアドレスが漏れたのだろうか。
こういうメールは、ホームページを起ち上げた頃から、しょっちゅう来ている。 が、それを見越して、最初からより強力なウィルスソフトを入れていたし、最近ではサーバーの方で削除してくれる便利なサービスも利用している。 また、メールソフトで、そういうメールを取り込まないようにもしている。 そのため、こちらがサーバーを覗かない限り、ほとんど目に触れることはなかった。
ところが、今回は携帯に転送設定しているメールアドレスを攻撃してきているのだ。 それでも一日一件程度なら、さほど気にはしないだろうが、これが頻繁にやってくるものだから、いい気持ちはしない。 しかも、相手は自分の顔を見せない卑怯者だから、頭にも来る。
そこでさっそく送信者を調べてみたのだが、毎回送信者のメールアドレスが違っているのだ。 わけのわからない外国のドメインであったり、使い捨てのフリーメールであったりだ。 中には有名プロバイダのメールアドレスもあるのだが、おそらくそれは架空のものか、もしくは他人のメールアドレスを悪用したものだろう。
さて、そういうことで、ウィルスメールが頻繁に来るようになってから、すぐに対策を立てた。 まず、メールアドレスが公開されている可能性のあるところは、すべて解約した。 今回は、おそらくこういうところからメールアドレスがわかったと思われるからだ。 次に、こちらからメールを送らない。 もらった人には悪いのだが、迷惑がかかってはいけないので、あえて返事を出さなかった。 また、そのメールアドレスで登録しているところは、すべて他のメールアドレスに変更した。 そういったことをやって、ほとぼりが冷めるのを待つことにしたのだ。
ところが今日、最悪の事態が起きてしまった。 出した覚えのないところから、“送信メールエラー”の通知が来たのだ。 出した覚えがないのに“送信メールエラー”通知が来るということは、すなわち、誰かがそのメールアドレスを使用しているということである。 その“送信メールエラー”の本文を読んでみると、『相手先ホストの都合により送信できませんでした』と書いてある。 つまり、受取り拒否されたということである。 おそらく、ぼくのメールアドレスを悪用して、ウィルスメールを送りつけたのだろう。
そこでようやく見切りを付けた。 このまま放っておいたら、そのメールアドレスは悪用され続けるばかりだ。 そのために非難を浴びたり、疑われたりするのも嫌である。 ということで、今日そのメールアドレスを解約することにした。 使い始めてまだ2ヶ月、しかもそのメールアドレスでは一度しかメールを送っていない。 これから大いに活用しようと思っていたのに残念ではあるが、しかたない。 しばらくメール登録はしないことにする。
こうやって、どんどん話は進んでいった。 最終的には、9月末に飲みに行くところまで話が出来上がっていた。 ところが今月の頭に、よしこ先生が「ちょっと困ったことになった」と言ってきた。 何でも、他の店に欠員が出たため、当分の間うちに来られないというのだ。 「せっかく約束しとったけど、そんな事情で来れなくなったんよ。ごめんね」 「えっ、何で謝るんですか?」 「だって、行けなくなるじゃない」 「別に職場で会うわけじゃないから、勤務先は関係ないじゃないですか」 「あっ、そうやねえ」 「先生が落ち着いてからでいいですから、連絡してください。こちらはいつでもOKですから」 「わかりました」
ところがそれ以降、よしこ先生から何の連絡もない。 そこで、今週の日曜日、つまり18日に、こちらから連絡を入れてみた。 「あ、よしこ先生ですか?」 「あっ、タカシく…、いやしんちゃん。どうしたと?」 「そちらは落ち着きましたか?」 「うん、何とかね。ここは楽やもん」 「ああ、楽なんですか。じゃあ、日にちも決まったでしょうね?」 「えっ…」 「みんな、先生の連絡待ってるんですよ」 「えーっと…、何やったかねえ?」 「えーっ、また忘れたんですか?」 「‥‥」 「おごり、おごり」 「あっ…。ああ、あの件ね。忘れてないよ」 「もしかして、先生、行きたくないんじゃないですか?」 「い、いや、行きたいよ」 「ああ、よかった。先生は他の店に行って、冷たくなったんかと思った」 「そんなことないよ」 「じゃあ、いつ行きましょうか?」 「あっ、今度の日曜日に、そちらに行くことになっとるんよ。その時に話そ」 「ああ、日曜日に来るんですね。わかりました。その時話しましょう」 ということで、電話を切った。 決戦は、日曜日ということになったわけだ。
さて、よしこ先生は、ぼくの度重なる攻撃をどう思っていたのかというと、別に気にしてはなく、逆に楽しんでいたようだ。 部内の人には「わたし、お酒は飲めんけど、楽しそうやけ行こうね」と言っていたらしい。 さすがお嬢様である。 ただ、最後に「もちろん割り勘でね」と付け加えたというから、ただのお嬢様ではなさそうである。 案外したたかな人なのかもしれない。 もしそうであれば、ぼくは遊ばれていたのだろう。
ま、ともあれ、楽しそうな飲み会になりそうである。 あ、断っておくが、ぼくは最初からよしこ先生におごってもらおうという気は、まったく持ってなかった。 では、なぜここまでよしこ先生に攻撃を仕掛けたのかというと、すべてネタを提供してもらうためである。 おかげで、『よしこ先生』ネタで4日分の日記が書けたわけだ。 こういう場合、逆におごってやらないとならないのかなあ…。
Kさんが薬局から出たので、今度はぼくが薬局に入っていった。 「よしこ先生、Kさん来たでしょ?」 「うん」 「何か言ってましたか?」 「わたしがおごると言ったって…」 「そうでしょう。やっぱり約束しとったやないですか」 「‥‥」 「しかし、せっかく行くんだから、大勢で行った方が楽しいですよね」 「えっ!?」
その時、よしこ先生の後ろに、化粧品売場の中リンという子がいるのが見えた。 そこでぼくは中リンに声をかけた。 「おーい中リン、よしこ先生が今度おごってくれるらしいぞ」 中リンはこちらを振り向き、嬉しそうな顔をして、「えっ、ほんとですか?」と言った。 「ほんと、ほんと。『何人でもドーンと来いっ!』らしいぞ」 その間よしこ先生は、例のごとく口がポカンと開らき、目が点になっていた。
その後もぼくは、よしこ先生がうちの店に入った時に何度も薬局に足を運んで、「いつ行きましょうか?」と聞いた。 よしこ先生はちょっと困った顔をしながらも、「出来たら給料日明けのほうがいいんやけど…」と言った。 「そうですね。こちらもそのほうがいい。棚卸しもあることだしね」 「ねえねえ、しんちゃん」 「はい」 「で、何人行くようになったと?」 「えーーっ!?先生知らないんですか?」 「うん、知らない」 「それは困りますねえ。あの時、よしこ先生が『わたしが幹事やるけ』と言ったじゃないですか」 「えっ…。そ、そうやったかねえ…」 「そうですよ。幹事なんだから、ちゃんと人数把握しといてくださいよ」 「‥‥。はい…」
「ということで、いつ行きますか?」 「ねえ、しんちゃん」 「はい」 「一人どのくらい見とったらいいと?」 「まあ場所にもよるだろうけど、だいたい4,5千円といったところじゃないですか」 「そうよねえ」 「10人で4,5万円ということですね」 「えーっ、10人も行くと?」 「そのくらい人数いたんじゃなかったですか?」 「そうやったかねえ」 「“5人タカシ”でしょ。薬局のパートさんが3人でしょ。中リンでしょ。それと先生で、ちょうど10人じゃないですか」 「ああ、そうやねえ。4,5万か…」 そう言うと、先生は深いため息をついた。
それを見て、意地悪しんたは、「えっ、先生行かんとですか?」と聞いた。 先生は「い、いや行くよ」と言う。 「そうでしょ。10人で行くと楽しいですよね」 「うん…」 「何を辛気くさい顔してるんですか。この間みたいに『ドーンと来いっ!』」と言ってくださいよ」 「‥‥」
相変わらずよしこ先生の来ている時だけ、ぼくは薬局に行っていた。 だが、“5人タカシ”が嘘だとばれ、名前ネタで遊べなくなったので、何となく面白くない。 そこで、次の作戦を練ることにした。
ある日の朝、会社に行くと、よしこ先生は早々と出勤していた。 「よしこ先生、おはようございます」 「あ、タカシ…、いや、しんちゃんおはよう」 「早いですねえ」 「バスが早く着いたんよ」 「へえ、で、例の件どうなりました?」 「えっ、何の件?」 「あっ、もう忘れたんですか。この間ちゃんと約束したじゃないですか」 「約束…。わたし、何かしんちゃんと約束したかねえ?」 「困りますねえ」 「えっ、えっ、何やったかねえ?」 「後で薬局に行きますから、それまでに思い出しといてくださいよ」 「‥‥、はーい」
それから1時間ほどして…。 「よしこ先生、おはようございます」 「えっ、さっき挨拶したやん」 「で、例の件、どうなりましたか?」 「うっ…。考えたけど、さっぱりわからん。わたし、しんちゃんに何か約束したんかねえ?」 「えーっ、まだ思い出してないんですか?」 「‥‥、すいません…」 「困ったですねえ」 「ねえ、教えて」 「ほら、この間話していたときに、よしこ先生が『今度おごってやるけ、みんなで飲みに行こう』と言ったじゃないですか」 「えーーっ!?わたし、そんな約束したかねえ…」 「忘れたんですか?」 「い、いや、飲みに行くのは約束したかもしれんけど、おごってやるとか言ったかねえ?」 「えーーっ!?言ったやないですか。あの時、Kさんもいっしょにいましたよ」 「あ、そうやったかねえ」 「困りましたねえ。ちょっとKさん連れてきますから」 「…はい」 もちろん、よしこ先生はそんな約束はしていない。 しかし、ぼくがしつこく何回も言っているうちに、自信がなくなってきたのだ。
さっそくぼくはKさんのところに行き、今回の件の一部始終を話し、Kさんに口裏を合わすように頼んだ。 するとKさんは、「それは面白いねえ。さっそく先生のところに行ってこよう」と、薬局に行った。
Kさんはよしこ先生を見つけると、「先生、いつ行くんやったかねえ?」と言った。 「えっ!?」 「わたし、飲みに行こうとか言いましたかねえ?」 「言うたやないね。もう“5人タカシ”は行くようになっとるよ」 「‥‥」 ぼくは遠巻きに、そのやりとりを見ていたが、よしこ先生は口をポカンと開け、目は点になっていた。
うちの店の薬局に、週一回、応援の薬剤師の先生が入っている。 女の先生で、ぼくはその名前から『よしこ先生』と呼んでいる。 あまり年を感じさせない方で、年はぼくより二つ上だが、ちょっと見は30代に見える。 おしゃべり好きで、いつも誰かとおしゃべりをしている。 その内容は少女っぽく、あまり世間ずれしてないようにも感じる。 家は代々薬局をやっているそうで、けっこうお金持ちだというから、よしこ先生はきっとお嬢様育ちなのだろう。
そういうお嬢様を見ていると、意地悪なぼくは、無性にからかいたくなってくるのだ。 そこでぼくは、よしこ先生が来ている時だけ、普段はあまり出入りしてない薬局に足繁く通うようになった。
「よしこ先生、おはようございます」 「おはよう、しんちゃん」 「えっ?おれ、“しんちゃん”じゃないですよ」 「えっ、“しんちゃん”というんじゃないと?」 「違いますよ」 「だって、みんな“しんちゃん”って呼んでるじゃない」 「ああ、あれはぼくがホームページで“しんた”と名乗っているからですよ」 「じゃあ、本名は何というと?」 「“タカシ”です」 「へえ、“タカシ”というと」 「実はこの店、不思議と“タカシ”という名前が多いんですよ」 「そうなん」 「店長以下5人もいるんですよ」 「えっ、5人も同じ名前なん」 「そうなんですよ。よく人から“5人タカシ”なんて呼ばれてます」
タカシというのは店長の名前である。 よしこ先生をからかう材料として、ちょっとそれを使わせてもらったわけだ。 しかし、事務所にネームプレートがあるから、ちょっと調べれば『5人タカシ』なんて嘘だということがすぐにわかることである。 ところが、よしこ先生はそれをせずに、素直にぼくのいうことを信じてしまった。 そして、ことあるごとに、ぼくを「タカシくん」と呼ぶようになったのだ。
ある日のこと、よしこ先生が事務所で店長と話をしていた。 そこに、たまたまぼくが入っていった。 よしこ先生はぼくを見つけると、「あっ、タカシくん」と言った。 店長は変な顔をして、よしこ先生を見ていた。 「まずい!」と思ったぼくは、知らん顔をしてその場を立ち去った。
後でよしこ先生が、「あの時何で無視したと?」と聞いてきた。 「店長もタカシなんですよ」 「店長もタカシ…??」 「そうですよ、前に“5人タカシ”と言ったでしょ」 「ああ、そうやったねえ」 「まずいですよ」 「えっ、何でまずいんかねえ?」 「だって、店長の前で“タカシくん”とか言ったら、店長は自分のことを言われてると思って、『先生はおれに好意を持っとる』と勘違いするかもしれんじゃないですか」 「あっ、そうか!それはまずいよねえ」 「だから、同じ名前が多いと困るんですよ」 「そうよねえ。困るよねえ」 それ以来、よしこ先生は、薬局以外でぼくのことを「タカシくん」と呼ぶことはなくなった。
2005年09月17日(土) |
続・白髪に効くシャンプー |
困ったことになった。 白髪が徐々に治っているのだ。 先月頃から、鏡を見た時に、髪が黒くなっているような気がしていた。 最初はあまり気にならなかったのだが、ここに来てそれが心に引っかかるようになった。 そして今日、会社で何気なく鏡を見ていると、今まで全体に白かった頭が、グレーがかっているではないか。 これは大問題である。
会社から帰って、そのことを嫁ブーに聞いてみた。 「おい、最近おれの髪が黒くなったように思わんか?」 嫁ブーはしげしげとぼくの頭を見て、 「そういえば、そうやねえ。これまで真っ白やったところが少し黒くなっとるような…。あっ!、後ろはすごいよ。以前よりずっと黒くなっとる」と言った。 「やっぱりそうか…」 「よかったやん。やっぱりあのシャンプーが効いたんやねえ」
『あのシャンプー』とは、5月27日の日記に書いているシャンプーのことである。 そのシャンプーにはいろいろなエキスが入っていて、そのいくつかの成分が白髪にいいらしいのだ。 表向きには「白髪に効く」などとは謳ってない。 ところが、そのシャンプーを使っている人から次々と「白髪が治った」という声が入っているのだという。 そこでぼくもそのシャンプーを試しに使っていたのだが、まさかここまで早く効いてくる思ってなかった。
ところで、同じくそのシャンプーを使っている嫁ブーはどうなのかというと、それがよくわからないのだ。 嫁ブーは染めているからである。 ぼくの場合、まったく染めてないので、効果が目に見えるのだろう。 とにかく、白髪に悩んでいる嫁ブーも、ぼくの頭を見て自信を得たようで、「わたし、毎日シャンプーすることにしよう」などと言っていた。
さて、冒頭に戻る。 白髪が治って「めでたし、めでたし」なのに、どうしてぼくが困ったのかというと、先の5月27日の日記に書いているように、ぼくが白髪でなくなったら、『しろげしんた』でいられなくなるからだ。 これは大問題である。 5年間も慣れ親しんできた名前を、そう易々と捨てることは出来ない。 今さら、「“くろげしんた”に替えました」というのも嫌である。 いろいろなところで、『しろげしんた』を使っているので、変更するのが面倒なのだ。 また、白髪から黒髪に戻っていく過程も嫌である。 30代前半の、あのみっともない頭が戻ってくるかと思うと、うんざりする。
ということで、しばらくそのシャンプーを使うのは、やめることにしよう。
【腰痛も生活習慣病か?】 以前この日記に、不倒翁(おきあがりこぼし)やっていることと、自分が正しい姿勢と思っている姿勢より気持ち前屈みでいるということを書いた。 いまだそれを続けているわけだが、最近腰の痛みをあまり感じなくなっている。 例えば、からだを曲げた時に走っていた腰の違和感や疲労感が、今まではほとんどない。 例えば、階段の上り下りの時に感じていた膝の痛みが、今はない。 例えば、長時間いすに座って立ち上がる時、いつも腰を曲げたままでないと立てなかったのが、今では腰を伸ばして立つことが出来る。 という具合である。
不倒翁はともかく、気持ち前屈みでいる姿勢なんかは、やっているうちに、それが習慣になってくる。 もし、そのおかげで腰痛が軽減されたのなら、前の習慣が悪かったということになる。 であれば、腰痛も生活習慣病ということになるのだろう。
【相変わらずエアコンの調子が悪い】 車の話である。 先日車検に出した際に、エアコンを修理してもらったことを書いた。 それ以来、順調にエアコンは作動していたのだが、ここに来てまた調子が悪くなった。 エンジンをかけてしばらくすると、「グチュグチュ」という音がして、そのあと「ガリガリ」とダッシュボードあたりを囓る音がする。 それからしばらくすると、今度は「トントン」とそのあたりを叩く音がするのだ。
パソコンの時もそうだったが、車の場合も同じで、最初ぼくは機械が壊れているとは思わなかった。 では、どう思ったのかというと、どこからともなく車に進入した森の仲間が、ダッシュボードあたりに住みついてしまったと思ったのだ。
なぜそんなことを思ったのかというと、うちの店は山沿いにある。 そのため森の仲間たちがよく訪れるのだ。 森の仲間というのは、野ねずみやモグラなどの小動物、里ではあまり見かけることのない鳥、ヘビやカエルといったは虫類や両生類、それと珍しい昆虫たちである。 とくに車を置いている場所は、より山に近いので、そういう森の仲間たちがたくさん生息している。 そのため、森の仲間たちが、車の中に入ってきたとしても、何らおかしいことではない。
その「グチュグチュ」「ガリガリ」「トントン」という音が最初にした時、ぼくは真っ先にヘビが住んでいると思ったものだった。 そして、「運転中にヘビが出てきて、足にまとわりついたら嫌だな」、「もしヘビだったら、どうやって追い出したらいいのだろう?」、「やはりバルサンが一番だろうか?」、「殺したら祟られるなあ…」などと思っていたのだ。
しかし、車検に出した時、カーショップの人は「接触が悪くなっとったよ」とは言ったものの、「車の中にねえ、森の仲間が棲んどったよ」なんて一言も言わなかった。 ということで、森の仲間たち疑惑は、ぼくの考えすぎだったことが判明したわけだ。
さて、それはともかく、エアコンを完全に修理したらどのくらいかかるのだろうか? 前にも言ったが、ギターを買い、車検代を払ったせいで、いま修理するお金なんて、ぼくは持ち合わせてはいない。 「これから涼しくなるけ、エアコンなんかいらんやん」と言う人もいるが、エアコンがなければ、雨の日にフロントガラスが曇ってしまうのだ。 これから時雨や雪のシーズンに入っていくのに、エアコンなしで、どうやっていけと言うのだろう。 困ったことになってしまった。
「あれ何ですか?」 「何が?」 「“ゲゲゲゲゲゲ…♪”ですよ」 「“ゲゲゲゲゲゲ…♪”は“ゲゲゲゲゲゲ…♪やん」 「何か意味があるんですか?」 「あるよ」 「どういう?」 「“めでたし、めでたし”ということ」 「え?」 「鬼太郎が妖怪を退治したら、虫たちが“ゲゲゲゲゲゲ…♪”と言って、鬼太郎を讃えるやん」 「あれって、“ゲッゲッ、ゲゲゲのゲ…♪”じゃなかったですか?」 「テレビで放映しだしてから、“ゲッゲッ、ゲゲゲのゲ…♪”になったけど、元は“ゲゲゲゲゲゲ…♪”」 「そうなんですか」
“ゲゲゲゲゲゲ…♪”なんて書かなくてもよかったのだが、ちょうど日記を書き終える頃、部屋の窓を開けたら、外から“ゲゲゲゲゲゲ…♪”の大合唱が聞こえてきた。 それを聞いて、パソコンに取り憑いていたのは、霊ではなくて妖怪で、それを鬼太郎が退治してくれたのだ、と思うに至った。 そこで、鬼太郎を讃えて“ゲゲゲゲゲゲ…♪”と書いたわけだ。
ま、それはともかく、季節はすでに“ゲゲゲゲゲゲ…♪”、確実に秋になっている。 さすがに昼間はまだ暑いが、朝晩はかなり涼しい。 というか、寒いぐらいだ。 例年なら、まだパンツ一丁で過ごしている時期なのに、この寒さにまいってしまって、すでにTシャツなんかを着込んでいる。 きっと先週の台風が、夏をどこかに追いやってしまったのだろう。
さて、そんな“ゲゲゲゲゲゲ…♪のさなか、ぼくは新しくブログを作った。 いや、記事は新しいものではない。 この日記から、カテゴリ『筋向かいの人たち』だけを抜粋したもので、前にこの日記で「exblogでやる」と書いたものだ。 実は、そのことを日記に書いた時、例のヒロミちゃんから、「携帯で見れんやん」というメールが届いた。 そうである、exblogは携帯では見ることが出来ないのだ。 そこで、毎日ちょっとずつ、ずっと休止状態にあったブログに記事を移していくことにした。 それが今日、ようやく出来上がったわけである。
ということで、新しいブログ『筋向かいの人たち』はhttp://blog.goo.ne.jp/menglyでございます。
さて、その『筋向かいの人たち』のメニューにある『ホームページ』が、これも以前お知らせした、ポスト『頑張る40代!』のホームページである。 あまり凝ったことをやらず、お手軽に作っている。 なぜかというと、すでにホームページよりブログのほうに主力が移っているからである。 他にも、『健康ブギ!』『たまに人生を語る』といったコンテンツがあるが、これらすべてブログである。 そのため、タイトルを『吹く風ねっと』とした。 これも時代の流れである。
ゲゲゲゲゲゲ…♪
それからしばらくはよかったのだが、起動時にまたあの見慣れない画面が出るようになった。 そこで、そこに書いている英語を読んでみることにした。 『困った!CPUのファンが止まった』と書いてある。 こういう場合、素人のぼくはどう対処していいのかわからない。
メーカーに修理を頼もうかとも思った。 だが、そうすると、その間の日記は携帯で書かなければならなくなる。 前に携帯で日記の全文を書いたことがあるのだが、これが大変な作業だった。 目はしばしばするし、指の付け根は痛くなるし、こんな目に遭うくらいなら、日記なんか書かない方がましだと思ったものである。
修理がだめなら、新しいパソコンを買うしかない。 このパソコンも古くなってきているので、いい潮時だ。 しかし、この間ギターを買い、車検代を払ったばかりである。 いまパソコンを買う余裕は、どこにもない。 「しかたない、とりあえずパソコンは動くのだから、そのまま我慢して使うか」ということになった。
それから騙し騙し使っていたのだが、昨日、とうとうだめになってしまった。 ゲームをやっている途中に、まったく動かなくなってしまったのだ。 しかたなく強制終了させて、再起動してみた。 ところがである。 途中まではうまくいくのだが、パソコンが起ち上がる前に切れてしまうのだ。 コンセントを抜き、しばらく時間を置いて電源を入れてみてもだめ。 1時間経ってやってみたが、だめ。
どうしようかと思った時だった。 ふと『困った!CPUのファンが止まった』という、あの起動の際の画面の言葉を思い出したのだ。 「あ、そうか。CPUファンなるものを替えてみたら、何とかなるかもしれない」 そう思ったぼくは、再びパソコンをばらし、その『CPUファン』なるものを探してみた。 ファンは3つばかりある。 きっとその中のどれかだろうと思い、電源を入れてみると、一つのファンが、苦しそうに回っているのがわかった。 いったんは根性を見せて回るのだが、すぐに止まってしまう。 しかし、根性者のファンは、再び回ろうとする姿勢を見せる。 その結果、ちょっと回る。 また止まる。 またちょっと回る。 止まる。 この繰り返しをずっとやっている。
ここでようやくぼくは、最初のおっさんの声の主がわかった。 そう、この根性者のファンだったのだ。 ちょっと回る時に、つい漏らした声だったのだ。 いま音がしないのは、おそらく前にクリーナーで掃除した時に、そこにこびりついていた埃が取り除かれたからなのだろう。
声の主と、起動の時の見慣れない画面の原因がわかったぼくは、ファンを取り外し、近くのY電機に走った。 ファンはすぐにわかった。 価格も1200円程度で、そう高くはない。 さっそくそれを買って、すぐに家に帰った。 そしてそれを取り付け、電源を入れてみると、見事にパソコンは蘇った。 これで、夜な夜な聞こえるおっさんの声に悩まされることも、突然切れる電源の恐怖に脅かされることもなくなったわけだ。
ゲゲゲゲゲゲ…♪
1ヶ月ほど前から、パソコンの様子がおかしかった。 パソコンを起動させてから10分間ほど、人の声のような音が聞こえるのだ。 どんな声かというと、「ウェッ、ウェッ」という声で、おっさんが首を絞められて喘いでいるように聞こえる。 最初にその声を聞いたのが夜中だったため気味が悪く、霊がパソコンに進入してきたのではないかと思ったほどで、最初の一週間は機械のことよりも、そちらのほうを心配していた。
とはいえ、心配ばかりしていたわけではない。 あることに期待もしていたのだ。 それは、ポルターガイスト現象である。 ぼくは金縛りにあったり、幽霊を見たりしたことはあるのだが、残念ながらポルターガイストだけは見たことがない。 確かにそういう現象が起こるのは怖いことではある。 が、怖いものは見てみたい。 ということで、ぼくは内心何か起きてくれないかと期待していた。 だが、そういったことは何も起こらなかった。
さて、1週間ほど経って、ようやく霊の疑いが晴れた。 霊なら、昼間には出てこないはずだからと、休みの日の昼間、安心してパソコンを使っていると、かすかに先のうめき声が聞こえた。 「えっ!?」と思って、耳を澄まして聞いていると、だんだんその音は大きくなっていった。 それだけではない。 今度は、その音に混じって「ガーーー」という機械音までし始めたのだ。 ここでようやく、ぼくは「これは霊のせいではない」と思うに至ったのだった。
では、霊でないとすれば、あの音はいったい何なのだろう。 ハードディスクの音でもないし、モデムの音でもない。 ということは、機械自体に異常が出ているのではないか。 しかし、異常な音がする以外は、パソコンは正常に作動している。 ということで、そのまま気にせずに使っていたら、異常な音はいつの間にか消えていた。
おっさんの声が初めて聞こえてから2週間目のことだった。 起動した時に見慣れない画面が出るようになった。 英語で書いているので、読む気もせず、そのまま飛ばして起動させた。 相変わらずパソコンは正常に動いている。 「やっぱり問題なかった」と思って、メールソフトを起ち上げた瞬間、電源が切れてしまった。 すぐさま電源を入れ直してみた。 ところが、パソコンはウンもスンも言わない。 調べてみると、電源部が異常に熱くなっている。 「もしかしたら、埃が貯まってるせいかもしれない」と思い、コンセントを抜き、パソコンをばらして、中をクリーナーで掃除してみた。 そして、しばらく時間を置いてから電源を入れてみた。 今度はうまくいった。
昨日の日記が遅れたのは、何も嫁ブーの帰りが遅かったからだけではない。 もうひとつ理由があったのだ。 それは選挙速報を見ていたからである。
会社帰り、すでに速報がメールで届いていたので自民圧勝は知っていた。 が、それはあくまでも全国の流れであって、細かい選挙区のことまではわからない。 そこで家に帰ってから、じっくりと我が選挙区の行方を見守ることにした。
家に帰ってテレビをつけると、すでに福岡県内のほとんどの選挙区で当確が出ていた。 麻生、山拓、鳩山といった著名な政治家が次々と名を連ねている。 だが、我が選挙区はまだ決まってなかった。 我が選挙区は、いわゆる都市部ということになるのか、昔は民社、今は民主の力が強い地区である。 そのため、いかに小泉旋風が吹き荒れようとも、他の選挙区のように、すんなり自民で決まらないのだろう。
ということで、ぼくは、風呂に入ることも忘れ、食事をとることも忘れて、ずっとテレビを見ていた。 そして午後11時を過ぎたころ、ようやく結果が出た。 自民の勝ちだった。 開票終了時には1万5千票の差がついていた。
さて今回の選挙だが、終わってみれば自民単独で過半数を大きく上回っていた。 これについて報道はいろいろと分析している。 小泉さんの選挙のやり方が上手かっただとか、野党の取り組みが遅かっただとかである。 が、ぼくの周りでは、そんな理由で自民を入れている人はいなかった。 みな一様に、「小泉さんになってから、何もいいことがない」と言いながらも自民に投票しているのだ。 何でそうしたのかというと、消去法をやったからだという。 つまり、「岡田の顔が好かん」、「共産はどうも…」、「新党って何?」、「社民はカルト」とやっていった結果、最後に自民が残ったというのだ。
ま、こんなもんだろう。
2005年09月11日(日) |
嫁ブーの帰りが遅いために、遅くなった日記 |
嫁ブーは今日も遅く帰ってきた。 昨日は午前2時、今日は午前1時半で、明日も遅くなるのだそうだ。 こんなに遅い時間まで何をやっているのかというと、棚卸しである。 営業時間が終わってから始めるため、こんな時間になるのだそうだ。 いくら慎重かつ正確さが要求される作業だとはいえ、これはやり過ぎである。 ここまで遅くやったら、集中力がとぎれてしまって、いい結果が出ないのではないだろうか。
ぼくがいた頃も同じく営業時間後にやっていたのだが、翌日にずれ込むようなことは、まずなかった。 なるべく早く終わろうと、社員全員が工夫して棚卸しに取り組んでいたものである。 しかも、女子社員は午後10時をめどに帰らせていたのだ。
今のトップは、よほど時間の観念がないか、遅くまで残って仕事をするのが美徳だという考えを持っている人なんだろう。 もうちょっと家族のことを考えてもらいたいものである。 おかげで、日記が遅くなったじゃないか。
2005年09月10日(土) |
スーパー・ウーマン(後) |
さて、翌日、ぼくがパソコンを打っていると、嫁ブーが「出かけてきます」と言う。 「どこ行くんか」 「例のとこ」 「例のとこ…?ああ、スーパーか」 「うん。ちょっと下見してくるね」 「ああ」 「夕方行く時は付いてきてね」 そう言って、嫁ブーは嬉しそうに出て行った。
1時間ほどして戻ってきた嫁ブーは、開口一番「お母さんの言ったとおりやった」と言った。 「何が?」 「やっぱり、あそこ高いよ」 「ああ、スーパーか」 「冷凍食品、4割引しかしてないんよ」 「えっ、オープンのに4割引か」 「うん」 「それは高いのう。オープンなら半額が普通やろ」 「そうなんよ」
そして夕方、約束通り、ぼくはそのスーパーに付いて行った。 嫁ブーは午前中文句を言っていたわりには、嬉しそうに目を輝かせて店内を回っていた。 一方ぼくはというと、まったく面白くない。 食料品しかないのでつまらないのだ。 デパートやイオンに行った時は、嫁ブーが食料品を漁っている間、ぼくは本屋やCDショップにいることが多い。 食料品を見ても、何も想像力が働かないからだ。
そうは言っても、いちおう新店なので、中に入ってみた。 ところが、相変わらず店舗は小さく、通路は狭い。 それゆえに身の置き場がない。 図体の大きな男が、商品を見るでもなく、ただ狭い店内をウロウロしているのだから、他のお客さんに迷惑がかかる。
そこでぼくは店を出て、入口付近で嫁ブーの買物が終わるのを待つことにした。 ところが、その嫁ブーの来るのが遅い。 何をやっているんだろうと、もう一度店の中に入って行くと、嫁ブーは電話をかけていた。 そばに寄っていくと、嫁ブーは「ええ、いまやってます」とか「そうですね。安くないですね」などと言っている。
電話を切った後、嫁ブーはニヤッとして、ぼくに「お母さんから」と言った。 「お母さん、今日もここに来たらしいよ」 「えっ、昨日四回も来たのに?」 「うん。今日はね、三回らしいよ」 「昨日、安くないとかさんざん文句言いよったくせに」 「気になって仕方ないんやろね」 「値段がか?」 「違うんよ。高いとか文句言ってたけど、お母さん、けっこう買っとるんよね。店が新しいけ、何か買いたくてたまらんみたいなんよ。今日は三回来て三回とも『両手にいっぱいお買物』やったらしいよ」 「じゃあ、昨日もそうやったんかのう」 「うん」 「そういえば、昨日実家に行った時、奥の部屋にオロナミンCが山積みしてあった」。 「ここで買ったんよ。オロナミンCは明日まで10本498円やけね」 「ということは、明日もオロナミンC買いにくるんかのう」 「いや、『明日は忙しいけ行かれん』とか言いよったよ」 「まさか、『今日、もう一度行く』とでも言ったんやないんか?」 「はい、そう言ってました」 「‥‥‥」
その翌日、実家に行くと、奥の部屋のオロナミンCの数は、しっかり倍になっていたのだった。
2005年09月09日(金) |
スーパー・ウーマン(前) |
先月末、家から歩いて3分ばかりの場所に、スーパーマーケットがオープンした。 その場所は元々スーパーだったのだが、そこが廃業したため、他のスーパーが店舗を買取って、新装オープンさせたのだ。
前のスーパーには、ぼくは一度しか行ったことがないので、詳しくは知らないのだが、コンビニ二つ分ぐらいの広さしかなく、品数もあまり揃ってないような感じだった。 ところが、母や嫁ブーはえらく重宝がっていた。 二人に言わせると、『痒いところに手が届く店』なのだそうだ。 狭いながらも最低必要なものは揃っていて、しかも近いからいいという。
その重宝な店が、今年7月に、前触れもなく突然締めてしまった。 母は「けっこうお客さんが入とったみたいやけど、何で潰れたんかねえ。これからどうしようか」と言うし、嫁ブーは「調味料とかが切れた時とか便利やったのに。困ったことになった」と言うし、二人ともまるでそこにしかスーパーがないような落胆ぶりだった。 近くには他にもたくさんスーパーがあるのだが、そのことは二人の頭の中にはなかったようだ。
そのせいもあって、8月に新しく、そこにスーパーができると聞いたときの、二人の喜びようといったらなかった。 「あれを買って、これを買って…」と、好き勝手な夢をふくらませていたのだった。
そしてオープンの日を迎えた。 嫁ブーはその日仕事で行けなかった。 朝食時、チラシを見てはため息をついていた。 よほど行きたかったのだろう。
いっぽう母のほうは、開店時間を待ちきれずに、朝早くからそこに行って並んだらしい。 しかしそれだけではなかった。 午前中にもう一度、昼に一度、さらに夕方に一度、何と一日に四度も行ったというのだ。 その夜、実家に行くと、母はそのことを自慢げに話していた。
ところが、嫁ブーが「安かったですか?」と言った途端、母は急に暗い顔をした。 そして、声を落として「それがねえ、全然安くないんよ。確かにチラシに載ってたのは安かったけど、他の物が高いんよね。店の雰囲気も前のほうがよかったよ」と言うのだ。 「えっ!?」 ぼくと嫁ブーは思わず顔を見合わせた。 安くない上に店の雰囲気にも満足してないと言っているくせに、このばあさん、いったい何をしに四度も同じスーパーに行ったのだろう。 もしかして、一品一品の値段を調べていたのではないのだろうか。
帰る間際、母はぼくたちに、「あんたたち明日休みやろ。行ってきたらいい」と言った。 嫁ブーは「はい、行ってみます」と答えた。
昨日の朝、家を出て思わず鼻を覆った。 何か臭いのだ。 どんなにおいなのかと聞かれても、ちょっと返答に困るのだが、消毒薬が発酵したような臭いと言ったらいいだろうか。 おそらく、台風が置いていったにおいなのだろう。 とても健康的なにおいだとは思えなかった。
「あまりそのにおいを嗅ぎすぎると、気分が悪くなる」 直観的にそう判断したぼくは、息を止めて車に乗り込んだ。 そして、素早くドアを閉め、エンジンをかけて、エアコンのファンが回り出すのを待った。 ファンが回り出してから、ようやくぼくは空気を吸い込んだ。 ところがである。 車の中も外と同じように、消毒が発酵したような臭いがするのだ。 狭い空間ゆえに、そのにおいはさらに強烈だった。 きっと前日の台風の風が、エアコンの吹き出し口から吹き込んだせいだろう。 とにかく臭い。 しかし、車を降りるわけにはいかず、そのまま出発した。
さすがに運転中は息を止めるわけにはいかない。 そこで窓を開けることにした。 ところが、前日の雨がまだ残っていて、全開すると雨が降り込んでくる。 しかたなく、雨が入り込まない程度に窓を開けた。
においはなかなか取れない。 それどころか、開けた窓から新たなにおいが入ってくるのだ。 さらにそのにおいを嗅ぐたびに、つい不健康なことをイメージしてしまう。 そのイメージとは、大量のばい菌に自分が侵されている姿だ。 「このままじゃ、完全に気分が悪くなってしまう」 そう思ったぼくは、せめてイメージに気を取られまいと、CDをかけ、それに合わせて歌を歌うことにした。 これは効果的だった。 歌っている間は、ばい菌から逃れられている、つまりイメージが消えてしまうのだ。
しかし、そう喜んでばかりもいられなかった。 歌ったら歌ったで、新たな問題がぼくを襲う。 どういう問題かというと、走行中はいいのだが、信号待ちの時は窓を開けているせいで声が外に漏れる。 AメロとかBメロとかいう部分を歌っているなら、そうまでもなかったのだろうが、タイミングがいいというのか悪いというのか、そういうときに限って、サビの部分に入るのだ。 サビを歌う時、ぼくは力んで、どうしても大声を張り上げてしまう。 そのたびに、横の車の人が変な顔をしてこちらを見る。 気にしなければいいのだが、これが気になって仕方ない。 ということで、急に声が萎えてしまう。
「昔ミュージシャンを目指していたというし、ネット上に臆面もなく歌を上げているくらいだから、歌っているのを人に聞かれても、何も気にはならないのではないのか」、と思われるかもしれない。 が、そうでない場合もあるのだ。 人前で歌う時は、それなりの気構えがいるものである。 しかし、ぼくのいる環境はほとんど我が家とも言っていい、プライベートな車の中なのだ。 しかも時間は朝である。 とてもそんな気構えにはなれない。
さて、声が萎えてしまうと、またばい菌イメージが蘇る。 そこで信号が青になるのを待って、再び熱唱を始める。 そしてまた、赤信号で声が萎える。 会社に着くまでの約30分間、ぼくはそうやって、におい、そして自分と闘っていたのだった。
昨日は講習に行けず、結局家で過ごすことになった。 元々博多に行くつもりにしていたので、他に何の予定も立てていなかった。 しかし暇である。 たとえ予定を立てていなくても、晴れていたら、買い物に行ったりプチドライブに行ったりで、さほど退屈さも感じなかったのだろう。 だが、外は「大雨、洪水、暴風、波浪、高潮」警報の真っ最中で、とても出られる状態ではない。 しかたなく、ネットを見たり、ギターを弾いたり、それも飽きると本を読んだり、とダラダラ時間をつぶしていた。
嫁ブーはというと、することがないせいか、ずっと寝ている。 昼になったので、昼食の用意をしてもらおうと起こしたが、またすぐに目を閉じてしまう。 耳のそばで「腹減ったー」と叫んでみたが、やはり起きない。 そこで、ぼくは奥の手を使うことにした。 携帯電話を持ってきて、カメラを構え、「おい、写真撮るぞ」と言った。 こうやると、嫁ブーは反射的に起きるのだ。 実は、これまで散々嫁ブーの寝相を撮っている。 撮った写真はどうするのかというと、いつもヒロミに送っている。 ヒロミは嫁ブーの寝相が好きなのだ。 前に嫁ブーがヒロミに電話した時、ヒロミから「ボリ(嫁ブーのニックネーム)、すごい寝相やね」と言ってからかわれた。 「えーっ、何でわたしの寝相のこと知っとると?」 「だって、しんたさんがいつも写真送ってくれるもん」 「あのじじい、油断も隙もないんやけ」 それ以来嫁ブーは、カメラに神経質になっている。
しかし、昨日はちょっと勝手が違った。 「撮るぞ」と言っても起きなかったのだ。 ちょっと間をおいて、もう一度「撮るぞ」と言ってみた。 しかし、それでも反応がない。 そこで、携帯を嫁ブーの耳のそばに持っていき、「カシャッ!」というシャッター音を聞かせた。 「えっ!?」と言って嫁ブーは飛び起きた。 「いま撮ったやろ?」 「何のことか?」 「いま、シャッターの音がしたんやけど」 「知らんぞ」 「うそ、撮ったやろ」 「撮ってない」 「また、ヒロミちゃんにその写真送るつもりやろう」 「何も撮ってないっちゃ」 「もう…」 「それよりも腹減ったけ、何か作れ」 「あっ、もうお昼やん」
それから嫁ブーは昼食の用意をした。 そして、腹が減ってから1時間後、カメラを向けてから30分後に、ようやくぼくは昼食にありつけたのだった。
食事中も嫁ブーは居眠りをしていた。 ぼくが話しかけても上の空である。 しかし、食事が終わってからは目が覚めたのか、テレビを見だした。 また韓流である。 面白くないので、ぼくはまたネット、ギター、本に戻った。 外は相変わらず、「大雨、洪水、暴風、波浪、高潮」である。 暇な一日だった。
昨夜は朝5時に起きようと意気込んで寝たのだが、起きてみると、もう6時半を過ぎていた。 こりゃいかんと慌てて出かける準備をした。 その準備の合間に、テレビで台風情報を確認したのだが、どうも福岡と北九州以外のJR線は運転を見合せたようだ。 ということは、いずれこちらも運休になるだろう。 だが、まだわからない。 せっかく早起きしたのだから、とにかく駅まで行ってみようと思い、家を出ることにした。
時間は、予定通り7時過ぎだった。 バスは遅れもせずにやってきた。 普段なら通勤客で多い時間帯である。 にもかかわらず、バスには、ぼくを除いては2人しか乗ってなかった。 また、途中から乗ってくる人もいなかった。
渋滞しているはずの道路も、ガラガラ状態である。 日曜でもないのに、この道路の状態は異常、いや異様である。 雨風はまだそこまで強くなかったが、アスファルト色の不気味な空が垂れ下がっている。 その空と道路の色が相まって、異様な雰囲気を醸し出していたのだ。 しかし、バスはそういうことに頓着せず、時間調整する余裕まで見せながら、順調に駅に向かったのだった。
当然時間通りにバスは駅前に着いた。 ぼくが乗ろうとしている特急の時間に、充分間に合う時間である。 バスを降りたぼくは、駅の方にゆっくりと歩いていった。 しかし、普段は学生でごった返している時間帯なのに、昨日の時点で休校と決まっていたせいか、一つの制服も見あたらない。 また、駅に向かっている人もあまりいない。 まるで日曜日の朝の風景である。
さて、駅に入ったぼくは、真っ先に発車時刻の案内板を見た。 そこには当然特急の時刻が出ているはずだからだ。 ところが、そこにあるのは上り電車の案内ばかりで、下りは全く載ってないのだ。 そこで、切符を買うことをやめて、しばらく待っていた。 すると、駅員がメガホンを持って出てきた。 そして、おもむろに「台風14号の影響で、ただいまのところ、博多まで運行しておりません」と言った。 列車の事故で運転を見合わせる場合は、その後に「他の交通機関をご利用下さい」と付け加えるが、今日はそれを言わなかった。 ということは、その時点で高速バスも運転見合せになっていたのだろう。
ここでようやく、ぼくにも判断が出来た。 「今日は行くのをやめて、他の日に変更してもらおう」 そう思ったぼくは、駅横にあるコンビニで朝食や週刊誌を買って、帰りのバスに乗り込んだ。 バスの乗客は、ぼくを除いては1人しか乗っていなかった。 奇しくもその人は、行きもいっしょだった人だ。 ということは、その人もぼくと同じくJRにふられた口だろう。
2005年09月05日(月) |
明朝、博多に行かなければならない |
明日9月6日は休みなのだが、仕事絡みの講習を受けるため、朝9時までに博多に行かなければならない。 博多に9時ということは、バスとJRが上手く連結して所要時間1時間程度だから、うまくいかないことを考えると、7時半には家を出なければならない。 7時半に家を出るということは、6時半に起きなければならないということになる。 「休みなのに6時半起床か。ちょっときついなあ」と、ぼくは前々から明日の来ることを憂えていた。
ところが、今回の台風のおかげで、さらに早く起きなければならない可能性が出てきた。 もちろん、交通事情をふまえてのことだが、それだけではない。 交通情報や台風状況を知るためには、夜中からテレビにかじりついていなくてはならないのだ。 ということは、いったい何時に起きたらいいのだろう? 講習は朝9時半に始まり夕方5時半に終わるから、8時間も缶詰になるのだ。 もし徹夜なんかしてしまったら、まさに地獄を味わうだろう。
しかし、これだけ大きな台風が来ているのだから、中止になったりしないのだろうか。 そのへんのことを、講習を主催する団体に電話して聞いてみた。 「あのう、明日福岡で講習を受けるものなんですが、明日はどうなるんでしょうか?」 「今のところ、やる方向で進んでいます」 「やっぱり、やるんですか」 「ええ。でも、もし交通事情で、どうしてもこれないと判断した時は、翌日になってもいいですから…」 「えっ、翌日?」 「はい、翌日になってもいいですから、連絡してください。講習日変更の手続きをしますので」 「翌日に連絡でいいんですか?」 「はい、明日は朝8時半から電話に出られるようにしておきますが、一日中その電話で込むでしょうから」
しかし、「判断しろ」と言ったって、電車に乗っている途中に不通になったり、帰りに不通になったりすることだってあるのだ。 そういうことも、すべて行く前に自分で判断しなければならないのだろうか。 もしそのへんを、自分で判断しなければならないのなら、今日のうちに台風の進路図の見方や、進路予想の仕方を勉強しておかなければならない。 でなければ、判断は難しいだろう。 学校や一部の企業も休みになると言っているのだから、いっそのこと、明日の講習は延期してくれないだろうか。
とりあえず、明日は5時頃に目を覚まし、NHKのニュースを見て、可能な限り自分で判断することにしよう。 もしそれが出来ない場合は、『めざましテレビ』の占いで判断することになるだろう。
車が車検から戻ってきてから、すぐにその車に乗って区役所の出張所に行った。 いや、別に「車検代が7万円足りないのでどうにかならないか?」と相談しに行ったのではない。
では何をしに行ったのかというと、選挙である。 もちろん、期日前投票だ。 まだ候補者が公示されたばかりだし、選挙まで間があるので、じっくり「誰を」、「何党を」ということを考えてもよかったのだが、こういうのはさっさと終わらせるに限る。 終わらせておけば、会社や知人から「誰に入れろ」とか「○党に入れてくれ」と言われても、「もう行ってきましたから」ですますことが出来るから、その後の面倒はない。
その後にどんな面倒があるのかというと、会社の場合は、選挙に行ったかどうかのチェックが入るのだ。 前はそこまで酷くなかったのだが、最近は投票率が減っているせいか、時間を区切って投票に行った人の数を報告しなければならなくなった。 会社の支持する人がいない場合は、まったくそういうことがないのに、支持する人が出たとたんにこの有様である。 しかし、会社の場合は、行かなくても「行きました」と言えばすむので、さほど面倒とは思っていない。
問題は、知人の場合である。 しつこい電話攻撃に始まり、あげくに選挙について行くとまで言ってくるのだ。 もちろん、そんなことをやっているのは某学会の人たちである。 中には、わざわざ「あんたたちは学会のことを知らんだろうから」と言って、学会のパンフレットまで持ってきて説明する人もいる。 そういう人たちの相手をするのが面倒なのである。
そういう人たちを相手にしなければ、別に問題はないのだが、ぼくは人が悪いから、ついついそういう人たちの相手をしてしまう。 もちろん、ネタにしようと思ってである。
いちおう、ぼくは相手の言うことに、いちいち「はいはい」とうなずきながら聞いているふりをしている。 そして、いかにも「この党に入れることにします」といった態度をとってもいる。 だが、『そうはイカンザキ』である。 ぼくは、そういう「上が言うからいい人だ」と簡単に信じたり、選挙活動をやることが徳を積んでいると思っている人たちが大嫌いなのだ。 そのため、いつも心の中で「あんたの支持しているところなんかに、誰が入れるか」と思っている。
ということで、ぼくはこういう人の悪いことをしたくないから、期日前、それも早いうちに選挙に行くようにしたのだ。 ま、行ったら行ったで、「誰か言うて来んかなぁ」と思ってはいるが。
昨日、車検に出していた愛車が、3日ぶりに戻ってきた。 そのため、代車生活を強いられたわけだ。 毎回車検のたびに代車を借りているのだが、今回の代車は、これまでのどの車よりも小さく乗りにくかった。 普段は、体の大きなぼくに合わせて普通車を用意してくれるのだが、今回はあいにく軽しかないということだった。
カーショップの人からその旨の連絡を受けた時、「軽ですか…」と思わず言ってしまった。 「他の車は都合つかないんですかねえ?」 「あいにく代車は、全部出払っていて、これしか都合つかないんですよ」 「そうなんですか…」 ない物をねだってもしょうがない。 そこで渋々軽で我慢することにした。
ところが、その代車を見た時に唖然としてしまった。 軽だというので、てっきりワゴンRのような車を想像していたのだが、目の前にあるのは、免許取り立ての女の子が乗りそうな小さな軽だった。 おかげで、代車生活の3日間は、かなりきつい思いをさせられたものだった。
想像以上に、中は狭く感じた。 ぼくの愛車がRV車なので、なおさらそう感じたのだろうが、天井は低いし、座席の幅は狭い。 この空間の狭さになかなか慣れないのだ。 しかも運転しづらい。 アクセルとブレーキの間隔が極端に狭いのだ。 足の大きなぼくにとって、この間隔の狭さはプレッシャーになった。 とにかくアクセルを踏もうとすると、ブレーキまでいっしょに踏んでしまいかねないのだ。 そのため、アクセルを踏む時は、右膝をドアにつけた状態にして踏み、ブレーキを踏む時は、右膝を左膝につけた状態で踏んでいた。 つまり、アクセルを踏む時はガニ股座りで、ブレーキを踏む時はオカマ座りになっていたということだ。
また、ハンドルの遊びが極端に少なく、いつもの感覚でやると、すぐに車がふらつく。 さらに、力が弱く、スピードが出ないときている。 特に坂道では、スピードが極端に落ちてしまうのだ。 そのため、坂道になると、いつも後ろの車から煽られてばかりいた。
ということで、愛車が戻ってきた時は、ホッとした。 これでプレッシャーを感じることなく車を運転できるし、他の車から煽られることもないのだ。
ところが、そのホッとした気持ちもつかの間だった。 カーショップの人が、今回の車検の説明をするたびにまたプレッシャーがかかってきた。 「ブレーキが壊れかかってました」、「タイヤもおかしかったです」、「エアコンもだめでした」とやられる。 最後に、「これにリサイクル料が加わります」と言って算出した請求額は、何と22万円だった。 「えーっ、そんなにかかったんですか?」 「ええ、10年近くも乗っていると、いろんな箇所が悪くなってくるんですよ」 「そうなんですか…」 当初ぼくは、前回が13万円超だったので、それにリサイクル料を合わせた15万円を用意していた。 7万円のオーバー、これは大きい。 何せギターを買ったばかりである。 どうやって都合をつけようか? いっそギターを持って、質屋にでも走るか。
2005年09月02日(金) |
歌のおにいさん(12) |
とはいえ、歌を捨てたわけではなかった。 歌うことに冷めただけで、『歌』そのものには関心を持っていたのだ。 その頃から、真剣に音楽を聴くようになった。 クラシックであろうが、演歌であろうが、とにかく自分がいいと思ったものはどんなものでも聴いた。 それと同時に、言葉に目を向けるようになった。 歌詞だけではもの足らず、詩の世界にまで踏み入ることになった。 何のためにそういうことをやったのかというと、もちろんオリジナル曲作りのためである。
修学旅行の時、『落陽』を初めて聴いたという友人から、「この歌、しんたのオリジナル?」と聞かれた。 ぼくが「これは拓郎の歌。おれがこんな曲作れるわけないやん」と言うと、友人は「ああ、拓郎の歌ね。素人っぽい歌やけ、てっきりしんたのオリジナルかと思った」と言った。 その時ぼくは『真剣に目立とうと思ったら、人の歌なんかでなく、自分の歌でなきゃだめだ』と思ったものだった。 それまでのオリジナル曲は、余興的なものばかりで、とても人に聞かせられるようなものはなかった。 だが、友人の言葉で目覚めてから、ぼくは『人に聞かせられるオリジナル曲』を目指して、歌作りに取り組むようになったのだ。
しかし、あまり曲作りに没頭したため、人付き合いも下手になり、3年の時のクラスではほとんど孤立していた。 そのため、教室ライブもやらなくなった。 いつだったか、音楽の時間に歌唱テストをやったことがあるのだが、その時初めてぼくの歌を聴いた人が多く、2年までのぼくを知らない女子なんかは、「しんた君、歌、うたえるんやねえ」などと言っていた。
ぼくが歌わなくなった理由は、そればかりではない。 高校時代に作った歌は、『人に聞かせられるオリジナル曲』にはほど遠いものばかりだった。 だから歌えなかった、というのもある。 いずれにしても、ぼくはその当時やっていたバンドの中以外では歌わなくなったのだった。 その状態は、東京に出るまで続くことになる。
さて、東京に出てからだが‥‥。 あっ、このことはまた後日書くことにしよう。 ちょっと長くなりすぎた。
最後に、高校3年の時にバンドでやっていた、『かげろう』という歌を紹介しておこう。 高校時代に人前で歌った最後の歌だ。 この歌は、バンドメンバーの一人だったTsuchi君という人が書いた詩に、ぼくが曲をつけたものである。 後年Tsuchi君と二人で飲んだ時に、この歌を歌ったことがある。 「Tsuchi、この歌覚えとる?」と言ってぼくが歌うと、YSは「知らん。誰の歌?」と言う。 「この歌の作詞者知らんと?」 「うん、知らん。誰?」 「この歌の作詞者はねえ、Tsuchi」 「えっ…!?」 「もういっぺん歌おうか?」とぼくが言うと、Tsuchi君は「…、いや、もういい」と照れて言った。 それを見て、ぼくは「覚えてない」というのは嘘だと思った。 覚えてないなら、照れることもないだろうからだ。
その後も何度かいっしょに飲む機会があったのだが、ぼくがその歌を歌おうとすると、「しんた、もういい。やめてくれ」と言うのだ。
よほど触れられたくないことが、この『かげろう』の歌詞の中に隠されているのだろう。
『歌のおにいさん1部』、おしまいです。
2005年09月01日(木) |
歌のおにいさん(11) |
修学旅行中、かなり歌を歌ったが、一番ウケがよかったのが、拓郎の『落陽』だった。 初日にそれを歌ったので、2日目は他の歌を歌おうと思っていたら、「しんた、落陽歌って」とリクエストがかかった。 そこで『落陽』を歌うと、また数時間後に「落陽歌って」とリクエストが入った。 旅館でも「落陽歌え」と言われるし、修学旅行中、いったい何度『落陽』を歌っただろうか。
そして、いよいよ最後の日、バスが新大阪駅に着く前に、「しんた、最後に『落陽』歌ってくれ」と言われ、修学旅行最後の落陽を歌うことになった。 ところが、ぼくがかなりこの歌を歌ったせいで、クラスの連中はみなこの歌を覚えてしまい、バスの中は『落陽』の大合唱となったのだった。 ということで、中学の修学旅行は大失敗だったが、高校の修学旅行は大成功だった。
ところで、どちらの修学旅行も、同じバスの中に『初恋』の君がいた。 中学の時は、ぼくが下手だったので、彼女は見向きもしなかった。 高校の時は、その頃の彼女が男女関係のもつれに悩んでいたこともあって、同じく見向きもしなかった。 まあ、高校時はぼくが彼女に感心がなくなっていたし、彼女を意識して歌ったわけでもないから、聞いてもらわなくてもどうということはなかったのだが、もし高校時代の修学旅行のような成功を中学時代に収めていたとしたら、はたしてどうだったろうか? もしかしたら、『初恋』の君はぼくになびいていたかもしれない。 そして、高校に入ってからもつきあいが続いていたかもしれない。 しかし、中学時代に失敗しておいてよかった、とぼくはその時思ったものだった。 もし、中学時代に成功していたら、それに満足して、ギターを弾くこともなかっただろうからだ。 仮にギターを弾いていたとしても、『月夜待』の君に関心を寄せることもなかったはずだから、オリジナル曲作りに目覚めていたかどうかもわからない。
今でもその思いはあり、もし中学の修学旅行で成功していたら、オリジナル曲はもちろん、今こうやってホームページをやっていることもなかっただろう。 今でこそ日記中心になっているが、元々はオリジナル曲発表の場にしたくて始めたホームページである。 それゆえに、オリジナル曲がなかったら、ホームページを起ち上げなんて思っていなかったに違いない。
さて、修学旅行が終わったあたりから、ぼくはだんだん人前で歌わなくなっていった。 これは修学旅行で燃え尽きてしまったからだ。 「歌で目立つ」、それが当初の目標だったから、それが達成すると 、急激に歌に対する思いが冷めていったというわけだ。 それまでは寝ても覚めても拓郎だったのが、それ以降はどうでもよくなってきた。 その証拠に、それ以降社会に出るまで、ぼくは拓郎のレコードを買っていない。
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