頑張る40代!plus

2005年08月31日(水) 歌のおにいさん(10)

2年の頃から、ぼくはぼちぼちオリジナル曲を作るようになった。
だが、弾き語りでやる歌は、相変わらず拓郎ものだった。
オリジナル曲は、まだまだ人に聴かせられるような内容ではなかったし、またオリジナルを聴かせる度胸もなかったのだ。

その年の文化祭で、ある文化系クラブが、隣の教室でライブハウス的な喫茶店を出していた。
体育館でやるほどの勇気をぼくは持ち合わせてはいなかったが、教室ぐらいの広さなら何とかなるだろうと思い、そこに飛び入り参加させてもらうことにした。
係の人は「いいですよ。でも時間がないんで、10分程度でお願いします」と言った。
「えっ、たった10分ですか?」
「ええ」
「もっと歌わせてくださいよ」
「あと30分で閉店しますから」
「じゃあ、30分歌わせてくれたらいいやないですか」
「だめです。他にも歌いたがっている人がいますから」
「ああ、そうですか」
10分でも歌わないよりはましだと思い、ぼくはその条件をのんだ。

さっそく、ステージに行くと、そこにはマイクやアンプが用意されていた。
しかし、「教室でやるのに、こんなもの使わんでいい」と思ったぼくは、そういう機材をまったく使わず、普段教室でやっているように大声を張り上げて拓郎の歌を歌った。
最初はその声の大きさで、そこにいた人は耳を傾けてくれた。
とはいえ、ギターを弾き始めてまだ1年もたってない腕である。
早くも2曲目でボロが出てしまった。
まずコードを間違え、それに焦ったぼくの声は裏返ってしまったのだ。
だけど、それでもぼくはやめずに歌い続けた。

予定の10分がたった。
係の人がぼくのそばに来て、「時間ですよ」と言った。
しかし、ぼくはそれを無視し、結局店が閉店するまで歌っていたのだった。
そのせいで、ぼくの後に予定していた人が歌えなくなってしまい、散々文句を言われたのだった。

さて、高校時代の最大のイベントといえば、もちろん修学旅行である。
その修学旅行が近づくにつれ、ぼくは中学時の修学旅行での苦い想い出が蘇ってきた。
「あんな悔しい思いは二度としたくない。今度は最初からガンガン行くぞ!」
そう思ったぼくは、ギターを準備して修学旅行に臨んだ。

修学旅行は、富士山から信州を通って金沢に行くルートだった。
静岡まで新幹線で行き、バスに乗り換えた。
ぼくはバスに乗ると、さっそくギターを取り出した。
そして、バスガイドが案内しているのを無視して、がんがんギターを弾き、歌いまくった。



2005年08月30日(火) 歌のおにいさん(9)

ある程度ギターが弾けるようになってから、ぼくは初めて学校にギターを持っていった。
そして、弾き語りできる歌だけを歌った。
だが、下手くそだったから、誰も見向きもしてくれなかった。
いや、たった一人だけいちおう聞いてくれた人がいた。

その一人とは、『月夜待』の君である。
しかし、彼女にぼくの弾き語りを聞かせたのは、これが最初で最後だった。
それ以降、作詞作曲に目覚めたぼくは、彼女に対する歌を数多く作っていくことになるのだが、一度もそれらの歌を彼女に聞かせたことがないのだ。

今、ホームページで『歌のおにいさん』というコーナーを作り、歌を発表しているのも、あわよくば彼女が聞いてくれるかもしれないという小さな期待を持っているからだ。
もしそういうものがなかったら、こんな恥ずかしいことをするわけがない。
せめて『月夜待』だけでも聞いて欲しいものである。
ところが、困ったことに、『月夜待』の君は自分が『月夜待』の君だということを知らないのだ。
もし、再会してぼくが教えない限り、一生わからないままかもしれない。
それを思うと、何かむなしい。

さて、1年の春休みに、ぼくは家にこもってギターの特訓をやった。
そのおかげで、アルペジオなど難しいことさえやらなければ、何とか拓郎の歌を弾けるようになった。
それに伴って歌の練習もやったから、けっこう高音が出るようになった。
その1年前は低音で歌っていたのだから、大きな進歩である。
ぼくは今でも、しゃべる声より歌う声のほうが高く、びっくりされることがあるのだが、それはこの時の練習のせいである。

2年になった。
その頃にはギターがないと歌わないようになっていたから、1年の時のような教室ライブはやらなくなった。
ただ、1年の時の癖で、授業中には歌を歌っていたようだ。
ぼくは気がつかなかったのだが、ぼくの席の周りの女子がそれを気づいて、「しんた君、授業中に歌いよったやろ」と言ってきた。
最初は何のことを言っているのかわからずに、「この女、何を言いよるんかのう」などと思っていたが、それを言われてから、ようやく自分でもわかるようになった。
勝手に口が動いているのだ。
しかし、ぼくはその癖を直そうとはしなかった。

ところで、2年のクラスには『初恋』の君がいた。
が、すでに『月夜待』の君に心を奪われていたぼくは、『初恋』の君に何の関心も持たなかった。
それゆえに、高校2年時、彼女のために歌おうなどとは、まったく思わなかった。
「あの頃よりは、歌が上手くなったぞ」とか「ギターが弾けるようになったんぞ」とかいう思いは、心のどこにもなかった。
2年前、あれほど思い悩んだのが嘘のようである。

しかし、考えてみたら、その人のおかげで歌を歌うことを覚えたのだ。
ということで、『初恋』という歌は、そのお礼ということにしておこう。



2005年08月29日(月) 歌のおにいさん(8)

拓郎の歌を歌っていくうちに、だんだん物足りなさを感じてきた。
ただ歌うでは面白くなくなってきたのだ。
やはり、拓郎をやるなら、ギターは必須である。
ギターがあってこそ拓郎の歌は生きてくる。
また、ギターがあれば、以前からの夢であったオリジナル曲も作ることが出来るだろう。

だが、そのギターがない。
そこで親にギターを買ってくれと頼んでみた。
が、「そんな金はない」と一蹴されてしまった。
こうなればアルバイトしかない。
当時、ぼくたちの学校では、アルバイトは禁止されていた。
とはいえ、そういうのは無視すれば何とかなる。
ということで、何件かアルバイト先を当たってみた。
ところが、それらはすべて夕方のバイトだったため、放課後クラブ活動をやっていたぼくには到底出来ない。
せめて日曜日だけでもということで探してみたが、そういうバイトは見つからなかった。

ところが、歌の神様は、そこでぼくを見捨てなかった。
ある日、親戚から電話がかかった。
使ってないギターがあるから、それをあげると言ってきたのだ。

なぜ親戚の人が、ぼくがギターをほしがっているのを知っていたのかというと、実はぼくのいとこがクラスの女子の家(花屋)で働いていた。
いとこは、その子にいろいろとぼくのことを話したり聞いたりしていたらしいのだ。
それで、ぼくがギターを欲しがっているというのを知ったというわけだ。

さて、ギターを手に入れてからのぼくは、一日中ギターのことばかり考えていた。
そのため、一時的に教室ライブをやらなくなり、代わりに箒を手にギターコードの練習をするようになった。
もちろん家に帰れば、寝るまでギターの練習をやっていた。
その甲斐あって、ギターを手に入れてから2週間後には、下手なりにも何とか一曲の弾き語りが出来るようになった。
その歌は、拓郎の『こうき心』という歌だった。
何でこの歌だったのかというと、コード進行が比較的簡単で、FやBといった難しいコードを使わなくてすんだからだ。

『こうき心』が出来るようになって、再びぼくの教室ライブは復活した。
箒を抱えて、『こうき心』を歌うのである。
せっかくギターが手に入ったのだから、ギターを持ってきてやればよかったのだが、やっとAmを覚えたばかりの素人のぼくには、ギターを持ってくるなどという勇気はなかったのだ。

その後は、拓郎を聞き始めた頃と同じように、一曲弾けるようになると、箒を抱えて教室ライブをやるようになった。
箒を抱えるという姿がおかしかったのか、見ている奴らは笑っていた。
が、ぼくはけっこう真剣だった。
なぜなら、箒をギターに見立てて、イメージトレーニングをやっていたわけだからだ。



2005年08月28日(日) 歌のおにいさん(7)

ぼくはレコードを買ったり借りたりして拓郎の歌を聴き、そして覚えていった。
覚えては、教室でその歌を歌う毎日を繰り返した。

ぼくがあまり拓郎の歌ばかり歌うので、『月夜待』の君も拓郎に関心を寄せたらしく、ある時ぼくに「わたし、昨日拓郎のレコードを借りて聴いてみたよ」と言ってきた。
ぼくが「拓郎はいいやろ?」と言うと、「まだ一回しか聞いてないけよくわからんのやけど、『男の子女の娘』という歌がよかった」と言う。
すかさずぼくがその歌を歌うと、彼女は「えっ、そんな歌やったかねえ?」と言う。
「この歌はこんな歌ぞ」
「なんか違うような気がするけど…」
「おまえ、耳がおかしいんやないか?」
「そんなことないよ」

その頃のぼくは、彼女のことを気に入ってはいたが、自分の中でまだ好きだとは認めてなかった。
だからこそ、「耳がおかしい」などと平気で言えたのだ。
彼女のことを「好きだ」と認めてからは、そういうことを言ったこともなければ、思ったこともない。

さて、どうも納得のいかないぼくは、家に帰ってから彼女が好きだというその歌を聴いてみた。
が、ぼくが歌うのと何ら変わらない。
「やっぱりこんな歌やないか。しかし、彼女は何でこんな歌が好きなんやろう?熱狂的な拓郎ファンでも、この歌を好きという人はあまりおらんと思う」
案の定、ぼくの人生の中でこの歌を好きだと言ったのは、彼女一人しかいなかった。
そこで、ぼくは「きっと、彼女は歌を聞き間違えたんやろ」と結論づけた。

そして翌日、ぼくはそのことを彼女に言おうとした。
が、あいにく彼女は、友人たちと談笑にふけっていたため、なかなか入り込むチャンスがつかめなかった。
そうこうするうちに、一日は終わってしまった。
その翌日になると、今度はぼくのほうがそのことを忘れてしまっていた。
それを思い出したのは、何週間か先のことだった。
「今更言うのも何だから」、という理由で、結局そのことは言わずにおいた。
今になってみれば、それが心残りである。
もし、あの時そのことを言っていたら、そのことがきっかけとなって、二人の間はもっと違った方向に行っていたかもしれないのだから。

ぼくと彼女との間には、そういうちょっとした行き違いが多々ある。
その当時は、その行き違いにいちいち理由をつけて、「これが後々ドラマチックな展開につながるんだ」と思っていたものだった。
ところが、その勝手な思い込みは、結局8年間の片思いにつながってしまった。
当時のぼくは、夢見るおバカだったのだ。



2005年08月27日(土) 歌のおにいさん(6)

デビューの曲目を決めた日、ぼくは例のごとく押し入れにこもって、その歌を練習をした。
そして次の朝、教室に入るなり、その歌手を真似て、いやらしくその歌を歌った。
みんなの視線がぼくに集まった。
「誰、あの人?」
「H中出身の、しんたという人らしいよ」
「変な人やね」
歌っている最中、そんな声がぼくに聞こえてきた。
が、ぼくはそんな声を無視して歌い続けた。

ということで、その作戦は見事に成功した。
クラス中の人がぼくの存在を認め、ぼくのイメージは「暗い人」から「面白い人」に変わった。
もちろん『月夜待』の君も、ぼくの存在を知ることになった。

さて、その歌はいったい何だったのか?
勘のいい人なら、もうおわかりだと思うが、その歌は、ぴんからトリオの『女のみち』である。
言わばこの歌が、『月夜待』の君に捧げる最初の歌となったのだった。

その日から、ぼくは毎日歌を歌い続けた。
そのたびに注目度は増してくる。
『月夜待』の君も、ぼくに関心を持ったようで、時折声をかけてくるようになった。
そのたびにぼくはバカをやっていた。
もちろん本気でバカをやっていたわけではない。
照れ隠しである。

さて、毎日歌を歌ってはいたものの、いつまでも『女のみち』を歌っていたわけではない。
歌本を持っていっては、知っている歌を片っ端から歌っていたのだ。
それを続けていくうちに、ぼくの中である変化が起きた。
最初は目立つために始めた歌だったが、そのうちそれが癖になってしまい、歌わないと落ち着かなくなっていたのだ。
休み時間はもちろんのこと、授業中も自然に歌が出てくるようになっていた。

そんなある日のこと、ぼくはひとつの武器を手に入れることになった。
人生最大の武器といってもいいかもしれない。
その武器とは、『吉田拓郎』である。
いつものように家に帰ってFMを聞いていると、ちょうど吉田拓郎の特集をやっていた。
最初は何気なく聞いていたのだが、そのうち身を乗り出して聞くようになり、ついにぼくの体中は拓郎でいっぱいになった。
拓郎洗礼の瞬間である。
とにかくすごい衝撃だった。
放送が終わった後も、拓郎の歌がずっとぼくの中で鳴り響いていた。

拓郎の何に衝撃を受けたのかというと、その歌詞であり、その曲である。
彼は決して歌が上手い方ではない。
だが、彼の歌を聴くと、そんなものどうでもいい、という気がしてくるのだ。
妙に説得力のある歌いっぷりは、『自分の作った歌』、という誇りからくるものなのだろう。
「やはり、オリジナルだ」と、ぼくはその時漠然と思ったものだった。

とにかく、その翌日から、ぼくは他の歌を一切歌わなくなった。
そう、拓郎オンリーになったのだ。



2005年08月26日(金) 歌のおにいさん(5)

とはいえ、すぐに歌を歌ったのではなかった。
ぼくは、どちらかというと人見知りする質なので、すぐにその場にとけ込むことが出来ない。
そのために、入学後すぐにあった歓迎遠足で、歌本を用意していたのにもかかわらず、歌うことをためらった。
歌を歌うというのは、ただでさえ勇気がいるものである。
それを、知らない人の前で歌うなんて、当時のぼくにはとても出来なかった。

理由はもう一つあった。
高校入学の翌日に、中学時代の友人が自殺するという事件があった。
ぼくにとって、事件のショックはかなり大きなものだった。
そのせいでふさぎ込んでしまい、とても歌う気になんかなれないでいたのだ。

さて、入学して3週間が過ぎた。
クラスにようやくまとまりが出てきた頃である。
だが、ぼくはまだ友人の死のショックから立ち直れないでいた。
親しい友人も出来ず、一人黙りこくっていたのだ。

その反面、焦りもあった。
その状態のままだとクラスに取り残されていき、暗い人だというイメージを持たれてしまう。
そういう人で1年間、いや3年間を過ごすのはまっぴらである。

そこでぼくは一大決心をした。
暗いイメージを完全に払拭するために、ある手段を採ることにしたのだ。
それは言うまでもなく歌を歌うことだった。
歌で目立とうと思ったわけである。

「どうせやるなら、一発で決めてやる!」
そう思ったぼくは、さっそく選曲に取りかかった。
すでに暗い人と思われているかもしれないので、中学時代の『赤色エレジー』はいただけない。
やはりここは、その時点のヒット曲に限る。

その頃のヒット曲といえば、あのねのねの『赤とんぼの唄』だった。
だが、押し入れで練習した声に、この歌は似合わない。
しかも、当時は誰もが歌っていた歌なので、インパクトが弱い。
ということで、他の歌を探すことにした。
ある程度歌唱力がいって、歌としても面白く、さらに誰でも知っている歌。
それらの条件に見合う歌を、ぼくは必死に探した。
そして、ようやくそれを見つけた。

その歌は演歌だった。
それゆえに、ある程度の歌唱力は必要になってくる、つまり押し入れ練習が生きるのだ。
また、その歌を歌っている人の顔も声も独特だった。
そのため、インパクトは充分だった。
しかも、発売されて1年近く経つのに、まだ根強い人気を誇っていた。
知名度は充分である。
それに加えて、当時の高校生が歌うような歌ではなかったから、意外性も充分だった。



2005年08月25日(木) 歌のおにいさん(4)

高校受験の日、同じ試験会場には何と『初恋』の君がいた。
同じクラスなのに、彼女がどの高校を受けるのかを、ぼくはまったく知らなかった。
『赤色エレジー』以来、ぼくの中にわだかまりが出来てしまって、彼女を前にすると口を開けなくなったのだ。
「どの高校受けると?」の言葉さえ出てこなかった。
彼女もそれを感じていたのか、他の人には「どこ受けると?」と聞いていたようだが、ぼくには一言もそんなことを聞いてこなかった。
彼女の中には、きっとぼくの存在なんかなかったに違いない。
だから、ぼくがどの高校を受けるかなんて、関心がなかったのだろう。

とはいえ、同じ高校を受けたことが、ぼくには嬉しかった。
これが縁で、本格的な恋が芽生えるのかもしれないという期待があったからだ。
「運命は確実にぼくと彼女の距離を縮めつつある」
ぼくは、そんなことを思いながら、試験を受けたのだった。

それから一週間後、合格発表があり、ぼくも彼女も無事合格していた。
その発表から高校入学までの間ずっと、ぼくは彼女との間に起こるこれからの3年間を想像していたのだった。
その想像の3年間は、実にハッピーなものだった。
ぼくのそばにはいつも彼女がいて、その彼女のためにぼくは歌っている。
お互いの誕生日を祝い、クリスマスを共にし、いっしょに初詣に行く…。
なんて、バカなことを考えていたのだった。

さて、高校入学当日、ぼくは期待に胸をふくらませて校門をくぐった。
何を期待していたのかというと、これから始まる高校生活ではなく、もちろん彼女との未来である。
式中も、そんなことばかり考えていた。
みんな緊張しているさなか、ぼく一人だけがにやけていたのだ。
その後に、そんなバカな想像が、一気に崩れ落ちる瞬間が待っているとも知らないで。

入学式が終わった後、ぼくたち新入生は新しいクラスに移動した。
暫定的に席が決まり、みな席に着いた。
どんな人がいるんだろうと、ぼくは周りを見渡した。
その時だった。
一人の女子が、ひときわ際だって見えたのだ。
どこかで会ったことのあるような、ないような…。
とにかく、何とも言えない感情がぼくの胸をくすぐったのだった。
ついに、その後8年間思い悩むことになる『月夜待』の君が登場したのである。
その瞬間、『初恋』の君への想いはどこかに吹っ飛んでしまった。

たまたまその日の帰りに、『初恋』の君と同じバスになった。
ぼくを見つけた彼女は、珍しくぼくのそばに寄ってきて、高校についていろいろと話しかけるのだ。
しかし、ぼくは上の空だった。
『月夜待』の君が気になって仕方ない。
そう、『初恋』の君なんて、もうどうでもよくなっていたのだった。
そして、その日を境に、ぼくの歌は『月夜待』の君に向けられることになる。



2005年08月24日(水) 歌のおにいさん(3)

『赤色エレジー』は裏声で歌う歌なので、その練習さえしておけば、多少の歌唱力不足はカバーできる。
また、当時の大ヒット曲だったので、話題性は充分である。
ぼくは、歌う曲目を決めてから遠足前日までの毎日を、裏声の練習で過ごしたのだった。

さて、遠足当日。
ぼくは修学旅行時と同じく、後ろの方の席を陣取った。
前回の修学旅行では、前から順番に歌っていったから、今回は後ろから順番ということになると読んでいたのだ。
案の定であった。
その読みは見事に当たり、後ろから歌うことになった。

ぼくは3番目だった。
もちろんHより先である。
最初の二人が歌い終わり、バスガイドが、「次は誰が歌いますか?」と訊いた。
すかさずぼくは、大声で「はい!」と言って手を挙げた。
「おお、元気がいいですねえ。何を歌ってくれますか?」
「赤色エレジーを歌います」
「えーっ」と、ここでバスの中がどよめいた。
きっとみんなの心の中に、「まさかこの歌を歌う奴はいないだろう」というのがあったのだろう。
ということで、つかみはうまくいった。

ぼくは深呼吸をして、「♪愛は愛とて、何になるー♪」と始めた。
ちゃんと練習通りに裏声が出ている。
キーも外さずに歌えている。
ぼくは心の中で、「やったー!」と叫んでいた。

ところが、ここで予想外のことが起こった。
てっきりみんなは聞き惚れていると思っていたのだが、ぼくが声を張り上げるたびに笑いが漏れてくる。
「おかしいなあ」と思いながらも、全部歌い終わると、拍手の代わりに大爆笑が起きた。
そこで、横に座っていた友人に「何がおかしいんか?」と聞いてみた。
その友人は、「おまえの声がおかしいんよ」と言った。
「えっ!?」
「オカマみたいな声出しやがって」
「オカマ声やったか?」
「おう」
ぼくは慌てて『初恋』の君を見た。
彼女も、もちろん笑っていた。
その笑いは、嘲笑しているように見えた。
いや、嘲笑していたのだ。
その証拠に、その後彼女はぼくを見るたびに、下を向いて嘲るように笑っていたのだから。

結局、『赤色エレジー』で彼女の心をつかめなかった。
しかも、それを歌ったせいで、嘲笑の対象にまでなってしまったのだ。
ということで、高校に入るまで、ぼくは再び人前で歌を歌わない男に戻っていった。

とはいうものの、歌うのをやめたわけではなかった。
「高校で勝負だ」という思いがあって、押し入れスタジオでの練習はしていたのだ。
もちろんその頃には、『赤色エレジー』は歌ってなかった。
何度か友人たちから、「しんた、赤色エレジー歌ってくれ」と頼まれたが、「誰が歌うか!」と言って断っていた。
その頃、主に練習していたのは、ジュリーの歌であり、ラジオで覚えたフォークソングであった。
そして、それが高校時代の大ブレークにつながるのだった。



2005年08月23日(火) 歌のおにいさん(2)

結局、Hの歌が終わると、歌はもうどうでもよくなったようで、バスの中は急に騒がしくなった。
いちおう順番で歌ってはいたが、誰も聞いてなかった。
ぼくは最後の方で歌ったのだが、自分で何を歌っているのかわからないほど、騒ぎ声が大きかった。
ということで、この修学旅行も、Hの一人舞台に終わったのだった。

修学旅行が終わってから、『初恋』の君の態度が一変したように思えた。
いつも君はHの方を見ているのだ。
「これはいかん」と思ったぼくは、俄然やる気を出し、歌の練習をするようになった。

とはいえ、歌の練習といっても、何をやっていいのかがわからないので、とにかく大声で歌を歌ってみることにした。
何を歌おうかと思ったが、いざとなると何も思いつかない。
仕方がないので、本屋で平凡を買ってきて、それについている歌本を攻略することにした。

もちろん、その練習は自分の部屋でやった。
だが、どうも外に音が漏れているような気がして集中できない。
そこで、ぼくは急遽スタジオを作ることにした。
スタジオといっても、そんな大それたものではない。
要は音が漏れなければいいだけだから、そういう場所をスタジオにしただけだ。
その場所とは、押し入れである。
押し入れの中に入り、そこにある布団の中に頭を突っ込んで歌えば、いくら大声を出しても、音が漏れることはない。
それから毎日、ぼくはそのスタジオにこもり、最後のチャンスである秋の遠足に向けて、歌の練習をしたのだった。

ところで、その当時、つまり‘72年だが、その時買った平凡の歌本にどういう歌が載っていたのかというと、さすがにフォーク全盛の頃だったから、フォークソングが中心に載っていた。
よしだたくろう、泉谷しげる、かぐや姫、遠藤賢司、高田渡、加川良といった名前を知ったのもこの時だった。
しかし、その頃ぼくは、まだフォークに興味がなかった、というよりそういう歌を知らなかったので、それは飛ばして、歌謡曲ばかり選んで歌っていた。

さて、秋の遠足が近づいてきた。
いよいよ何を歌うかを決める時がきた。
Hはいつものように歌唱力の必要な、いわば正統派の歌を選んでくるだろう。
ぼくはというと、歌の練習をしてはいたものの、まだまだ歌唱力には自信がない。
ということは、ぼくが同じように正統派の歌を歌っても、逆効果になってしまう。
そこでぼくは、歌唱力よりも歌の内容で勝負しようと思ったのだった。
では何がいいか?
いろいろ悩んだが、やはり時代はフォークである。
フォークを歌おうと思い、先の歌本で、歌えそうなフォークソングを探した。
その中に、「これなら歌える!」という歌が一つだけあった。
それは、あがた森魚の『赤色エレジー』だった。



2005年08月22日(月) 歌のおにいさん(1)

中学のある時期まで、ぼくは歌にまったく興味がなかった。
それに加えて、人前で歌うのが大嫌いだったのだ。
仮に歌うことがあっても、うまく歌おうとか、感情を込めて歌おうとかいう意識はまったくなく、ただいいかげんに声を出しているだけだった。
例えば、音楽の歌唱テストの時がそうだったし、遠足でマイクが回ってきた時もそうだった。
ちなみに、中学2年の遠足の時に歌った歌は、『ヤン坊マー坊天気予報』だった。
もちろん、いいかげんにである。

その遠足の時だった。
Hという男がいたのだが、その男、えらく歌が上手いのだ。
それを聞いた担任の先生は、翌日のホームルームで「いやあ、昨日のHの歌にはしびれたねえ」と言って、Hを褒めちぎった。
先生は、前の学校でオーケストラの顧問をやっていた関係で、音楽には造詣が深く、周りの先生たちからも一目置かれていた。
そういう先生に褒められたということで、いやが上にもHの注目度は上がった。
さらに、「他にも上手いのがいたなあ」と言って、何人かの名前を挙げた。
ということで、その何人かも注目度が上がることになった。

「ふーん、歌が上手いと注目度が上がるんか」と、ぼくはその時思った。
が、歌に関心がなかったせいもあり、その時はそれで終わった。

その翌年の5月に修学旅行に行った。
同じクラスには、後にぼくのオリジナル曲『初恋』に出てくる『君』がいた。
ということは、当然そこで目立たなくてはならない。
「何をやって目立とうか?」
ぼくはそれを考えた。
いろいろな案を考えたが、2年の遠足の時の例もあることだし、やはり目立つことといえば歌である。

しかし、それまでぼくは、歌に興味がなかったため、いいかげんにしか歌ったことがない。
さらに、「上手い」なんて褒められたことは一度もない。
それで彼女の気を引こうというのは無理な話だが、その時はけっこう楽天的だった。
真面目に歌えば何とかなる、と思っていたのだ。

ところが、一つだけ気になることがあった。
それは、同じクラスにはあのHもいたということだ。
Hが歌が上手いことは、すでに学校中で評判になっていた。
何せ、2年時の担任が褒め称えたのだから。
そのため、誰もがHの歌を聴きたがっていたのだ。

修学旅行時、バスの中でHは前の方の席に座っていた。
一方ぼくは、最後列に座っていた。
いよいよ歌の時間になり、「前と後ろ、どちらから先に歌うか」ということになった。
一度はじゃんけんで決めようということになったのだが、旅行委員が勝手に「歌は前から順番に歌う」と決めてしまった。
ということで、Hが先に歌うことになった。

Hは尾崎紀世彦の『さよならをもう一度』という歌を歌った。
歌唱力のいる歌なのだが、Hはこともなげに、その難しい歌を歌いこなした。
彼が歌っている間、バスの中はシーンとしていた。
全員が聞き惚れているのだ。
もちろん、その中には『初恋』の君もいた。



2005年08月21日(日) お礼が言いたい

以前はそんなことをやらなかったが、日記のメインをブログにしてから、写真や号外を除いては、毎日23時59分59秒を更新時間に定めている。
日記ということなので、その日の最終時間を更新時間にしたわけである。
たとえそれが翌朝になろうが、翌夕になろうが、その姿勢は変えていない。
ということで、今日の日記も、23時59分59秒の更新にしている。
ちなみに現在の時間は、翌1時5分である。

さて、このサイトを始めた2001年1月16日から今日の23時59分59秒までに、いったい何人の人が訪れたのかというと、167,224人である。
単純に5で割ると、1年あたりの訪問者数は3万3千人程度になる。
まあ、自分のことばかりしか書いてないし、アクセスを増やす努力なんてほとんど行ってないから、妥当な数字だろう。
ちなみにこの数字は、ページを開いた数ではなく、訪れてくれた人の数を書いている。
それゆえに、アクセス数○件という呼び方を採らず、○人という呼び方にしているのだ。

このサイトを立ち上げた時は、ごく身近な人にしか教えてなかったので、訪れる人は日に10数人しかいなかった。
そのうち、日記の内容を一般ウケするものに変えたり、サーチエンジンに登録したりしたので、訪問者が少し増え、50人ほどになった。
その状態が、急激にアクセス数が増えることになるブログ開始まで続いたわけだ。

その50人程度の時代に、どこからどういう人が訪れているのかが知りたくなって、アクセス解析を設置したことがある。
それを見てみると、毎日来ている人は30人程度で、あとは検索でたどり着いた人だということがわかった。

その30人の中には、掲示板にコメントを書いてくれる方もいれば、つかず離れずの方もいらっしゃる。
どうしてそれがわかるのかいうと、コメントを書いてくれている方は、アクセス解析でそのコメントをくれた時間を見れば、「ああ、○○さんはこのホストか」というのがわかる。
ということで、いつも解析に載っているホストからコメントホストを除いたものが、つかず離れずの方のホストということになる。

そういう人の中に、けっこう古い時代から見てくれている方がいる。
アクセス解析をやめてからしばらくは知らない。
ブログを始めて、それにアクセス解析が付いていることを知ってから、再びそれを見るようになった。
そして、今もなお、その方は来ているのを知った。

アクセス解析は、その人が住んでいる地域もわかるのだが、その方の住んでいる地域は、ぼくが東京にいた頃に大変お世話になった方が住んでいる地域と同じなのだ。
もし、それがその人なら、きっとこういう経緯をたどったのだろう。
「最初は何気なく見ていた。
ある時のこと、心当たりがあることが書いてあった。
それで、『もしかしたら、しろげしんたというのは、あのしんたのことじゃないか?』と思うようになった。
ある時、そのしろげしんたという人が歌を発表した。
その歌は聴き覚えのある歌だった。
やっぱりそうか。
あのしんただったのだ」
というところだろうか。

まあ、その方の住んでいる地域は、100万人以上の人が住む地域だから、その可能性は低いかもしれない。
しかし、もしその方だったら、一言お礼を言っておく必要がある。

あの頃は、本当にお世話になりました。
今、こうやって、バカなことを書いていられるのも、あなたのあの時のお力添えがあったからです。
本当に、ありがとうございました。

ということで、Kさん。
それがもしあなただったら、連絡してくれませんでしょうか?
ぼくは、一度あなたと、お茶の水にギター弦を買いに行った男です。



2005年08月20日(土) 不倒翁(おきあがりこぼし)

1週間ほど前から、周りの人に「しんちゃん、痩せたねえ」と言われるようになった。
そういう自覚はなかったのだが、そう言われると、常に肥満気味を気にしているぼくとしては、嬉しい。

「そうかねえ?」
「顔がほっそりとしてきたよ」
「そういえば、最近ズボンが大きく感じるようになった」
「夏痩せしたんかねえ?」
「いや、そんなことないよ。ちゃんと食欲もあるし」
「じゃあ、ダイエットでもしよると?」
「ダイエットと言うほどのことやないけどね」
「何しよると?」
「やずやの香醋を飲みよるだけ」
「えっ、それだけで痩せれるん?」
「いや、それだけじゃないけど」
「他に何かしよると?」
「寝る前に、起き上がりこぼししよるんよ」
「起き上がりこぼし?」
「うん。体操座りするやん。その格好で後ろに転がって、また元に戻すんよ。これを繰り返すだけやけど」
「それがダイエットにいいと?」
「腰痛のために始めたんやけどね。痩せたんなら、ダイエットにも効果があるんやろうね。他には何もしよらんけね」

8月6日の日記のタイトルは、『腰痛を治すぞ!』だった。
あの時、「腰の力を抜き少し前屈みになっているような姿勢で立つと、腰の痛みが消える」と書いた。
ところが、そうやると確かに腰の痛みは消えるのだが、前に屈んだ時に背中が張るような感じがするのだ。
おそらくそれまで、姿勢を正しくしていようと、立っている時にずっと体を反らしていて、前に曲げるようなことをしなかったことのツケが回ってきたのだろう。
体が硬くなってしまっているのだ。

とりあえず、少しは体を柔らかくしておかないと、腰痛は治ったにしろ、そのせいで他の箇所に支障が生じるおそれがある。
ということで、家に帰ってから柔軟体操を試みた。
やはりかなりからだが硬くなっていた。
とにかく前に曲げられないのだから話にならない。
途方に暮れたぼくは、昔やっていたように体操座りをしようとした。
ところが、手は届くものの、体が硬いせいで、前に曲がらないのだ。
それでも、何とかその格好に持っていった。
腕は伸びきっているために疲れるし、体は無理矢理前に曲げているために息苦しいし…。
しばらくして、腕が疲れたので手を組み直した時だった。
バランスを失って、そのまま後ろに転がってしまったのだ。
ところが、後ろに転がっている時、何とも言えない痛気持ちよさがぼくの中を駆け抜けた。
背中を丸めていたせいで、腰や背中が順に床に触れていく。
床に触れた時、そこに体重がかかるため、ちょうどそこを指圧されたような感じがするのだ。
つまり、床が腰や背中をマッサージしてくれたというわけだ。

「これはいい!」
そう思ったぼくは、転んでは戻り、転んでは戻りを20回ほどやってみた。
終わってみると、腰や背中の痛みは緩和されているし、体も少しは柔らかくなった。
さらにいいことには、腹筋が少し痛くなっている。
つまり、腹筋が鍛えられているということだ。

ということで、それ以来、その運動を毎日50回やっている。
おかげで、先の人が言うように、体も締まってきたのだ。
これをずっと続けていたら、夢の『体重70キロ切り』も、そう遠くない時期に現実のものになるだろう。
不倒翁か。
まさしく転んでもただ起きんわい。



2005年08月19日(金) 裸の生活

夏のどこがいいのかというと、やはり何と言っても、裸でいれることである。
ぼくは夏になると、家ではほとんどパンツ一枚で過ごしている。
小さい頃から、夏はずっとこうである。
当時はエアコンなんてなかったので、こうするしか涼をとる方法がなかった。
これはぼくだけでなく、近所の人もみなそうで、子供はもちろん、おっさんたちもこの格好で涼んでいたものだった。
おそ松くんに出てくる、デカパンのおっさんのようなものである。

エアコンが普及しだしてからは、さすがにこんな格好をしている人は見かけなくなった。
こんな格好が一番似合う子供でさえも、ちゃんと体裁のいい服を着て遊んでいる。
子は親を見て育つらしいから、きっとその親たちも体裁のいい格好をして家の中にいるのだろう。

しかし、ぼくの場合、エアコンを入れないから、この姿がちょうどいいのだ。
この姿で汗をかきながら、「暑い暑い」と言いながらビールを飲んだり、スイカやかき氷を食べるのが好きである。
ところが、そういう時に、郵便や宅急便なんかが来るとちょっと面倒である。
印鑑を押す、たったちょっとの時間のために、Tシャツを着て、暑苦しいズボンをはかなければならないからだ。
もちろん、彼らが帰ったあとはすぐにまた脱ぐのだが、たったそれだけの時間でも、Tシャツはしっかり汗を吸い取っている。

動物はもちろんだが、人間も基本的には服を着ることが嫌いな動物だと、ぼくは思っている。
その証拠に、赤ちゃんは服をいやがり、靴下をいやがり、靴をいやがるではないか。
何がそういった物を嫌わせるのかというと、それは本能である。
でなければ、何も知らない赤ちゃんが、そういう物を嫌うはずがない。

ということで、どうして裸がいいのかというと、本能に戻れるからだ。
だからこそぼくは、この季節を好むのである。
そして、秋の訪れを悲しむのである。

ぼくは年中夏を追っている。
初夏という言葉に喜び、立秋という言葉は見聞きしないようにし、夏は彼岸までという気象学上の季節区分を尊び、限界が来るまでパンツ一丁の生活をし、秋冬には「あと何ヶ月で初夏だ」と自分を慰めている。
テレビやラジオで童謡『小さい秋みつけた』がかかっていると、すぐに消してしまう。
ススキやコスモスも見たくない。
コオロギや鈴虫の音なんて、もってのほかだ。



2005年08月18日(木) 夏を嘆く

一昨日、今年初めてツクツクボウシの鳴く声を聞いた。
昨夜、今年初めてコオロギの鳴き声を聞いた。
今朝、吹く風の冷たさに目を覚ました。
そろそろ夏も終わりに近づいている。
48回目の夏も満足のいく夏ではなかった。
毎年こうである。
いつも何かをやり残している。
いや、夏を充分に満喫できていないのだ。

子供の頃は、いつも満足に海に行けなかったことを嘆いていた。
海に行く時は、いつも日帰りだった。
それも、多い年で2回、少ない年は1回しか行けなかった。
まあ、海のない地方の方にとっては1回でも贅沢な話だろうが、海水浴場までバスで20分以内、自転車で行ってもさほど時間のかからない場所に住んでいて、これは悲しい。
多い人は、5回も6回も行っていた。
また、泊まり込みで遠方の海に行く人もいた。
そういう人は日の焼け方が違う。
それをうらやましいと思っていたのだった。

学生の頃は、恋が芽生えなかったことを嘆いていた。
思春期になっても、やはり夏は特別な季節だった。
子供の頃のように、海に行きたいなどとはあまり思わなくなっていた。
ところが、それに代わって、やっかいなものに興味を示すようになった。
それは異性である。
けっこう多くの人が、夏休みに知り合った女の子と付き合うようになっていた。
しかし、ギターの練習ばかりやっていたぼくには、彼女が出来なかった。
というより、出会いがなかったのだ。
ギターの練習ばかりやってはいたものの、友人たちとはそこそこ遊んでいたが、そこには女子がいなかった。
それが致命的であった。
ということで、学生時代の夏は、やり場のない心の嘆きがあった。

社会に出てからはというと、夏が年間で一番忙しい仕事に就いてしまっため、夏を満喫する時間がなかった。
梅雨明けとともに、午前様の生活が始まる。
そう、エアコンが売れ出すのだ。
配達業者は全員でエアコン工事に取り組むので、他の商品の配達が出来ない。
そのため、営業時間が終わると社員は配達にかり出されるのだ。
少ない時で午後10時、多い時には午前2時になったこともある。
これが毎日毎日続き、その間休みも満足に取れなかった。
上司はよく「あと少しの辛抱です」と言っていた。
が、その辛抱が終わると、すでに夏は終わっているのだ。
「こんな夏を満喫できない会社なんて辞めてやる!」と思いながらも、その会社で11年を過ごした。
いよいよ辞める頃には、夏の楽しみ方を忘れていたのだった。

さて、40代後半である今でも嘆きはあるのかというと、大いにある。
もちろん、もう海とか彼女とか言う歳ではない。
では何かというと、それは季節のイベントを満喫できないことにある。
夏祭りしかり、花火大会しかりである。
県内では1ヶ月以上も夏祭りをやっているのに、その場所に行ったのは一回だけだ。
その一回だけで、「ああ、今年も夏が終わった」と思うのはむなしい。
また花火にしても、家から見える花火を鑑賞するだけで終わっているが、それで満足できるはずがない。
近郊の花火大会にはすべて現地に行って、間近で鑑賞したいのだ。
それでこそ、夏を満喫できるというものだ。
ということで、この嘆きは来年も続きそうである。



2005年08月17日(水) ダニの季節になりました

昨日、埃まみれの録音機材の中にいたせいで、ダニにかまれたようだ。
太ももに二ヶ所、お尻に同じく二ヶ所のダニ痕を見つけたのだ。
最初は何と言うこともなかったのだが、気がつくと痒くなっていた。
蚊の痒さと違って、ダニの痒さはしつこい。
家ではエアコンを入れてないので、自ずと汗をかく。
その汗が痒さを助長するのだ。
いちおうは痒み止めを塗っているのだが、それも一時しのぎに過ぎず、すぐまた痒くなる。

東京にいた頃に、一度大量のダニに背中を噛まれ、その痒さに何週間かのたうち回ったことがある。
人からは皮膚病扱いにされ、病院を紹介されたものだった。
あの時は、パンツ一丁で、掃除のしてない畳の上でゴロ寝したのが原因だった。
その頃は、埃の中にダニが潜んでいるなんて知らなかったのだ。

そういえば、あれもこの時期だった。
その後も何度かダニにやられているが、やはりこの時期だった。
ということは、この時期に埃は厳禁だということか。
しかし、そうは言っても、なかなか掃除する気にはなれない。
置いているものがわからなくなるとか、部屋をきれいにすると日記を書く気が起きない、などいろいろ理由はあるのだが、要は掃除するのが面倒なだけだ。

もし今掃除するとしたら、優に一日はかかるだろう。
やる時は妥協せず徹底的にやるからだ。
先の東京ダニ事件の時は、徹夜して掃除したのだった。
江戸間の6畳部屋だったが、まずお茶の出し殻を畳の上にばらまき、それを箒で掃いたあと、二度水拭きをした。
そのあとで、マイペットの原液を畳にまんべんなく振りかけた。
その泡が出なくなるまで、ぞうきんでゴシゴシやり、しばらく置いてまた水拭き、最後に乾拭きをして掃除を終えた。
この徹夜作業のおかげで、完全にダニはいなくなったのだった。

おそらく、今掃除をするとしたら、それだけではすまないだろう。
まず、部屋にある物を、すべて片付けなければならないからだ。
それをやるためには、まずパソコンの増設からしなくてはならない。
2ヶ月ほど前に、内蔵型のDVDレコーダーを買ったのだが、いまだ封を開けずに部屋に放置したままである。
片付けるとなったら、そういった物を然るべきところに納めることから始めなくてはならないというわけだ。
そういうことを加味すると、徹夜程度では掃除は終わらないだろう。
だから、なかなかその気になれないでいるのだ。
とは言うものの、そろそろ手を打っておかないと、あの時の二の舞になってしまうのは必至である。

ところで、こういうことを書くと、おそらく誰もが「奥さんは掃除をしないのか?」と思うのではないだろうか。
嫁ブーの名誉のために言っておくと、ちゃんと部屋の掃除はやってくれている。
ただ、機械が置いてあるところは、一切手を触れないのだ。
なぜかというと、嫁ブーは機械音痴だからである。

嫁ブーは、電器の専門店に勤めているくせに、なぜかボタンがたくさんついている機械には弱い。
その証拠に、嫁ブーがパソコンの起動やDVDの録画をやってる姿を一度も見たことがない。
そういうことは、すべてぼく任せなのだ。
ぼくの持っている機材は、専門的なものなので、そういう物よりもさらに多くのボタンが付いている。
だから、拒否反応を起こしてしまい、そこだけ手をつけないでいるというわけだ。

ちなみに、電器の専門店に勤めている嫁ブーが扱える機械にどんなものがあるかというと、洗濯機と冷蔵庫とドライヤー、それとたまに使っている美顔器くらいである。
勉強会と言っては、しょっちゅう早出しているが、いったい何を勉強しているのだろう?

ということで、掃除は嫌でもぼくがやらなくてはならないのだ。
さて、いつやる気になるだろうか?
「一週間以内にはあり得ん」と、ぼくは見ている。



2005年08月16日(火) 影枕

12日の日記にも書いているが、『吹く風』というのは、ぼくのオリジナルである『影枕』という曲の歌詞から採っている。
その日記を見た人から、「そのことは前にも書いていたからわかるんだが、いったい『影枕』というのはどんな曲なんだ?」と聞かれた。
あくまでもネット上での会話なので、「こういう曲です」と教えることも出来ない。

ということで、今日、久しぶりに録音機のスイッチを入れることになった。
今年の3月に『遙かな島に』を録音したのだが、それ以来のことである。
ぼくは機械に優しい人間ではないので、機械はその時から出しっぱなしで、機材はすべて埃まみれになっていた。

ぼくはそんなことに頓着せず、埃まみれになっている機材をセットした。
そして、音が漏れないように窓を閉め、録音を開始した。
ところが、何度やってもだめだった。
歌は何とかごまかせるが、ギターのほうが思うようにいかないのだ。
それもそのはず、この曲はフィンガーピッキング奏法だが、ただのフィンガーピッキングだと面白くないので、所々におかずをつけている。
そのおかずがややこしいのだ。
つまり、練習してないとうまく弾けないのである。
この曲をまじめに練習したのは、おそらくこのアレンジを作った時だけだったと思う。
ということは、25,6年前か。

ぼくはこの曲に重要性を持ってなかった。
そのため、それ以降は惰性で弾いていた。
これが致命傷となった。
何度やっても出来ないのだ。
「やっぱり録音はやめよう」と一度は思った。
が、今度いつ、録音する気になるかわからない。
ということは、いつまで経っても、「こういう曲です」と教えることが出来ないことになる。
そこで、何度も何度も失敗しながら、録音したのだった。

数時間後、何とか間違わずに演奏が出来たので、そこから編集を始めた。
ところが、デジタル録音機で録音したのに、なぜか「シー」というヒスノイズが入っていた。
イコライザーでこれを取り除くと、えらく音が小さくなり、音がこもってしまった。
しかし、もう録音は嫌である。
ということで、「これで良し」ということにした。

不本意ながら、いちおう出来上がった演奏をリンクしておきます。
『影枕』とはこういう曲です。



2005年08月15日(月) ぼくは浮いた存在

一昨日、嫁ブーの実家に行った。
お盆と姪の誕生日を兼ねて、パーティをやるというので招待されたのだ。
その日はぼくも嫁ブーも仕事だったので、遅れての参加になった。
ぼくたちが着いた9時頃には、すでにパーティは終わっており、参加した嫁ブー一族は、他の部屋で遊んでいるのか、ごろ寝している義母を除いてはそこにはいなかった。
ぼくと嫁ブーは、一族との語らいのないまま、残り物を口にしたのだった。

それを食べ終わると、もう何もやることがない。
嫁ブーは自分の実家なので、気兼ねなく立ち振る舞いが出来る。
案の定、みんながいる部屋に行って談笑していた。
しかし、外様であるぼくにはそれが出来ない。
嫁ブーを置いて、さっさと家に帰ろうとも思ったのだが、それも出来ない。
しかたなく、ごろ寝している義母の横で、ぼくは一人テレビを見ていることにした。

ぼくが来ていることを知った甥や姪が、時折顔を見せるのだが、ぼくのそばまではやってこない。
彼らはつい数年前まで、「しんにいちゃん、しんにいちゃん」と言って、ぼくにまとわりいてきていたのだ。
やはりこれも月日の流れで、仕方のないことなのだろうが、ちょっと寂しさを覚えた。

また、嫁ブーの兄弟たちとは、挨拶程度しか言葉を交わさなかった。
別に話すのを嫌っているわけではないのだが、どうも話の接点が見あたらないのだ。
共通の話題や、共通の趣味を持ち合わせているのなら、話も弾むだろうが、そういうものは一切ない。
彼らは、小さい頃の思い出話や、それぞれの友人の話、またその地域の話を好んでする。
それについて行けない。

11時を過ぎたので、そろそろ帰ろうと思った。
ところが、肝心の嫁ブーがいない。
兄弟たちとの談笑が続いているのだ。
もちろん、そこに行って「おい、帰るぞ」と言えばすむ話である。
だけど、それは出来ない。
「もうちょっと待ってね。すぐ終わるけ。あ、しんちゃんもここに加わればいい」などと言われたら、事であるからだ。
聞きたくもない小さい頃の思い出話や、それぞれの友人の話や、地域の話を聞かされることになるのだ。
しかたなく、テレビを見続けることにした。

嫁ブーが部屋から出てきたのは12時前だった。
ぼくは嫁ブーに、「おい、帰るぞ」と言った。
ぼくがそう言うと、嫁ブーは壁に掛けている時計を見た。
「えっ、もう12時やん。何で教えてくれんかったんね」
『誰がそんなことするかっ!!』とぼくは心の中で言った。

ということで、嫁ブーの家にいた3時間の間、ぼくはずっと一人でテレビを見ていたのだった。
帰ってから、あわてて日記に取り組んだが、気疲れしたせいで、あえなく撃沈。
結局、朝の更新になってしまった。



2005年08月14日(日) 雲の中を歩く(後)

風は西から吹いていた。
ということで、西の空を見てみると、ちょうど山頂と同じ高さのところに、黒い雲団があった。
それが雲を送りつけてきていたのだ。
その雲が山頂を覆う。
雲に覆われるということは、つまりは雲の中にいるということである。
ということで、ぼくは生まれて初めて、生身で雲の中を体験することになった。

いったい、雲の中がどうなっているのかというと、簡単に言えば煙の中にいるようなものである。
ただ、煙のような煙たさはなかった。
あたりは霞み、何となくひんやりとした雰囲気だ。
そのひんやりの原因は、微かな水滴だった。
雲の中にしばらくいると、着ていたTシャツがジトーとしてくるのだ。
山頂にある手すりなども、微妙に濡れている。
ということで、別にそこにカミナリ様や仙人が住んでいるわけではことがわかった。

その雲の中で、ぼくは写真を何枚か撮った。
まず夜景を撮ったのだが、霞んで画になっていない。
そこで、山頂の上にかすかに浮かんでいる、三日月を撮ることにした。
ところが、雲が流れているせいで、月が揺れて見えるのだ。
結局撮った写真は、下のようになってしまった。




さて、その後リフトで山上駅まで降り、灯籠まつりを見に行った。
今年も何点か、気に入った画があった。
ということで、今年も上げておくことにする。

皿倉山灯籠まつり2005



2005年08月13日(土) 雲の中を歩く(前)

昨夜、『皿倉山灯籠まつり』に行ってきた。
昨年も一昨年も行っているので、我が家では、ほとんど夏の恒例行事になった感がある。
いったいどういう祭りなのかというと、ケーブルカーの山上駅から山の上ホテルまでの数百メートルの並木道沿いに、ただ数百個の灯籠の明かりと、その灯籠の下に吊下げられた風鈴の音があるだけだ。
夜店が出ているわけでも、これと言ったイベントをやっているわけでもない。
「何だ、たったそれだけか」と思うかもしれないが、たったこれだけのことでも人は集まる。
山の上という下界とは違った空気と、灯籠や風鈴が醸し出す異次元的な空間に浸りたいからだ。

とはいえ、たったそれだけのために、高いケーブルカー運賃を払っているわけではない。
前に何度も書いたとおり、この皿倉山は「新日本三大夜景」の一つなのだ。
そう、そこから見える美しい夜景がプラスされているからこそ、高い運賃も惜しみなく払えるわけだ。

ちょっと皿倉山の夜景について触れておくと、ぼくは幼い頃から、皿倉山から見た夜景に慣れ親しんできたのだが、そのためにそれが当たり前だとばかり思っていた。
ところが、日本三大夜景の一つである長崎稲佐山に行った時に、眼下に広がる夜景を一目見て、「これなら皿倉山から見た夜景のほうがきれいじゃないか」と思ってしまった。
皿倉山の夜景の美しさを認識した瞬間である。
その後、ぼくと同じことを思った人たちが、新日本三大夜景として、皿倉山を選んだということだ。

さて、ケーブルカーで山上駅に着いたぼくたちは、メインの「灯籠まつり」を後回しにして、すぐさまリフトに乗って山頂へと向かった。
そのリフトに乗っている時だった。
リフトに沿ってライトがついているのだが、そのライトの灯りに白い風が映し出されているのだ。
最初は煙だと思った。
ところがそうではなかった。
山頂に近づいた時、足下にその煙のようなものの固まりを見つけた。
白い煙のようなものの固まり、そう、それは雲だったのだ。

山頂は、かなり強い風が吹いていた。
その風に乗って、雲がやってくる。
ぼくたちの視界を、いきなり雲が隠す。
しばらくすると雲は飛ばされ、いつものきれいな夜景が顔を出す。
ところがそれも長続きはしない。
また新たな雲が山頂を襲う。
この繰り返しだった。



2005年08月12日(金) 風にのって

風にのって
ぼくが若い頃、ぼくも含めてであるが、わりと多くの人が「風」という言葉を口にしたり文字にしたりしていたようだ。
どういうことかというと、例えば詩や歌詞などに、「風」という言葉を用いているものが多かったたということだ。

どうしてそういう現象が起きたのかというと、それはおそらく、ボブ・ディランの『風に吹かれて』の影響が多分にあったからだと、ぼくは思っている。

The answer,my friend, is blowin' in the wind.
The answer is blowin' in the wind.

「その答は、風に舞っているだけさ」である。
素直に読めば、実に曖昧な答である。
そんな答しか導き出せないのなら、最初から問題提起なんかするな、と思ったりもするだろう。

ところが、この曖昧な答が受けた。
いや、この一見曖昧に見える答「風」であるが、実はそこに深い意味があると捉えたのだ。
それゆえに、多くの人がディランを真似て、「風」という言葉に意味を持たせて使うようになった。
例えば、そこに自由という意味を持たせたり、人生を象徴させたりしていたものだ。
ぼくの場合も同く、「風」という言葉にそういう意味を持たせているものが多い。
が、一つだけ、違う意味で「風」という言葉を使っている歌詞がある。

ぼくのオリジナル曲に『風にのって』というのがある。
思い出すよ 風、風、風、君と
二人出逢った 街、街、街並を
吹き狂ったよ 風、風、風、君は
少し笑顔を 染めて

それからぼくは 夢、夢、夢ばかり
忘れたことも ないよ
苦しみだけを 耐え、耐え、耐え抜いて
待っていたのは 風

 君は言葉も交わさずに
 遠く風にのって行っちまった
 取り乱したぼくは明日をなくして
 今こっそりと、ただうつむいているだけ

しらけたこの 夜、夜、夜は
少しばかりの 笑いもなくして
飲み始めた 酒、今日、この味は
もうわからないほどに

こういう歌詞である。
ちょっと読むと、その人の登場を新鮮な「風」に喩えたとか、ある風の強い日にその人と出逢ったとかいう印象を与えるかもしれないが、実は違うのだ。
ぼくは、そんなにロマンチストではない。

では、どういう意味があるのかというと、「風、風、風」と言うことで、その人を呼んでいるのだ。
どういうことかというと、当時好きだった人の名前の中に『風』を連想する文字があったのである。
それで、この歌では、強引にその人を「風」としてしまったというわけだ。

そういえば以前ある人から、「『風、風、風』というところは、もしかして『かずえ、かずえ、かずえ』と言ってるんじゃないですか?」と聞かれたことがある。
「風」を、人の名前として捉えたのは間違ってないが、仮に『かずえ』と聞こえようとも、ぼくは決して「かずえ」と言っているわけではない。
もちろん、好きだった人の名前も「かずえ」ではない。
だいたいそんな、調べたらすぐにわかるようなことを、するわけないでしょうが。

ちなみに、『吹く風』の「風」は、その人のことではない。
ということで、「もしかして、その風という人は、『福岡かずえ』という名前ですか?」などと勘違いなさらないようにお願いします。



2005年08月11日(木) ポスト『頑張る40代!』

現在メインにしているホームページのタイトルは『頑張る40代!』だが、40代と断っている以上、当然50歳になったらやめなければならない。
そこで次のタイトルが必要になってくる。
以前もそのことを書いたが、ここにきてようやくその答が出た。
そのタイトルは、『吹く風』である。
すでにブログでそのタイトルを付けているが、これをサイト名にも用いることにしたのだ。
ということで、今、着々とその準備を進めている。
それが完成し次第、50歳を待たずに、そのサイト名をメインにしようと思っている。

さて、その『吹く風』という名前の由来だが…。
ああ、これも前に書いたことがあったんだった。
まあ、いいか。
もう一度説明しておくと、『吹く風』というのは、東京に在住していた時期につけていた、ぼくの日記帳のタイトルである。
なぜその名前を選んだのかというと、その日記をつけだした日が暑かったからである。
その暑い日に何をやっていたのかというと、窓を閉め切って歌の練習をやっていた。
その時練習していた歌は『影枕』という歌で、その歌詞に

たまに吹き来る風に任せて
という箇所がある。
それがこびりついてしまい、日記帳のタイトルを考えた時、真っ先にこの箇所が出てきた。
しかし、何か長ったらしい。
そこで、『吹く風』にしたのである。

当時の日記にどんなことを書いていたのかというと、おかしな人のことやグチである。
考えてみると、今ネット上でつづっている日記も、おかしな人のことを書いているし、グチも書いている。
ホームページという目新しいことを始めたつもりだったが、あの当時と書いていることは何ら変わってないのだ。
言い換えれば、ずっと『吹く風』をつづっていたことになる。

日記のメインを、普通の日記サーバーのものからブログに切り替える時のことだが、「ここに『頑張る40代!』という名前を付けるのはいいが、40代もそう長くはない。何か一生遣えるような名前はないものか」と思って、いろいろとタイトル探しをやっていたことがある。
その時に、ふとその『吹く風』の存在を思い出した。
ずっと東京時代の延長をやっているわけだから、いわばライフワークみたいなものだ。
それなら、これをブログのタイトルにしてしまおう、ということになったのである。

そして今回、またしてもポスト『頑張る40代!』を考えなければならなくなった。
しかし、ブログのタイトルを考えるのにうんざりしたこともあり、もうそういうことに関わりたくない。
そこで、ブログタイトルを、そのままホームページのタイトルにすることにしたわけだ。
つまり、安易な道を選んだわけである。
もうすぐ完成する。



2005年08月10日(水) さて、どうだろうか?

昼食時、化粧品売場の子といっしょになった。
食事中、その子が突然、
「しんたさん、同窓会とかありますか?」と聞いてきた。
「今はあまりせんけど、ちょっと前まで毎月やっとったよ。それがどうしたと?」
「今度ですねえ、中学の同窓会があるんですよ。お盆なんですけど」
「ふーん」
「で、来てくれんかと言われてるんですけどね」
「中学かあ…。中学の同窓会なんか行ったことないねえ。高校が主やけねえ」
「そうでしょ、やっぱり高校が主ですよね」

「うん。あ、そういえば、10数年前に、中学の同窓会のお誘いを受けたことがあるなあ」
「行ったんですか?」
「うん、その時はね。正月の3日で、初売りがあるやん。それで行けんと断ったんやけど、2次会からでもいいけ来てくれと言うんよ」
「あ、同じですね。わたしもお盆は仕事と言って断ったら、2次会からでいいから来てくれと言うんですよ」
「みんな堅気やけ、土日祭日盆暮れ正月が休みやろうけど、こっちは違うけねえ」
「そうなんですよ」
「それでね、行くには行ったんやけど、それ中学の同窓会じゃなくて、小学校の6年1組の同窓会やったんよ」
「あら」
「おれ、6年の時は2組やったんよね。ということは共通の想い出とかないわけやん。それでしらけてしまったっちゃね。それから後に一度だけお誘いを受けたんやけど、メンバー聞くと同じと言うやん。それで行かんかったっちゃ」

「わたしも前に一度お誘いを受けたことがあるんですよ」
「ふーん。で、行ったと?」
「行きませんでした。それで、もうお誘いはないと思っていたのに…」
「えらく気に入られとるんやね」
「いや、違うんですよ。前回集まりが悪かったんで、今回は頭数を揃えようと必死なんですよ」
「なるほどね。みんな結婚してそれどころじゃないやろうし、しかも中学の同窓会やけねえ。難しいんやろうねえ」

「ところでね、その前回の集まりの時、ある男女が意気投合して、そのまま結婚に至ったらしいんですよ」
「そういう話聞いたことがある。確か、前の店にいたパートさんから聞いたと思うんやけど。そのパートさんが高校の同窓会に行った時にね、やっぱりある男女が意気投合して結婚したらしいんよ」
「へえ。そういうのって、どこにでもある話なんですね」
「それがね、その男女、どちらも結婚して子供もおったらしいんよ」
「えっ?それまでいっしょだった、奥さんや旦那さんと別れて結婚したんですか?」
「うん、そうらしい。まあ、高校時代からお互いに好きやったらしいんやけど、再会して一気に燃え上がって、結婚まで速攻やったらしいよ」

「へえ。しんたさんはそんな話ないんですか?」
「残念ながらないねえ。ああ、以前高校の同窓会に行った時、その当時好きやった人が来とってね。けっこう自分の中で盛り上がったことはある。でも、どうも高校時代の時の感覚と違うんよね。どうしてもその人の後ろにある家庭を見てしまうしね…」
「そういうもんでしょうね。でも、ときめいたんでしょ?」
「いや、そういう感覚じゃなかったねえ。ただ、懐かしいというか…。まあ、こっちにも相手がおったわけやし、わりと冷静やったと思うけどね」
「そうか…。でも、もし今、しんたさんに奥さんがいなかったとして、今後その人と会うようなことがあったら、ときめきますか?」
「うーん、それはどうかねえ。相手は50前のおばさんやもんねえ…」

さて、実際はどうだろうか?



2005年08月09日(火) 8月9日の日記

【1】
昨日は朝からウキウキしていた。
なぜなら、翌日(つまり今日)は休みで、しかも午前中どこにも行く用事がないため、ゆっくり寝られるからだ。
歯医者に通っていた先週までは、朝10時過ぎに家を出なければならず、そのためにゆっくりは寝ることが出来なかった。
歯医者に行かない日もあることはあったが、その日は床屋に行ったり、ちょっと会社に行ったり、フォークリフトの講習があったりと、やはりゆっくり寝ることは出来なかった。

さらに、休みの前の日は夜更かしすることが多かった。
そのために、極度の寝不足になっていた。
歯医者から帰ってきてから寝ればいいのだが、そうすると何か時間がもったいないような気がして、なかなか実行することが出来ない。
そうこうしているうちに、寝不足が慢性化してしまい、昼行灯的な生活を送ることになったのだ。

さて、そういうことで、昨日は日記を早く書き上げて寝ようと思っていた。
ところが、晩食を食べた後、横になってテレビを見ていたら、そのまま眠ってしまった。
嫁ブーが何度も起こしたらしいが、ぼくは目を覚まさなかった。
目を覚ましたのは夜中の1時過ぎだった。
トイレで目が覚めたのだ。
その時、嫁ブーはすでに布団の上でいびきをかいていた。

トイレをすませた後、そのまま寝ようかと思ったが、とりあえずパソコンに向かうことにした。
パソコンの前に座り、いつものようにお茶を飲み、タバコに火をつけた。
覚えているのはそこまでだった。
そのあと、何をしたのか、記憶が全くないのだ。
そういえば、タバコが手から落ちたので、あわてて拾ったのだけは覚えているが、その前後の記憶はない。

気がつけば、布団の中にいた。
「えーっと、何をしていたんだろう?」
そう思いながら寝てしまった。
さて、今日の朝、目が覚めたのは6時半だった。
もう少し寝ていてもよかったのだが、やはり日記が気になったのだ。
ところが、パソコンの前に座りはしたものの、すぐに日記には取りかからなかった。
いったい何をしていたのかというと…。

【2】
前々から、やめようと思いながらそのままになっていたexblogだが、結局継続するということにした。
しかし、そのまま日記として使うのではなく、日記のカテゴリ『筋向かいの人たち』と『想い出の扉』をピックアップしたブログにすることにした。
いわばエッセイ集である。

今日は朝から、ずっとその編集をやっていたのだ。
そのカテゴリも『筋向かいの人たち』と『想い出の扉』だけでは面白くないので、何度か取り上げているものについては、独立したカテゴリにまとめた。
例えば、『ヒロミちゃん』であり『タマコ』であり『酔っ払いのおいちゃん』である。
さらに、それだけでは面白くないので、今までブログには上げてなかった『モリタ君』や『長い浪人時代』なども、そこに加えた。

これで、例えば『酔っ払いのおいちゃん』のことを読みたくなっても、検索といったややこしいことをせずにすむわけだ。

ということで、ご活用下さい。



2005年08月08日(月) 水神様

【1】
仕事の時、ぼくの車はいつも店の裏手に置いている。
その場所は街灯が当たらないので、夜はいつも暗い。
まあ、別に暗いからといって、どうということはないのだが、昨日はちょっと違った。
店を出て、ちょうど裏手にさしかかった時に、一通のメールが入った。
誰からだろうと、携帯を取り出し、メールの画面を開いていると、目の前を一人の男の人が横切って行った。
ぼくと同じく40代くらいの人で、ベージュのシャツを着ていた。
ぼくは別に気にせずに、車のところまで来た。

車の鍵を開けている時だった。
ふと、「あの男の人はどこに行ったんだろう?」という疑問が頭の中をよぎった。
そこで周りを見回してみた。
ところが、誰もいない。
その男を見てから、まだ1分も経っていないのだ。
「どこに行ったんだろう」と思いながら、もう一度その男を見た時の状況を思い起こしてみた。

確か、ぼくの前を右から左に横切ったのだった。
ところが、左側は土手になっていて、道などないのだ。
ということは、携帯に気を取られていたため、土手の上を歩いていた人と勘違いしたのかもしれない。
と、土手の上を見てみた。
が、そこにも人はいない。
結構静かなところなので、遠くに人が歩いていても足音がするのだが、その音もない。
「えーーー!?」
ぼくはいったい、誰を見たんだろう?
いや、何を見たんだろう?

【2】
店が建っている場所は、かつては池だったらしい。
そのせいか、よく水害に遭っている。
それも、普通では考えられないような水害が多い。
そのことは、この日記でもそのいくつかを紹介している。
例えば、雨が店のひさしに貯まってしまい、ひさしがその重さで落ちそうになったことがある。
ぼくはこういう店舗に勤めて20数年経つが、こういうことは初めてだった。
他には、消火栓の点検の時に水が天井から降ってきただとか、水道屋さんがなぜか判断を誤り水道管をぶち破ってしまい売場を水浸しにしただとか、数えれば切りがない。
言ってみれば事故なのであるが、ぼくはそうは思わない。
ここは元々水場なので、水が自然に集まるようにできている。
そういう場所に人間がいるから、トラブルになってしまうのだ。
つまり、人がいなければ、何もトラブルは起こらないということだ。
ある人は、この一連の事件を「水神の祟りだ」と言いきった。
その通りである。
勝手に水の領域を侵しているのだから、祟られないほうがおかしいのだ。

【3】
水神様の祟りはこれだけでは収まらない。
蛇やムカデといった、街中では滅多に拝めない動物を、店の中に次々と送り込んでくるのだ。
こちらはそういうものを見つけたらすぐに退治してしまうが、それがまた水神様の逆鱗に触れる。
それがために、いつまで経っても水害から逃れられない。
嫌な悪循環である。

【4】
ぼくは昼食が終わると、いつも例の場所に置いてある車の中で昼寝している。
これはしょっちゅではないのだが、時々、寝ている時に、何かがぼくの腹の上に乗って、どんどんと飛び跳ねているような感じがすることがある。
そのたびに腹に衝撃が走り、その都度体が揺れる。
もしかしたら、これも水神様のせいなのかもしれない。

【5】
昨日ぼくの目の前を横切っていた男、あれは水神様の化身だったのかもしれない。
ということであれば、これから起こる何かをぼくに暗示していったのだろう。
いったい何が起きるんだろうか?
それを考えると、なぜか胸がワクワクする。
が、ちょっと怖い。



2005年08月07日(日) ちょっと悲しかったこと

午前中、男性のお年寄りが扇風機を買いに来た。
「これですか、チラシに入ってたのは」
「はい」
「じゃあ、これ下さい」
そう言って、お年寄りはその扇風機を買って帰った。

午後のことだった。
再びそのお年寄りが現れた。
「すいません、先ほど扇風機を買った者なんですけど、ちょっと訊きたいことがありまして…」
「はい、何でしょうか?」
「あの扇風機は、コンセントに差さないと回らないんですか?」
「‥‥。えーと、どういうことでしょうか?」
「いや、電気を入れないと回らないのかと思って」
「はい、電化製品ですから、電気を入れないと動きませんよ」
「ああ、そうなんですか。わたしはてっきり、電気を入れないでも回るかと思った」
「そうですか」
「じゃあですなあ、ちょっとこの扇風機の操作の仕方を、最初から教えてくれんですか」
「はい、いいですよ」

すると、お年寄りは扇風機の説明書を取り出した。
「じゃあ、この説明書の手順通り教えて下さい」
ぼくは扇風機の電源を入れて、順を追ってスイッチの入れ方から説明した。
そのお年寄りは物覚えが悪いのか、
「もう一度いいですか」と言った。
「はい、じゃあもう一度説明しますね」
ぼくは、またスイッチの入れ方から説明を始めた。
風量の切り替え方を説明していた時だった。
お年寄りは突然、
「あのー、スイッチを入れる時は、コンセントに差し込んでないといけんのですかねえ?」と言った。
「‥‥。はい、もちろんですよ。そうしないと回りませんからね」
「ああ、そうですか。じゃあ、もう一度最初から説明して下さい」
「‥‥」

そこで、今度はコンセントの差し込み方から説明することにした。
「これがコンセントですね。ここにこのプラグを差し込みます。」
「えっ、ばあさんが言ったのと違うなあ」
「えーと、奥さんはどう言ったんですか?」
「コンセントに差さなくても、スイッチを入れたら回ると言ったんだけど…」
「いや、電化製品ですから、コンセントに差さないと動きませんよ」
「そうですよねえ」
「ええ」
「で、どうやってコンセントに入れるんですか?」
「‥‥。このプラグをですね、こうやってですね、差し込むんですよ」
「その後どうするんですか?」
「このスイッチを入れてですね。いいですか、入れますよ」
「はい」
「ほら、回ったでしょ?」
「ほう」
「この通りやればいいんですよ」
「その時、コンセントに差しとくんですね?」
「‥‥。ええ、そうですよ」
「ばあさんの言ったことと違うなあ」
「‥‥」

この後、同じやりとりを何度か繰り返した。
そして、最後にお年寄りは言った。
「今、おたくが説明したことが、この説明書に書いてるんですか?」
「はい、そうです」
「じゃあ、読めばわかるですな」
「‥‥」
読んでわからなかったから、ここに来たのではなかったのか。

まあそれはいいとして、コンセントとスイッチだけで、こんなに手間取るのである。
いったい、このお年寄り夫婦は、どういう生活をしているのだろうか?
それを考えると、悲しくなった。



2005年08月06日(土) 腰痛を治すぞ!

二、三日前から腰に軽い痛みがあった。
まあ、いつものことなので特に気にすることもなく、そのために何の処置もしていなかった。
普通なら、何日かこの状態が続いて、そのうち治まるのだが、今回は違った。
今日になって、気になるぐらいの痛みに変わったのだ。
立っていると筋を圧迫されたように痛む。
それが嫌でイスに腰掛けると、今度は腰骨自体が痛む感じがする。

長いこと腰痛と付き合ってきたので、こういう時にどうしたら痛みが和らぐかくらいは、体験的に知っている。
その方法はというと、「うんこ座り」をするのである。
こうすることによって、腰の筋が伸び、だんだん痛みが和らいできて、5分以上続けた頃に痛みは消えている。
しかし、完治はしない。
1時間ほどすれば、また痛くなってくる。
そこでまたうんこ座りをする。
この繰り返しをやってるうちに、完全に痛みは消える。

今日もそんなふうで、うんこ座りをやって腰痛を治すことにした。
しかし、仕事中ということもあって、5分間もうんこ座りをするわけにはいかない。
そのため、痛みは完全に取れないでいた。
取れないとなると、痛みがさらに気になってくる。
「歯医者も終わったことだし、そろそろ本格的に腰を治さんといけんなあ」
などと真剣に考えていた。

そういう折だった。
ずっと以前、整体院に行った時に、そこの先生から「姿勢が悪い」と指摘されたことがあるのを思い出した。
「いや、胸を張り腰をピンと伸ばしているから、前から見ると姿勢がいいように見えるんですよ。しかしですね、それが本当にいい姿勢なのかと言うと、そうではないんです。その姿勢を横から見るとですねえ…」
そう言って、先生は鏡の前に立たせた。
「ほら、前から見ると、姿勢よく見えるでしょ?」
「はい」
「じゃあ、今度は横を向いてください」
ぼくが横を向くと、先生は、
「よく見て下さい。体がわずかながら後ろに反ってるでしょ?」
言われてみるとそうである。
「この姿勢が腰に負担をかけてるんですよ」
「はあ…」
「じゃあ、今度はこうしましょうか」
と、先生はぼくの体を少し前に曲げた。
「どうですか?」
「少し前屈みになっているような気がします」
「鏡を見て下さい」
「あっ!」
「これがまっすぐなんですよ。」
確かに横から見ると、まっすぐ立っている。
「この姿勢で立つ癖をつけたら、いずれ腰痛は治りますよ。腰痛も一種の生活習慣病ですからね」

このことをずっと忘れていた。
あの時の腰痛はかなり酷かったのだが、先生の言われたとおりに立っていると、痛みがなくなったのだ。
「そうか、この方法があった」
そこで、腰の力を抜き、少し前屈みになっているような姿勢で立ち、歩くことにした。
気がつくと、腰痛はなくなっていた。
いや、腰を曲げた時だどには、まだ若干の痛みが走るのだが、立っている分には何も問題はない。
しかも、この方法で立ち歩きしていると、あごが上がらない。
あごが上がらないと、肩の力が抜ける。
ということは、肩こりにもいいということだ。
また、自然に下腹に力が入って、腹がへこむというメリットもある。

ということで、当分、この姿勢を実践していくことにしようと思っている。
今後、この方法でのメリットやデメリットなどを見つけたら、逐次ここでお知らせすることにしよう。



2005年08月05日(金) 歯医者通いが終わった

その回数57回、期間にして10ヶ月、その費用およそ16万円。
上の数字は何かというと、歯医者にかかった時間と費用である。
そう、今日ようやく歯医者通いが終わったのだ。
今日の治療が終わった時、先生は何も言わずに、いつものように「お大事に」と言ったので、まだ続くのかと思っていた。
ところが、治療費を払う時に、看護婦がそれまでとは違うことを言った。
それまではいつも「次はいつにしましょうか?」と聞いてきたのだが、今日言ったのは「これで終わりです」だった。

「これで終わりです」
この言葉を、どのくらい待っただろう。
治療の進行具合からして、5月には終わると思っていた。
ところが最後の歯で手間取ってしまったのだ。
さらに、6月から7月にかけて、フォークリフトの講習や試験などがあったため、満足に治療に行けなかった。
これがなければ、もっと早く終わっていただろう。

とはいえ、実際の治療は7月中旬頃に終わっていた。
最後の数回は、最終チェックのようなものだった。
まず、一本一本の歯についた歯石を丁寧に取りのぞく。
例の編み棒のようなもので歯をガリガリやるのだが、それが時々歯茎に刺さる。
これは痛かった。
うがいすると、いつも血が出ていた。
歯石を取り除いた後は、そこに研磨剤を吹き付けて、歯を磨く。
最初は炭酸水を吹き付けているのかと思った。
炭酸飲料を飲んだ時の、あのシュワーという感触で、口の中がチクチクする。
しかし、それは違っていた。
実は、研磨剤というのは細かい粒子で、それを勢いよくエアーで吹き付けるものだから、それが歯以外のところに当たるとチクチクしていたのだ。
それを知ってから、チクチクが急に痛みに変わった。

さて、今回の歯医者通いで治療した歯は23本だった。
最初は5本程度の治療で終わると思っていたが、甘かった。
やはり、歯は普段からまじめに磨いておくものである。

しかし、ここまで長く病院にかかったのは初めてのことである。
次また、こんなに長く病院にかかることがあるとすれば、それはおそらく死ぬ時ぐらいだろう。
が、それはないかもしれない。
ぼくは基本的に病院嫌いなので、病院に通うことはないと思われるからだ。
最後は道ばたでのたれ死ぬと思っている。
きっと坂本龍馬のように、前のめりになって死ぬことだろう。
いや、別に龍馬のような生き方を望んでいるわけではない。
ただ単に、頭が大きいだけの話である。
その時、口を地面にぶつけてしまい、差し歯が取れるかもしれない。
そうなると、身元確認で恥をかくことになる。
そうならないように、受け身の練習をしておくことにしよう。



2005年08月04日(木) アイツがやってきた

今日は、そこそこ忙しく、そこそこ暇な一日だった。
何が忙しかったのかというと、今日は一括納品の日で、その整理に追われていたのだ。
店内と倉庫を往ったり来たりでだったのだが、店内と倉庫の温度差が大きく、そのために酷く疲れた。
しかも、店内作業は小物商品しか出さないので、さほど力を使わないですむが、倉庫は何10キロもあるような商品を抱えなければならない。
そのため、ぼくは普段あまり汗をかかないのだが、今日は珍しく頭からポタポタと汗が流れてきた。
ところが、普段汗をかかないものだから、汗を拭くタオルなどを用意してない。
それが裏目に出た。
店内に戻ると、汗が冷えてしまって、それがまた疲れを呼んだ。

とはいえ、その作業は断続的なものなので、どうしても暇な時間が出来てしまう。
まあ、昼間はお客さんも多いので、それなりに暇を紛らわせることが出来る。
が、問題は夕方以降(6〜8時)である。
その頃には、作業はほとんど終わっている。
それに加えて、お客さんの数も極端に減るのだ。
そのため、完全に暇になってしまう。
この2時間をどう過ごすか、ということが、いつもぼくの課題になっている。

「さて、今日はどうやって過ごそうか?」
と考えていた時だった。
アイツがやってきた。



上の写真が誰かというと、これがあのタマコである。
タマコとは、昨年この日記に数多く登場した、あのバカ女である。
リンクを張るには量が多すぎるので、興味ある方は記事検索で検索してみて下さい。

さて、そのタマコはぼくを見つけると、ノシノシとやってきた。
そしていきなり、
「お父さん、香水買うからまけて下さい」と言った。
「誰がおまえのお父さんなんか?」
「しんたさん」
「おまえみたいな、でかい子はおらんわい」
「ねえ、香水まけてー」
「おまえは、香水なんかつけんでいい」
「つけないけんしー」
「香水は臭い奴がつけるんぞ」
「臭くないしー」
「じゃあ、つけんでいいやないか」
「つけるしー」
「『しーしー』うるさいのう。おまえは京都人か?」
「違うしー」
相変わらずである。

結局、タマコは香水を買って帰った。
また暇になった。
そこで、先ほど撮ったタマコの写真で遊ぶことにした。
6月に携帯を買って以来、ぼくは写真の編集というものをやったことがなかったのだが、わけのわからないまま触っていると、けっこう面白い画像が出来た。



それを見て笑っている時だった。
帰ったものと思っていたタマコが、またしてもぼくのところにやってきたのだ。
「お父さん、おなかすいたー」
「おまえ、まだおったんか。香水買ったんやけ、さっさと帰れ」
「帰らんしー。ねえ、なんかおごってー」
「隣のパン屋に行って、試食してこい」
「パンじゃ、おなかいっぱいにならんしー」
「じゃあ、香水まけてやった分で、何か買えばいいやろ」
「買わんしー」
「どうでもいいけ、早よ帰れ。忙しいんやけ」
「わかったしー」
タマコはそう言うと帰って行った。

それから1時間ほどして、ぼくが閉店の準備をしてると、後ろから「お父さん、帰るしー」という声が聞こえた。
「えっ」と思って振り向くと、そこにはタマコがいた。
何とバカ女は帰ってなかったのだ。
閉店までいたから、少なくとも2時間はいたことになる。
ぼく以上の暇人である。



2005年08月03日(水) 散歩

昨日、歯医者に行った後、嫁ブーと二人で近くのホームセンターに行った。
当初は、車に乗って街まで出かけるつもりでいたのだが、ガソリンが少なくなっていたのと、お金がそれほどなかったため、歩いて行ける場所を選んだのだ。
で、ホームセンターに何を買いに行ったのかというと、接着剤である。
何年か前から、机の引き出しの板が剥がれかけていたのが気になっていた。
で、ようやく修理する気になったのだ。
以前、瞬間接着剤を買い置きしていたので、それを使おうと開けてみた。
ところが、中が完全に固まってしまっていたのだ。

最初はコンビニで買おうと思ったのだが、おそらく高いだろう。
そこで、ホームセンターで買うことにしたというのだ。
「おい。そこのホームセンターに行くけど、おまえどうするか?」とぼくが聞くと、「私も行く」と嫁ブーは答えた。
「車で行くんやろ?」
「おまえはアホか。歩いて10分もかからんところに、どうして車で行かないけんとか」
「だって、買い物するんやろ?」
「大きい物を買って帰るんならともかく、接着剤を買って帰るのに、わざわざ車で行くバカがどこにおるんか?」
「そりゃまあそうやけど…」
「もういい。おれ一人で行くけ、おまえは来んでいい」
「いや、行く」

久しぶりのホームセンターである。
何年か前までは、広い駐車場いっぱいに車が駐まっていたのだが、ここ最近はその数も減ったようで、昨日も駐車場は閑散としていた。
これも、近くにイオンが出来たせいだろう。
店の中に入ってみると、ああ、やはり閑散としている。
店内が広いだけに、このギャップは寂しいものがある。
以前は、商品を見て歩くだけでも楽しかった店である。
だが、今は目新しいものが何もなく、昨日は広い店内をうろつくだけでも疲れてしまった。
ここはたまにリニューアルをやっているようだが、ただ「陳列を変えました」だけでは、お客さんは満足しないだろう。
イオンなどの超大型店に対抗するには、もっと斬新な工夫が必要になってくるだろう。
例えばだ…。
うーん、やっぱりやめとこう。
そんなことがわかるくらいなら、うちの店でさっさとやっているわい。

さて、目的の接着剤を買った後、ぼくたちは、再び歩いて書店に行くことにした。
その日の朝刊に、かねてから欲しかった本が出たと書いていたのを思い出したのだ。

M店から書店までは、ゆっくり歩いて15分くらいかかる。
その道は、かつてぼくが小学校に通ったコースである。
当時は、その辺一帯は田んぼだった。
今はというと、宅地になり一面家だらけだ。
その中に、結構豪勢な造りの家が建っていた。
その横を通り過ぎようとした時だった。
「あっ!!」
ぼくは、何十年も忘れていたことを思い出した。
嫁ブーが「どうしたと?」と聞いた。
「この家の建っているところ、昔ドツボがあったんぞ」
「え、そうなん」
「うん、けっこう大きいドツボやった。夏になると臭かったっちゃ」
「ふーん」
「この家に住んどる人は、おそらくそんなこと知らんやろうの」
「そうやろうねえ」
教えてやりたい気もする。

書店に着き、目的の本を買い、ぼくたちは帰途に就いた。
書店から家までも、同じく15分くらいだ。
ということで、計40分歩いたことになる。
距離にすると3〜4キロくらいだろうか。
散歩するにはちょうどいい距離である。
これから、休みの日には、そこを歩くことにしようかなあ。
ドツボの家に、どんな人が住んでいるのかも見てみたいし。



2005年08月02日(火) 平面の記憶(後)他

その理由の一つに、季節感のなさも上げられるのではないだろうか。
エアコンが普及した現在、多くの人は外に出ない限り、年中同じ温度湿度の中で生活している。
そのために季節が感じられなくなってしまい、かつて持っていた季節の記憶、時候の記憶といったものが欠如しているように思える。

例えば、迷い猫のことを書いたが、2月のことだったし、当然外は寒かったはずだ。
ところが、「2月の寒い日、店に猫が迷い込んできた」というような記憶がない。
ただ単に、「店に猫が迷い込んできた」という記憶しかないのだ。
つまり、事象としては記憶しているが、感覚の中で記憶してないということである。
なぜなら、そのことが店の中で展開されたからだ。
そう、年中変わらない温度湿度の中に猫が迷い込んできたので、感覚の中の記憶として残ってないのだ。

「その日は寒かった」という感覚の中の記憶がないということは、その事柄に対しての情報量が少ないということである。
情報量が少ないということは、脳内では取るに足らないものとして処理されていることになる。
取るに足らない事柄なのだから、当然その記憶には起伏がない。
言い換えれば凹凸がない記憶だということだ。
ゆえに、これを『平面の記憶』と呼んでも差し支えないだろう。

そういう凹凸のない平面の記憶がダラダラと続いているものだから、認識する心が滑ってしまって、えらく時間が経つのが早く感じるのだ。
これは、起伏のない平坦な高速道路を車で走っているのと同じである。
走っている時は退屈で時間が長く感じるのだが、後で思い起こしてみるとその部分はカットされていて、目的地にすぐに着いたような記憶構成になっている。
それは、走っている時の印象が薄い、つまり情報量が少ないからだと思う。

そうやって考えてみると、自然界に寒暖晴雨があり、人に喜怒哀楽があるのもうなずける。
それはきっと、記憶が平面化しない、つまり人生が退屈にならないようにするための、神の配慮なのだ。
こういったものから逃れようとするのではなく、楽しんで受けとめるぐらいの余裕があれば、時間の長さも人生も、もっと緩やかなものになるのではないだろうか。
快適生活というのは、実は味気ないものなのかもしれない。


【ヒロミとリンダ】
先日、ある歌番組に山本リンダが出ていた。
こういうタイプの歌手が、ヒロミは好きなのである。
そこで、ぼくは嫁ブーに「ヒロミに『テレQ(テレビ九州)見れ』と言え」と言い、電話をさせた。
嫁ブーがヒロミにそのことを伝えると、「あ、リンダやん。♪ウララーウララー♪」と言って『狙いうち』を歌いだしたという。

実際にリンダが歌ったのは、電話してから30分ぐらい後で、その番組の終わり頃だった。
普通ならここで『リンダ出たね』などと言って、ヒロミからメールが来るのだが、その日に限って来なかった。
そこで、今度はぼくがヒロミに電話した。
ところが、ヒロミはなかなか電話に出ようとしない。
10数回コールしたが出ないので、ぼくは諦めて電話を切った。
そして嫁ブーに「おい、ヒロミ出らんぞ」と言うと、嫁ブーは「またトイレにでも入っとるんやないと?」言った。
「いや、ヒロミのことやけ、ヘソ出して、リンダといっしょに踊りよるんやないんか」
「ああ、そうかもしれん。ヒロミならやりかねんね」

ということで、その時ヒロミが何をやっていたのかは知らないが、ぼくたち夫婦の間では、ヒロミはヘソを出して、リンダといっしょに踊っていたことになっている。



2005年08月01日(月) 平面の記憶(前)

伯父の法事が行われたのが、1月18日だった。
ぼくの勤める店の中に猫が迷い込んできたのが、2月14日のことだった。
前歯の1本を差し歯にしたのが、3月4日だった。
福岡県西方沖地震は、3月20日のことだった。
嫁ブーがぎっくり腰になったのが、3月31日だった。
整体院に連れて行ったのが、その翌日4月1日だった。
夜、突然空が赤くなり、それから数時間後に震度4の余震があったのは、5月1日だった。
ヒロミと10数年ぶりの再会をしたのが、5月17日のことだった。
長谷観音に行ったのが、5月31日だった。
ヒロミが遊びに来たのが、6月23日だった。
フォークリフトの試験は、7月1日のことだった。
倉庫の棚の上によじ上り、そこに止まっていたトンボを捕まえたはいいが、棚から降りようとしたときに落ちてしまったのが、7月11日頃だった。
家の近くのコンビニに強盗が入ったのは、7月25日だった。
ギターを買ったのが、7月26日だった。
角島に行ったのが、7月29日のことだった。

今年に入ってから、ぼくの身の回りで起きたことを羅列してみた。
ほとんど社会性のないことばかりで、他人様にとってはどうでもいいことばかりである。

ところで、それぞれの出来事の中には、つい昨日のことのように思えることのもあれば、かなり遠い昔のことのように思われることもある。
例えば、伯父の法事があったのは地震が起きた日より2ヶ月以上も前のことなのだが、なぜか地震のほうがずっと以前に起きたような気がする。
また、ヒロミと再会したのは、ヒロミがうちに遊びに来た時よりも後のことのように思われる。
この差はいったい何なのだろう。
印象深さの度合いなのだろうか。
もし、こんな日記をつけてなかったら、きっとそういうふうに曖昧に記憶していたことだろう。

それにしても、「えっ、もう8ヶ月も経ったのか」という感じである。
毎月月末には各種伝票の締めをやっているのだが、いつもその都度そのサイクルの早さを感じている。
ひどい時などは、昨日やったばかりじゃないかという錯覚に陥ることすらある。
一日はけっこう長く感じるのに、月単位になるとどうしてこんなに時間が経つのが早く感じられるのだろう。
まあ、「50年近く生きてきたんで時間慣れしたんだ」と言われればそれまでだが、どうもそればかりではないような気がする。


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