頑張る40代!plus

2002年12月31日(火) 大晦日

1977年12月31日、その日ぼくは、3ヶ月後に東京に出るなどとは、みじんにも思ってなかった。
「さて、来年はどうなるかなあ」と、人ごとのように来る年を占っていたのだ。
年が明け、正月が過ぎ、母は「今後どうするのか?」と聞くようになった。
最初は「考えよる」と答えていたのだが、その後そのことをしつこく言われるようになった。
3月のある日、いつものように母が「今後どうするのか?」と聞いてきたので、思わず「東京に行く」と答えた。
「じゃあ、東京に行け」ということになってしまった。
翌月、ぼくは東京に出た。
考えてみると、衝動がぼくの人生を作ったといえる。

あれから25年経ったわけだが、相変わらずぼくは「さて、来年はどうなるかなあ」と、人ごとのように来る年を占っている。
年齢と周りの環境と立場が少し変わっただけで、ぼくの本質は、あの頃と全く変わってないのである。

ところで、東京に出て何かいいことがあったのかというと、まったくなかった。
強いてあげれば、『ショートホープブルース』が出来たことくらいだろうか。
あの歌を作った頃は無敵だった。
「この歌で、今までふられ続けてきた音楽業界に殴り込みをかける」と意気込んだものである。
しかし、それも自己満足に過ぎなかった。
そういうものを生活に結びつけるなどということは、夢のまた夢である、とわかったのはずっと後のこと。。
幾たびの詩の投稿や、歌のオーディションを通して、ぼくは自分が大した才能や運を持っている人間ではないということを覚ってからのことだった。

それ以来、ぼくは夢を忘れた日々を送っている。
さて、来る年はどういう年になるのか。

と、今年最後の日記をまとめたところで、一句。
「すす払い 出てくるものは ゴミとグチ」
来年もよろしく。



2002年12月30日(月) 数字

中学か高校の時だったが、ラジオの深夜放送を聴いていると、突然変な放送が入ってきた。
それが何語かはわからないが、何かを話しているものではなく、ある単語を区切って読んでいるだけのものというのはわかった。
その頃は、その放送を語学教室か何かと思っていた。
しかし、抑揚のない、無表情な女性の声だったので、妙に不気味に感じたのを覚えている。
それが何だったのかわからないまま、30年の時が過ぎた。

ところが今日、何気なく見ていたテレビで、あれが何だったのかがわかったのだ。
それは、北朝鮮関連の番組だった。
その中で、暗号放送の話があった。
その番組を見た人は知っていると思うが、暗号放送とは、北朝鮮の特異なラジオ放送のことで、朝鮮語の数字を読み上げる放送である。
実際にその放送を流していたが、それこそが、ぼくが30年前に聞いた放送だった。
それは、工作員への指令だと言う。
この指令の下、工作員は日本人を拉致していたらしい。
ということは、ぼくがその放送を聞いた数日後に、拉致が行われたということになる。

その番組を見ながら「ふーん、あれは朝鮮語の数字だったのか」と思っていた時、ふと数字のことで思い出したことがあった。
前の会社にいた時のことである。
ある取引先の営業マンが辞めた。
その営業マンは、いつも上司から「数字、数字」と言って詰められていたらしい。
朝礼ではいつも「数字を作れ」と言われ、成績が悪いと「その理由を数字で答えろ」と言われ、何か企画を立てると「数字で説明しろ」と言われる。
それが毎日なので、そのうちその人は数字ノイローゼになってしまった。
それからしばらくして辞めたのだが、退職届には「退職します」といったことは一行も書かれておらず、ただ意味のない数字が羅列してあったという。

その話を聞いて、ぼくは深くうなずくところがあった。
当時、ぼくも同じように数字に悩まされていたからである。
企業というものは、数字に関しては、決して「昨年並みでいいよ」とは言わない。
それが無理なことだとわかっていても、決まって昨年より上の数字を求めるものである。
そのために営業は苦労する。
無駄な会議が多くなる。
帰宅時間が遅くなる。
休日出勤が多くなる。
当然体調が悪くなる。
情緒不安定になる。
仕事が嫌になる。
それでも、企業は数字を追求する。

それが元で、いろいろな障害が起きるようになる。
1,退職する
ぼくの場合がそうだった。
2,病気になる
前の会社にいた時は、入院する人が多かった。
中には死に至った人もいる。
さすがにその時は会社側も非を認めて殉職扱いにしたが、相変わらず同じことをやっていると聞く。
3,家庭が崩壊する
家にいないことが多いため、奥さんが切れて、離婚に至るケースである。
社内結婚で、奥さんが仕事の内容を知っている場合は理解もするだろうが、仮に奥さんが定時に帰るような仕事に就いていた場合に、こういうことが起こる。
二三、こういうケースの人がいた。
4,不正に走る
数字ほしさに、架空の売り上げをたてるようになる。
逆に架空の売り上げ扱いにして、売上金に手を付ける者もいた。
5,借金を重ねる
販売業に就いていると、どうしても自分で買わざるを得なくなることがある。
本当にその商品が欲しいのなら問題はないが、そのほとんどが必要のない商品である。
それをうまく転売出来る人はいいが、そういうことが苦手な人は借金地獄に陥ることがままある。
まあ、以上のようなことであるが、これらすべて数字の害である。

数字を追求することが悪いとは言わない。
数字があってこそ、企業は発展するのだから。
では、なぜこんな障害が出てくるのだろうか。
それは、数字に振り回されているからだ。
数字というのは酒と同じである。
ほどよく付き合っていくのが最良で、溺れてはいけない。
溺れると、数字しか見えないようになる。
上司に数字に溺れた人がいると、下の者は地獄である。
いつも数字にビクついていなくてはならない。
その結果、今日できないことを、無理矢理繕おうするようになる。
だから、こういう障害に至るのだ。
数字を生かすということは、人間を殺すことである。
そのことを心に銘記して下さいよ。ね!



2002年12月29日(日) 来年の関心事や目標について2

ぼくは昔から自分の目標や夢を、あまり人に語ったことがない。
高校2年の時、担任から「○○はバイクに情熱をかけとるが、バイクが良い悪いは別として、打ち込むものがあることはいいことだと思う。ところで、しんたはそういう情熱をかける夢や目標を持っとるんか?」と聞かれたことがある。
ぼくは「別に」と答えておいた。
もちろんその頃の夢は、ミュージシャンである。
でも、そういうことを担任に言っても、どうなるものでもない。
担任はその時からぼくを、やる気のない人間と決めつけた。

東京から帰ってきて、しばらく出版社に勤めていたことがある。
ある時、上司から「君は何を目標に生きてきたのか?」という質問を受けた。
最初は何も答えなかったのだが、あまりしつこく聞くので、「ミュージシャンを目標に・・」と答えた。
ところが、その上司は突然声を荒げ、「そんなガキみたいなことを言ってるから、すべてにチャランポランなんだ」とぼくを非難した。
「この男とは合わん」と思ったぼくは、2日後にそこを辞めた。
おそらく、ぼくが辞めた理由を知っている者はいなかっただろう。
まあ、言ってもわかるような連中ではなかった。

それ以来、ぼくはよほど親しい人以外には、自分の目標や夢を語ったことはない。
ぼくの目標や夢を知らないから、当然ぼくの趣味や特技なども知らない。
たまに友人の結婚式などで、ぼくが弾き語りでオリジナルをやると、みなあ然とした顔をする。
後から決まって「人は見かけによらんもんやね」と言われるが、その人たちが知らないだけの話である。
親しい人は知っているのだ。

さて、本題の「来年の目標は?」であるが、今まで話してきたとおり、ぼくは今までそういうことを語った経験がないので、こういうことに答えるのには少し抵抗がある。
しかし、タイトルに「来年の目標」と銘打った以上、目標を掲げなくてはならないだろう。

実は、ぼくの来年の目標は、手前味噌で申し訳ないが、『空を翔べ!』である。
いよいよ運命の年だと直感したのである。
かと言って、何をするのかはわからない。
もしかしたら、音楽をやっているかもしれない。
もしかしたら、物書きになっているかもしれない。
そのために、会社を辞めるのかもしれない。
本当に何をするのかはわからない。
しかし、2003年という年が、ぼくの今後20年を占う年になるのは確かだ。
おそらく、運命はその方向にぼくを向かわせるだろう。
だから、ぼくもそういう心構えでいようと思う。


  <空を翔べ!>

 漠然と思い浮かべてた 大切な一日が
 今日風に乗って おれのもとにやって来た
 空には大きな雲が 
 雨はおれを叩きつける
 悪いことを考えている 
 出来るんだ
 空を翔べ!

 運命の一日だと 誰かが言った
 おれの人生は今日に かかっているんだ
 今までやってきたことは
 すべて正しいと信じるんだ
 けして逃げ出してはいけない
 前を向け
 空を翔べ!

 今日がうまくいけば 何が始まるんだろう?
 そんなことが頭の中を ぐるぐると回っている
 時間は刻々と迫っている
 おれの出番は間近だ
 大丈夫だ
 空を翔べ!

 幼い頃から 今日という一日が
 どんなに大切な日か わかっていたんだ
 弱虫なんか吹き飛ばせ
 過去のことは忘れてしまえ
 将来(さき)のことは考えるな
 行け、チャンスだ
 空を翔べ!



2002年12月28日(土) 来年の関心事や目標について

どうもいかん。
鼻は詰まるし、咳き込むし。
多少熱も出ているだろう。
朝からこんな調子で、一日ヒーヒー言いながら仕事をしていた。
おまけに、今日の入荷数は半端じゃなかった。
おそらく、年間最多の入荷数だったと思う。
個数にして、1000個近くあったのではないだろうか。
それを午前中は一人、午後からは二人、夕方からまた一人で荷出しをやっていた。
さすがに明日の入荷はないだろう。
いや、そう願いたいものだ。

さて、今日は来年の関心事や目標について書こうと思っている。

まず、関心事だが、なんと言っても北朝鮮である。
今日、舛添要一が地元のテレビ番組に出ていたのだが、3月ぐらいに一波乱ありそうだと言っていた。
2月でイラクが終わり、いよいよ米軍が北朝鮮攻撃を始めるということだが、その理由として、舛添は「在日米軍をイラクに向けて動かしてないでしょう」と言う。
ところで、もしそうなった時、日本はどう出るのか。
攻撃に加わるのか。
もしくは後方支援をするのか。
ぼくとしては、米軍が動くことよりも、北朝鮮が叩かれることよりも、日本の動きに関心がある。
果たして自衛隊は動くのか?
国軍復活が有り得るのか?
それによって、近隣諸国との関係はどう変わるのか?
また、靖国参拝はどうなるのか?
大いに興味を引かれるところである。

また、北朝鮮に関しては、金政権がどうなるのか、というのも大きな関心事である。
クーデターが来年にも起こるのだろうか。
今年も北朝鮮関連の本をかなり読んだのだが、どの本にも「将軍様はチビ(シークレットブーツを履いているという)で、デブ(糖尿らしい)で、我が儘で、気まぐれで、気が小さく臆病で、そのくせ見栄っ張りで、もはや救いがたい、人間の屑のような御仁である」と書いてある。
なぜ、そういう人を朝鮮人民は放っておくのだろうか?
だいたい、軍隊というのは国を守るものであるが、あの国の軍隊は将軍様を守るものらしい。
人間の屑を守ってどうするのだろうか。
それで暮らしが良くなるとでも思っているのだろうか。
さっさとクーデターを起こして、北朝鮮人民全員が韓国に亡命すればいいのだ。

ところで、仮に将軍様の目標である、北主導による統一が実現した時のことを考えてみると、空恐ろしいものがある。
1,流行歌が変わる。
例えば『釜山港へ帰れ』は、「トラワヨー、プーサンハンへー、会いたい将軍様」となるだろう。
『黄色いシャツ』は、「黄色いシャツ着た、親愛なる将軍様」だ。
2,関釜フェリーはいつも座礁するだろう。
おかげで玄界灘はいつも重油が浮かんでいることになる。
そうなると、明太子の色が黒くなる。
岩のりと同じ色の明太子なんか食いたくないわい。
3,餓死者が何倍にも膨らむだろう。
これは現実味を帯びている。
北主導の統一を許してはいけない理由がここにある。
将軍様は、思想や芸術の天才かもしれないが、経済に関してはアホ以下であるのだから。

ああ、いらんことを書きすぎて、来年の目標を書く時間がなくなってきた。
ということで、続きは明日。



2002年12月27日(金) 今年最後の休み

今日は今年最後の休みだった。
金曜日は商品の入荷日なので、いちおう午前中は出勤した。
昨日からの風邪が治らず、少し熱が出たので、早く終わらして帰ろうと思っていた。
ところが、いつもはケースに入れてくる商品が、今日に限って段ボール箱にしっかり梱包されていたせいで、箱を開けるのに手間取ってしまい、思うように仕事が進まなかった。
それでも、なんとか11時前には会社を出ることが出来た。

今日は、帰る際に楽しみにしていることがあった。
本屋に予約しておいた『20世紀少年』の11巻と、『正論』の2月号を取りに行くことだ。
仕事が終わったぼくは、さっそく車を出し、本屋に向かった。
が、さすが年末である。
全く車が進まない。
本屋がある黒崎に着くまでは、普段は10分足らずで着く。
ところが、この渋滞で30分を要してしまった。
おまけに駐車場はどこも満車で、止めるところを探すのに一苦労である。
おかげで、本屋を出たのは12時前になっていた。

午後からは、おとなしく寝ていようと思っていた。
が、そうもいかなかった。
買い置きの灯油があと一缶になっていたのだ。
いつもなら「次の休みに」ということになるのだが、次の休みは元日である。
おそらく開いているところもないだろうと思い、今日買いに行くことになった。
一端家に帰ってから、再び外に出るというのは辛いものがある。
おまけに外は寒いときている。
最近皿倉山にスノーボード場がオープンしたのだが、ぼくの部屋の窓からその雪が見える。
それが寒さを助長する。
朝はスタジャンを羽織って行ったが、その時はダウンジャケットに着替えて行った。

やっと落ち着いたのは、午後2時を過ぎてからだった。
蓮池さんの記者会見を見、こちらで再放送をやっている『キッズ・ウォー3』を見たあと、今日買った『20世紀少年』を読んだ。
そして、そのまま眠ってしまった。
しかし、体の節々が痛く、熟睡は出来なかった。

7時に目がさめたのだが、何となく頭が痛い。
「さあ、日記の下書きでもしようか」と思い、パソコンの電源を入れた。
が、何を書いていいのかわからない。
相変わらず、タイトルのところに『履歴書』なんて書いている有様だ。
仕方がないので、何かネタを仕入れようと、『正論』をめくっていたのだが、なぜか活字が目に痛い。
で、また寝てしまう。

気がつけば、28日になっている。
あと8時間後には、会社に出勤しなければならない。
うんざりする。

今年最後の休みは、こんな一日だった。



2002年12月26日(木) 憂いなく年を越すために

いやー、やっと履歴書が終わりましたなあ。
いちおう第2部は予定しています。
東京に出てから、30歳ぐらいまでのことを書こうと思っています。
ここでもちょっとした波乱があります。
が、いつ書くのかは、まだ決めておりません。
もしかしたら、来年の今頃になるかもしれません。

ところで、23日の日記に書いた胃の痛みのことだが、今はすっかり治ってしまっている。
昨日の夜くらいから、それまで意識の対象だったお腹のことを、すっかり忘れていたのだ。
今朝、ふとそのことを思い出して、胃のあたりをまさぐってみると、それまで痛かったところが痛くない。
念を入れて、他のところも調べてみたのだが、やはり痛くない。
やれやれ、やっと治ったか、とホッと一息ついた時だった。
例の入院した友人から電話が入った。
明日退院することになった、という電話だった。
「で、原因は何やったんか?」
「わからん。今は全然痛くないけのう」
「そうか、それはおめでとう。で、快気祝いはいつするか?」
「土曜日にでもするか」
「・・・、考えとく」
案外、友人の念がぼくに乗りうつったために、ぼくの腹痛が起こったのかもしれない。
そうでも思わないと、合点がいかない。
同じ日に治ってしまうとは、出来すぎた話ではないか。
まあしかし、友人のことが気になっていたので、これで一安心である。
これで憂いなく年を越せることだろう。

ところが、である。
昼前のことだった。
急に鼻がむずむずしてきたのだ。
鼻の奥、ちょうどのどとつながっているところに違和感がある。
おかしいなあ、と舌でのどの奥をまさぐると、熱がある。
ぼくは風邪かと思い、すぐにお茶でうがいした。
すると、鼻のむずむずが消えた。
しかし、30分ほどすると、また鼻がむずむずしてきた。
そこで、またうがいをすると、むずむずは消えた。
しかし、また・・・。
今日はその繰り返しだった。
葛根湯を飲んだけど効かない。
ということは、鼻がむずむずした段階で、すでに風邪はかなり浸透していた、ということになる。
葛根湯は引きはじめに効果がある、と言われているからだ。
鼻の中にある菌を撃退するという、イメージ療法をやってみても効果がない。
のど飴をなめても一時しのぎに過ぎない。
結局、帰る頃には、鼻水が流れてくる有様だ。
車の中で、何度鼻をかんだことだろう。
帰りにスタンドでガソリンを入れたのだが、「レギュラー満タン」と言う時にも、鼻がタラーっと流れてきた。
スタンドの兄ちゃんが、それを見て笑った。
「ははは、レギュラー、ははは、満タンですね。ははは」
スタンドを出る時に、「お大事に」と言われてしまった。

家に帰って、丹念にうがいをした、が、もはや手遅れだ。
のどに魚の骨でも刺さっているような痛みがある。
こうなれば、いよいよ最後の手段である。
近くのコンビニに行って、ちょっと値の張る栄養ドリンクを買ってきた。
寝る前に飲もうと思っている。
もし、これでも効かないとなると、鼻水、のどの痛み、熱、咳という風邪のフルコースをたどることになってしまう。
今までの経験から言うと、完治するまでに2週間はかかるだろう。
年末は休めないし、正月も2日間しか休みがない。
前後の休みの間隔は、けっこう長いときている。
これでは憂いなく年を越すことが出来ない。

さて、そろそろ就寝の時間が迫っている。
今からぼくは、栄養ドリンクを飲んで寝ることにする。
朝が楽しみである。



2002年12月25日(水) 履歴書 その13


これからのことは、エッセイの『長い浪人時代』に詳しく書いているので、簡単に触れるだけにする。

1976年3月、大学入試、ことごとく落とされる。

1976年4月、K予備校入学。
この年、中原中也を知る。

1977年。
3月、大学入試、再びことごとく落とされる。

4月、もう受験勉強は嫌だモードに入る。
祖父死去。

5月、就職活動を行うも、26回落とされてしまう。
外に出ることが恐ろしくなり、約2ヶ月の引きこもり生活が始まる。

7月、芦屋ボートの警備員となる。

9月、中国展のアルバイトに採用される。
一つの転機を迎える。

11月、北九州総合体育館で行われる全日本プロレスのリング作りにかり出される。
その後、運送会社でアルバイトを始める。

12月、アルバイト先で好きになった人に告白するも、「友だちなら」という条件を付けられ、結局あきらめる。

その頃、バイト仲間とよく飲みに行っていた。
その時行きつけのスナックで知り合った人が、阪急ブレーブスに入団することになった。
その激励会の席で、ぼくはガンガン酒を飲み、ガンガン歌いまくった。
ところが、あまりに張り切りすぎたせいで、その後気分が悪くなり、その人が挨拶をしている最中に吐いてしまった。
後のことは、まったく覚えていない。
ただ、翌日バイト仲間からさんざん文句を言われたのは、しっかり覚えている。

1978年。
1月、バイト仲間に成人を祝ってもらう。

2月、友人と漬け物の家宅販売のアルバイトを始める。
1週間ばかり続けたが、その店が閉店するということでやめさせられてしまう。
最後の日のことだった。
小雪の舞う中、行く宛もなく、友人と二人でさまよっていた。
どこに行こうかと迷ったあげく、高校時代に好きだった、というよりも、まだ好きだった人の家に行くことにした。
まあ、買ってもらえなくても、彼女の近況を知ることぐらいは出来るだろうし、あわよくば彼女と再会出来るかもしれない。
そういう期待をもって、彼女の家のドアを叩いた。
が、彼女は大学に行っているということで不在だった。
とりあえず、ぼくは彼女のお母さんに、漬け物を勧めた。
すると、お母さんはその味を気に入ってくれて、他の家も紹介してくれた。
さらに、ぼくたちに「腹が減っているだろう」と言って、食事を出してくれた。

1時間ほどそこにいた。
ぼくとしては、もう少しそこにいて彼女の帰りを待ちたかったのだが、次の仕事があったので、彼女の家を後にした。
その日は、遅くなった。
家に帰り着いたのは、9時を過ぎていた。
帰ってから、さっそく彼女家に電話をかけた。
2年ぶりに聞く彼女の声だった。
夢心地で、どんな話をしたのかも忘れてしまった。
雪は相変わらず降っている。
が、ぼくの気持ちは暖かかった。
その日ぼくはひとつの詩を作った。

 『春の情』

 夜が来て 星がともる
 夢から覚めた 月も色づく
 なぜか人は 急ぎ足で
 行きすぎる

 道ばたには 小さな花が
 眠たげに 目を閉じる
 夜を忘れた鳥が 家を探し
 飛んで行く

  目の前が急に 明るくなって
  夜もまるで うそな公園に
  君と二人 これからずっと
  暮らしていこうよ

 風が吹いて 君は舞う
 春に浮かれた 蝶になって
 ぼくもいっしょに 羽を広げ
 飛んで行こう

これが、東京に出る前の最後の詩となった。

1978年4月、東京に出る。

 (履歴書 完)



2002年12月24日(火) 履歴書 その12

ところで、ぼくの抱いていた「さて、どこで会ったんだろう?」の疑問だが、何年か後にやっと思い出した。
それは、夢の中で会ったのだ。
見ず知らずの人の夢を見るということは、その人がぼくの理想の女性だったということになる。
それほど、ぼくにとって大きな人だったのだ。
と、思っていた。
しかし、さらに後年、確かに会っていることを思い出した。
それは中学1年の時だった。
ぼくが一時期バレー部に入っていたということを前に書いたが、その頃のことだ。
5月に、バレーボールの区内大会があり、ぼくたち1年も応援に行くことになった。
その時、その会場の隣で、彼女の所属していたクラブの試合をやっていた。
ぼくは興味本位でその試合を眺めていたのだが、そこにある中学の1年生の団体がいた。
その頃のぼくは、知らない人にも声をかける人間だったので、当然彼女達にも声をかけた。
友人と二人で、ギャグをかましたり、悪態をついたりしたのを覚えている。
その中学が彼女のいた中学だった。
ということは、その中に彼女もいたことになる。
そのことを思い出したのは、30代の後半だった。
しかし、今のところ、それを確認することは出来ない。

ぼくの高校時代は、彼女に始まり、彼女に終わったと言える。
詩作や作曲を始めたのも、彼女がいたからであり、それが高じてミュージシャンを目指し、ありふれた人生を送ることを否定したのも、広い目でみれば彼女がいたからである。
また、『頑張る40代!』では決して触れることがないと思われる、今なお続くぼくの波瀾含みの人生も、「彼女がいたから」ということの延長なのかもしれない。
が、ぼくはそのことで、人生を失敗したなどとは思っていない。
多少波瀾万丈ながらも、いい人生を送っていると思っている。
その意味でも、彼女の存在は大きかったと言える。
もし彼女という存在がなかったら、平々凡々としたありふれた人生を送っていたことだろう。
そして、そのありふれた人生の中に価値観を見いだしていたかもしれない。
しかし、もしそうであったとすれば、このホームページの存在はなかったと思う。

と、高校時代の総括が出来たところで、そろそろ高校を卒業しようと思っているのだが、「2年や3年の時はどうだったんだ?」という方もいると思うので、簡単に触れておくことにする。

1974年、高校2年。
この時代のことは、さんざん書いているので、ここでは割愛する。
何とか人に聞かせることの出来る、オリジナル曲を作ったのがこの頃である。
後にバンドを作るのだが、そのバンドでやった曲のほとんどが、高校2年の時に作ったものだった。

1975年、高校3年。
2年の終業式の日に、これで高校生活が終わったと思った。
高校に入った時から、ぼくは『高校3年生というのは、高校生ではなく受験生だ』と思っていた。
そういう考えを持っていたために、高校2年までに高校生活を楽しむだけ楽しんだ。
その結果、3年の時は抜け殻になっていた。
クラスに溶け込もうとせず、一人孤立していた。
2年までのぼくを知る人間は、その変化に驚いていたようで、「何で2年の時みたいにはしゃがんとか?」などと言ってきたが、ぼくは無視していた。

さて、孤立した目で周りを見渡すと、実によく人の心が見えてくる。
誰もが不安だということが、手に取るようにわかった。
馬鹿やっている者も、真面目ぶっている者も、みんな不安の固まりだ。
ちょっとした会話でさえ、すべて空元気に聞こえる。
もううんざりだった。
結局、うんざり状態のまま、ぼくは高校を卒業する。

1976年3月、高校卒業。



2002年12月23日(月) 近況報告

ここしばらく履歴書にかかりきりで、近況の報告が出来てない。
ということで、今日は近況報告をすることにする。

 「胃の痛い話」
10日ほど前に、突然胃のあたりが痛くなり、その状態がずっと続いている。
これまでも胃が痛いことは何度かあったが、その時は何も気にせずに、痛いままで放っておいた。
それがよかったのか、何日かすると、そのまま何事もなかったように痛みは治まってた。
しかし、今回はちょっと事情が違う。
胃の痛みを気にしているのだ。

実は今、高校の同級生が病院に入院している。
先週見舞いに行ってきたのだが、ずっと点滴を受けていて、百何十時間も胃の中に何も入れない状態が続いているということだった。
なるほど、首の付け根のところに管を通され、そこから点滴を受けている。
動くのは自由らしいが、動く範囲が、その点滴の機械の周りだけに限られていて、まるでつながれた犬のようだった。
なぜこんなことになったのか、彼に話を聞いてみると、「腹が痛くなったので病院に行ったところ、そのまま入院させられた」ということだった。
「今はどうあるのか」と聞くと、「今は全然痛くない」とのこと。
「じゃあ、もう1週間くらい痛みを我慢してから病院に行っとったら、『急性胃炎』で片付けられたかもしれんのう」
「ああ。おそらくそうなっとったやろう」

ぼくが胃の痛みを覚えたのは、彼を見舞いに行く何日か前からだった。
彼を見舞っている最中も、胃がちくちく痛んでいた。
しかし、病人を前にして、病人面するわけはいかない。
いかにも健康なふりをして、ぼくは彼を見舞ったのだ。
が、彼から病気の説明を聞くたびに、自分の症状と照らし合わせていた。
さらに、彼のその時の犬のような姿、胃カメラを受けた時痛かったという話、CTスキャンまで受けたという話、そういうものがぼくの恐怖心を煽った。

それ以来、胃の痛みが気になって、気になって。
ここ何日かは、酒を控える、たばこを控える、腹を冷やさない、なるべく牛乳を飲む、といった生活をしている。
しかし、一向に胃の痛みは治まらない。
朝方よくても、昼からまた痛くなる。
そこで、今日その方面に詳しい人に、思い切って聞いてみることにした。
「みぞおちのあたりが痛くて、胃が張ったような感じがするんやけど、これは何かねえ?」
「ああ、それは神経性胃炎やろ」
「神経性胃炎?」
「うん、私も同じような症状が続いたことがあって、その時病院に行ったら、そう言われた」
「どうやったら治るんかねえ」
「気にせんことよ」
痛いから気になるのに、それを気にするなというのは難しいことである。
いったい、どうしたらいいのだろう?

 「クリスマスプレゼント」
うちの店でアルバイトをしている学生に、Iというのがいる。
今日食事が終わって、食堂の後片づけをしていると、Iが入ってきた。
一人で頭を抱えている。
どうしたんだろうと思って見ていると、突然「しんたさんも、プレゼント買うんでしょ?」と聞いてきた。
「プレゼント?」
「クリスマスのですよ」
「いいや、買わんよ」
「えっ!?」
「何で、クリスマスだからといって、プレゼントなんか買わないけんとね」
「でも、クリスマスですよ」
「あんたんトコ宗派、何?」
「浄土真宗ですけど」
「なら買う必要ないやん。うちも真宗やけ」
「考え方が古いですね」
「古いかねえ。クリスマスやけ、プレゼント買わないけんと思っとるほうがおかしいと思うけど。そんな偏った常識に縛られるけ、頭を抱えないけんとよ」
「そうですかねえ」
「ああ、そうよ。プレゼントなんかあげんで、お経でもあげとき」
そう言って、ぼくは食堂を出た。
Iはまだ頭を抱えていた。



2002年12月22日(日) 履歴書 その11

ギターについては、今年の1月に詳しく書いているので、ここでは割愛する。

さて、話はさかのぼるが、この年の4月、例の友人が自殺した日のことだった。
ぼくのクラスに、どこかで見たことのある女子生徒がいた。
『どこかで会ったことがあるんだけど、さて、どこで会ったんだろう?』
そんなことを考えながら、その子のことを何気なく見ていた。
結構活発な子だった。
それに目立つ。
と言うより輝いている。
ぼくの中学校にはいなかったタイプの子だった。
しかし、何か懐かしい感じがする。
『確かに以前会ったことがある。さて、どこで会ったんだろう?』
そのことを聞いてみようかとも思った。
が、聞かなかった。
ぼくは女の子と話すことには抵抗を持たないたちなのだが、その時はどういうわけか躊躇してしまったのだ。

『さて、どこで会ったんだろう?』と思いながらバスに乗り、『さて、どこで会ったんだろう』と思いながら家に着いたところで、友だち自殺の通報があったのだ。
その後もことあるたびに『さて、どこで会ったんだろうか?』と考えてみたのだが、その答はでなかった。
しかし、そのことを考えていくうちに、だんだん彼女から心が離れなくなっていった。

ぼくがはっきりその子のことを「好きだ」と思ったのは、その年の11月だった。
ところが、「好き」と自覚した時に、友人からショッキングなことを聞いた。
「しんた、あの子のことどう思う?」
ぼくは、自分の気持ちを隠すのに必死だった。
「うーん、どっちかと言えば、かわいい方やないんかねえ」
「そうやろ」
「それがどうしたん?」
「おれ、あの子とつき合うことにしたっちゃ」
「えっ!? いつ言うたんね?」
「昨日やけど」
「ふーん・・・」
もちろんその時、友人はぼくの落胆に気づかなかっただろう。

ぼくはその頃右手の小指の骨を折り、それまで毎日行っていたクラブをさぼるようになっていた。
そのため学校が終わるとすぐに帰っていたのだが、帰りはいつもその友人といっしょだった。
その話も、帰る時に聞かされたのだ。
ぼくは目の前が真っ暗になった。
友人の前では努めて明るく振る舞ったのだが、一人になった時、そのことがぼくに重くのしかかった。
「もうおれにはギターしかない」
そう思って半ばムキになってギターの練習をした。

それから毎日、友人から「昨日電話したら、話が長くなってねえ」とか「日曜日に二人で映画に行った」などというのろけ話を聞かされたものだった。
ところが、それから1ヶ月ほどして、友人が「しんた、おれあいつと別れた」と言ってきた。
「どうしたん?」
「彼女が『別れよう』と言ってきた」
「何かあったんね?」
「クラブ活動に打ち込みたいらしい」
「別に、クラブは関係ないやろ?」
「いや、彼女は気が散るらしい」
「ふーん」
ぼくは素っ気ない返事をしながら、内心『これでおれにも目が出てきた』と喜んでいた。
しかし、その喜びは、友人の言った次の言葉で砕け散ることになる。
「で、彼女、高校を卒業するまで誰ともつきあわんと、おれに約束した」
「・・・。じゃあ、高校卒業したら、おまえとつきあうということ?」
「いや、そういう意味じゃないけど」

ところが友人の話は意外な方向に展開する。
「ところで、おれ、本当はあいつより好きな人がおるっちゃ」
「えっ!?」
「実は、あの子は二番目に好きな子やったんよね。本命にはなかなか言い出しきらんでね。で、とりあえず、あの子と付き合うことにしたんよ」
ぼくは言葉が出なかった。
ふざけるな、である。
ぼくは彼女と出会って半年の間、あの子のことをどう思っているのかと、自分の心に問いかけてきた。
そして最終的に出た答が、「好き」だったのだ。
ぼくは一途な恋をする人間なので、いつも『二番目に好き』な人など存在しない。
好きな人は一人である。
いつもその人のことしか思ってない。
それなのにこいつは、である。

やけになったぼくは、その後「彼女が欲しい」が口癖になる。
新しい出会いを探して、その子のことを忘れようとしたのだ。
しかし、その子以上の女性に出会うことはなかった。
その後、8年間も。

8年後に、ぼくはその子を諦めることになる。
それは、彼女が結婚したからだ。
高校時代から書き始めた詩、高校時代から作ってきた歌、それらはすべて、ぼくの彼女への想いであった。
だから、たとえそれが拙い作品だとしても、たとえそれが気障な作品だとしても、その時までは、それらすべてが現実だった。
しかし、彼女の結婚を聞いた時、そういうものがすべて、過去のものになってしまった。



2002年12月21日(土) 履歴書 その10

1973年11月、またもや事件が起きた。
柔道部に出入りしていた3年の先輩が、若戸大橋から飛び降り自殺を図ったのだ。
そのことは新聞にも載った。
見出しは『文学青年、若戸大橋から飛び降り自殺』だった。
ぼくは知らなかったが、先輩はよく哲学書を読んでいたということだった。
また、詩を書いていたらしく、新聞にはその詩も掲載された。
ぼくには結構友だちがいるように見えたが、先輩は孤独だったらしい。
先輩からは「1年で知っとるのは、お前しかおらん」と言って、よくかわいがってもらっていたので、その分ショックが大きく、その後しばらく落ち込んでいた。
そのため、クラスの女の子から「しんた君も自殺するんやないんね」と言われたこともある。
その頃のぼくはフロイトなどを読み、詩を書いていたということもあって、彼女はそう思ったのだろう。

さらに訃報は続いた。
2年の人が死んだのだ。
死因は、やはり自殺だった。
頭からビニールをかぶり、そこにガス管を差し込んで死んだらしい。
柔道部の先輩に、その人と同じ中学の出身の人がいた。
通夜に行ったらしいが、「あいつの彼女が来とってねえ。泣き崩れて、見るに忍びなかった」と言っていた。
ぼくは、その人のことを知らなかったので、あまり深い関心を持たなかったが、またもや死について考えるようになった。

それから数ヶ月後、中学の同級生が自殺したとの情報が入った。
その同級生とは、中学1年の頃、何度か遊んだことがあるが、それほど深いつき合いはなかった。
なぜ死んだのかは知らない。
おそらく孤独感にさいなまれてのことではなかったのだろうか。
その頃、『孤独』という名の下に死んでいく若者が多くいた。
それは、一種の流行のようなものだった。

ぼくは昔から自分のことを、孤独な人間だと思っている。
その自覚を根底に行動していると言っても過言ではない。
人と同じ行動をとることが嫌いだし、人と徒党を組むことを好まない。
そのために寂しい思いをしたこともある。
深い谷間に落とされた気持ちになったこともある。
そんなぼくが自殺に走らなかったのには理由がある。
それは、孤独であることを楽しんでいたからだ。
まあ、死に至るほどの孤独感を味わっていない、とも言えるのかもしれない。
しかし、死に至る孤独感がどのくらいのものなのかは知らないが。

1973年11月、ギター入手。
2学期に入ってからのぼくは、「ギターが欲しい」が口癖だった。
いろんな人に「バイトしてギター買う」と言っていた。
そのいろんな人の中の一人にMちゃんという女性がいた。
彼女はぼくと違う中学の出身なのに、どういうわけか、ぼくの家庭環境をよく知っていた。
理由を尋ねてみると、ぼくの従姉がMちゃんの家で働いているとのことだった。
Mちゃんの家は花屋をやっていた。
そこで、いとこがあることないことを言っていたらしい。
当然、Mちゃんを通じて、ぼくの情報も逐一従姉の耳に入っていた。
もちろんギターの件も。
そして、そのことは伯父の耳にも入った。
伯父は父の兄で、高校生がアルバイトをしたら不良になると思っている古い考えの人だった。
ある日、伯父から母に電話があった。
「しんたがギターほしがっとるそうだが、こちらでギターを用意するから、絶対バイトなんかさせんで欲しい」という内容だった。
それから1週間ほどして、伯父の元からギターが届いた。
ここからぼくの人生が変わる。



2002年12月20日(金) 履歴書 その9

1973年5月、挫傷。
ぼくが柔道部に所属していたのは、この日記で何度も書いている。
1年の前半、それは真面目にクラブに通ったものだった。
5月、練習中に足の親指をねじってしまい、一時は人の肩につかまらなければ歩くことの出来ない状態になった。
それでもクラブには休まずに通い、練習に励んでいた。
人間一生懸命になれば痛みを忘れるものだということを、その時知った。
しかし、そのせいで完治するのに3ヶ月を要してしまった。

1973年9月、ドブさらい。
夏休みが終わり、運動会の準備に追われている頃だった。
ぼくのクラスは、1年の校舎につながる渡り廊下の掃除を任されていた。
その渡り廊下の横に小さな溝があった。
その溝の中程が出入口と重なっていたため、その部分だけ溝に落ち込まないように長さ2メートルほどの蓋がかぶせてあった。
その蓋が弊害を生んだ。
その蓋の中、つまりトンネル部分に何かが詰まってしまい、そこだけ水が流れなかった。
そのために溜まった水が腐り、あたりに悪臭を放っていた。
蓋は開かないし、その中に詰まっているものもなかなか取れないので、掃除当番もそこだけは掃除をしなかった。

ある日、そこの掃除当番がそのトンネルの周りに集まっていた。
ぼくが「どうしたんか?」と聞くと、当番は「水が流れんけ、ちょっと覗いてみたら、中にゴミが一杯詰まっとるんよ。少し取ってみたんやけど、その奥に何か硬いものが当たって、それ以上取れんっちゃ」と言った。
「ふーん」と、ぼくは素っ気ない返事をし、そこから立ち去ろうとした時だった。
誰かが「これを取り除くのは不可能やろ」と言った。
その『不可能』という言葉に、ぼくの血が騒いだ。
「ちょっと、見せて」とその中を覗いてみると、たくさんのゴミが詰まっていた。
「地道にこれを取ればいいやん」
「おれたちも何度か挑戦したけど、無理っちゃ」
「じゃあ、おれがやってみる」
と、ぼくは竹の棒を持ってきて、溝掃除を始めた。
なるほどけっこうたくさんのゴミが詰まっている。
パンの袋や、紙くずや、中には人形なんかも入っていた。
その日、けっこう取り除いたものの、まだ20センチ程度しか掘り進めなかった。
「明日する」
そう言って、ぼくはクラブに行った。

翌日、掃除の時間に、ぼくはまたドブさらいを始めた。
その日も紙くずや木ぎれの除去に終わった。
次の日から、休み時間まで利用してドブさらいをするようになった。
そして次の日、50センチほど掘り進んだ時、ようやくそのトンネルに詰まっているものの実体をつかんだ。
どこからともなく木の根が這ってきて、そのトンネルの中ではびこっていたのだ。
ぼくは唖然とした。
なるほどこれは不可能である。
木の根の除去は困難を極めた。
少しずつ、根っこの先は取れているのだが、実体はビクともしない。
引いてもだめだから、今度は逆から棒を突っ込んで、押し出す方法をとった。
しかし、動かない。
いよいよ作業に行き詰まってしまった。
そんな時、ぼくがそこの掃除をしていることを知ったクラブの先輩が、「お前、あんなところを掃除しよるんか。おれ、1年の時にあそこで小便したぞ」などと言ってきた。
作業は進まない、先輩の小便・・、いろんなことを考えていくうち、だんだんドブさらいに嫌気がさしてきた。

その日も、作業をしていたが、全然進展しない。
「もうやめよう」と思っていた時だった。
ふと周りを見ると、ギャラリーがいるのだ。
他のクラスの人間だった。
ぼくに「貫通しそう?」などと聞いてくる。
「いやあ、むずかしいねえ」
「ふーん、大変やねえ。でも頑張ってね」
その時、ぼくは『やめるわけいかんなあ』と思った。
トイレに行っても、知らない人から「あ、今日はドブ掃除せんと?」などと声をかけられる有様だ。
いつのまにかぼくは、ちょっとした『時の人』になっていたのだ。

さらに、やめられない理由が出来た。
以前書いた、『その後のぼくの人生を変える人』がぼくに注目し始めたのだ。
彼女はぼくに「何でこんなことしよると」とか、「しんた君、変わっとるね」などと声をかけてきた。
ぼくは内心嬉しかったが、「うるさい」などと言って、ブスッとした顔をしていた。
しかし、これはチャンスである。
もしここでやめたら、こんなにカッコ悪いことはない。

10日ほどして、ようやく光が見えてきた。
中を覗いてみると、1メールほど掘り進んでいるのがわかったのだ。
残り1メートルだ。
その時からぼくの気持ちは、『困難だ』から『何とかなる』に変わっていた。
そして2日後、何とかなった。
いつものように棒を突っ込むと、何か硬いものに触れた。
これは何だろうと、棒の先にその硬いものを引っかけて、思いっきり引っ張ってみた。
「ズズッ」という音がした。
1メートルほど長さの黒い固まりが出てきた。
トンネルの中を覗いた。
あちらが見える。
ついに貫通した。

教室に戻ると、みんなが「おめでとう」と言って祝福してくれた。
ぼくがドブさらいをやっていることを知らないと思っていた担任までが、「お、しんた、開通したか」と言っていた。
しかし、その後何が変わったわけではなかった。
ぼくはいつものように、教室で声を張り上げ歌を歌っているだけだった。



2002年12月19日(木) 履歴書 その8

高校に入学した頃のぼくは、中学までとはうってかわって、もの静かな人間だった。
理由は二つある。
前にも話したが、友人の死というのが、その一つだ。
そういう初めての経験が、ぼくの中で処理できないでいた。
授業中に、死について考えていることもしばしばあった。
そういう時に限って、先生から質問が飛んでくる。
生まれつきの勉強嫌いが、予習復習などするようなことはない。
したがって、答えることが出来ない。
立ったままじっと黙っていた。
休み時間にはふさぎ込んでいるし、おそらく周囲の人間は、ぼくに暗い人間のイメージを持ったに違いない。

もう一つの理由に、クラスに同じ中学出身の男子がいなかったというのがある。
ぼくと同じ中学からその高校に入ったのは13人だった。
内訳は、男子が3人、女子が10人である。
当時は1学年450人いた。
13人というのは少ない。
さらに3人というのは、いないに等しい数である。
当然ぼくたちは、バラバラに振り分けられた。
おかげでぼくは、まったく知らない人たちの中で過ごさなければならなかった。
ぼくは転校をしたことがなかったし、小学校の同級生のほとんど全員が同じ中学に行ったので、まったく知らない人の中で過ごすということがなかった。
そのため、慣れない人たちと話すことに躊躇していた。
その点、他の中学から来た人間は、とりあえずは同じ中学出身者としゃべってればいいのだから気が楽である。

そうやって1ヶ月が過ぎる頃、クラスの色というものが出来つつあった。
くそ面白くもないキザな男が、みんなの笑いを取っている
このままクラスの色が出来上がってしまうと、一年間、クラスはその男を中心に回ってしまう。
さらにぼくは、目立たない暗い男に成り果ててしまう。
「これはいかん。落ち込んでいる暇はない」
そう思ったぼくは、ある作戦に出る。
当時、巷ではぴんからトリオの『女のみち』という歌が流行っていた。
休み時間に、ぼくはその歌をちゃかして歌ってみた。
それを何度かやっているうちに、みんながぼくのことを注目し始めた。
それから、小中学校で培った笑いネタをガンガンやった。
それがウケた。
これでキザ男中心のクラスにならずにすんだ。

それ以来ぼくは、いつも歌ばかり歌っていた。
別に『女のみち』をやり続けたわけではない。
その頃、吉田拓郎の洗礼を受けたのだ。
中学の頃から拓郎は知っていたが、あまり関心は持ってなかった。
あれは、ぼくが『女のみち』をやり始めて、しばらく経ってからのことだった。
たしか、中間テストの頃だった。
その日、クラブは試験休みだったので、早く家に帰ったぼくは、することもなくラジオを聴いていた。
その時、吉田拓郎特集をやっていた。
「6月に発売される吉田拓郎のアルバム『伽草子』の中から、何曲かお届けします」
しばらく流して聴いていたのだが、『制服』という曲が鳴り始めた途端、ぼくは頭を殴られる思いがした。
ギター一本の弾き語りだったのだが、ああいう説得力のある歌を聴いたのは初めてだった。
それからぼくは、拓郎にハマっていくことになる。

それまで、ぼくは中学までと同じように、お笑い路線で高校生活を送ろうと思っていた。
しかし、その時から拓郎路線に変更した。
寝ても覚めても拓郎だった。
拓郎の歌を覚えては、休み時間に大声を張り上げて歌っていた。
現在ぼくがカラオケで歌うのは、この時歌っていた拓郎の歌が圧倒的に多いのだが、おそらく体に染みついてしまっているのだろう。

身につけたものは歌だけではない。
しゃべり方や考え方も、拓郎に沿ったものになっていった。
ある程度拓郎になりきった時、一つ足りないものがあるのに気がついた。
ギターである。



2002年12月18日(水) 履歴書 その7

1973年4月、福岡県立×高校入学。
この高校は、前にも書いたとおり、女子の多い高校だった。
元高等女学校ということもあり、女子にとっては名門高校だった。
後年、同級生の女の子に就職を紹介したことがある。
その時、面接の人が「ほう、×高校出身ですか」と言って感心していた。

しかし、男子はそうは見られない。
周りの高校から、「あの高校には軟派な男が多い」と言われていた。
面白くないのは、近くの工業高校の生徒である。
彼らは、ただでさえ女っ気がなく悶々とした生活を送っている。
そういう彼らにとって、ぼくたち×高校の男子はやっかみの対象だった。
かなりの数の人間が、彼らに殴られたり、たかられたりという被害に遭っていた。

3年の時だったが、部活を終えて、ぼくたちは何人かでお好み焼き屋に行った。
お好み焼きの焼き上がりを待っている時だった。
ががやがやと例の工業高校の生徒が多数入ってきた。
彼らはぼくたちを見るなり、「お、×高校の奴がおる」となめた口調で言った。
ぼくたちはそれを聞いてカッとしたが、トラブルを起こすのが嫌なので無視していた。
彼らは、
「女ばっかり追いかけていい身分やのう」
「あいつ、ホック開けとうぞ。えらそうやのう」
などと、ぼくらに聞こえるように言った。
その時、その雰囲気を察したお好み焼き屋のおばちゃんが、機転を利かせた。
「あ、×高の柔道部の人。もうすぐ焼けるけね」
おばちゃんがそういうのを聞いて、工業高校の奴らは「あいつら、柔道部らしいぞ」と小声で言った。
それから、店の中は静かになった。
お好み焼きを食べ終わり店を出る時、ぼくはそいつらのほうを見た。
すると、そいつらはみな下を向いた。
男子が多くいるから強いつもりでいるが、所詮その程度の人間の集まりである。

しかし、「柔道部」というのが効かない学校もあった。
今話題になっている国の高級学校である。
ぼくはその学校の生徒から、同じ日に二度被害を受けたことがある。

1年の夏休み前のことだった。
行きがけ、友人とバスを待っている時のこと。
突然、一人の男がぼくの腕をつかんできた。
何だろうと思っていると、その男は「おい、100円持ってないか」と言う。
ぼくが「持ってない」と言うと、その男はぼくの横にいた友人に「お前は?」と聞いた。
友人も「持ってない」と言った。
その男は、その横にいたもう一人の友人にも同じことを聞いた。
その友人も同じ答だった。
男は頭に来て、「ふざけるなよ」と言うなり、端にいた友人の腹部に蹴りを入れた。
続いて、ぼくの横にいた友人にも蹴りを入れた。
次はぼくの番である。
しかし、ぼくは男の手を振り払い、2,3歩男から離れた。
男がぼくに襲いかかろうとしたので、ぼくは身構えた。
そして「持ってないもんは持ってないんたい!!」と大声で怒鳴った。
その一喝が効いたのか、男はそれ以上ぼくに近づこうとはしなかった。
そして、通りを歩いている学生を振り払いながら、男は駅の方に行った。
友人たちの方を見ると、彼らは腹を押さえてうなっていた。
ぼくが駆け寄ると、友人の一人が「しんたもやられたんか」と聞いた。
ぼくは、身構えて男を一喝したということは話さずに、「おれは逃げた」と答えておいた。

その日は試験期間中だったので部活は休みだった。
当然いつもより早く帰れる。
ぼくはクラスの友人と、普段とは違う道を通って帰った。
その道は野球場の裏側の道だった。
そこには林があるのだが、友人とその林にさしかかった時だった。
一人の男がぼくたちに近づいてきた。
「おい」と彼は言った。
「あ!?」とぼくが振り向くと、彼はぼくの横っ面を殴った。
そして、彼はぼくにナイフを突きつけた。
「こっちに来い」
ぼくたちは仕方なくついていった。
そこには彼の仲間がいた。
そして、彼らの一人がぼくたちに向かって、「こら、お前たち、おれたちのことを朝鮮ちいうて馬鹿にしよるやろうが」と言った。
ぼくは『チッ、こいつら朝高か。面倒やのう』と思いながら、「別に馬鹿にしよらんよ」と言った。
「うそつけ」と彼は、ぼくの頬を殴った。
二度も殴られたので、ぼくは頭に血が上り、その男を睨みつけた。
「なんかその目は?」
さっきの男がそう言って、またナイフをちらつかせた。
すると、他の男が「おい、ナイフはやめとけ」と言った。
ぼくは『こうなれば一戦交えんといけん』と腹をくくった。
ところがその時、『ナイフはやめとけ』と言った男が、「お前たち、もう行ってもいいぞ」と言った。
ぼくたちが唖然として立っていると、「早く行け」と言った。
ぼくたちは、その場を離れた。

後でわかったことだが、その日朝高は休みだったらしい。
ということは、朝の男も朝高の人間だったのだろう。
高校生面をして、私服を着ていたのだから。
しかし、二度もこんな目に遭うなんて、最悪な一日だった。
その後、ぼくは体格がよくなったせいか、こういう被害に遭うことはあまりなくなったが、他の生徒はけっこうやられていたようだ。
そんなふうに、ぼくの行った×高校は、女子が多いからというだけで、男子は弱いとなめられるような学校だった。
また、女子が多いというだけで、『恋愛学校』と呼ばれる学校でもあった。



2002年12月17日(火) 履歴書 その6

さて、昨日は中学時代を書いた。
今日は当然高校時代を書くわけだが、この二つの学校の入学式前後に、どうしても忘れることの出来ない事件がある。

中学入学の2日ほど前に、ぼくは母の知り合いのUさんから入学祝いを買ってもらうことになり、Uさんの車に乗って街まで出た。
午後8時を回った頃、出かける時は小降りだった雨が、本降りになった。
「ああ、とうとう本降りになったね。急いで帰ろう」
そう言って、ぼくたちは車に乗った。
車の中で、ぼくは将来の抱負などを語っていた。
車が走り出して10分ほど経った頃だったろうか、助手席に乗っていたぼくの前に、突然黒い物体が現れた。
次の瞬間、「ドン」という音とともにその物体は宙を舞っていた。
物体は7,8メートルほど飛んだ後に地面に落ちていった。
運転していたUさんが「やった!」と叫んだ。
ぼくは何が起きたのかわからなかった。
車が急停車し、Uさんはその物体に駆け寄った。
ぼくはUさんを目で追っていった。
そこには中年の女性が倒れていた。
黒い物体は人だったのだ。
その女性は、横断歩道の数十メートル手前を、車を確認をせずに走って渡っていたのだ。
幸い意識はあった。
しかし、翌日容態が急変し、そのまま亡くなってしまった。
ぼくはUさんに悪いという気持ちでいっぱいだった。
しかし、非力なぼくにはどうすることも出来ない。
「あの街に行かなかったら・・」「1秒遅く出発していたら・・」
あの時ほど、1分1秒を悔やんだことはなかった。
さらに困ったことが起きた。
その事故の映像が目に焼き付いてしまって、その後何ヶ月も消えなかった。
目を閉じると、その映像が再現される。
そのうちに車ノイローゼになってしまい、一時は外を歩くのさえ怖かった。
ぼくが運転免許を取るのが人より遅かったのは、この事故の後遺症が残っていたからだ。

さて、高校入学の時事件である。
ぼくの家の近くに、友人が住んでいた。
彼とは保育園からずっといっしょだった。
小さい頃は気性が激しく、ぼくも何度かいじめられたことがある。
それでも、その頃はよく遊んでいたものだ。
しかし、小学生になってからは、いっしょのクラスになったことがないせいか、あまり遊ばなくなった。
そのため、中学1年に彼と同じクラスになるまで、彼がどんな性格になっているのか知らないでいた。
中学時代の彼は、えらく優しい性格になっていた。
以前とは逆で、ぼくのほうからいたずらを仕掛けることがよくあった。
それでも彼は抵抗しなかった。
1年の頃は、将棋をしたり、自転車で遠出をしたりしてよく遊んでいたが、2年、3年と別のクラスになったということもあり、彼とはあまり遊ばなくなった。
その間、彼が何を考え、どういう性格の変化があったのかは知らない。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
彼とぼくは、同じ時期同じ人を好きになっていたということだ。
お互いそういうことは口にしたことはなかったのだが、何となく相手の仕草を見てわかった。
まあそれはいいとして、3年の2学期、彼は急に学校に来なくなった。
はっきりした理由は知らないが、噂では入院したということだった。
しかし、ぼくは彼が家にいるのを何度か目撃している。
結局、彼は卒業するまで一度も姿を見せなかった。
その後、彼がもう一度中学3年をやり直すという噂を聞いた。
ぼくがそれを聞いたのは、中学を卒業してからだった。
それから数日後のこと。
Oという友人と公園で遊んでいる時、彼が道ばたを歩いているのが見えた。
一瞬、ぼくとOは顔を見合わせた。
「声かけてみようか?」
「でも、あの噂が本当やったら、声かけるのも悪いし…」
とうとう、ぼくたちは声をかけなかった。
彼もぼくたちのそんなやりとりを察したのか、ぼくたちの視線から避けるように歩いて行った。
それが、彼を見た最後だった。
次の日、ぼくは高校に入学した。
その翌日のことだった。
学校から帰ってくると、電話が鳴った。
誰だろうと電話を取ってみると、Oからだった。
「どうした?」
「・・・、あいつが死んだ」
「えっ、嘘やろ?」
「いや、ほんと。自殺らしい。ガス管くわえて」
「・・・」
「あの時、声かければよかったのう」
「・・うん」
彼がどうして自殺を選んだのかは知らない。
まさか、2日前のことを気に病んでのことではないと思う。
いや、ないと信じたい。
では、1級下の者にいじめられたのか。
それも定かではない。
しかし、このショックは大きかった。
楽しいはずの高校生活も、このおかげで最初は全然おもしろくなかった。
彼のことを思うたびに、気分がめいってしまう。
周りで馬鹿やっている級友たちを羨ましくも思った。
結局、ぼくが高校で本領発揮するのは、それから1ヶ月後だった。
ところで、彼が住んでいた所は、現在駐車場になっている。
今でもぼくは、その前を通る時に、あの頃の暗い気分に戻ることがある。



2002年12月16日(月) 履歴書 その5

さて、中学時代のことは、この日記にかなり書いているので、詳しいことはそのへんの日記を読んでもらうことにして、ここでは概略だけ書いておく。

中学1年。
・中学に入学してからすぐにバレーボール部に入ったが、すぐに辞める。
・1学期、習字の時間にクラスの人間とけんかをし、翌日母が学校に呼ばれることになる。
・2学期、技術の授業中に隣の奴とふざけていて先生から呼び出しを食らう。
保健室横の密室で、20発ほどビンタを食らった。
友人は涙声で「許して下さい」と言ったが、ぼくは悔しくてその先生をずっと睨み付けていた。
翌日、また母は学校に呼ばれる。
・同じく技術の時間に落書きをしていた。
例の先生に見つかり、その紙を取り上げられる。
『ぼくはあなたが好きです。あなたのためならヌードになってもいい・・・』という内容だったので、先生の間で問題になり、三度母が呼ばれることになる。
母は、「あんないたずら書きを真に受ける先生がおかしい」と言っていた。
・体育と美術の授業をボイコットしたために、通知票に「1」の字が二つ並ぶことになる。
もちろん、母は学校から呼び出しを食らい、「この中学始まって以来の事件だ」と言われる。

中学2年。
・1学期の中間テストで、突然成績が優秀になる。
ぼくを問題児扱いにしていた学年主任の先生から職員室に呼び出され、「よく頑張った」とほめられる。
が、次の期末テストで成績は元に戻る。
・弁当の時間、毎日仲のいいメンバーと食べていたのだが、最後にはいつもケンカになり、弁当の中に牛乳をかけたり、ぞうきんの汁を入れたりしていた。
見かねた女子が先生に言いつけた。
そのため、それ以来仲のいいメンバーで食べることが出来なくなった。
・『あしたのジョー』を真剣に読み出す。
・夏休み、宇佐神宮の馬にかまれる。
傷跡は20代まで残っていた。
・この頃から日露戦争に関心を寄せるようになり、東郷平八郎がぼくの英雄になった。
きっかけは『時間ですよ』だった。

中学3年。
・忍術の訓練を始める。
高い所に手だけで登ったり、ガードレールの上に飛び乗ったり、後ろ歩きをしたり、手裏剣の練習(ちゃんと先生についた)をしたり、気配をなくす訓練をしたりした。
しかし、こういうことは何の役にも立たなかった。
あ、そういえば役に立ったこともある。
高校の運動会で、平均台の上に乗る競技があったのだが、その時ガードレールの練習が役に立った。
ぼくは平均台の上に軽々と飛び乗り、周囲をあっと言わせた。
・高校受験の勉強をろくにせずに、超能力の勉強ばかりしていた。
ろうそくを立て、心で「消えろ」と念じ、消えるようになったら念力が使えるようになる、とある本に書いてあった。
2ヶ月ほどやってみたのだが、ろうそくの火は揺れることすらなかった。
しかし、これをやったおかげで、後年ぼくは「瞬きをしない人」と呼ばれる。
・翌年通うことになる高校を選んだのは、単純な理由からだった。
それまでは、ぼくはどこの高校でもいいと思っていたのだが、友人が「○高は女のほうが多いらしい」と言うのを聞いて、希望校をその高校にした。

1973年3月、中学卒業。



2002年12月15日(日) 履歴書 その4

1970年4月、中学校入学。

「初恋」

いつのまにかの静けさがぼくに
淡い恋心を落としていった
思いもかけないことにように
君を好きになっていた

こんな気持ちは初めてだった
不意に吹き狂う小嵐が
ぼくを包み込むように
日々を攻めつけた

 今想い起こしてみると
 それももう古い昔話
 今でも夢に出てくる、忘れたはずの
 君の笑顔少しぼやけて

ぼくの初恋はいたずら好きの風が
落としていったおかしな夢
思いもかけないことのように
君を忘れていた


小学校入学のところで書き忘れたが、1年の時にぼくは初恋をした。
その子とはキスもしている。
でも、すぐに転校していった。
また3年の時、2度目の恋をしている。
ぼくはその子と結婚すると公言していた。
が、5年になると、その子を好きだったことも忘れた。
で、中学に至るのだが、思春期の恋というものは、それまでの「好き」というのとちょっと違っている。
『アルジャーノンに花束を』で、ハルがエリナ先生に抱いた恋心というのは、きっとぼくが中学時代に抱いた恋心と同じものだったに違いない。
彼の場合、知能と感情のバランスがとれずに苦しんだのだが、ぼくの場合は、成長と感情のバランスがとれなかったせいでかなり苦しんだ。
その人のことを思うと、なぜか胸が痛む。
そんなことは、小学生の頃の「好き」にはなかった。
ぼくの場合、小学生の頃の「好き」は、単にその人の存在が心地よかっただけである。
しかし、中学の恋は違う。
苦しいのだ。
苦しんで、苦しんで、苦しんで、さらに苦しんで、でも満たされない。
そんな悶々とした日々が3年間続いた。

それほど苦しんだ恋だったが、結末はあっけないものだった。
その後、彼女といっしょの高校に通うことになったのだが、高校に入学した翌日、ぼくは、その後のぼくの人生を変える人と出会ってしまう。
中学入学時の出会いから、よく彼女と口げんかをしていたことや、いつも彼女を目で追っていたことや、周りから「しんた、お前あいつのことが好きなんやろ」とからかわれたことが、一瞬にして吹き飛んだ。
中学時代の恋は、その時点で終わってしまった。
たまたまその日、その中学時代の君といっしょに帰ることになったのだが、前の日、いや人生を変える人と出会う前まで抱いていた思いは跡形もなく消えてしまい、彼女はぼくにとってただの人になってしまっていた。

その後も彼女に対してはいっさい関心を持たなかった。
後年、友人たちと彼女の家に遊びに行ったことがあるのだが、全然女を感じなかった。
『いったい、中学の3年間、何を苦しんでいたんだろう?』と今でも思っている。



2002年12月14日(土) 履歴書 その3

1968年、花の小学5年生。
『亜麻色の髪の乙女』が流行っていた頃に、ぼくは小学5年生になった。
3年4年と歳を増すごとに、ぼくは悪ガキになっていった。
4年生まではまともにやっていた宿題も、この頃からやらなくなっていった。
それから高校を卒業するまで、ぼくはまともに宿題をしていったことはない。
授業態度も不真面目で、しょっちゅう廊下に立たされていた。
ある日、友人と廊下に立たされている時だった。
北の空に光る物体が見えた。
友人に「おい、今の見たか?」と聞くと、「おう、見た見た」と言う。
「あれは何かのう」
「うーん?」
「あれは円盤やろ」
「そうかのう。飛行機やなかったか」
「円盤っちゃ。それでいいやないか」
ということで、授業が終わった後クラスの連中に「おれたち、さっき空飛ぶ円盤見た」と触れ回った。
「ホントかっ!?」
みんなうらやましがっていた。
しかし、そのことが先生の耳に入り、またもやぼくは叱られることになった。
「しんた君は、廊下に立たされとる間、なぜ自分が立たされたのかと反省せんかったんかねえ?」
「いや、反省してました」
「嘘ついても、わかるんやけね。反省してたのに、どうして円盤なんか見る暇があるんね」
そう言って、先生はぼくの頭を叩いた。
しかしぼくは「確かに見ました」と言い張っていた。

掃除当番もまともにしなかった。
ぼくたちが一番楽しみにしていたのは、月に一度回ってくる便所掃除だった。
そこは、唯一先生の目が届かない場所だった。
もちろん、掃除はせずに、ホースやバケツで水遊びをしていた。
壁に水をかけ、便器に水をかけ、最後は天井に水をかけて、トイレ内を水浸しにして終わっていた。
いつも他のクラスの生徒から、「お前たちが掃除した後、いつも天井から水が落ちてくる」とクレームが付いていた。
しかし、ぼくたちは悪びれもせず、「それだけ真面目に掃除しよるということやろ」とやり返していた。

その頃のぼくは露出狂だった。
当時はまだ水泳の時間でも、女子といっしょに着替えをしていた。
ぼくは最初の頃こそバスタオルを腰に巻いて着替えていたのだが、だんだんそれが面倒になり、ついに「勇気ある者」と言いながらタオルをつけずに着替えてしまった。
それが受けた。
そのうち、男子のリクエストに応え、教壇の上に立って着替えるようになった。
さすがに女子は顔を覆っていたが、中にはしっかり見る者もいた。
そういうことをやったのは、その年が最初で最後だった。
さすがに6年生になったら、恥じらいも出てきたのだ。

その6年生の時も、5年生時代の延長だった。
クラスが変わらなかったので、やることは同じだった。
それにしても、ある面まとまりがよく、ぼくにとっては居心地のいい楽しいクラスだった。
よく叱られてはいたが、先生もいい先生だった。
それから数年後、先生にバイトでお世話になることになる。

1970年3月、小学校卒業。



2002年12月13日(金) 履歴書 その2

1964年、小学校入学。
入学してしばらくしてからのこと。
同じ町内に、Rという同じ学年の女の子が住んでいた。
ぼくは保育園、彼女は幼稚園に通っていた関係もあって、あまり話をしたことはなかった。
ある日の学校帰り、Rがぼくの20メートルくらい先を歩いていた。
その距離を保ったまま、家の近くまで来た時、何を思ったか、突然Rは有刺鉄線をくぐって、ある工場の中に入っていった。
ところが、有刺鉄線をくぐる時に、ランドセルに傷を入れてしまったらしい。
その晩、Rの親がRを連れて、うちに怒鳴り込んできた。
Rは親に「しんた君が追いかけて来たので、逃げている時にランドセルに傷が入った」と報告したようだ。
叔母がぼくを呼んだ。
そして「Rちゃんが、こうやって言いよるんやけど、ホントにあんた追いかけたんね?」と聞いた。
ぼくは、「いいや、ぼくが後ろのほうを歩きよったら、Rちゃんが突然工場の中に入っていった」と見たとおりのことを言った。
Rの親はそれを聞いて、Rに「R、しんた君はああ言いよるけど、どうなんね?」と言った
すると、Rは泣き出した。
Rの嘘を悟ったRの母親は、真っ赤な顔をして、Rを引っ張って帰って行った。

その年の11月、区の粘土大会の学校代表に選ばれる。
代表に決まってから、放課後は毎日粘土細工の練習だった。
まあ、練習とは言っても、粘土をいじくるだけだったが。
そのコンクールの2日前のことだった。
学校から帰ってから、近くの駄菓子屋に風船を買いに行った。
その駄菓子屋から家までは、歩いても2分とかからない所にあったが、その日は寒かったので、走って帰った。
家の前まで来た時、ぼくは石につまずいてこけてしまった。
その時、ちょうど眉毛のあたりを溝のふちにぶっつけてしまい、2針を縫う怪我をしてしまった。
そのため、粘土大会には、包帯を巻いての参加になった。
まだ熱が引かず、ボーッとした状態での出場だった。
おまけに、タイトルは『怪獣』。
その頃はまだウルトラQなどをやってなかったので、怪獣といってもイメージがわかない。
仕方なくゴジラのような怪獣を作ったのだが、後ろで見ていた先生が、「角をつけろ」としつこく言う。
意識がボーッとしているので、言うがままに角をつけて、「はい、ちゃんと角をつけました」と大きな声で言って会場を出た。
結果は『優良』だった。
が、これは参加賞みたいなもので、賞品はえんぴつ2本だった。

1966年、本領発揮。
当時ぼくの教室は2階にあった。
休み時間に、友人と二人で、教室の窓からつばを吐いていた。
たまたま下で遊んでいた女子の頭に、そのつばがかかった。
その時の女子の反応がおもしろかったので、さらに他の人間に狙いをつけてつばを吐いていた。
かなりの人が被害に遭ってしまった。
そのクラスの担任が授業中に怒鳴り込んできた。
そのため授業は中断してしまった。
その後、職員室に呼ばれ、学年主任の先生からさんざん叱られる。

2学期、いっしょにつばを吐いた友人と席が隣同士になった。
ぼくたちは仲がよすぎた。
授業中でもおしゃべりを始めると止まらなくなり、先生から何度も注意を受けた。
女の先生だったが、柔道をやっていた。
そのため、注意されるだけではなく、何度も投げられた。
席替えして1週間後、その友人の親から「しんた君といっしょの席だと、勉強しなくなる」とクレームがついた。
そのため、ぼく一人が席替えする羽目になった。
ぼくの新しい席は、教壇の真ん前だった。



2002年12月12日(木) 履歴書 その1

1957年11月、この世に生を受ける。
この日、空は快晴であったという。
しかしその後、誕生日に晴れたことがない。

1961年8月、父死去。
会社での事故で、即死だったという。
しかし、会社側はそれを隠し、救急車で搬送中に死亡と発表。
夜中のこと、家のドアをたたく音がした。
ぼくはまだ3歳だったのだが、何となくそれがよくない知らせだと直感した。
翌朝、病院に駆けつけた。
青白い顔をして横たわった父親の姿がそこにあった。
ぼくは、まだ死というものがわからずに、不思議な気持ちで父親の顔を見ていた。
それからの記憶は、葬式に飛んでいる。
人がたくさん集まるのが嬉しく、お菓子を食べられるのが嬉しく、ビールの泡をもらえるのが嬉しくて、ただただひたすら喜んでいた。
そんなぼくを、親戚が哀れんで見ている写真がある。
おそらく父親がいないということで、暗い人生を送るのではないかと案じていたのだろう。
が、親戚一同の心配するような方向に、ぼくは行かなかった。
ぼくの人生で父のことは、この時点で終わっている。
その後は、普通の悪ガキとして成長する。

1962年、近くのカトリック系の保育園に入園。
2年保育で、年少の時、お遊戯会で『殿様道中』という踊りの主役を務める。
が、踊りが下手で、主役の座を降ろされそうになる。
「しんた君はいつまでたっても踊りがうまくならんねえ」
「踊り、好かんもん」
「じゃあ、殿様の役かえるよ」
「いいよ」
「そんなこと言わないで、ちゃんと踊りの練習しなさい」
ということで、殿様の役はおろされなかった。
しかし、それ以来、踊りやダンスといったものに拒否反応を示すようになる。
後年、ディスコブームの時、何度か新宿歌舞伎町のディスコに行ったことがあるのだが、ぼくは踊りもせず酒ばかり飲んでいた。
友人は「踊ろうよ」と声をかけてきたが、ぼくは「男が、そんなチャラチャラしたことは出来ん」と言って逃げ回っていた。
それも、保育園時代の『殿様道中』がトラウマになっているのだと思う。

1963年8月、登園拒否。
ぼくの通った保育園は、夏休みが8月20日までだった。
「さて、今日からまた保育園だ」と思って外を見ると、小学生が遊んでいるではないか。
どうしたことだろうと尋ねてみると、小学校は8月31日まで夏休みだと言う。
「じゃあ、保育園がおかしいんだ」と思ったぼくは、制服を脱ぎ、その小学生たちといっしょに遊んだ。
結局、そのまま8月31日まで保育園には行かなかった。
園友たちから、「どうして保育園に来んかったんか」とさんざん文句を言われた。

1963年10月、運動会。
運動会が終わって、おみやげをもらった。
かなりいいものをもらえると踏んでいたのだが、もらった物は大箱のグリコ(当時50円)だった。
期待を裏切られたぼくは、大声で「何かこれ。50円のグリコやん」と文句を言った。
が、なぜかそれがギャグと受け止められた。
場内は大爆笑になった。
そばにいた叔母が、顔を赤らめて「これっ!」と言った。
家に帰ってから、「ああいう場所で、ああいうことを言うもんではない」とさんざん文句を言われた。



2002年12月11日(水) またこけた

朝、出勤時のことである。
家を出た後に、忘れ物をしたのに気がついた。
慌てて家の中に飛び込み、靴を脱ごうとした。
が、焦ったためになかなか脱げない。
やっとの思いで片方の足を出し、床に足を置いたその瞬間だった。
足が滑ってこけた。
玄関の横にぼくの部屋があるのだが、そこの敷居で思いっきり左腕を打ち付けた。
肘の下あたりに、痛みが走った。
その痛みで、ぼくはしばらく動けないでいた。

こけた時、かなり大きな音がしたらしく、台所にいた母親が、びっくりしてぼくの様子を見に来た。
「どうしたんね?」
ぼくは痛みをこらえて、「こけた」と言った。
「大きな音がしたんで、脳梗塞で倒れたかと思った」
そう言って、母は台所に戻っていった。

1分ほどぼくはそこに転がっていたが、少し痛みが引いたので起きあがった。
起きあがってまずやったことは、握力の点検だった。
手を握ると少し痛いが、力は入る。
どうやら骨に異常はなさそうだ。
ホッとして、ぼくは忘れ物を手に取り、再び家を出た。

日記にも書いたが、先月の23日にもぼくはこけている。
3週間に2度こけたということになる。
そのどちらも、足を滑らしてこけている。
足腰が弱ってしまったのだろうか。
はたまた、運動神経が衰えたのだろうか。
いまだ重い荷物を持つことが出来るので、足腰のせいではないと思う。
だが、運動神経の低下は充分に考えられる。
確かに、最近は敏捷さも身軽さもなくなっているようだ。
それは高い所から飛び降りる時によくわかる。
高い所から飛び降りる場合、若い頃はつま先から着地をしていたので、ネコのように「スタッ」という感じだった。
しかし、最近は着地の際、足の裏全体を使うので、「ドタッ」という感じである。
しかも、飛び降りた直後、鈍い痛みが走る。
また忍者の訓練でもして、敏捷さや身軽さを養わなければならない。

さて、思いっきり敷居に打ち付けた左腕だが、会社に行ってから袖をまくり上げて見てみると、かなり腫れていた。
それを見ると、また痛みが走ってきた。
そこでぼくは薬局に行き、湿布薬を買い、患部に張り付けた。
何とか痛みは治まったが、腫れの方はひどくなっていく一方で、湿布の上からでも腫れがわかるようになっていった。
しばらくは、この打ち身と戦わなければならないだろう。
いすに座っても肘をつけないというのは、本当に不便である。

ところで、小学生の頃、「たけむらたけこ」という言葉が流行ったことがある。
誰が言い出したのかは知らない。
また、普段はあまり使わなかった。
しかし、誰かがこけるのを見ると、必ず誰か一人がこの言葉を発していた。
中学生になると誰もこの言葉を言わなくなったので、おそらく小学校の同級生で、この言葉を覚えている者はいないだろう。
特に意味はないが、卑猥な言葉である。
今回のぼくの打ち身には、外傷はなかったので、この言葉は無効ということになる。



2002年12月10日(火) ネーミング

今日、信号待ちをしている時に、一つの看板に目が止まった。
『ヘアーライフ・ナ○ノ』
床屋の看板である。
ヘアーサロンというのはよく見かけるけど、ヘアーライフというのは初めて見た。
店主は、髪の毛をいじって生計を立てているという、こじつけでつけたのだと思う。
が、この言葉を見て、店主の思惑通りに捉える人が何人いるだろうか。
ほとんどの人が、単純に『髪の毛生活』と捉えるのではないだろうか。
意地の悪い人なら『毛生活』や『ヘアー生活』と捉えるかもしれない。
卑猥である。
おそらく、英語で床屋を示す時、こういう言葉は使わないだろう。
いくら語呂がいい(大してよくないけど)からと言って、変な英語を使わないでほしいものだ。
『ナ○ノ理髪店』が気に入らないのなら、『バーバー・ナ○ノ』もしくは『トコヤ・ナ○ノ』でいいじゃないか。

マンションでもよくこういうのを見かける。
『サンライフ・マンション』『サンシティ・マンション』『サンパーク・マンション』『サンハイツ・マンション』『サンライズ・マンション』『サンスカイ・マンション』等々。
どれも太陽がついており、明るく健康的で爽やかなイメージを出そうとしているのはよくわかる。
が、これを日本語に訳してみると何かしっくりこない。
『太陽生活マンション』『太陽都市マンション』『太陽公園マンション』『太陽住宅マンション』『日の出マンション』『太陽空マンション』、意地悪く考えると、このマンションには夜はないのか、となる。
マンションというと、ぼくは、住宅ローン、共稼ぎ、夜が遅いなどのイメージを持っている。
このイメージからすると、どこに太陽と共に生活する時間があるのか、ということになる。
それならいっそのこと、わざとらしい太陽というのは避け、疲れを癒すようなイメージを盛り込んだ名前にした方がいいのではないだろうか。
『安眠マンション』『ナイトライフ・マンション』『ビタミンマンション』などとつけたほうが、イメージもはっきりするし、より現実的なものとなる。
「仕事は終わった。さあ、くつろぎの場『安眠マンション』に帰ろうよ」
「まだ一日は終わってない!楽しい夜の生活は、『ナイトライフマンション』から」
「疲労回復は、生活空間から始まる。『ビタミンマンション』」
などといった、現代人の心に訴えるようなコピーで売り出せるじゃないか。

最近ネーミングで多いのが、外国語のようではあるが、実際にはそういう言葉はなく、ある言葉の頭文字をとったものだ。
例えば、『FOMA』が「Freedom Of Mobile multimedia Access」の頭文字を取って付けたというようなものである。
ある店がオープンする時、テレビのレポーターがそこの店長に「この店の名前はどういう意味があるのですか?」と聞く。
するとその店長は、待ってましたとばかりに「・・・、・・・、・・・の頭文字からとったものです」としたり顔で言っている。
そういうネーミングが流行っているとはいえ、ぼくはそういう店を好きになれない。
そんな小難しい名前を付けるより、もっと誰にでもわかるような名前を付けたらいいじゃないか。

伝統ある会社が、時代に合わないと言って、社名を変更することがある。
例えば、うちの会社がそうだ。
今ぼくが勤めている会社は、過去2度名前を変えている。
つまり、地元では3つの名前で通るのだ。
新しい社名になって5,6年経つのだが、新しい社名でお客さんに電話などしても、二人の一人の割で「どこですか?」と聞き返される。
お年寄りなんかは、社名を聞いて、いかがわしい電話だと思い、切ってしまう人もいる。
で、もう一度電話をするのだが、その時は前の社(店)名で言うことにしている。
それでわかってくれる人が多い。
しかし、中にはそれでもわからない人もいる。
その時は、一番最初の社(店)名で言うと、やっとわかってくれる。
伝統のある会社なのだから、いくら時代のニーズに応えた名前にしたと言っても、そう簡単に名前を変えてもらいたくものである。
ぼくは、いまだに一番最初の名前が一番わかりやすくていいと思っている。

まあ、確かに『ケンウッド』のように社名を変更して成功した例もある。
が、あれはブランド名のほうが、当時の社名『トリオ』よりも有名だったからである。

いずれにしても、ネーミングというのは難しいものだ。
何の会社か、何の店かわからないような社(店)名なら、そういう名前はつけないほうが無難だろう。
たしかに最初に書いた『ヘアーライフ・ナ○ノ』は、わかりやすいと言えばわかりやすい名前である。
しかし、毛生活じゃねえ。



2002年12月09日(月) 寒い

朝起きてテレビをつけると、東京の風景が映っていた。
雪だ。
そういえば、昨日のニュースで、今日は寒波に覆われると言っていた。
もしかしたらと思い、外を見てみたが、幸いこちらの方は雪は降っておらず、晴れ間が見えていた。
しかし、外に出てみると、さすがに寒かった。
最近ぼくは、寒さを感じなくなったんじゃないかと思うほど、寒さに対して無頓着になっていたのだが、今日ばかりは「寒い」というのを実感させられた。

ところで、昼間のワイドショーの中で、「先ほど、ネパールの方がスタジオを見学していたんですが、『どうして東京の人は、これっぽちの雪で大騒ぎするんですか』と言ってましたよ」と言って笑っていた。
別に、ネパールの人に限ったことではなく、北海道や東北の人も、そう思っているに違いない。

関東地区の積雪は多いところで10センチ程度だったらしいが、そのせいで交通機関もマヒしていたという。
たしかに北国の人は、そのくらいの積雪でパニックに陥っている姿を見るとおかしく思うだろう。
しかし、もっとおかしな地域もある。
積雪ではなく、雪がちらついた程度で渋滞が起きる地域があるのだ。
他でもない、北九州だ。
北九州の都市高速は山沿いにあるため、平野部で雪がちらつくと、「凍結の恐れあり」で早々と通行禁止にしてしまう。
そのために、一般道は大パニックになる。

昭和55年の12月末のこと。
当時ぼくは、東芝の派遣社員として長崎屋に入っていた。
その日、東芝の仕事納めということで、午前中、小倉にある東芝の営業所に行ったのだが、帰りに雪が降り出した。
『ああ、降り出したか。嫌やなあ』と思っていると、所長が「しんた君、黒崎まで国鉄で帰るんかね」と言ってきた。
「はい」
「じゃあ、送ってやるよ。ぼくも今から黒崎に行かんとならんから」
ということで、ぼくは所長の車で長崎屋まで送ってもらうことになった。
ところが、普段は車だと30分もかからずに黒崎まで着くのだが、その日に限って車がなかなか進まない。
「流れが悪いなあ」「事故かなあ」などと言っているところに、ラジオの交通情報が流れてきた。
『・・・この雪のせいで、北九州道路は現在利用できなくなっています。一般道にお回りください』
「え!? このくらいの雪で高速がストップか」と所長がブツブツ言っていた。

渋滞はひどいものだった。
車に乗ってからもう1時間以上たっているのだが、まだ営業所から10キロも離れてない場所にいた。
「困ったねえ。黒崎が終わってから小倉を回ろうと思っていたのに。しんた君も忙しいんやろ?」
「はい」
「じゃあ、ここで別れよう」
「え?」
「もう、黒崎には行かんことにした。しんた君は電車で帰り。そっちのほうが早いよ」
「ここからですか?」
電車と言っても、国鉄ではなく、当時まだ走っていた西鉄の路面電車である。
いくら早く着くと行っても、同じ道路の上を走っていくのだから、それほど大差はない。
そのことを所長に言ったが、所長は「でも、もう行かんと決めたけねえ」と言う。
結局ぼくはそこで放り出され、雪のちらつく中、渋滞で遅れている電車を、吹きさらしの電停でずっと待っていた。

この時期になると、いつもあの時のことを思い出す。
あれから20年以上経つが、相変わらず雪への対策が出来ていないのが現状である。
たしかに年に何度もないことではあるが、その時に限って大切な用事があったりする。
この冬はそういうことが何度あるのだろう。
それを考えると、また気分が重くなる。



2002年12月08日(日) 12月8日

12月8日、またこの日がやってきたか。
しかし、真珠湾攻撃も、ジョン・レノンの命日も、もう書き飽きてしまった。
新聞ではないのだから、この日に関しての感想は、今年は書かないことにする。
・・とはいうものの、ネタに困っている昨今、こういう意味のある日を題材にしない手はない。
ということで、今年も12月8日を書くことにする。

実は、12月8日はぼくにとって重要な日なのだ。
この日は、両親の結婚記念日である。
ぼくは、その日のちょうど11ヶ月後に生まれた。
体重3700グラム、当時としては大きな子だった。
それから、45年と1ヶ月が過ぎた。
以上。

ところで、ぼくは学生時代から、時々ではあるが、大学ノートに日記らしきものをつけている。
内容は、ほとんどが詩である
が、中には普通の日記文もある。
毎日書いてはいないが、ちょっとずつでも30年近くやっていると、自ずとそのノートの数も増えてくる。
もう、その数は20冊を超えている。
さっきからずっと今日の日記を書くために、そのノート群の中から、12月8日の日付が打ってある日記を探しているのだが、見あたらないのだ。
前後の日は、いくつか残っている。
例えば、1976年のノートには、「12月7日/今日は、一日三国志を読んでいた」、「12月9日/今日も三国志を読んだ」と書いてある。
おそらく、12月8日も三国志を読んだのだろうが、その日のことは書いてない。
1993年に、パールハーバーのことを書いた詩を見つけた。
が、書いたのは12月8日ではなく、12月9日だ。

「全然ないやん」と諦めかけていたら、あった、あった。
ちゃんとあるじゃないか、12月8日の日記。
それもつい最近、2000年のノートの中で見つけた。

〈おかしな話

昼間、顔なじみのお客さんが来た。
「最近テレビの映りが悪くてねぇ。時々画面がバーッと乱れるんよね」
症状を聞くと、どうも電波のせいらしい。
「それはテレビじゃないですよ。電波の関係だと思うんやけど」
「やっぱりそう思うやろ? で、管理人に掛け合ったんやけど、そいつ変なやつでねえ、『ソ連が妨害電波を出しよるんだ』と真顔で言うんよ」
ぼくは思わず笑ってしまった。
ソ連が崩壊して何年経つんだ。
「ソ連が妨害電波・・・。」
冷戦時代によく言ってたよなぁ。
なんとなく懐かしかった。〉

そうそう、こんなことがあった。
あれは一昨年の12月8日のことだったのか。

そういえば、今日このお客さんが久しぶりに来店した。
一昨年に来ているから、ちょうど2年ぶりの登場になる。
今日もトンチンカンなことを言っていた。
その人は日替わり商品を買いに来たのだが、商品は午前中に全部売れてしまっていた。
「もう、ないですか?」
「すいません。もう終わりです」
「でも、本当はあるんでしょ?」
「前の売り出し分の残りならありますけど」
「じゃあ、それ下さい」
ぼくは、倉庫からその商品を持ってきた。
「これですけど」
「それ、物はいいんですか?」
「今日の売り出し分よりはいいですよ」
「今日のはないんですか?」
「今日のはないんです」
「じゃあ、それもらいます」
「ありがとうございます」
「でも、本当はあるんでしょ?」
「・・・」
こういうやりとりを、数分間やっていた。
結局、そのお客さんは、前の残りを買っていったが、相変わらず変な人だった。
おそらく、またしばらく来ないだろう。
もし、来年の12月8日に来たら、また日記に書くことにしよう。
以上。



2002年12月07日(土) 転勤

ぼくは前の会社で11年勤めていた。
その間、店内の異動などはあったものの、転勤は一度もなかった。
その会社は全国展開していたため、どこに転勤になるのかわからなかった。
中四国や関東、北海道や東北もあり得るのだ。。
ぼくは、親の面倒を見なければならない。
そのため、もし転勤の辞令を受けたら辞めるつもりでいた。
が、以前日記にも書いたような諸事情があって、辞令を一度ももらわずに辞めてしまった。
そのままいたら、確実に今の1、5倍の年収はあっただろう。
しかし、人生金ではない。
少なくともぼくは、年収に命をかける人間ではない。
もし、そのまま前の会社に残っていたとしたら、今のようなのんびりとした生活は出来なかったにちがいない。
朝は家を早く出て夜は遅く家に帰るような生活を強いられるため、こういうホームページを作る暇もなかっただろう。
というより、パソコンに興味を持つことさえなかったかもしれない。
そういうこともあり、今まで辞めたことについての後悔は一度もしたことはない。

さて、今の会社に移ってからは3回転勤している。
10年前、入社した時は本社の横にある店舗にいた。
そこで1年勤めた後、今勤めている店に移った。
ところが3ヶ月後に、また本社の横にある店舗に戻ることになった。
それから、その店で5年勤め、4年前にまた今の店に移った。
行ったり来たりである。
今働いている会社は、北九州市内でしか展開してないので、転勤といってもたかがしれている。
前の店と今の店は所在している区が違うものの、通勤時間は5分しか変わらない。
とは言っても、転勤はやはり嫌いである。
ぼくは、環境が変わると、慣れるまでに時間のかかる性質の人間だからだ。

会社を変わって3年ほどたったある日のこと。
売場の電話が鳴ったので、ぼくは受話器を取り、何気なく「はい、○○です」と言った。
ところが、相手が「ええ!?○○さんですか?」」と言うのだ。
『あ?』と思って、よくよく考えてみた。
なんとぼくは、前の会社の名前を名乗っていたのだった。
あの時は慌てた。
幸いその電話は、取引先の人からだったので、笑い話ですんだのだが、一般のお客さんだったら、そうはいかないだろう。
電話番号を間違えたと思い、切ってしまうかもしれない。
電話をかけ直したら、また同じ声の人間がする。
今度は「はい、××です」と言っている。
こちらはただ言い間違えただけのことなのだが、お客さんとしては、からかわれていると思い憤慨するだろう。
もし順応性のある人なら、そんな失敗はしないはずだ。
会社はそういう順応性のある人をどんどん転勤させてやればいいのだ。
ぼくのような、頭がさび付いている人間を転勤させると、ろくなことはない。

まあ、市内の転勤は、転勤のうちに入らないのかもしれない。
やはり、転勤と言えば、関東から北海道、関西から九州、といった地方から地方へといったパターンの異動を思い浮かべる。
今日、あるお客さんが「今度、岩手から転勤になったんですが」と言って、商品をいろいろ買っていった。
会社も会社である。
何もこの時期に転勤させなくてもよさそうなものだ。
その人が帰った後、「あの人、ノーと言えなかったのかなあ」とぼくは思っていた。
しかし、もし「ノー」と言ったら、会社をクビになり、家族を路頭に迷わせることはわかりきっている。
ぼくが辞めたバブル期でも転職は結構難しかったのだから、今はそれどころではないだろう。
だから、そう簡単に会社を辞めることも出来ない。
結局彼は妥協した口だろう。
それまでの環境を捨て、家族と離れ、最悪の年末だろうなあ。



2002年12月06日(金) ビートルズのことなど

 <よくこんなことを考えている>

例えば、今ここにタイムマシンがあって、昭和35年に行ったとする。
そこで路上ライブをして、ビートルズの歌を歌ったとしたら、果たしてウケるだろうか?
おそらくウケないだろう。
しかし、『レボリューションNo.9』は、やってみる価値がある。
もしかしたら、60年安保に一石を投じていたかもしれない。
いまだに、あの歌(?)の持つ意味がわからんけど。

例えば、ビートルズが存在しなかったとして、ある人が『イエスタディ』を作ったとする。
その曲を、ヤマハが以前やっていたポピュラーコンテストに出した場合、果たして優勝するだろうか?
ポプコン音楽は偏っていたから、こういう音楽はまず受からないと言っていいだろう。
悪くすれば、予選落ちである。
時々ラジオでアラジンの歌がかかっているが、いったいヤマハはどういう基準で選んでいたのか、今でも謎である。

例えば、ジョン・レノンがビートルズの一員でなかったとしたら、小野洋子はジョンと結婚しただろうか?
ものの本などを読むと、どうもヨーコのほうから接近していた、というようなことを書いてある。
ジョンがソロになった頃の、ヨーコのあのわざとらしいノリを見れば、何となく納得出来る。
高校の頃、ヨーコのパンツ投げが話題になったことがあるが、「ヨーコのパンツなんかいらんわい」と思っていた。
今もいらん。

例えば、ビートルズのマネージャーがブライアン・エプスタインではなく団野村だったら、ビートルズはあそこまで偉大になれただろうか?
おそらくなれなかっただろう。
いいとこ、オールディズに歌が2,3曲入るくらいのバンド止まりだっただろう。
もし、松野行秀がマネージャーだったら、歌よりも訴訟で有名になっていただろう。

例えば、ビートルズが解散せず、ベンチャーズのようにいまだ活動をやっているとしたら、日本に何回来ているだろうか?
その際、やはり、加山雄三の友だちとして来るのだろうか?
まさか、加山雄三のバックで演奏、なんてことはないだろう。
『青い星屑』のバックなんかやらされたら、たまったもんじゃないだろう。

もし、ビートルズがアジア公演の時に北朝鮮に行っていたとしたら、無事に北朝鮮から脱出出来ただろうか?
ところで、金正日は、当時ビートルズを知っていたのだろうか?
案外、お忍びで日本公演を見に来ていたのかもしれない。
その時、「ああ、東京にディズニーランドがあったらなあ」とか、「引田天功に会いたい」などとは思ってないだろう。

『オブラディ・オブラダ』を、日本でカーナビーツのアイ高野が、声を張り上げて「太郎が花子をみそめ、好きになったとさ。太郎は花子に夢中、すぐに結婚したいとさ。オブラディ・オブラダ、魔法の世界は回る…♪」と歌っていた。
ぼくたちは「英語だとかっこいいのに、訳すとこうなるのか」と、当時は思っていた。
それを知ったら、ポールはショックを受けるだろう。
それよりも、金沢明子が歌っていた『イエロー・サブマリン音頭』の「…いえろさぶまりん、潜水艦!」ほうがショックを受けるかもしれない。
ぼくはショックだった。


 <ビートルズ世代>

以前、ぼくより上の世代の人から、「お前とはビートルズの話をしたくない。だって、お前はビートルズ世代じゃないじゃないか。おれたちはリアルタイムでビートルズを聴いたんだ」と言われたことがある。
その時ぼくは、「何を基準に、リアルタイムと言っているんだ」と憤慨したものだ。
ビートルズが日本に来たのは小学校3年生の時だった。
『ヘイ・ジュード』のレコードは4年の時リアルタイムに買っている。
ぼくが中学1年になるまで、ビートルズは存在していた。
こういうのはリアルタイムとは言わないのだろうか?
その人は、ぼくと会うたびに同じことを言っていた。
よっぽど、ビートルズ世代であるのが嬉しいのだろう。
「あんたは、ただの年寄りじゃないか」
ぼくは、その人を見るたびに、そう思っていた。



2002年12月05日(木) 12月の憂鬱

ここ何日か、仕事から帰って、すぐに寝てしまう生活を繰り返している。
そのため、日記の更新が朝になったりする。
毎日毎日、とにかく眠たい。

別に肉体的に疲れているわけではない。
12月の声に疲れ、クレームに疲れ、酔っぱらいのおいちゃんで疲れ。
そう、精神的な疲労がかなりの部分を占めているわけだ。

前の会社にいた時は、12月になると決まって「あと一ヶ月の辛抱だ」と言っていた。
ぼくは、その言葉を聞くたびに「何が1ヶ月の辛抱だ」と思っていた。
1月になれば1月になったで、またきつい思いをしなければならないのだ。

そういえば、来年は店のリニューアルをやると言っていた。
それを考えると、また気が重くなる。
あれだけの商品を動かすとなると、かなりの労力を要する。
「ここはこうしよう」「いや、こうしたほうがいい」、などという人の思惑も絡み合う。
また、作業の段取りの悪さも目につく。

これも前の会社での話だが、その店の初めてのリニューアルの時、本社から部長以下何人もの人が応援に来ていた。
彼らは段取りが悪かった。
一つ什器を動かすたびに「いや、それはおかしい」などと言って、なかなか作業が前に進まない。
しかも、一つの什器の置き場が決まったら、もう商品を並べ出すのだ。
それを見て頭に来たぼくは、「そんなこと後でいいでしょうが。先に什器を並べましょうや」と言った。
部長は、「何を言うか」という顔をしてこちらを睨んだが、ぼくの形相が変わっていたので、何も言わずにぼくの意見に従った。
こういうことがあるから、リニューアルというのは嫌なのだ。

リニューアルをしたからといって、決して売り上げがよくなるわけではない。
リニューアル前に在庫処分セール、リニューアル後にリニューアルオープンセールをやるわけだが、その時の売り上げは確かにいい。
しかし、それは売り上げの前倒しに過ぎない。
長い目で見たら、何も変わってないのだ。
本社の人間は、いつも机上で物事を考える。
イメージだけが先走り、現場の実情など何もわかってないのだ。
リニューアルなど馬鹿なことを考える前に、もっと頻繁に現場に足を運んで、お客さんお要望や、商品の動向をもっと研究すべきである。

それにしても、いつもにも増して憂鬱な12月である。
こういう状態が、あと一ヶ月も続くのかと思うと、気が遠くなる。
こうなれば、原因の一つである酔っぱらいのおいちゃんを、完膚なまでに叩きのめして、二度と店に出入りさせないようにするか。

ぼくがこういう精神状態の時に、昨日も寝小便しやがった。
ぼくが「また、寝小便しかぶってから」と言うと、おいちゃんは「わしはしてない」と言い張る。
しかし、ズボンはびしょ濡れだった。
ぼくは、ぞうきんを持って後始末をしながら、おいちゃんに「もう帰れ」と言った。
にもかかわらず、ズボンが濡れたまま他のいすに座り直している。
「そこに座ったら、また拭かんといけんやろ」
「ああ、そうでしたな。すいません」
そう言って、おいちゃんは他のいすに移った。
あーあ、憂鬱である。

※お知らせ
引っ越し記念というわけでもないのですが、「お知らせコーナー」というのを設置しました。
何でもお知らせするつもりです。



2002年12月04日(水) タイトルは何にしようか・・

「サンリブ、ゴーゴー。マルショク、ゴーゴー。・・・」というCMソングが耳について離れない。
サンリブ・マルショクとは、福岡県を中心に展開しているスーパーマーケットである。
まあ、ぼくの働いている会社とはライバルになるので、あまりいいことは書きたくないが、その会社の特徴は、店舗展開のうまさや、どでかい店作りなどがあげられるが、何よりも特記すべきはCMのうまさにある。
画に関しては専門外なので、何と表現していいのかわからないが、とにかく印象に残る画を使ったアニメ、耳に残るCMソングなど、これが地方のCMか、と思わせるくらい優秀なCMなのだ。
以前はサンリブのサイトで流していたのだが、今日サイトを覗いてみると、もうCMは外していた。
お見せできないのが残念である。

そのサンリブ・マルショクが、創業55周年を迎え、その記念の売り出しのCMが先の「サンリブ、ゴーゴー。マルショク、ゴーゴー。・・・」である。
いつものようにCMはアニメ仕様で、今回は変なキャラクターがギターを弾きながら、気の抜けた声で「サンリブ、ゴーゴー。マルショク、ゴーゴー。・・・」と歌っている。
前回までのような、芸術的ともいえるような手法はとってないが、相変わらず印象深いCMである。

さて、そのサンリブで、ぼくの高校時代の同級生が働いている。
大学を卒業してからすぐにサンリブに入社しているから、もう結構いい地位についているはずだ。
何年か前に、彼を訪ねて、K市にあるサンリブに行ったことがある。
その時彼は、肌着の担当をしていた。
そこでは、女性用の下着が売っていた。
ブラジャー、パンティ、ガードル、ボディスーツなど、彼がいなかったらその売場の中に入るのを躊躇してしまうような商品が、数多く展示してあった。
そこで彼はパートさんに、「パンスト何足入ってきた?」などと平気で話している。
ぼくが「お前、よくこんな売場が務まるのう」と言うと、彼は「仕事と思って割り切っとる」と言った。
おそらくぼくなら、割り切れないだろう。
長崎屋にいた頃、他の階の人とも仲良くしていた関係で、よく他の階をうろついていたが、さすがに婦人服売場や、肌着売場には立ち寄ったことがなかった。
男としての照れがあるのだ。
家電販売という、ある面男の職種を選んでおいて本当によかった、と思っているしだいである。

前の会社にいた時、女子社員が辞めるたびに、「これからは工業高校の精神で行く」などと言っていた。
仮にそこが女性の下着専門店だったら、工業高校の精神では臨めない。
そういう精神で臨むと、大変なことになってしまう。

東京にいた頃、よく新宿の丸井に行っていたが、あの店は地下街からの入口は地下2階だったのだが、そこは女性の下着売場だった。
当時はボディスーツがブーム(?)だったので、売場にはたくさんのボディスーツが飾ってあった。
友人と行く時は冗談を飛ばしながら入っていたのだが、女の子と行く時は赤面していたものだった。
もちろん一人の時は1階から入っていた。
そういう人間に下着の販売など務まるはずがない。
本当に家電販売を選んでよかったと思っている。

サンリブで勤めている友人は、相変わらず「ブラジャーもう少し安く入らんかなあ」「ガードルが硬いと言うクレームが多いけど、何とかしてくれ」などとやっていることだろう。
ノリのいい男だったので、もしかしたら店の中で、「サンリブ、ゴーゴー。マルショク、ゴーゴー。・・・」とやっているのかもしれない。



2002年12月03日(火) 雨の休日ほど嫌なものはない

昼から雨になった。
休みの日に雨が降ると、実につまらんですな。
何か損をしたような気がする。
晴れた日は、空をの色を見るだけでも心癒されるのだが、雨の日は逆に重苦しい気分になる。

昼から灯油を買いに行った。
灯油を家に置いてから、ユニクロにシャツでも買いに行こうと思っていたのだが、それはキャンセルした。
吉田拓郎の趣味は雨の日のドライブとダイエーでのお買い物らしいが、ぼくは雨の日のドライブは嫌いである。
ぼくの趣味は、晴れた日のドライブとユニクロでのお買い物なんだから。
雨の日は、やはり寝るに限る。

ところが、寝てばかりもいられなかった。
1時55分から『ザ・ワイド』を見なくてはならない。
以前ほど興味はなくなったが、やはり北朝鮮のことが気にかかる。
特に最近は、頻繁に北朝鮮国内の映像を流してくれるのがうれしい。
それが終わったら寝ようと思っていたのだが、4時から『サラリーマン金太郎』、5時から『ショムニ』の再放送をやっているではないか。
寝られるはずがないじゃないか。
それが終わると、またニュースを見なければならない。
「もういいや、今日はテレビ三昧だ」とばかり、ずっとテレビを見続けた。
7時から『懐かしTV番組大全集』、8時から『怪談百物語』を見、9時から風呂に入ったので、いったんテレビのそばを離れたが、10時から再び『アルジャーノンに花束を』を見た。
結局、嫌な雨の休日を、テレビを見てすごしたことになる。

久しぶりにテレビばかり見ていたので、目が疲れた。
ところで何年ぶりだろうか、こんなにテレビを見たのは。

20才までは、テレビがなければ生きていけないと思っていたものだ。
しかし、東京に出てから、ぼくはテレビがなくても生きていけることがわかった。
テレビをまったく見なかったのだ。
というより、下宿にテレビを持ち込まなかったので、見られなかったのだ。
2年間テレビのない生活をした結果、こちらに帰ってからもテレビを見る習慣がなくなった。

再びテレビを見だしたのは、ビデオデッキを手に入れてからだった。
最初は物珍しくて、ちょっと気に入った番組は、すべて録画して見ていたが、1年も経たないうちに、そういう生活に飽きてきて、録画する番組は、NHKの朝ドラと『おれたちひょうきん族』だけになった。
しかし、それも仕事の都合で見る時間がなくなっていった。
そのうち、録画することすら面倒になっていった。

再びテレビを見ない生活を送っていたぼくが、また見るようになったのは、スカパー!を手に入れてからだった。
そのおかげで、70年代や80年代に見逃した番組をかなり見ることが出来た。
ただ、当時流行っていたトレンディドラマなどは一切見なかったために、周りの話題にはついていけなかった。
周りが『今度の月9は・・』などと言って騒いでいる時に、ぼくは『ありがとう』の最終回のことを考えていた。

スカパー!を手に入れて変わったことといえば、洋画を見だしたことである。
一時、スターチャンネルを契約していたので、かなりの洋画を見た。
ビデオに録りだめして、休みの日に見る、という初めてビデオを手に入れた頃のようなことをやっていた。
結局、それも長続きしなかった。
あまりにたくさん録りだめしたので、どのテープにどの映画が入っているかがわからなくなったのだ。
とりあえず片っ端から見ていったのだが、だんだんそれも飽きてきた。
結局馬鹿らしくなり、半年ほどして、スターチャンネルを解約した。
あれだけたくさんの洋画を見たのに、内容を覚えているのは、『陽の当たる教室』と『ウェールズの山』だけである。

おそらく、今日くらいテレビを見たのは、あの洋画地獄以来のことだろう。
とにかく、今日はテレビをたくさん見たので、目が疲れましたわい。
それもこれも、雨が降るからいけないんだ。
いくらテレビを見たって、見終わればむなしさが残るだけだ。
次の休みにはユニクロに行きたいから、ぜひとも晴れてほしいものである。
テルテル坊主でも作るか。



2002年12月02日(月) 子供の頃に欲しかったもの

『鉄人28号のリモコン』
鉄人28号が流行った頃、靴の箱などにえんぴつや割り箸を2本刺して、リモコンを作っていた。
鉄人はミカン箱で作った。
作った時は、絶対に動くと思っていたが、ただの箱が動くはずがない。
しかも段ボールである。
やはり鉄人は鉄で作らなければならないと思い、道ばたに落ちていた鉄くずやブリキやトタンを拾い集めた。
しかし、それを加工するすべを知らない。
結局、「こんなの集めて何するんね」と母親に叱られ、泣く泣く捨てた覚えがある。

『8マンのたばこ』
8マンはたばこを吸って、エネルギーを補給していた。
その頃、ぼくは痩せていたので、ぜひともこのたばこを吸いたいと思っていた。
もしかしたら、じいちゃんのたばこがそれなのかもしれないと思い、一口吸ってみた。
地獄を見た。
その後、高校生になるまで、たばこを見るのも嫌だった。

『宇宙エースのガム』
このガムも、8マンのたばこと同じで、エネルギーを補給するものだった。
このガムで力を得た宇宙エースは、シルバーリングを出して、悪者をやっつけていく。
小さい頃は、誰でも正義の味方である。
こういう特殊なエネルギー源で、地球の悪者をやっつけたいと思っていたものだった。

『風のフジ丸の巻物』
風魔十法斉と奪い合いを繰り返した、あの『竜煙の書』である。
その巻物を手に入れると、天下が取れるのだ。
その当時、ぼくは天下がどんなものか知らなかったが、きっとすばらしいものだと思っていた。
しかし、第一部の最終回で、『竜煙の書』には毒ガスの作り方が書いてあるとわかり、興ざめしてしまった。
今でもそうだが、ぼくは寒がりで、冬になると風が入らないように部屋を閉め切り、火鉢のそばから離れなかった。
炭や練炭から発する一酸化炭素で、頭が痛くなったり、気分が悪くなったりしていた。
毒ガスといえば、その練炭や炭のもっと強力なヤツという認識があったので、「そんなものを作る巻物なんかいらん」という思ったのである。

『遊星少年パピイのペンダント』
ペンダントを持って、「ピー、パピイ」と言うと、パピイは変身していた。
変身願望は、小さな頃から持っているものである。
そういう便利なものがあるなら、ぜひほしいと思っていた。
母親のコンパクトにひもを付け、ペンダント代わりにしたこともある。
が、変身などするわけがなかった。

『ビッグXのペンシル』
主人公の昭少年が持っていたペンシルがほしかった。。
そのペンシルは注射器で、その中にはビッグXという薬が入っていた。
それを注射すると、鋼鉄の体になり、体が大きくなるのだ。
天性の変身願望男が、これを欲したのは当然と言えるだろう。

『スーパージェッターのタイムストッパー』
いまだに欲しい一品である。
腕時計型のタイムストッパーは、30秒時間を止めることが出来る。
野球をやっている時や運動会のリレーの時に、何度このタイムストッパーがあったらと思ったことだろう。
また、このタイムストッパーは、音声認識リモコンでもあった。
アンテナを立て、「流星号、応答せよ・・・」と言うと流星号は直ちに出動し、ジェッターのもとにやってくる。。
余談だが、ぼくは愛車に『流星号』という名前を付けている。
もしタイムストッパーがあったら、結構離れた位置にある駐車場まで歩かなくてすむのに。

『パーマンのバッジ』
通信機でもあり、酸素ボンベでもある、このバッジが欲しかった。
もちろん空を飛べるマントもほしかった。
その当時、ぼくの前にスーパーマンが現れてパーマングッズをくれないかなあ、といつも思っていた。
下校時、学校の近くで怪しいものを売っていたおじさんが、スーパーマンじゃないかと疑ったこともある。
ぼくは、何も言わずに、じっとそのおじさんを見ていたので、きっと変に思ったことだろう。

『サイボーグ009の加速スイッチ』
これは今でも欲しい。
ぼくはどちらかというとノロマな人間なので、人より速く動くことの出来る、009の奥歯の加速スイッチのようなものにあこがれを感じていた。
もしかしたら、奥歯の横に加速スイッチが隠されているのかもしれない、と思いいつも舌で奥歯付近をまさぐっていた。
そのため、変な癖がついてしまい、今に至っている。
もちろん、「サイボーグになりたい」と思ったのは言うまでもない。
しかし、島村ジョーは交通事故でサイボーグになったので、「そういう痛い思いをするのは嫌だ」とも思っていた。
とにかく、加速スイッチがあったら、今日の日記も翌日更新ということにならなかったはずである。



2002年12月01日(日) 夕方の風景

いよいよ12月である。
今日、笑点の大喜利が始まる前に、外にタバコを吸いに行った。
あたりは薄暗くなっており、西の空にわずかながら残っていた夕焼けに、季節を感じた。
あと3週間もすれば、その時間帯は確実に夜になるだろう。

そういえば、10年ほど前に、会津喜多方に旅行に行ったことがある。
そこで2泊したのだが、2日目に山形県との県境にある温泉に泊まった。
季節は今頃で、その日は日曜日だった。
旅館に着いた時、ちょうど笑点をやっていたのだが、あたりは夜。
というよりも、もはや深夜だった。
裸電球の街灯が、初冬の寂しさを奏でていた。

その旅行では、喜多方に行く前に、東京で何泊かしている。
その時、東京の夜は北九州より少し早いな、くらいの感覚しかなかった。
しかし、さすがは東北である。
時差というものを、まじまじと感じたものだった。


東京に出る以前、つまり10代までは、午後4時が夕方というのがピンとこなかった。
北九州で午後4時といえば、まだ昼間である。
夏場などは、5時台もほとんど昼間状態である。
東京に出てみて、最初に思ったことは、『なるほど午後4時は夕方である』だった。
北九州の午後5時の風景を、午後4時に見たのだ。
空には、もう夕焼けが出ている。
カラスの群れが、夕方を演出する。
街灯が点き始める。
道行く車は、スモールランプを点灯している。
街が一気にあわただしくなる。
夕方のにおいが立ちこめる。

東京の夕方の風景で、一番好きだったのは中野だった。
駅前の雰囲気に何か郷愁めいたものを感じていた。

  「街の灯」

 ほんのひとときの黄昏が
 今日のため息をつく
 病み疲れたカラスたちが
 今日も帰って行く
  昔描いた空は消えはてて
  さて帰る家はあったんだろうか
 琥珀色の時の中で
 街の灯は浮かぶ

 明るい日差しの中でも
 笑わないカラスが
 すすけた街の灯を
 見つめては笑う
  昔描いた空は消えはてて
  さて淋しくはないんだろうか
 誰も見てない切なさに
 街の灯は浮かぶ

この詩は中野の風景である。
高田馬場に住んでいたので、中野は近かった。
そのため、中野にはよく行っていた。
別に用事はなかった。
ただ、夕方を満喫したかっただけなのだ。


夕焼けで思い出すのが、長崎平戸の生月島である。
何でもそこは、日本で一番日の入りの遅い所らしい。
行ったのは5月だったから、かなり遅い時間まで日の入りを待った。
西の海に沈む夕日が、海原を照らし、一筋の光の道を作っていた。
北九州の海は北に位置しているため、海に日が沈む風景を見ることは出来ない。
海に日が沈むのを見たのは、おそらくこれが初めてだったと思う。

生月島を出たのは、8時をすぎていた。
日帰りだったので、島を出てから寄り道をせずに北九州に向かったのだが、ぼくの住む北九州は、九州の東の端にあり、平戸は西の端にある。
そのため、車だとかなり時間がかかる。。
おかげで、家に帰り着いたのは、翌日になっていた。


そうそう、夕日で思い出したことがある。
ぼくのエッセイに『トキコさんは48歳』というのがあるが、そのトキコさんの話である。
前に、日帰りで鹿児島まで、仲間とドライブをしたことがある。
その時、トキコさんもいっしょだった。
帰りの車の中。
午後7時をすぎていただろうか。
突然、トキコさんが「まあ、きれいな夕日」と言った。
地図を見てもらったらわかるが、鹿児島から福岡に戻るには北上しなければならない。
当然、右が東で、左が西である。
その言葉につられて、車に乗っていた全員が左側を見た。
真っ暗である。
「どこにも、夕日なんか出てないやん」と言うと、トキコさんは「ちゃんと、出とるやん」と言う。
「どこに?」
「ほらそこ」
と言って、トキコさんは右側を指さした。
月だった。
トキコさんは、今でもこの時のことを言われている。


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