頑張る40代!plus

2004年07月31日(土) 台風10号

【午前8時】
夜中、けっこう強い風が吹いたようだ。
朝起きると、机の上に置いていた書類が隣の部屋まで飛ばされていた。
空は曇っている。
新聞を取りに行った嫁さんが、戻って来るなり「今朝は風が強いよ」と言った。
おそらくこの状態のまま、今回の台風を迎えることになるだろう。

【午前9時】
家を出る。
風を覚悟して外に出たのだが、ほとんど吹いていない。
『もしかして、台風はそれるのか?』と、ほのかな期待を抱く。
しかし、ラジオは相変わらず「九州北部に向かっている」と言っている。
それるのか、来るのか、いったいどっちなんだ?

【正午】
午前12時と書いたほうがいいのか?
それとも午後0時と書いたほうがいいのか?
迷ってしまったので正午と書いた。
テレビやラジオでも「正午です」と言っているから、きっとはっきりしないのだろう。
まあ、曖昧な時間ではある。
正午は、午の刻から来ているのだから、けっこう古い言い方なのだろう。
ところで、深夜12時は何というのだろうか?
正子とは言わないよな。

さて、今、台風は近畿地方や四国南部で猛威をふるっているらしい。
かなり強い風が吹いているようである。
一方こちら北九州はというと、なぜか晴れている。
風もそれほど強くない。

【午後3時】
その正午から、ずっとテレビを見ているのだが、やはり台風は直撃しそうである。
どのチャンネルを見ても、進路予想図は北九州直撃になっている。
しかし、まだ空は晴れている。

【午後6時】
テレビでは、ついに関門海峡の画が映し出された。
そのうち福岡空港なんかも出てくるのだろう。
「これで直撃は確定だ」と、誰もが思っただろう。
ところが、先ほど外に出た時には、まだ風はなかった。
変な雲はあるものの、空は晴れている。
しかし、家に帰る頃には少しは風も吹いてくるだろう。
そして、この日記を更新する頃、その風はかなり強いものに変わっているだろう。
北九州地方に、『暴風』『波浪』『高潮』の文字が出る。

【午後8時】
ところがどっこい、まだ風は吹いていない。
しかし、暗くてはっきりはわからないが、どうやら空は曇っているようだ。
いよいよである。

【午後10時40分】
今日嫁さんの会社は、時間延長で営業をやっている。
その嫁さんから、「今終わりました」と連絡が入った。
相変わらず、女性社員を遅くまで働かせる会社である。
飯を待っている夫の身にもなってみろ、というのだ。

さて、家を出る前にニュースを見ていたのだが、台風は今、島根県にいるという。
どうやら、北九州直撃にはならなかったようだ。
9時頃にザッと雨が降ったものの、今は小粒の雨が降っているだけである。
風もさほどではない。
が、明日はまた強風注意報が出ている。

あ、こんなこと書いている暇はない。
早く迎えに行かないと。
いいかげん腹が減ったわい。



2004年07月30日(金) 角島に行く

さて、今日は日記を更新したあと、山陰に行った。
山陰、イメージ的には遠い所のような感じもするが、うちから高速を飛ばせば1時間もかからない。
今日行ったのは、2年前に橋が架かり、新たな観光名所となっている山口県の角島という島だった。
ここには昨年も行った。一昨年も行った。
ぼくにとっては、何度行っても飽きない場所の一つである。

実は、昨日からそこに行く計画を密かに立てていたのだが、日記の更新が大幅に遅れたので、また次回にしようかと半ばあきらめ加減でいた。
ところが、嫁さんが「せっかくの休みだから、どこかに連れて行って」と言う。
時間を見ると、もう午後2時近くである。
「こんな時間からどこに行くんか?」
「近くでもいいけ」
「近くのう…。山口はどうか?」
つい口走ってしまった。
「行く!!」
「なら、高速代とガソリン代出せよ。それなら行ってやる」
「わかった」
ということで、結局行くことになった。
最初は一般道を走って行こうと思っていたのだ。
が、その時間から一般道で行くと、市内や下関で渋滞に巻き込まれてしまい、着くまでに3時間は優にかかってしまう。
こういう時は、高速に限る。

さっそく家を出たぼくたちは、山口に向かった。
都市高速は多少混んでいたが、小倉を過ぎると流れがよくなった。
都市高速は、門司で九州道と合流する。
九州道を下関方面に向かい、関門橋を渡ると、そこからが中国道である。
下関に入った時に時計を見てみると、家を出てからまだ30分しかたっていなかった。
さすが高速道路である。
一般道を通ると、いくら空いていてもここまで早く下関に入ることはできない。

角島は小月インターで降り、そこから4,50分走ったところにある。
2年前、仲間と川棚温泉に行ったことがある。
その時、温泉に入るにはまだ時間が早いということで、ちょっと足を伸ばして西長門リゾートホテルまで行った。
西長門には何度か行ったことがあった。
だが、その時そこには、ぼくがそれまで見たことのない風景があった。
「海の上を道路が走ってる!」
『海の上の道路』、もちろん橋のことなのだが、関門橋や平戸大橋のような吊り橋ではない。
海の中に何本もの橋桁を打ち込み、その上に道路を乗せているのだ。
いわば海の上の高架橋といった感じである。

さっそく、その橋を渡りに行った。
大海原の上を車で走るのは、実に爽快である。
ただ、その時は空が曇っていたので、海も濁って見えた。
橋が出来て日が浅いこともあって、いろいろな施設もまだ建築中だった。
そこで、「来年またここに来たいものだ」と思ったものだった。

冒頭にも書いたが、角島に行くのは今日が3度目となった。
台風の余波もなく、空は完全に晴れ上がっていた。
海はエメラルドグリーンが映え、橋を渡っている時、吸い込まれて行くような錯覚すら覚えた。
昨年もここに来ているのだが、薄雲がかかっていたため、今日ほど美しくはなかった。

島に渡ると、夕方近くとはいえ、まだ多くの人が海水浴を楽しんでいた。
その海水浴場の前に売店がある。
そこでぼくたちはアイスクリームを買い、しばらく夏色の海を眺めていた。
ところが、そこで現実に引き戻された。
その海水浴場には拡声器が取り付けてあったのだが、そこから聞こえてくるのは音楽ではなく、AMラジオの音だった。
しかも、山口なのに、なぜか福岡の放送を流していたのだ。

もう一つ興ざめすることがあった。
それは、

これです。
こんなこと書かれていたら、誰もそこで泳ぎたくなくなるじゃないか。
ただでさえ無防備、つまり真っ裸に近い状態なんだから。
これでは浜辺で寝ることも出来ない。

結局、角島には30分ほど滞在しただろうか。
その後川棚温泉で瓦そばを食べ、それから家路についた。

(追記)
今日ぼくが行った角島のことは、ここに詳しく書いてあります。



2004年07月29日(木) 右脳人間

書くことがない。
まあ、そんなに読まれている日記でもないから、別に書かなくても体制に影響はないだろう。
が、ぼく的には影響がある。
なぜなら、毎日書かないと『頑張る40代!』の主旨に反するからだ。
とにかく50歳になるまで、この日記を続けなければならないのだ。
今まで最後までやり遂げたものが何一つなかったので、「せめてこれだけでも」と思って始めた日記である。
これまでやめてしまうようなことになれば、ぼくはもう何もやり通せないだろう。
そう、もはや引き返すことはできないのだ。

この日記を書き始めて3年半が過ぎたが、今では日記を書くことが生活の一部となっている。
というより、病気化している。
書かないと、そのことが気になって、食欲さえ失ってしまう。
ということで、今日は何を書こうか?
それがないので、こんなことをウダウダ書いているのだ。

ということで、何かネタは転がっているかもしれないと思い、昨年同月の日記を見てみることにした。
さすがにすべて埋まっている。
よく毎日書けるものだと、自分のことながら感心してしまう。
ああ、やはりそうだったか。
昨年はあまり暑くなかったのだ。
そういえば、全体に雨が多く、梅雨明けしても大雨の連続だったような記憶がある。

ところで、ぼくの場合、その記憶はすべてイメージに頼っている。
前にテストをやったことがあるのだが、ぼくはどちらかというと右脳人間であるらしく、イメージ中心型だということだった。
そのため記憶もイメージに頼ることが多く、それが昨年だったのか一昨年だったかというようなデータ的な記憶は苦手なのだ。
だから、もし人から「一昨年は雨が多かったなあ」などと言われれば、頭の中で暦を繰るようなことはせずに、ただそういうイメージを持っているという理由だけで「そうやったね」と答えるだろう。

何年か前に、会社の駐車場で、人が頭から血を流して倒れているという事件があった。
後日、その件で保険の調査員が来たことがある。
「どういう状況だったか、具体的に教えてくれ」と言うのだ。
その時、ぼくが応対したのだが、『頭から血を流して倒れている』というイメージ以外に何一つ覚えていることはなかった。
こういう時、左脳人間なら、「こうこうこういう状況で」と具体的に説明できるのだろうが、右脳人間のぼくにはそれができない。
「ああ、そういうことありましたねえ。あの人どうなったんですか?」などと、野次馬的な会話しかできなかった。
『こいつはあてにならん』と思ったか、調査員は「他に目撃した人はいませんでしたか?いたら、その人の話も聞きたいんですが」と言い出す始末だった。

実は、そのことをぼくは日記に書いていたのだ。
それもかなり詳しく。
「おお、ここに書いてあるやないか!」
「ああ、そうそう。駐車場で立小便したあとに、バランス崩して倒れて、車止めで頭打ったんやった」
やはり日記は付けておくべきである。
しかし、それに気づいたのは、それは調査員が帰ってから何日もたってからのことだった。
つまり、ぼくは日記に付けたことを忘れていたのだ。
というより、その日は『頭から血を流して倒れている』というイメージが強すぎて、日記を書いたというイメージが残ってなかったのだ。
体系的に、論理的に、具体的に、物事を覚えることができない。
そこが右脳人間の悲しいところである。



2004年07月28日(水) ジャニス・イアン

【ジャニスモード】
ジャニス・イアンのディナー付ショーまで、1週間を切った。
ということで、今、ぼくはジャニスモードになっている。
朝から晩まで、ずっとジャニス・イアンの歌をかけているのだ。
パソコンを開いている時、車を運転している時、仕事をしている時、いつも彼女の歌が流れている。
暇があれば、彼女と握手しているシーンなんかを、頭の中で思い浮かべている。
また、「その日は何時に家を出ようか」とか、「交通機関は何を使おうか」とか、「博多駅からは地下鉄を使うべきか」とか、「どんな服装で行こうか」とか、さして重要でもないような事柄で悩んでいる。
まるで、遠足に行く数日前の小学生と同じ気持ちなのである。
この調子でいけば、前日は眠れないだろう。

【音漏れ】
ところで、車の運転の際に流す音楽だが、プレイヤーズ王国参加以来ずっと自分の歌をかけていた。
そを聴きながら歌の練習をして、新たな録音に備えようと思っていたわけである。
特に、録音する歌が決まっている時は、その歌を延々リピートして聴いていたものだ。

さて、そういう時、いつも気にしていたことがあった。
それは、音漏れである。
運転中はまだいい。
しかし、信号待ちの時は、どうしても周りの車が気になるのだ。
窓が開いている車やバイクの兄ちゃんを見た時は、なおさらである。
自分の歌が外に漏れていると思うと、何となく気恥ずかしくなるものである。
そのため、信号待ちをしている時に、周りをキョロキョロしたり、ボリウムを小さくしてしまうという変な癖がついてしまった。

まあ、ここ当分はジャニス・イアンだから、自ずとそういう癖もなくなっていくだろうが。

【ひんしゅくを買う】
仕事中にもジャニス・イアンを聴いていると書いた。
それは、別に店内のBGMでジャニス・イアンをかけているわけではない。
店内では、相変わらず色気のないハワイアンがかかっている。
実は、会社にもCDを持ち込んで、売場のコンポで流しているのだ。
ところが、それを朝からやっているものだから、売場の人間からひんしゅくを買っている。
「こんな暗い曲はやめましょうよ」と言われ、ぼくがいない時にはCDを止められているのだ。
若い者には、ジャニス・イアンの良さなどわからないのだろう。



2004年07月27日(火) 昨日の日記のことなど

昨日の日記だが、夕方から続きを書くつもりでいた。
ところが、6時からから来るはずのバイトが、気分が悪いとかで休んでしまったのだ。
当然売場には誰もいない。
そういう時は、その売場の長が入らなければならない。
売場の長、それはぼくである。
おかげで、日記どころの騒ぎではなくなったのだ。
結局、バタバタしながら2時間を過ごしてしまった。
ということで、日記は書けなかった。

飲み会が終わってから、パソコンで続きを書こうと思っていたのだが、飲み過ぎてしまい、家に帰るなり寝てしまった。
いや、家に帰る前、2次会で行ったカラオケあたりから寝てしまっていたのだ。
その時点で、日記のことはもう頭の中にはなかった。

朝は7時半に目が覚めた。
休みだったので、もう少し寝ていたかったのだが、やはり日記が気になる。
が、もう少し寝ていたい。
が、日記が気になる。
が、・・・・。
自分の中で、延々と闘いが続いた。
最終的に勝ったのは、日記の方だった。
寝床に未練は残っているものの、何とか起き出して、パソコンの電源を入れた。

その時、ぼくはあることに気がついた。
頭が痛いのだ。
二日酔いである。
そういえば、昨日は、焼酎をロックで4,5杯飲んだ。
ロックとはいえ、大きめのコップになみなみ注がれていた。
1杯につき2杯分といったところだろうか。
それを氷が溶けないうちから飲むのだ。
これでこないはずがない。

おまけに昨日は、女子が登場した。
今のメンバーで飲み出してから、かれこれ10年ほどになるが、女子の登場は初めてだ。
もちろん彼女も同級生だから、ぼくたちと同い年の、いわゆるおばちゃんである。
が、その効果はてきめんだった。
普段は口数の少ない者まで、饒舌になってしまったのだ。
ぼくも、しゃべっては飲み、しゃべっては飲みを繰り返していた。
店の中は、ぼくたちを除いては若いお客ばかりだったのだが、女子効果のせいで、ぼくたちの席だけが妙に盛り上がっていたのだった。

さて、頭痛はなかなか治らない。
コーヒーのブラックや青汁を飲んだりしたのだが、即効性はない。
ボーッとしたまま、ただ時間だけが過ぎていく。
結局、そのまま昼になり、夕方になり、夜になった。
しかたがないので、携帯で保存していたものを編集し直して、そのままアップした。
それが昨日の日記である。

しかし、もう二度と携帯で日記を書きたくない。
せっかく腱鞘炎が治りかけたというのに、またぶり返してきてしまったわい。



2004年07月26日(月) 携帯で書いた日記

今日は高校の同級生たちと飲みに行く約束があるので、あらかじめ日記を書いておこうと思っていた。
ところが、昨日は不覚にも午後11時過ぎに眠ってしまったのだ。
そのせいで昨日の日記も書けなかった。
目が覚めたのが7時半、携帯のアラームに起こされたのだ。
それから慌てて昨日の日記を書き始めたが、書きあがったのが出勤時間ギリギリになってしまったため、今日の日記など書けるはずもなかった。

まあ、日記は帰ってきてから書いたっていいのだが、そうすれば落ち着いて飲めなくなる
また、「今日は何を書こうか」、などと考えながら飲む酒ほどおいしくないものはない。
ということで今、慣れない携帯電話で日記を書き込んでいる。

ところで、今日は次から次にお客さんがやってくる。
そのせいで何度も日記を中断した。
困ったことに、いったん中断してしまうと、頭の中にはそれまで書いた日記が残っていない。
パソコンだと、一目で全体を読み直すことができるから、日記モードに持って行くのに時間はかからない。
だが、携帯ではそれが難しい。
数行しか見られないために、文章の流れが全くわからないのだ。
しかたなく、また最初から読み直すことになる。

さて、またお客さんがやってきた。
ここまでで、いったん保存することにするか。



2004年07月25日(日) 寝不足が続く

昨日は午前2時頃に日記を書き終えた。
リカバリの関係で22日の日記の更新がかなり遅れてたのだが、その影響もあって、23日の日記も24日の午後11時過ぎの更新になってしまった。
それで安心してしまうと、24日の日記まで遅れてしまう。
そこで、気合いを入れ直して、二つめの日記に取りかかったのだった。
結局書き終えたのは、午前2時だった。
ぼくにすれば、まあふつうの時間である。

さて、日記も書き終わったので、リカバリ以来充分に睡眠をとってない自分をいたわる意味で、少しでも早く寝ようと思っている時だった。
突然けたたましくサイレンが鳴った。
音からして消防車である。
「火事か」と思い、外を見てみた。
向こうに消防車の影が見えた。
どうやら、こちらに向かってくるようだ。
どこが火事なんだろうと煙の出ている所を探してみたのだが、どこも煙なんて出てない。
ということは、きっとここから見えない場所だろう。
そう思って、うちの窓の下を走るだろう消防車の行方を追うことにした。

消防車は1台ではない。
少なくとも2台は走ってくる。
その後に救急車のサイレンも聞こえる。
すると、逆の方向からもう一つのサイレン音が聞こえた。
その音もこちらに向かってくる。
「ということは、近くか!?」と、ぼくは辺りを見回した。
「え!?」
うちから100メートルほど離れた家の二階が、妙に明るい。
最初はネオンか何かなのだろうと思っていたが、あれは火である。
ぼくがそう認識した時、消防車が窓の下を過ぎて行った。
そして、その場所で止まった。

消防車は2,3台どころではなかった。
火が見えなくなった後からも、次々とやってくる。
結局何台来たのだろう。
完全に道が塞がれている。
うちの前の道は、夜中でもけっこう車の往来がある所なのだが、それが完全にストップしてしまった。
昼間さながらに、渋滞している。
何度も「火事ですから、迂回してください」という声が聞こえる。
その場所が迂回路の起点になっているため、迂回しようにもそこを通らないと迂回できない。
結局、一般車はUターンせざるをえないのだ。

その状態がどのくらい続いただろう。
ぼくは完全に、野次馬になっている。
気がつくと、空は白んでいるではないか。
時計を見ると、もう4時を過ぎていた。
またもや、寝不足である。



2004年07月24日(土) トンボ

仕事が終わり、店内を見回っていると、天井近くで「バサバサ」という音がした。
見ると、大きなトンボが一匹飛んでいるではないか。
いや、飛んでいるというより、蛍光灯に向かって体当たりしていると言ったほうがいいだろう。
夜になったので、明るい店の中に飛び込んできたのだ。

ぼくはしばらくトンボを眺めながら、少年時代のことを思い出していた。
ぼくは、トンボを捕まえるのが得意だった。
最初の頃こそ、駄菓子屋に売っていた昆虫網で採っていたが、そのうち帽子で採るようになり、最後には手で捕まえるようになった。
コツというのは特にないが、強いて言えば、トンボの気をはぐらかすということになろうか。

中学生の頃だったが、縄跳びを振り回して遊んでいた時に、偶然それがトンボに当たってしまった。
「死んだかな」と、トンボの落ちた方に行ってみると、尾っぽがちぎれていたものの、何とか生きていた。
しかし、飛びはできるものの、尾っぽがないのでバランスがとれずに、飛び上がっては落ち、飛び上がっては落ちを繰り返している。
ぼくはそれを不憫に思い、そのトンボを捕まえ、その辺に落ちていた割り箸をちぎれた尾のところに突っ込んでやった。
「これでバランスがとれるやろう」
しかし、甘かった。
今度は重いのだ。
飛び上がることすらできない。
だんだんトンボに対して、申し訳ない気持ちになってきた。

それ以来、トンボに対する罪悪感からか、ぼくは害虫以外の昆虫をいじめることをしなくなった。
例えば、家の中に飛び込んできた昆虫を、それまでみたいにおもちゃにすることはせず、逃がしてやるようになったのだ。

このトンボもそうである。
このまま電気を消してしまうと、彼は路頭に迷うことになる。
外に比べると餌も少ないだろうから、もしかしたら、そのまま死んでしまうかもしれない。
せっかく短い余生を楽しんでいるのに、こんな息苦しい場所で死ぬのは本意ではないだろう。
そこで、ぼくはいつものように、このトンボを外に逃がしてやることにした。

トンボを捕まえる腕は落ちていない。
今日も、天井が低くなっているところまで追い込み、素手で捕まえた。
そして、再び店に入ってこられない所まで持って行き、そこで手を開いた。
ところが、トンボは何を思ったのか、しばらくぼくの手から離れようとしなかった。
時間がないので手を振って、トンボを振り払った。
トンボは街灯に向かって飛んでいった。



2004年07月23日(金) 祭りのあと

やはり、リカバリなど時間のかかる作業をする時には、「2時には寝る」とか「3時には寝る」などと、目標となる時間を掲げてやった方が集中力も増すから、変なミスや余計なことをせずにすむものである。

実は、2度目のリカバリの時、余計なことをやってしまったのだ。
そのせいで、一部のデータが消えてしまった。
2度目のリカバリ後、ソフトを入れてデータを読み出そうとしたのだが、何も反応がない。
おかしいと思って、マイコンピュータを開き、データの入っていたドライブを見てみると、何も入ってないではないか。
ぼくは固まってしまった。
そこには、メールや、各種IDやパスワードなどを入れておいたのだ。
復元ソフトを入れたら復元するかもしれないと思い、さっそくベクターや窓の杜など調べてみたが、良さそうなものはみな有料である。

そこでぼくは実家に走って行った。
実は、うちのパソコンと実家に置いてある古いパソコンは、もしもの時のことを考えて、まったく同じ環境にしてあるのだ。
したがって、ブラウザやメールソフトも同じものを使っている。
おかげで事なきを得た。
そういったデータをCD−Rに焼き付け、家に戻った。

結局、3度リカバリをやった。
アプリケーション関係はまだ完全ではないが、必要最低限のものは入れたつもりだ。
ようやく作業を終えたのが12時前だった。
それから、午前5時にノートにつけた日記を、エディタに書き込もうとした。
ところが、そこで疲れがどっと出てきた。
やはり久しぶりの徹夜は疲れる。
そこで少し寝ることにした。

目が覚めたのは午後2時半だった。
さっそく日記に取りかかろうとしたのだが、肝心なことを忘れていた。
今日は昼間に銀行に行き、一度戻ってから祭りに行く予定だったのだ。
ということで、日記を書いている暇はない。
起動したパソコンを終了させ、さっそく街に出かけた。

祭りから帰ってきたのは午後10時過ぎだった。
最終日ということで、人出も多く、けっこう盛り上がっていたために、帰るのが惜しくなったのだ。
家に帰った後、日記を書いて更新した。
おかげで日記の更新が、翌日の午後11時過ぎになるという、新記録を作ってしまった。



2004年07月22日(木) ただ今午前5時

空が白むというのは、こんな感じのことを言うのだろう。
ただ今午前5時、外は真っ白である。
別に霧がかかっているわけではない。
本当に真っ白なのだ。
時折、草が燃えるにおいもする。
実に夏特有の風景である。

ところで、ぼくは一睡もしてない。
早く寝なければ、とは思うのだが、状況が許してくれない。
さて、その状況とは何?
いったい、こんな時間にぼくは何をしているのか?
実はリカバリである。
昨日新しいソフトを入れたのだが、どうもインストールがうまくいかない。
あるところまでは順調にいくのだが、再起動から先が進まないのだ。
そこで、今日もう一度挑戦した。
しかし、状況は変わらず、再起動から先が進まない。
何か別にやり方があるのかと思って、いろいろ触っていると、ついにパソコンが起動しなくなった。
セーフモードもだめ。
起動ディスクもだめだった。

今年の2月にも開かないことがあったのだが、あの時は本に同じような事例が載っていたので、何とか難を逃れることができた。
ところが今回の場合は、似たような事例すら載っていないのだ。
しかも、再起動するたびに止まってしまうものだから、ネットで対処法を探すこともできない。

「リカバリする以外に方法は残ってないのか」
そう思うと気が重くなった。
しかし、それをしないことにはこの日記も書けない。
そこで、ぼくは意を決して、リカバリを実行することをにした。

リカバリの作業に入ったのは、もう午前1時をすぎていたが、「明日休みやけ、少々寝なくても大丈夫やろう」と思いながらのんびりとやっていた。
それが間違いだった。
そういう心構えでやっていたため、集中力をなくし、肝心なところでミスを犯してしまっていたのだ。
それに気づいたのは、リカバリ後だった。
別にそのままにしていても動かないことはないのだが、後々いろいろと都合の悪い問題が起きてくるのは目に見えている。
そこで再度リカバリということになった。

ということで、今2度目のリカバリをやっている最中である。



2004年07月21日(水) ミミズにおしっこをかけると…

小さい頃はよく外で立小便をやっていた。
「ミミズにおしっこをかけると、チンチンが腫れるよ」と言われていた。
ある日、玄関前の溝にミミズを見つけた。
そこでぼくは、「物は試しだ」と思って、ミミズに向かっておしっこを引っかけた。
はい、しっかり腫れました。
しかも、痛みを伴って。

何で腫れるのかはわからない。
その頃は、こちらがおしっこをかけたら、ミミズも応戦して体液を引っかけているのだと聞いた。
しかし、ぼくがおしっこをかけたミミズは、体長10センチほどだった。
しかも、1メートル以上離れた場所でやっていたのだ。
ミミズの体長を考えると、そこまで体液を飛ばせるとは思わない。

ある人から、「それは体液でも何でもない。ただ、自己暗示にかかっているだけだ」と言われた。
しかし、いくら自己暗示に力があるとはいえ、おしっこを引っかけた翌日に腫れていることなんてあるだろうか。
暗示は常日頃からかけておかないと、効かないのではなかったのではないか。
ぼくは小さい頃、いつもいつも「ミミズ、おしっこ、チンチン腫れる」なんて思っていたわけではない。
ミミズを見たら、そのことを思い出していた程度である。
たったそれだけで体に異変が起きるとすれば、ぼくは病気だらけになっているはずだ。
しかし、そういうことはない。
どちらかというと、病気は少ない方である。
また、それは自己暗示ではなく、人からの暗示なのだということも出来る。
しかし、それはあり得ない。
ぼくは常に人の言うことを聞いてないからである。

後年、「迷信だ」と書いている本を見つけた。
おそらくその作者は、「迷信だ」と思いながらも、怖くてかけることが出来なかったのだろう。
自慢じゃないが、ぼくは3度かけたことがある。
そして3度とも腫れたのだ。
自分で試してもないくせに、物知り顔で「迷信だ」などと言うんじゃない。
それなら自己暗示のほうがまだマシである。

結局、「ミミズにおしっこをかけると、チンチンが腫れる」の謎は、ぼくの中では解けていない。
そこで、もう一度ミミズにおしっこをかけてみて、その謎をいつか解いてみようと思っていた。
ところが、困ったことに、最近まったくミミズを見ない。
昔は普通に道を這っていたのだが。
そういえば、溝にはイトミミズもいたのだが、それも見かけない。

シャボン玉石鹸の社長に言わせれば、「それは洗剤のせいだ」ということになる。
洗剤が生態系に悪影響を及ぼしているらしいのだ。
生態系に悪影響を及ぼすものは、当然人体にも悪影響を及ぼす。
そこで、「環境に優しい無添加の石鹸を使いましょう」ということになる。
シャボン玉石鹸の売上げはどんどん伸びているらしい。
ということは、再びミミズにお目にかかる日も、そう遠くはないということだ。
早く謎を解きたいものである。



2004年07月20日(火) 1977年の夏

【夏の夜】
プレイヤーズ王国に『夏の夜』という歌をアップした。
19歳の夏、ちょうど引きこもっていた頃に作った歌である。
この歌を作るのに、さほど時間はかからなかった。
フッと曲が頭の中に落ちてきて、サッと歌詞が出来上がり、20分後に録音を済ませ、30分後にはアレンジを考えていた。
その結果出来たのが、今回のギター1本のアルペジオである。
このアレンジで、もう27年やっているわけだ。

【曲が落ちてくる】
その頃、よく『曲が落ちてくる』ことがあった。
家に籠もってばかりいて、他にやることがないから、意識がそちら方面に行っていたのだろう。
曲が落ちると言っても、何も曲全体が落ちてくるのではない。
ほんの少しのフレーズが突然頭の中で鳴り出すのだ。
そのフレーズのイメージを膨らませていって、曲が完成するのだ。
さらに歌詞を乗せれば歌となる。
掲示板で鳴っている『湖上』なども、そういうふうにして出来た曲である。

【仙人になりたい】
当時ぼくは仙人に憧れていた。
そのせいだろうか。その頃は毎日麻で出来た白い甚兵衛を着ていたものだ。
家にいる時はもちろん、たまに外出する時も、これを着て出ていた。
仙人に憧れたからといって、何も白い甚平を着る必要もないのだが、その時はなぜか白でいたかった。。
もしかしたら、ピュアでありたかったからなのかもしれない。

さて、なぜ仙人に憧れたかだが、もちろんその頃老荘にかぶれていたせいもある。
が、一番大きな理由は、「仙人」とあだ名されたことがあるからだ。
高校3年の夏休みに、2年時のクラス会をかねて、山にキャンプに行ったことがある。
その時、ぼくがあまりに速く歩くので、ある友人が「しんた、お前は仙人か?もうちょっとゆっくり歩け」と文句を言った。
そのことがあって、キャンプ中、ぼくはずっと「仙人」と呼ばれていたのだ。
ぼくはそう呼ばれることが、なぜか嬉しかったのを覚えている。
当時まだ進路を決めていなかったこともあり、「高校を卒業したら、山に籠もって、仙人にでもなろうか」などと思ったものだ。

高校卒業後、大学には落ちる、就職も出来ない、アルバイトの面接すら落とされるなど、何をやってもうまくいかない。
そういう時、またその思いが頭をもたげてきた。
ぼくが老荘を読み出したのも、そのせいである。
「仙人になる」と言っても、ぼくは、仙人になるための方法を知らなかった。
また山に籠もる勇気もなかった。
その結果、家に籠もることになる。

引きこもりの時期が終わり、積極的に外に出るようになってから後は、「仙人になりたい」などとは思わなくなった。
おそらく、社会への恐れが払拭されたからだと思う。
結局「仙人になりたい」というのは、ぼくの現実逃避にすぎなかったのだ。
今となっては、白い甚兵衛も着たいとは思わない。



2004年07月19日(月) 肩が痛い

6月29日の日記に、「肩が痛くて困っているので、運動で筋肉をつけ、それを治すことにした」、というようなことを書いた。
それ以来ぼくは、寝る前に腕立て伏せをやり、肩を回す運動をやっている。
ぼくの中では、それで治るはずだった。

それが今どうなっているのかというと、筋肉はついたものの肝心の痛みのほうは取れないでいるのだ。
いや、前より痛みはひどくなっているような気がする。
そのせいで、2,3日前から、
「もしかしたら、1月の大雪の日にこけた時、骨にひびでも入ったんじゃないか」
「変な病気にかかっているんじゃないか」
などという悲観的なところに、ぼくの考えは及んでいる。

病院に行くことも考えた。
が、ぼくの主義として、病院にだけは行きたくない。
そこで、何とか病院に行かずに治す方法はないものかと思い、ネットで探すことにした。
検索バーに『肩が痛い』と書き込み、検索ボタンを押すといくつかの関連のサイトが出てきた。

「ここだ!」
お目当てのサイトはすぐに見つかった。
 ・肩を押さえると痛む
 ・頭に手をやると肩が痛む
 ・歯がスムーズに磨けない
 ・上着が脱ぎにくい
 ・肩が痛くて眠れない
そこには、ぼくが今悩んでいる症状が書かれていた。
そして、こういう症状のある人は『肩関節周囲炎』の疑いがあると言う。
「なるほど、『肩関節周囲炎』ねぇ」
まさにそのとおりのネーミングである。
これが、いわゆる四十肩・五十肩と呼ばれているものらしい。

ということで、病名はわかった。
では、『肩関節周囲炎』はどうして起きるのか?
まずそれを知らなければ、治すことが出来ない。
と、原因を調べてみた。
「!」
愕然とした。
何と、そこには「骨や関節の老化が原因」だと書いてあったのだ。

40代に入ると体力や記憶力が低下する、ということを聞いたり読んだりしたことはある。
確かにそういうことがないではない。
しかし、ぼくはそれを老化と結びつけて考えたことはない。
体力に関しては、若い頃に比べて体を動かすことが少なくなったから低下したのであり、記憶力に関しては、学生時代より暗記することが少なくなったから、記憶する要領を忘れただけだ、と考えている。
そして、機会さえあればいつでも若い頃に戻っていけるのだ、と思っているのだ。
ところが、それを「老化だ」と決めつけられると、もう救いようがないではないか。
「ああ、老化か。それならしかたがない」と妥協してしまうと、精神的にも老け込んでしまう。
肩の痛みよりも何よりも、精神的な老け込みのほうが恐ろしい。
ぼくが見たのは医者のサイトであるが、体に痛みを持つ者に、心に痛みを与えるようなことを書かないで欲しいものである。

さて、その治療法であるが、こういうサイトを見ると、必ず「まず、病院に行きましょう」と書いている。
もちろん、そのサイトにもそういうことが書かれていた。
その上で、
 ・薬物療法
 ・温熱療法
 ・運動療法
の三つを実行したらいいのだと言う。

とりあえず、「病院に行きましょう」は無視して、それ以外の療法を実行してみることにする。
薬物療法はバンデリンでまかない、温熱療法は風呂でもやれる。
また、運動療法はそこに書いてあるお手軽な体操をやればいい。
楽なものである。



2004年07月18日(日) いなか

小学生の頃の夏休みの思い出といえば、やはり炎天下にやっていた草野球だった。
ほとんど毎日、ぼくの家の前の広場でやっていた。
気分が乗らない日もあったが、決まって誰かが誘いに来るので、結局やるはめになる。
当時、ぼくの住んでいた地区には貧乏人が多かった。
そのため、みんな夏休みだからと言って、どこかに遊びに連れて行ってもらうことはなかった。

とはいえ、たまには「おれ、明日から3日間いなかに帰るけ」などという奴もいた。
それを聞いた誰もが「えっ、いなかに帰るんか!?」と驚きと羨望の入り混じった声を上げた。
「で、いなかはどこなんか?」
「猪○」
「そうか、猪○か。いいのう」
とは言ったものの、その猪○がどこにあるのか誰も知らなかった。
みんなの連想では、「猪○→いなか→空気がいい→水がきれい→スイカがなっている→昆虫の宝庫→カブトムシやクワガタがいる」だった。
そのため、工場街に隣接する地域に住んでいるぼくたちにとって、猪○は憧れの場所となった。
ところが、後年、その場所を知って愕然とした。
そこは、うちから車で15分とかかからない場所で、ちゃんと工場もあり、そこそこ空気も汚れていたのだ。
川はあるものの、川幅も狭く、水も汚かった。

しかし、『いなか』という響きはよかった。
ある日、母に「ねえ、うちのいなかはどこなん?」と聞いてみた。
母は大阪で育っているので、もしかしたらその辺に『いなか』なるものが残っているのではないかと思ったわけである。
母は「いなかなんかないよ」と素っ気なく答えた。
その時の寂しかったことといったらなかった。

夏休みの頃のぼくの楽しみといえば、区内にある伯父の家に泊まりに行くことだった。
いつもお盆過ぎに行っていたのだが、そこは『いなか』ではなかった。
伯父は5階建ての社宅群の一角に住んでいた。
チンチン電車がその前を走り、社宅以外にもそのクラスのビルがたくさん建っていた。
ぼくの住んでいた地域には当時一つしかなかった信号機が、そこには無数に存在した。
市営プールがあり、野球場や陸上競技場やテニスコートがある。
近くには大きなスーパーマーケットがあり、アーケード街があり、映画館まであった。
ぼくにはとっては、まさに大都会だったのだ。

さて、そこに行って何をやっていたのか。
別に外に出て遊んでいたわけではない。
そこには従兄弟がいた。
3人兄弟で、歳はみなぼくより10歳近く上だった。
そのためマンガなどは一切置いてなかったのだが、実に興味深い本がそこにはあった。
それは『平凡』や『明星』である。
そこでぼくは加山雄三を知り、グループサウンズを知ることとなった。
付録の歌本を持っては、屋上に上り、歌をうたっていたものだ。

伯父の家にはだいたい3日くらい滞在した。
最初は1週間の予定で行くのだが、周りが大人ばかりなのでだんだん飽きてくる。
そこで、伯父の家からそう遠くないところで働いていた母に「もう帰る」と言って電話し、夜迎えに来てもらっていた。
そして翌日から、再び野球三昧の日々が続く。
ぼくの小学生時代の夏休みというのは、だいたいこんなパターンだった。

ところで、ぼくが伯父の家に行ったと言っても、誰も驚かなかった。
なぜなら、そこは『いなか』ではなかったからだ。
街に行くことは誰も羨まなかった。
やはり『いなか』が憧れだったのだ。



2004年07月17日(土) 夏の一コマ3

『東京』
 久しぶりに東京の街を歩いた時
 ぼくは夏の日のことを思っていた。
 あの頃はやはり夏だったのだろう。
 想い出はすべてあの埠頭から
 荷を積み出していた時のことばかり。
 何があったわけではない。
 ただ、その毎日の繰り返しが懐かしくて…
 十時には終わる仕事だった。
 それから銭湯に通うのだった。
 もう人影もまばらで
 ぼく一人の石鹸が、泡を立てていた。
 少しにごった湯船が
 ぼくの東京時代のすべてだった。
 夏の暑い日だった。
 ぼくはそんな毎日が好きだった。
 彼女がいたわけでもなかった。
 金があったわけでもなかった。
 夢を追っていたわけでもなかった。
 これが東京だという出来事もなかった。
 ただ、そんな単純な毎日の繰り返しは
 ぼくの中で確実に時を刻んでいった。
 久しぶりに東京の街を歩いた時
 そんな夏の日のことを思っていた。
 そしてそんな夏の日の想い出は
 ぼく一人の石鹸の香りとして
 ぼくの中を今も漂っている。


東京2年目の夏、ぼくは運送会社でアルバイトをやっていた。
仕事は夕方4時からだった。
まず本社のある浅草橋に行き、そこで荷物を積み込む。
その後、豊洲埠頭に異動して、荷物の仕分けを行うのだ。
アルバイトの内容については前に書いたことがあるのでそちらを見てもらえばわかるが、とにかくあまりきれいな仕事とは言えなかった。

仕事が終わるのは、だいたい夜の10時頃だった。
その後、アルバイト全員浅草橋に戻り、そこで解散となるのだが、ぼくだけいつも門前仲町で降ろしてもらっていた。
浅草橋から総武線に乗り、さらに新宿から山手線に乗り換えて…、などとやっていると時間がかかってしまうからだ。
なぜ門前仲町で降りるかというと、そこには地下鉄東西線の駅があったのだ。
ぼくは高田馬場に住んでいたので、東西線に乗って帰ればさほど時間もかからない
しかも下宿は東西線駅のすぐそばだったので、さらに都合が良かった。
とはいえ、帰り着くのはいつも11時前後だった。
銭湯は11時までしか営業してないので、行けないこともあった。
いや、行けないことのほうが多かった。
そういう時は下宿の炊事場で体を拭き、頭を洗っていたものだった。

たまに銭湯に行くと、もうほとんど人はいない。
番台さんも、お金の計算などをやっている。
「まだいいですか?」と言うと、番台さんは無愛想に「どうぞ」と言う。
ゆっくり浸かっていたいのだが、それも出来ない。
窓の向こうにいる番台さんが、チラチラとこちらを見ている。
「時間がない」と焦って体を洗うので、なかなか石鹸も泡立たない。
風呂から上がった後は、ゆっくり体を拭く暇はない。
もちろん、いちご牛乳などを飲む暇もない。

冒頭の詩は、そんな日々の思い出である。



2004年07月16日(金) 夏の一コマ2

31年前の夏のこと。
その日は土曜日だったが、試験中ということでクラブは休みだった。
翌日が日曜日ということもあり、ある友人と、気晴らしに卓球でもしに行こうということになった。
卓球場に行くには、普段と違った道を通らなければならない。
そこで事件は起きた。

その道沿いに大きな公園があるのだが、卓球場に行くには、その公園を通り抜けると早く着く。
その公園にはちょっとした雑木林があった。
ちょうどその雑木林のところを歩いている時である。
突然二人の男が、ぼくたちの前に立ちはだかった。
リーゼント頭の、どう見てもガラの良くない男たちであった。
ぼくが何気なくその男たちを見ると、男の一人が「こら、お前、何ガン飛ばしよるんか」と言った。
ぼくが「別にガンなんか飛ばしてないけど」と言うと、男はぼくの腕をつかみ「ちょっと来い」と言う。
ぼくがその手を振り払うと、もう一人の男がナイフを取り出した。
そして、そのナイフをぼくに突き付け、「来いっち言いよろうが」と言った。
ぼくたちは、渋々男たちについて行った。

連れて行かれたのは雑木林の中だった。
そこにはもう一人男がいた。
先の二人がその男に、「こいつガン飛ばしよった」と報告した。
それを聞いたその男はぼくの前に来て、「こら、お前、おれたちが朝鮮人と思ってバカにしよろうが」と言った。
朝鮮高校の奴らだったのだ。
それまでぼくは、朝鮮高校の奴らがいろいろ悪さをしているというのは聞いてはいたが、実際に被害に遭ったことはなかった。
そういうことなので、朝高生徒に対して、悪感情を抱いてはいなかったのだ。
そこでぼくは、「別に」と答えた。
すると、その男は「『別に』っちゃ何か。バカにしよるやないか」と言う。
じゃあ、何と答えたらいいのだろう。
「バカにしとる」とでも言えば、彼らは納得するのだろうか。
こういう奴らには、何を言っても同じなのだ。
要はインネンをふっかけて、金を巻き上げようとしているに違いないのだから。

その場の流れがだんだん読めてきたぼくは、だんだん腹が立ってきた。
ぼくは、その男の顔をキッと睨んだ。
すると男は声を荒げ、「何かその目は!」と言い、ぼくの横っ面を一発殴った。
が、全然効かなかった。
『この程度か。サシでやれば負けんやろう』と思った。
ところが、その時だった。
先ほどのナイフ男が、ぼくの横に立ち、ナイフを手にしたまま、もう片方の腕をぼくの首に巻き付けた。
そして「このナイフはよく切れるけのう」と言いながら、ぼくの髪を何本か切った。
それでぼくは、戦意喪失した。

それを感じ取ったのか、ぼくを殴った男は急にトーンを落とし、「ところでお前、金持ってないか?」と言った。
ぼくの読み通りあった。
案の定、金目的でインネンをふっかけてきたのだ。
ぼくは「持ってない」と言った。
「嘘つけ」
「本当に持ってない」
「本当に持ってないんやろうのう。あったら切るぞ」
「持ってないっちゃ」
男たちは、ぼくの後にいた友人にも同じことを言った。
友人も、ぼくと同じように「持ってない」と言い張った。
朝鮮人3人組は、何やら話し合いを始めた。
おそらく、ぼくたちが本当にお金を持ってないと思ったのだろう。
しばらくして、一人がこちらを振り向き、そして言った
「おい、もう行っていいぞ」
それを聞いて、ぼくたちはその場を離れた。

後で聞いたことだが、その日朝高は休校だったらしく、生徒総出でたかり歩いていたのだそうである。
他の学校の生徒からも、同じような被害を聞いた。
在日の人たちは、よく自分たちが「差別されている」と言うが、その種は自分たちがばらまいているのだ。
「バカにしよろうが」と言いながら、こんなバカにされるようなことばかり繰り返しやっていたのだから。
しかし、被害者面をし、恫喝し、金を盗ろうとするやり方は、半島二国の国家戦略とまったくいっしょである。



2004年07月15日(木) 夏の一コマ

東京に出たのは1978年だった。
その年の夏、まだ友だちが少なかったぼくは、他にやることもなかったので、毎日のように銭湯に通っていたものだった。
銭湯は、下宿の前の路地を5分ほど歩いた所にあった。
早稲田通りからあまり離れてない場所にあったのだが、風景はあまりにかけ離れていた。
銭湯付近にはあまり街灯がなく、何かうらさみしいものがあった。
近くに林があったせいで、寒村にも思えたものだ。
そういえば銭湯に行く途中、一度蛙を見たことがある。
その時、ぼくは思わず「ここは東京か!?」と口走ったものだった。

銭湯の隣にはコインランドリーがあった。
まずそこで洗濯物をセットし、それから銭湯に行った。
夏場でも、ぼくは比較的長い時間風呂に入っていた。
上がった後は、扇風機の前を占領し、時間をかけて体を渇かしていた。
それは暑いコインランドリーの中で、洗濯が終わるのを待つのが嫌だったからである。
洗濯が終わる頃を見計らってから、ぼくは銭湯を出た。
そしてコインランドリーに行き、洗濯物をビニール袋の中に突っ込んで、来た道を戻って行った。
途中酒屋があったのだが、そこでいつもジュースを買って帰っていた。
下宿に帰って、買い置きしてあるナビスコリッツをつまみながら、そのジュースを飲むのが、ぼくの日課だったからである。

ぼくは当時テレビを持ってなかったので、代わりにラジオを聴いていた。
その頃、よく聴いていたのは、『がきデカ』『マカロニほうれん荘』といった、少年チャンピオン連載中のマンガをラジオドラマ化したものだった。
ラジオドラマといっても、マンガのセリフをそのままラジオで流していただけのものだったが、「死刑!」だの「チョー」だのを声で聴くのは、何か違和感があった。
やはり吹き出しに書いてある「死刑!」や「チョー」のほうが、迫力もあったし、面白くもあった。

その放送が終わってから、ギターを弾いて作曲などをしていた。
特に夏場は、夜中に作曲をすることが多かった。
ぼくは譜面が書けないので、浮かんだ曲をとどめておくためには、どうしても録音しなくてはならない。
それを夜中にやるのだから、あまり大きな音が出せない。
もちろん暑いから窓は全開である。
そのせいで、肝心の音が小さくなってしまっている。
さらに悪いことに、その音を、通りを歩く人の声やバイクの音がかき消してしまっている。
おかげで、夏場に録音した半分以上の曲が、闇に葬られる結果となった。
これも東京時代の思い出と言ってしまえばそれまでなのだが、「ちゃんと、昼間録り直しておけばよかった」と、今になって後悔している。

まあ、こういう生活もその夏までだった。
その後、友人たちとのつきあいに時間を割かれるようになり、ほとんど下宿に戻らない生活を余儀なくされるようになる。



2004年07月14日(水) 読書の虫

「おまえ、学生時代に本なんか読みよったかのう?」
学生時代の友人からよく聞かれる言葉である。
確かにあまり本は読んでなかった。
読んでいたのはほとんどマンガだった。
マンガといっても、いろいろなマンガを読みあさっていたわけではなく、同じマンガを繰り返し繰り返し読んでいたのだった。
その最たるものが『あしたのジョー』で、これに関しては100回以上は読んでいるだろう。
他に読んだものといえば、『ゲゲゲの鬼太郎』『夕焼け番長』『男一匹ガキ大将』『天才バカボン』『柔道賛歌』くらいである。

活字のほうはといえば、超能力ものを何冊か読んだ程度である。
前にも書いたと思うが、高校入試前は主要5教科の勉強はせずに、超能力の勉強ばかりやっていた。
そう、超能力で高校入試を目指したのだ。
合格はした。
しかし、それは超能力の力によるものではなく、運の力によるものだった。

他に、中学時代に読んだ本といえば、三島由紀夫の『葉隠入門』だった。
この本に『忍ぶ恋』という章があった。
「好きな人が出来ても打ち明けるな」というものだった。
それを読んで以来、ぼくは忍ぶ恋を実践するようになった。
が、そのおかげでジレンマに悩むことになる。
まあ、そのジレンマが歌や詩になったのだから、忍ぶ恋は葉隠を読んだせいではなく、ぼくの宿命だったのだろう。

高校に入ってから、例の『ノストラダムスの大予言』を読んだ。
当時(1973年)この本は大ブームとなった。
「1999年7の月に人類が滅亡する」という内容が衝撃的だったのだ。
しかし、それを本気にする人は、少なくともぼくの周りにはいなかった。
「この本は1999年8月に読む」と言って、わざわざこの本を購入しながら、その時読まなかった友人もいる。
鎌倉時代の末法思想ブームといい、日本人は基本的にこういうのが好きなのだろう。
結局は、何も起こらなかった。

ところで、その時期ぼくは、文芸ものに関してはほとんど読んでいない。
文芸もので読んだものといえば、夏目漱石の「坊っちゃん」と富田常雄の『姿三四郎』だけだ。
中学高校を通じて、何度か読書感想文の宿題が出ることがあったが、そういう時でも、ぼくは気に入らんという理由で読まなかった。
で、宿題はどうしたかというと、図書館に行き、あらすじを抜き出して「〜と思いました」と書いていた。
が、提出したことはない。

見てきたように、中学高校を通じていえば、数えるくらいしか本を読んでいない。
だからその時期しか知らない友人は、「おまえ、学生時代に本なんか読みよったかのう?」という質問をするのだ。
おそらく彼の持つぼくの印象は、「ギターばっか弾いて、いっちょん勉強せんバカ」なのだろう。
が、ぼくはその後、そう高校卒業を境として『読書の虫』とあだ名されるくらいの、読書好きになる。
しかし、何でそうなったのかは、ぼくにもわからない。



2004年07月13日(火) 夏とタオル

7月4日の日記で、エアコンが駄目だと書いた。
それ以来エアコンのない生活をしている。
暑いことは暑いのだが、エアコンで苦しめられるよりはいい。
それに各部屋の窓を全開していると、そこそこ風も入ってくる。
ということで、今も部屋の窓を全開しているのだが、時折石鹸のいい香りが漂ってくる。
下に住んでいる人が、風呂に入っているのだろう。

さて、今日は休みだった。
午前中は家にいたのだが、昼間昨日の日記を書き終えてから家を出た。
せっかく梅雨明けしたのだからというので、海を見に行った。
車に乗り込むと、かなりの暑さだ。
おまけにハンドルも焼けている。
こういう時は、融通を利かす。
主義に反してもエアコンを入れるのだ。
そうしなければ、熱中症でやられてしまう。
しかし、先日起きた佐賀の事件だが、幼児はこういう暑さの中に閉じこめられていたのか。
これはたまらん。
大人のぼくでも、3時間半もこういう中に閉じこめられていたら、死んでしまうだろう。
子供をほったらかしにして、何時間もパチンコに興じる親の気が知れない。

ところが、30分もすると、エアコンに弱い体質が露わになる。
体が冷えてきたのだ。
が、エアコンによる被害は防ぐことが出来た。
それはタオルのおかげである。
夏になると、ぼくはいつもタオルを首にかけている。
なぜそうするかと言えば、タオルを首にかけることで、直射日光やエアコンの風から身を守る効果があるからだ。
人の体温調整というのは、首筋でやるらしい。
だからゾッとした時などは、首筋から背筋にかけてがゾクゾクとするのだという。
それ故に、その部分に熱を与えたり冷やしたりすると、体温調整がうまくいかなくなるから、体調が悪くなるのだ。
なるほど、首筋に熱を与えるとのぼせるし、冷やすと頭が痛くなるものである。

ところで、ぼくがタオルを首にかけるのは、その理由の他にもう一つ理由がある。
それは、ハンカチ代わりである。
ぼくはハンカチを持つ習慣がない。
そのため、手を洗った後は、手を振ったり指をはじいたりして水を切っている。
夏は特に水に触れる機会が多くなるので、そんなことばかりやるのも面倒である。
そこでタオルを用いるのだ。
案の定、今日も海水で手を洗ったり、足を濡らしたりした。
おかげでタオルは大活躍で、帰る頃にはビショビショになってしまった。
そこで困ったことが起きた。
そう、タオルがびしょ濡れになったので、首にかけられなくなったのだ。
仕方なく、エアコンを止め、窓を全開して帰ることにした。
そのせいで、汗をびっしょりかいてしまった。
が、タオルを干していたため、その汗をぬぐうことは出来ない。
夏は、もう一枚タオルが必要になる。



2004年07月12日(月) ショート・ショート

【何も書くことがない】
何も書くことを思いつかない時、ホームページを真剣にやめたくなることがある。
「気張って毎日書く必要もないやないか」という声もある。
が、それは出来ない。
『よくある質問』にも書いているとおり、このサイトは「40代の男が、頑張って毎日日記を書いて」成り立っているのだ。
それをしなければ、こんな『頑張る40代!』などというタイトルは必要なくなる。
まあ、更新が遅れることは多々あるものの、3年以上の日にちを隙間なく埋めている。
今さら「何もないから、今日は書きません」なんて言えるわけがない。


【参院選】
こんなに面白くない選挙もなかった。
第一に、ぼくが期待した結果が得られなかったというのがある。
在日外国人に参政権を与えると言って外国人団体の支援をとりつけた政党が躍進するという、クソ面白くもない結果になった。
そのことが、特に腹立たしい。
個人的に言えば、ぼくが支持した人は落選し、支持した政党も結果を得られなかったこともある。
やはり知名度の問題だろうか。
弱小政党だからなあ。

ジャスコ次男がにやけた顔をして何度もテレビに出ていたが、ぼくはそのたびに「この売国奴が!」と言ってチャンネルを変えていたのだった。


【梅雨明け】
そういえば梅雨も明けた。
ぼくはそのことを、携帯でとっているお天気メールでその日に知ったのだが、けっこう多くの人が今日になっても梅雨明けを知らなかった。
例年、6月の雨量は少ないものの、7月に入るとけっこうまとまった量の雨が降る。
今年も何度か大雨は降ったものの、それが印象に残るほどの雨ではなかった。
水害もさほどなかったし、こちらで降ったのは断続的な雨ではなく、どちらかといえば夕立っぽい雨だった。
そういう理由から、梅雨明けに強い関心を寄せなかったのかもしれない。

ということで、いよいよ夏全開、ぼくにとって最高の季節到来である。
が、就職して以来ずっと、この時期は夏商戦で忙しく、夏を満喫するどころの騒ぎではない。
毎年「今年の夏は、どこに行って、何をして…」などとやっているのだが、その計画が実行されたことは一度もない。
今年も、いくつかの計画を立ててはいるが、おそらく「きつい」という理由で、どれも実行されないにちがいない。


【ジャニス・イアンのコンサート】
あ、そうだった。
一つだけ、ぜひ実行しなければならないことがあった。
それはジャニス・イアンのコンサートに行くことである。
コンサートにも久しく行ってない。
前回行ったのが、ボブ・ディランのコンサートだったから、およそ10年ぶりということになる。
先日、職場で荷物を出している時だった。
何気なくテレビに目をやると、そこで福岡ブルーノートにジャニス・イアンが来るという宣伝をやっていた。
その瞬間、「これは行かねば」とぼくは思った。
さっそくブルーノートに連絡を取り、予約したのだった。
ぼくは若い頃からジャニス・イアンのファンで、レコードやCDも何枚か持っている。
また、そのことをこの日記にも書いている。
が、コンサートには一度も行ったことがない。
今回がジャニス・イアン初体験となるわけである。
きっとこの夏一番の想い出となるにちがいない。



2004年07月11日(日) 金剛経のこと(後)

ということは、武道の極意もこのお経の中にあるのだろう。
そしてその極意中の極意が『応無所住而生其心』ということになるのだろうが、この言葉、言うにやさしいが、実践となると実に難しい。
武道を極めていないぼくには、到底届かない境地である。
が、せっかくこの世に生まれてきたのである。
ちょっとでいいから、この境地を味わってみたいものだ。
かといって、刀など振り回すことは出来ないから、せめて念仏代わりにこの言葉を唱えてみることにするか。

金剛経について、こういう話がある。
昔、ある婆さんが、坊さんから「『応無所住而生其心』、この言葉は実に霊験あらたかで、毎日毎日唱えていると願い事が叶う」と教えられた。
それを信じた婆さんは、出る息入る息をこの言葉に換えて唱えることにしたのだが、婆さん、ここでとんだ間違いをしてしまった。
その『応無所住而生其心』を、『大麦小麦二升五合』と聞き違えていたのだ。
もちろん婆さんは、その後ずっと『大麦小麦二升五合』と唱えていた。
ところが、婆さんに霊験が現れた。
何と、病人を前にして『大麦小麦二升五合』と唱えると、その人の病気が治るようになったのだ。
それが評判を呼び、多くの人が婆さんの元にやってくるようになった。
ある日、評判を聞きつけて、ある修行僧がやってきた。
その僧が婆さんの唱える言葉を聞いていると、どうもおかしい。
そこで、坊さんは婆さんに「婆さん、それは違う。正しくは『応無所住而生其心』と言うんだ」と言った。
「そうか、違っていたのか」と思った婆さんは、それ以来正しく『応無所住而生其心』と唱えるようになった。
ところがそう唱え出してから、病気を治すことが出来なくなったという。

この婆さんは心に障りを作ったんだな。
つまり、婆さんにとって『大麦小麦二升五合』は無念無想だったわけだ。
ところが、正しく『応無所住而生其心』と唱えようとすることで、心に力みが出来てしまった。
そこには、もはや無念無想はない。
疑心が残るだけである。

しかし、これがまたややこしい。
執着するつもりはないのに執着してしまうのが、心なのだ。
他のことに執着しないようになったとしても、「執着しない」という思いに執着してしまう。
まことに心というのは扱いにくい。
しかし、これをクリアしないと、無念無想にはなれないのだ。
執着無く『応無所住而生其心』と唱えられるようになるまでに、いったいどのくらいの時間を要することだろう。
「ちょっと体験したい」というような不埒な気持ちでやっていたら、何度生まれ変わっても無念無想なんて味わえないだろう。



2004年07月10日(土) 金剛経のこと(前)

十数年前、ぼくが仏教書を読んでいた頃、一つだけ気になるお経があった。
『金剛経』というお経である。
般若心経や観音経に比べると、知名度のずっと低いお経なのだが、このお経がなぜかマンガに載っていたりする。
「山、山にあらず、これを山という。わかるか、岡」
確かこんなセリフだったと思う。
岡とは岡ひろみのこと、そう『エースをねらえ』である。
このマンガ、当初は俗にいうスポ根マンガだったが、2部からだんだん宗教色の濃いものになっていった。
「山、山にあらず…」と言ったのは、宗方コーチ亡き後、岡のコーチになった桂コーチである。
彼は永平寺の修行僧だった。
普通の人なら坊さんをテニスのコーチには選ばない。
が、この作者山本鈴美香は違った。
無理矢理コーチを永平寺に求めたのだ。
おそらく彼女は、宗教的な雰囲気が好きだったのだろう。
その証拠に、彼女はその後、新興宗教の教祖になっている。

さて、そのぼくはお経が気になっていたと書いたが、別に『エースをねらえ』を読んだから気になったのではない。
このお経にある『応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)』という言葉に惹かれたのだ。
『応無所住而生其心』、これは「何ものにも執着することなく心をおこせ」という意味だが、実に面倒くさい言葉である。
武道でいう『無念無想』と言ったほうがわかりやすいかもしれない。
剣豪宮本武蔵はこの境地に達していたと言われている。

無念無想といえば、同じく剣豪の千葉周作に面白い話がある。
ある商人が周作に「命を狙われています。私に剣術を教えてください」と頼んだ。
すると周作は、「目を閉じて刀を大上段に構えよ。そして相手が動く気配がした時に振り下ろせ」と教えたらしい。
後日、賊に命を狙われた商人は、周作の言いつけどおりに、目を閉じて刀を大上段に構えた。
もちろん動く気配がしたら、刀を振り下ろそうと思っていた。
が、いつまで経ってもその気配が感じられない。
しばらく経って、目を開けてみると、そこにはもう賊はいなかった。
そのことを周作に言うと、周作は「相手はお前の構えを見て、恐れをなして逃げたのだ」と言ったという。
おそらく賊は、目を閉じ刀を振り下ろすことに集中している商人の姿を見て、『無念無想』を感じたのだろう。

お経と剣術、そこには何の関係もないと思われる。
が、実はこの金剛経は、武士の心の支えとなった禅と大いに関係があるのだ。
それは、禅宗の六祖である慧能がこの言葉を聞いて、出家を志したという故事からきている。
出家を志したというより、慧能はこの言葉を聞いて大悟したのだろう。
なぜなら、その後寺に入った慧能は、修行らしい修行もせずに、五祖の後継者に抜擢されているからだ。
そういう理由からか、禅宗ではこのお経は重要な教典の一つになっている。



2004年07月09日(金) バスに乗って会社に行く(後)


さて、バスに乗った後、ぼくはあることに気がついた。
バスから見えるのは、今まで見たこともない風景だ。
バス停の名前も馴染みがない。
そういえば、会社は駅から見ると右の方向にある。
だが、バスは左に進んでいる。
それが意味すること、それはバスは会社から遠ざかっているということだった。
一瞬バスに乗り間違えたかと思った。
が、乗り込んだ時、運転手はちゃんと「○○町経由」と言っていた。
「遠回りしているのか?」
ということは、定時に間に合わない。
「どうしようか」と思ったが、バスを降りて歩いたりしていたら30分以上はかかってしまう。
かといって、タクシーに乗るほどの金は持ち合わせてはいない。
バス以外に会社に行く術はないのだ。
諦めてバスに乗っていることにした。
バスはさらに遠回りしているように思える。
左、右、また左にバスは進んでいく。
「もうどうにでもなれ」
という気持ちだった。

しばらく行くと、ようやく知った地名が出てきた。
しかし、そこは会社からけっこう離れている場所だった。
時計を見ると、定時まであと10分を切っている。
「こりゃ間に合わんわい」
ぼくは腹を決めた。

ところが、そこからバスは大きく右折し、会社のある方向に向かいだした。
道路は渋滞もなく、流れるように進んでいく。
そのおかげで、5分もかからずに隣町にたどり着いた。
「もしかしたら間に合うかも」
ここで問題になるのが、降りる場所である。
その時、車内放送が鳴った。
『次は○○町、H内科医院前です』
H内科医院、エッセイ『病院嫌い』に書いている、夕方になると決まって起きていた頭痛と微熱を、レントゲンや心電図をとったあげくに、「病名は肩こりです」と診断を下した名医のいる病院である。
「次はH内科前か。じゃあ、店からは近い」
ということで、「ピーンポーン」とチャイムを鳴らした。
「はい次停車」と運転手の声。

「ピーンポーン」とチャイムを鳴らしてから、1分足らずでバスはH内科前に着いた。
ぼくは、用意していた小銭を整理券とともに料金箱に入れて、バスから降りた。
「まだ間に合う」
そこからは走りだった。

1分少々走って、ようやく店が見えるところまで来た。
ところが、何とそこにバス停があるではないか。
見てみると○○町の次のバス停である。
しかし、そのバス停名は、うちの店から言えば、向こう隣の町の名前ではないか。
うちの店に来る人でも、ぼくみたいにバス停名を知らなければ、この停留所では降りないだろう。
これはちょっと困りものである。
ぼくは走りながら、「ちゃんと正しい町名をバス停名にしろ。おかげで走らないけんやないか」とつぶやいた。
店に駆け込んだのは、定時1分前だった。
もし、その停留所で降りていたら、ゆっくり歩いても、2分前には着いていただろう。

ま、とはいえ、初めての体験は何とか無事に終わった。
もう次は大丈夫である。
で、次はいつになるのだろうか。
今から待ち遠しい。



2004年07月08日(木) バスに乗って会社に行く(前)

店で焼き肉パーティがあるため、JRで通勤することにした。
当然アルコール類が出るためだ。
JRでの通勤は、半年前の大雪の日以来のことである。
今の店に移ってから、年に何度かJRを利用しているものの、やはり普段乗り慣れていないせいか、どうも居心地が悪い。
窓ガラスに映る、自分の立ち姿もサマになっていない。
また普段は服装を気にするようなことはないのだが、電車の中だとなぜかそれが気になる。

駅からはバスで会社まで行った。
ここで困ったことがある。
乗り場はあらかじめ聞いていたのだが、何番のバスに乗っていいのかがわからない。
そこで路線図をチェックした。
いい歳した男が、地図を指さしながら、ブツブツ言って路線をチェックしている姿は、きっとおかしいものがあっただろう。
何とか何番のバスに乗るのかがわかった。
そこで発車時刻を確認して、バスを待つことになった。
しばらく時間があったので、喫煙所でタバコを吸うことにした。

タバコを吸っている最中に、素朴な疑問がぼくの頭の中を駆け回った。
バス路線は会社の所在地名で確認したのだが、その町内にはいくつかのバス停がある。
「いったいどこで降りたらいいのだろう?」
とにかく、バスで会社に行くのは初めてだし、バス停の存在は知っているものの、そこが何というバス停かを知らない。
まあ、降りるところを間違えたとしても、そこまで離れた距離ではないし、歩いても2,3分の差しかない。
「まあいいか」
とは思ったが、よく考えていると、そのバスに乗れば、渋滞がなかったとしても、着くのは定時ギリギリになる。
ということは、2,3分の差というのは貴重だということになる。

もう一つ問題がある。
それは料金である。
バス停を一つ間違えば、料金も変わってくる。
こちらのバスは料金後払いなのだが、バスを降りる時に両替でもたもたしていると白い目で見られる。
そこでもう一度路線図を見に行った。
手持ちの小銭だと、○○町から××町の区間はなんとか両替せずに行ける。
が、いったいその区間のどこが会社に一番近いバス停なのだろうか。
と思っているところでバスが着た。
「まあいいや、風景を見たらわかるやろ」
そう思いながら、ぼくはバスに乗り込んだ。



2004年07月07日(水) 七夕

【天文学】
7月7日の日記、2001年のタイトルは『いいかげんにしろ韓国』だった。
2002年のタイトルは『アニメのエンディングテーマ』だった。
昨年のタイトルは『雨具の話 後編』だった。
ご覧のとおり、七夕に関する日記は一つもない。
彦星とか織姫とかいう名前を何十年も忘れていたのだから、それもしかたのないことかなと思う。
元々ぼくは理科が嫌いだったので、その一分野である天文学にも全く興味がなかった。
だいたい太陽系の配列でさえ知らないのだ。
こう言えば、いかに天文学が駄目だかがわかるだろう。

さて、天文学そのものには全く興味がないのだが、天文学という名が付いたもので、一つだけ興味があるものがある。
それは、高村光太郎の『天文学の話』という詩である。
「それはずつとずつと先の事だ。
 太陽が少しは冷たくなる頃の事だ。
 その時さういふ此の世がある為には、
 ゼロから数字を生んでやらうと誰かが言ふのだ。
 さうか、天文学の、それは話か。
 仲秋の月ださうだ、空いちめんをあんなに照らす。
 おれの眼にはアトムが見える。」
前に『ゼロから数字を生んでやらう』という詩句が好きだということをこの日記に書いたが、それは今でもそうで、何かにつまずくと、無意識のうちにこの詩句を心の中で叫んでいる。
これを叫ぶと、何かをやらねばならない気になるから、不思議である。


【短冊に託して】
新聞に、拉致被害者の地村さん夫妻が、地元で行われた「七夕のつどい」に出席したという記事が出ていた。
今年の5月に子どもさんが帰国、再会を果たした地村さん夫妻は、その喜びや拉致問題全面解決の思いを短歌に詠み、短冊に書いて笹に結びつけたという。
「我が祈り満ちて迎える七夕に 更なる願い届け星空」(保志さん)
「ひたすらな願い叶いて感謝の気 親子で仰ぐ故郷の夜空」(富貴恵さん)

最近は七夕の短冊に、短歌が書かれてあるのを見ることはほとんどない。
ほとんどが、「〜になりますように」的なものが多い。
うちの店に飾ってある笹にも、今回いろいろな短冊がつるしてあったが、何か標語みたいなものばかりで、そこには短歌はまったくなかった。
昔は普通に短歌が書いてあったものだったが。



2004年07月06日(火) 初めての期日前投票

ということで、今日嫁さんを連れだって期日前投票に行ってきた。
最初は区役所に行こうと思ったのだが、そこの駐車場は入りにくいので、家の近くにある区役所の出張所ですませることにした。
ところが、今日はその出張所の駐車場が満車状態だった。
さんざん待たされたあげく、やっと駐車場に停めることが出来た。
が、まさかそれが期日前投票のためだった、とは思わなかった。
投票会場である二階に上がってみると、投票を待つ人の列が出来ていた。

待っている時、嫁さんが小声で「私、誰に入れるか決めてないっちゃね」と言った。
そこでぼくは、「バカかおまえは。今頃何を言いよるんか。それなら、民主・公明・社民・共産以外の人に入れとけ。売国党なんかに入れんでいい」と小声で言った。
そのやりとりが聞こえたのか、ぼくたちの後ろに並んでいた人が「ふふふ」と笑っていた。

ようやくぼくたちの番になった。
受付に入場整理券を差し出すと、受付は一枚の紙をくれた。
そこには『宣誓書』と書いてあった。
受付の人は、「そこに住所と名前を書き込み、選挙当日に行けない理由の欄に○をつけて下さい」と言う。
当日投票では生年月日を聞かれるのだが、期日前投票ではそれがない。
そのかわりに、住所や名前を宣誓書に書くのだという。
しかし選挙で住所や名前を書くのは初めてである。
なぜか緊張してしまって、番地を間違えるところだった。
それを書いている時、女性の係員が見て回っていた。
宣誓書にはそんなに難しいことは書いてないので、ただ見て回るだけでよさそうなものだが、その係員は違っていた。
一人一人に「どういう理由で行けないんですか?」と尋ねているのだ。
もちろんぼくのところにもきた。
ちょうど住所を書き終わり、「さて、理由を書こうかな」と思っていたところだった。
頭の上から「どういう理由で行けないんですか」と言う声がした。
見上げてみると係員である。
「仕事で行けないんですけど」とぼくが答えると、係員は「じゃあ、そこに○をつけて下さい」と言う。
ぼくが○をつけると、係員は、
「そう、それでいいんです」と言う。
そんなこといちいち言わなくても、見たらわかることじゃないか。
何が『そう、それでいいんです』だ。
さすがはお役所である。
やることなすこと癇にさわる。

さて、書き上げた宣誓書と入場整理券を再び受付のところに持って行くと、「今回は2回投票しますので、まずそちらに行って下さい」と言う。
最初は選挙区のほうだった。
そこでまた係員の説明が入る。
「こちらの用紙に支持者の名前を書き入れて、そちらの投票箱に入れて下さい」
(いちいち言わんでもわかるわい
と思いながら、ぼくは名前を書き入れた。
そして投票箱に持って行こうとすると、今度は「はい、こちらに入れて下さい」である。
それからまた、「じゃあ、次は比例代表です。こちらの用紙に名前か政党名を書き入れて、そちらの投票箱に入れて下さい」という説明が入る。
政党名を書き入れて振り向くと、また「それはこちらです」という説明。
もううんざりだった。
投票箱に用紙を入れ、そこから立ち去ろうとした時だった。
「はーい、出口はこちらですよー」という声がした。
どうやらぼくに言っているらしい。
周りを見回しても、立っているのはぼくしかいない。
ぼくは頭を掻きながら、しかし憮然とした顔をして、投票場を出たのだった。



2004年07月05日(月) 期日前投票に行ってきます

【「うるせー、バカ!!」】
帰りに社民党の選挙カーとすれ違った。
ぼくは思わず窓を開け「うるせー、バカ!!」と叫んだ。
前にも書いたが、ぼくは高校時代の担任とのいきさつもあって、社民党が嫌いである。
とはいえ、普段なら社民党の選挙カーを見ても何も思わない。
「またやってるな」程度のものである。
しかし、今日はちょっと違った。
実は今日の携帯ニュースで、よど号の乗っ取り犯たちが帰国を希望しているということが書いてあったのだが、それを読みながら「そういえば、よど号乗っ取り犯の支援団体が社民党のビル内にあるということを何かで読んだことがあったなあ」ということを思い出したのである。
つまり社民党は、反日であれば犯罪者をも支援する政党なのだ。
だからこそ、今回執行猶予中の立候補者を支援しているのだろうが、いよいよそんな政党が許せなくなった。
その思いが、「うるせー、バカ!!」に繋がったのだと思う。
当然、今回の選挙も、ぼくはこの政党を支持するようなことはしない。


【危険分子政党】
在日外国人に、参政権や選挙権を与えようとしている政党がある。
いったい何を考えているのだろうか。
日本人の日本人による日本人のための政治であって、多国籍人の多国籍人による多国籍人のための政治ではないはずである。
日本人が政治をする国がいいと思う人が、日本にいるべきなのだ。
日本人の政治に不満を持っている人、さらにそれを口に出し力で訴えようとする人たちはいなくてもけっこうだ。
日本が嫌なら、さっさと退去すればいい。

ある在日外国人たちは「納税しているのに参政権がない」などと言っている。
おそらく、義務を果たしているからという理由で権利を主張しているのだと思うが、まるで子どもが「お手伝いしたからお小遣いちょうだい」と親にねだるようなものである。
他の国に行って同じ事を言ってみろ。
それがまかり通るものかどうか、よくわかると思う。
もし、ここが日本だから言うというのであれば、彼らはいまだ日本を宗主国として認めているということである。
つまり植民地根性を捨て切れていないということだ。
逆に言えば、このことを支持している政党はいまだ彼らの親、つまり宗主国であると思っているのだろう。
だからこそ、臆面もなくそういうお約束を掲げているのだ。
こういった政党こそ危険分子である。
在日の方々、気をつけたほうがいいですよ。


【期日前投票に行ってきます】
普段選挙の時は、朝礼中に会社が支援している立候補者がノコノコやってきて、演説をぶちかます。
ところが、今回の選挙ではそれがない。
「おかしいな」と思って聞いてみると、今回の選挙は会社が支持する人がいないということだった。
嫁さんの会社も今回はそうだという。
それほど今回の選挙は、関心のないものなのだろうか。

だが、ぼくは違う。
今回ほど、注目している選挙はない。
「なぜか?」と聞かれても具体的に答えることは出来ないが、何か勘のようなものが働いてそう思わせるのである。
そのため、各政党のサイトもいちおうは目を通した。
誰に入れるのかは、すでに決めてある。
つまり、今回は選挙に行くつもりである。
が、あいにく11日は仕事だ。
早起きして投票所に行くという手もあるのだが、早起きは嫌いだ。
ということで、今回は期日前投票に行くことにする。



2004年07月04日(日) 相変わらずエアコンがだめだ

午後11時頃、テレビを見ながら寝てしまった。
目が覚めると、もう午前1時を過ぎている。
「さて、これから日記を書こうか」
とは思ったが、脳のほうが眠ったままになっている。
元々ネタがあるわけでもないし、このままパソコンの前に座ったといって何かが出てくるとは思えない。
おそらくパソコンの前で居眠りして、首を違えるのがオチだ。
そういうことで、早起きして日記を書くことにした。

さて、布団に入る前にトイレに行こうと立ち上がったのだが、どうも変だ。
首筋から後頭部にかけて、何か膜が張ったような状態なのだ。
しかも重く感じる。
放っておくとかなり重傷の頭痛になるだろう。
「しかし、変な寝相で寝ていたわけでもないのに、なぜ?」
眠たく重い頭で考えを巡らせた。
用を足してトイレから出た時、ようやく原因がわかった。
エアコンである。

元々ぼくはエアコンの風に弱い体質であるため、家ではめったにかけない。
ところが、昨日から台風の影響で、窓を開けると強い風が入ってくるようになった。
そのせいでテーブルや机の上に置いてある物が、次々と吹き飛ばされていく。
これは大変だということで、嫌々エアコンのスイッチを入れることにした。

が、冷房にはしない。
ぼくの体の許容範囲である、ドライ運転にするのだ。
これなら少しの時間なら耐えることが出来る。
なぜ少しの時間なのかというと、うちのエアコンは「ドライ=微弱冷房」であるため、少しの時間ならともかく、長時間つけていると冷房を入れた状態と変わらなくなるのだ。
それでも起きていれば、体を動かすなり何なりして体を冷やさない工夫は出来る。

ところが今回は、それに加えて「寝る」という行為が入ってしまった。
それもテレビを見ながらのゴロ寝である。
そのために、ぼくの体がついていかなかったわけだ。
その結果が、首筋から後頭部にかけて膜が張った状態である。
そういえば、昨日も同じくドライ運転をかけて寝たため、夜中頭が痛くなって目が覚めた。
そこで、エアコンの影響のない部屋で寝ることにしたのだった。
もちろん今日は、早い時間にそのことに気づいたので、すぐさまエアコンのスイッチを切った。
おかげで朝は爽快だった。

ある本で読んだのだが、元々人間の体というものは、夏向きに出来ているらしい。
ということは、夏というのは体の機能が全開になる季節ということになる。
その全開状態にストップをかけるのが、エアコンの風なのだ。
ぼくの場合、基本的に暑いのは大丈夫なのだが、今回のように密閉状態での暑さには耐えられる限界がある。
といって、エアコンだと今日のようになってしまう。
何か他に涼をとる方法はないものだろうか。



2004年07月03日(土) 夜のお楽しみ

家に帰ってから、ぼくには三つの楽しみがある。
一つはもちろんパソコンである。
とにかく家に帰ると、すぐにパソコンの電源を入れる。
まずはメールをチェックする。
最近はメールの数も少なくなった。
毎日4,50件のメールがきているが、そのほとんどがプロバイダやポータルサイトからのお知らせとメルマガで、以前は20件ほどきていた個人のメールは、今はほとんどない。
少しばかり寂しいものがあるが、返事を書くというプレッシャーからは逃れることが出来たのは喜ばしいことである。
次にニュースをチェックする。
新聞社のサイトや2ch等の掲示板を覗くのである。
イラク情勢といい、東アジア情勢といい、目が離せない情報がここには転がっている。
次は人様のサイトを覗く。
お仲間のサイトを読むとホッとさせられる。
と同時に、活力にもなる。
「こういう表現はうまいなあ」
「この人、目の付け所がいい」
などと、いろいろ刺激になるのだ。
それを受けて、ようやく日記エディタを開くことになる。
ちなみに、この日記を書くためにエディタを開いたのは、翌日、つまり4日の午前1時だった。
なぜそこまで遅くなったのかというと、残りの二つのお楽しみを優先したからである。

もう一つのお楽しみは、昨日も書いたが、本を読むことである。
今日のこの日記の立ち上がりが遅れた最大の原因となった。
実は、朝『学校の怪談』というマンガの本を読んでいたのだが、ちょうどいいところで出勤時間となってしまった。
しかたなく帰ってから読むことにした。
もちろん読んだのは、パソコンの電源を入れ、メールをチェックし、ニュースをチェックし、人様のサイトを覗いた後のことである。
他にも読む本があるので、今日は一話だけ読んで終わるつもりだったのだが、何となく引き込まれて三話まで読んでしまった。
夏になるとこの手の恐怖マンガをよく読んでいる。
特によく読むのは、稲川淳二ものである。
昨年は、そのシリーズをすべて買ってしまった。
新人のマンガ家が書いているせいで、画はうまくはないのだが、それでも引き込まれるというのは、ノンフィクションだからであろう。
買うのは本屋ではない。
コンビニである。

三つ目のお楽しみというのが、実はそのコンビニに行くことなのである。
ここ1ヶ月、毎日のように行っている。
家の隣にコンビニがあるというのは、実に便利だ。
何よりもいいのは、車を使わずに行くことが出来るということだ。
雨が降ったって、それほど濡れることもない。
さて、コンビニに何をしに行っているかだが、別にマンガを買いに行っているのではない。
マンガはたまたま新刊が出ていた時に買うだけだ。
では、いったい何をしに行っているのか?
実はアイスクリームを買いに行っているのだ。
森永のバニラアイスクリーム(スティックの分)がお気に入りで、それを食べないと一日が終わらない。
今日は、先に書いた『学校の怪談』を三話読み終わったところで、コンビニに行った。
12時を少し回ったところだったろうか。
店に入ると何人かの人が、マンガを立ち読みしていた。
が、新刊はまだ出てなかったようだ。
まあ、出ていたとしても、今日はアイスクリーム代だけしか持って行かなかったので買えなかった。
しかし、アイスクリーム代だけを握りしめてコンビニに行くのも、なかなか楽しいものである。
つい駄菓子屋に行っていた頃のことを思い出してしまう。
さすがに、昔のように「おいちゃーん、アイスクリームちょうだーい」などとは言わないが。

おっと、もう2時を過ぎてしまったではないか。
明日も仕事だし、もう寝ることにします。
え?
お楽しみは三つで終わりですよ。
では、おやすみなさい。



2004年07月02日(金) 7月2日(曇のち晴)

【昨日の日記】
昨日の日記を読み返したのだが、どうもとりとめのない内容になってしまっている感がある。
きっと、一連のことをそのまま書いただけなので、そうなったのだとは思うが、どうもしっくり来ない。
そこで書き直そうかと思ったのだが、書き直すとなるとどうしても脚色しなければならない。
そういうことで、昨日の日記はこれで終わっておくことにする。

また、読みようによっては携帯電話とR奈に、何かつながりがあるようにも思えるかもしれない。
が、それはない。
R奈が警察と聞いたとたんソワソワしたのは、きっと他に理由があるのだろう。
心当たりがないことはない。
それはR奈は未成年のくせに‥‥
やっぱりやめた。
そのこともこのまま終わっておくことにする。


【南の旅】
さて、今日久しぶりにプレイヤーズ王国でオリジナル曲を公開した。
『南の旅』という曲である。
この歌についての説明というか想い出は、2002年8月3日の日記に書いている。
ということで、今日は説明や想い出は書かずに、録音風景でも書いていくことにする。
録音は今年の1月で、例によって一発録りである。
元々この曲を発表する気などなかったから、適当に弾き語りしているのだ。
おかげで、音は外しているし、ハーモニカも心許ない。
この曲を公表しようと決めた時、新たに録音し直すか、もしくはボロ隠しに他の音を入れてみようかと思った。
が、面倒臭いのでそれはやめ、結局緊張感のないものをそのまま上げることにした。
その根底にあったのは、「ディランも拓郎も、たまに音をはずしているし、ハーモニカも適当だから、素人のぼくが音をはずしたりハーモニカが心許なかったりしても、別にかまわんだろう」というものだった。
ま、次を期待して下さい。


【読書】
最近よく本を読んでいる。
というより無茶苦茶な読み方をしている。
歴史関係の本を2冊、月刊誌最新号を2冊、週刊誌最新号を3冊、携帯文庫を3話、ついでにマンガを2冊、これらすべてを掛け持ちで読んでいるのだ。
今日は休みだったから、午前中は布団に寝ころんで、午後からは半身浴をしながら本を読んでいた。
おかげで、かなりの量を読むことが出来た。
しかし、これだけの本を読むとなると、一行一行をゆっくりと読んでいては間に合わない。
そういうことなので、今読んでいる本は、ほとんどが流し読みなのだ。
「えっ、流し読み?それでは内容がわからんやん」と思われるかもしれない。
ぼくも最初はそう思った。
ところがそうではないらしい。
ある本に、そういう読み方が脳細胞の活性化のためにはいい、と書いてあった。
そこで今回の無茶読み実践になったわけだが、なるほどそういう読み方をしても、ちゃんと内容は頭の中に入っているではないか。
しかもどの本を開いても、すぐにその世界に入っていけるのだ。
まったく不思議なことである。
ということは、逆に一行一行ゆっくりと読むことで、脳細胞は停滞してしまうのだろうか。
これもやってみなければわからないが、脳細胞が停滞すると困るので、この実践はやめることにする。



2004年07月01日(木) 携帯電話の落とし物

昨日、サービスカウンターに見慣れない携帯電話が置いてあった。
「これ、どうしたと?」と、そこにいたラーさんに聞いた。
「昨日の朝、『携帯が落ちてた』と言ってお客さんが持ってきたんよ」
「落とし主はわかったんか?」
「いや、本人から電話があるかと思って待ってたんだけど、かかってこんのよ」
「じゃあ、警察に届けたほうがいい」
「え、警察に?」
「うん。前に携帯を交番に届けたことあるやん。その時携帯のショップの人が教えてくれた。何でも携帯電話の場合、犯罪性を含んでいることもあるけ、届けないとならないらしい」
「ああ、そうなん。誰が持って行くん?」
「おれ行かんよ。1月(04年1月28〜30日の日記参照)に届けた時、手続きに1時間くらいかかったけ」
「じゃあ、どうすればいいと?」
「しかたない。電話して取りに来てもらうか」
ということで、ぼくは110番した。

「あのう、○地区の××店ですが、携帯の落とし物があったんです。届けに行きたいんですけど、今日は忙しくて動けそうにありません。出来たら取りに来てもらいたいんですけど」
「ああ、そうですか。では最寄りの交番の者を伺わせましょう」
「あ、来てくれますか。すいません」
「で、どなたを訪ねていけばいいんですか?」
「サービスカウンターに“ラー”というものがいますんで。もしいなければ、私“しんた”を呼んで下さい」
「はい、じゃあラーさんかしんたさんを訪ねていけばいいんですね」
「はい、よろしくお願いします」

電話をかけたのは2時頃だった。
しばらく意識して待っていたのだが、そのうち本当に忙しくなって、警察が来ることも忘れてしまった。
ようやく思い出したのは、閉店後だった。
しかし、ラーさんは6時で帰ったので、そのことを聞くことも出来ない。
「まあ、来たことにしておこう」
そう思って、昨日は家に帰った。

ところが、今日会社に行ってみると、まだその携帯電話はカウンターに置いたままだった。
ラーさんがいたので、「昨日、警察来んかったと?」と聞いてみた。
「うん、来んかったみたいやねえ」
「忙しかったんかのう?」
「さあ?」
「ま、今日は来るやろ」
ということで、今日一日待ってみることにした。

しかし、いつまで経っても警察は来なかった。
そこで夕方、もう一度110番してみた。
「あのう、昨日電話した××店ですけど」
「はい、何か?」
「『何か』って、昨日携帯を拾ったんで取りに来るように頼んでおいたじゃないですか」
「あ、そうでしたか。えーっと、場所はどこですかねえ?」
「○地区です」
「○地区の何という店ですか?」
「だから××店です」
「ああ、××店ね。そこは何時まで営業してますか?」
「8時までです」
「はい、ではあと1時間ぐらいしたら、交番の者を伺わせますので」
「お願いします」

ところで、ぼくが電話をしている時、横にアルバイトのR奈(タマコの日記で“OR”名で登場)がいた。
彼女はぼくの電話中、何かソワソワしていた。
そこで電話を切ったあと、ぼくはR奈に、
「おまえ、何ソワソワしとるんか?」と聞いてみた。
「だって、しんたさん、警察と話してたんでしょ?」
「ん?お前、おれが警察と話してたら困ることあるんか?」
「いや、ないですけど。よく警察と話せるなと思って…」
「警察と話すくらい何と言うことないやないか。お互い社会人同士なんやし。それにしても、お前怪しいのう。何か隠しとるやろう?」
「えっ、隠してないですよ」
「いや、態度がおかしい」
「そんなことないです」
「まあいい。警察が来たら、呼んでくれ。そこではっきりさせようやないか」
と言ってぼくは売場に戻ろうとした。
が、あいかわらず、R奈は落ち着きなく、困ったような顔をしてぼくを見ている。
そこで、「いいか、ちゃんと『こういうことをしました』と包み隠さず話すんぞ」と念を押しておいた。

それから1時間くらいして、「しんたさん」と店内放送がかかった。
警察がきたのだ。
ぼくは遠くから、カウンターのほうを覗いてみた。
R奈は警察の人と距離を置いた所に立って、ソワソワしている。
「このまま待たせようか」とも思った。
が、そうもいかない。

調書を書いている間、R奈はぼくの横から離れなかった。
時折調書をのぞき込んだりしていた。
「はい、では落とし主にちゃんと連絡を取って、届けておきますので」
そう言って、警察の人は帰っていった。
警察の後ろ姿を見ながら、ぼくはわざと「おまわりさーん」と呼んでみた。
するとR奈は慌てて「呼ばなくていいですよっ」と言った。
「ほら、やっぱりおかしいやないか」
「そんなことないですって」
そう言いながらも、R奈は帰るまで興奮していた。

さて、落とし物の携帯電話だが、うちで預かってから2日間、電話もなければ、メールも入らなかった。
もしかしたら、本当に何かの事件に関わっているのかもしれない。
最近の事件を見ると、携帯電話絡みの事件が多いので、ふとそう思った。
ま、とにかく、警察に預けたことだし、あとは警察任せである。


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