ぼくはあまり人の影響は受けないのだが、本の影響は受けやすい。 したがって、その時その時に読んでいる本がわかれば、今のぼくの心境がわかるはずである。
小学2年から3年にかけて、ぼくは『おそ松くん』が好きだった。 その影響か、ぼくはその当時、いたずらばかりやっていた。 やることなすこと、すべてが赤塚ギャグだったと言ってもいい。
小学6年の頃、『いじわるばあさん』や野末陳平のナンセンス本を読んでいた。 そのせいで、ぼくはいじわる大好き人間になった。
中学1年の頃、『姿三四郎』を読んだのだ。 その影響で柔道を始めた。 柔道着を着ているだけで、気分は姿三四郎だった。
中学2年の頃、『葉隠』を読んだ。 「武士道とは死ぬことと見つけたり」のくだりを読んで、いつか切腹してやろうと思い、ボールペンで切腹の真似事をやっていた。 またこの頃、『あしたのジョー』を真剣に読み始めた。 そのせいで、矢吹丈のセリフを数多く使うようになってしまった。
中学3年の頃、『空手バカ一代』を読んで、極真空手の通信教育を始めた。 しかし、お金が続かなかったので、3ヶ月でやめた。
高校1年の頃、『水滸伝』を読んで、豹子頭林冲に憧れる。 棒術でも習おうかと、武道具屋に行き棒を買うが、数ヶ月後に邪魔になったため薪にしてしまった。
予備校時代、三国志を読み、諸葛孔明に憧れる。 孔明は四柱推命や方位学に優れていたと書いていたので、さっそくそういう関係の本を買い込み勉強した。 その翌年、ぼくは仕事を探さなくてはならなくなった。 しかし、何をするのか、はっきりした目標がなかった。 そこで、例の方位学を活用することにした。 が、すべて外れだった。 おかげで、26回連続で面接に落ちるという、不名誉な記録を作ってしまった。 そのせいで、いまだに方位学を信じられないでいる。
こういう傾向は、社会に出てからも変わらなかった。
20代前半、よく人から「30歳くらいですか?」と聞かれたものだ。 その頃は、年の割に落ち着いて見えたらしい。 ちょうど、中国思想に凝っていた頃だ。
20代後半から30代前半にかけて、よく人から「哲学やってるでしょ」と言われたものだ。 その頃は、哲学者のような目をしていたらしい。 ちょうど、仏教思想に凝っていた頃だ。
30代半ば、ぼくの周りには女っ気がなかった。 いつも大勢の男がぼくを慕ってきた。 ちょうど、任侠ものに凝っていた頃だ。
今、よく人から「年の割に若いね」と言われる。 「情熱」などという言葉を口走っている。 ちょうど、少年マンガに凝っているところだ。
ぼくを知っている人がこの日記を読んだら、その日のぼくの雰囲気で、どんな本を読んでいるかがわかるだろう。
酔っぱらいのおいちゃんだが、今日もひと騒動起こしたらしい。 何でも、女性客に絡んだらしく、「お前、出て行け!」などと暴言を吐いたそうだ。 それを聞いて店長が切れ、警察を呼んだ。 おいちゃんは女子トイレに籠城するなどして抵抗したが、最後は「ご用」になったという。
事件にいつも絡んでいるぼくだが、今日は休みだったため、この捕り物を見逃してしまった。 今頃、絞られているだろうが、案外おいちゃんのことだから、これも計算尽くだったのかもしれない。 留置所に入れられたら、雨露をしのげるわけだから。
さて、そんな騒ぎも知らず、今日ぼくは家で引っ越しの準備をしていた。 ホームページの、である。 別段変わったところはないのだが、最近更新してない「ライブ」と「怠慢歌集」はやめることにした。 また、掲示板は一つにする。 掲示板は、今までのように個別にレスが出来るタイプをやめることにした。 以前のように日記がスラスラと書けなくなったし、仕事の都合で、朝レスも出来ない状況である。 とりあえず、当分はレスなしタイプでいこうと思っている。
URLは、「http://beatles.to/shinta」でアクセスされている方に関しては、そのままでいいです。 「http://www.ne.jp/asahi/m/shin/」の方に関しては、上記URLへの変更をお願いします。 ASAHIネットは12月いっぱいでやめますので、よろしくお願いします。
ところで、先日、携帯を買い換えた。 ドコモショップから、「504が出ましたよ」と連絡があったのだ。 ホームページに写真を載せたかったので、以前からカメラ付きが欲しいとは思っていた。 しかし、夏に発売したカメラ付きの251シリーズはiアプリが使えない。 ぼくにとって携帯は、iアプリがないと意味をなさない。 なぜiアプリにこだわるかというと、iアプリにはお気に入りのメールソフトがあるからだ。 そのため、夏に251が出た時には我慢した。 11月にカメラ付きのiアプリが出ると聞いたので、さっそくぼくは懇意のドコモショップに連絡し、予約しておいた。 ドコモから電話があったので、ぼくがすぐにドコモショップに向かったのは言うまでもない。
さて、ようやくカメラ付きを手に入れたのだから、これをさっそくホームページに反映していこうと思っている。 ということで、ホームページ引っ越し日の12月1日に写真第一弾をアップする予定だったのだが、ちょっとそれが難しい状況になってきた。 なぜなら、載せようと思っていた被写体がいなくなったからだ。 被写体は何でもよさそうなものだが、あるこだわりがあって、是非それを被写体にしたかった。 でも、しかたないか。 警察に捕まったんだから。
最近口癖になっているのが、「はーい」である。 これを低いだみ声で言うと、酔っぱらいのおいちゃんの物まねになる。 酔っぱらいのおいちゃんは、店長に優しくしてもらっているせいか、調子に乗っている。 大声で怒鳴るだけなら、かわいいほうである。 最近は他のお客さんからタバコをたかったりもするし、ひどい時には店の中で立小便をすることもある。 売場でタバコを吸われて以来、ぼくはおいちゃんに冷たく接するように心がけている。 それを感じたのか、おいちゃんのほうもぼくを避けるようになった。 それでも、おいちゃんの怒鳴り声が聞こえたら、他のお客さんに迷惑がかかるといけないので、素早くおいちゃんのいる場所に駆けつける。 そして、散々文句を言う。 「おいちゃん、店の中で大声出したらいけんち言うたやろ」 「お前に関係なかろうが。コラッ!」 「『コラッ』ちゃ、誰に言いよるんね」 「・・・」 ぼくが睨むと、おいちゃんはすぐに目をそらす。 そして、下を向いて、聞いてないふりをする。 「ここにおりたかったら静かにしとき。わかった?」 「わからん」 「わからん?」 「あ、わかった」 「ここはあんたの家じゃないんやけね。大きい声出すと、他のお客さんがびっくりするやろ?」 「何をっ! わしは若い頃、声を鍛えたんぞ」 「はいはい、そんなに大声が出したかったら、こんな狭いところじゃなくて、洞海湾に行って叫んできたらいいやん」 「何かコラッ!・・・。はーい」 「今度大声を出したら、つまみ出すけね」 「はーい」
その後しばらく様子を見ていると、おいちゃんは独り言を言い出した。 「おれは悪い人間じゃない。お、コラッ。・・・、はーい」 「ブツブツブツブツ。はーい」 一人で言って、一人でうなずいている。 いよいよ頭がおかしくなったのだろうか。
それから、ぼくはおいちゃんに文句を言うたびに、「はーい」と真似してやることにした。 おいちゃんは、きっとなめられていると思っているのだろう。 が、相変わらずぼくの顔を見ない。 顔をよそに向けて、言い返している。 「何で、おればかりに文句を言うか!おれは前科モンぞ、コラッ!」 そこですかさずぼくは「はーい」と言う。 「ふざけんなよ、コラァ!」 「はーい」
先日、ベンチの周りにポテトチップスの食べかすが散らばっていた。 お客さんが「そこ、例のおいちゃんが座ってましたよ」と教えてくれた。 その翌日、おいちゃんがベンチに座ってポテトチップスを食べているのを見つけた。 案の定、周りに食べかすが散らばっている。 「ポテトチップスを食べるなとは言わんけど、もう少しきれいに食べり。昨日おいちゃんの食べかすを掃除したんやけね」 「大将、わたしはですなあ。悪い人間じゃありませんけ」 「悪い人間やないんなら、ちゃんと自分の食べた後始末ぐらい片づけなね」 そう言ってぼくは、売場からホウキとチリトリを持ってきた。 そして、それをおいちゃんに突きつけ、「自分が散らかしたんやけ、ちゃんと自分で片づけり」 おいちゃんは相変わらずぼくの顔を見ず、「はーい」と言うと、ぼくからホウキを取り上げ、そのへんをはわきだした。 「やれば出来るやないね」 「わたしはきれい好きですけ」 「誰がきれい好きなんね」 「・・・。はーい」
今日、店内放送で店長から呼ばれた。 行ってみると、店長は一枚の紙をぼくに渡した。 その紙には、 『酔っぱらいのおじさんから、「山芋を買え」としつこくせまられました。こちらが「いりません」と言うと、大声で怒鳴り出し、子供が泣きだしました。ああいう人は出入り禁止にして下さい。店の人も、もっと強気に対応して下さい』 とお客さんの苦情が書かれていた。 ぼくがそれを見て、「『強気に対応して下さい』と言われても、他のお客さんの建前、言えませんよねえ」と言うと、店長も「そうよねえ。その人はいいかもしれんけど、知らないお客さんには良く映らんとねえ」と言う。 こちらとしては、おいちゃんが他のお客さんに絡み出したら、注意することしかできない。 その際、こちらから「いいかげんにしとけよ。出て行け!」などと言えるわけがない。 注意して言うことを聞かなかったら、後は警察を呼ぶだけだ。
夜、おいちゃんは、いつものようにベンチで寝ていた。 閉店になったので起こしたのだが、なかなか起きようとしない。 仕方なく、おいちゃんを店の外に引きずり出した。 後ろから脇を抱えて引っ張ったため、時々首が絞まったのだろう、「ウェー、何か、ウェー、コラッ、ウェー」とあえぎながら言っていた。 外に出すと、「コラッ!殺すぞ、コラッ!・・」と、一人でわめきだした。 しかし、誰も相手にしなかった。 おいちゃんは、またそこで寝ころんでしまった。 後で店長が、「外は寒いけ、あのままだと死んでしまうやろね。110番しとこ」と言って、電話をかけていた。
帰る時、ぼくはおいちゃんが寝ている横を通って行った。 パトカーが来ていた。 3人の警察官が対応していた。 おいちゃんが動こうとしないので、困っている様子だった。 まさか警察に向かって「殺すぞ、コラッ!」と言ってないとは思うが。
「しんたさん、いくつなんですか?」 若い人から、時々聞かれる。 以前は「チャゲアスや大竹しのぶと同い年」と言っていたのだが、最近はもっぱら「蓮池さんと同い年」と言っている。 「えーっ! 見えませんねえ。だって、顔が若いもん」 これはお世辞である。 いくら顔が若くたって、頭だけ見れば、実際の歳以上に見えるはずだ。
それはさておき、このサイトのタイトルや、日記に書いてあることを見れば、「この人、かなり歳を気にしているなあ」と思うかもしれない。 が、今までぼくは歳を気にしたことが、まったくない。 だから、お世辞とはいえ、若く見られるのだと勝手に思っている。 ぼくは、歳というものを、自分という活動の経過時間だと思っている。 生まれてから、ぼくはずっと自分をしている。 その意識の中で、45年がすぎただけのことだ。 その時その時、その場その場に、いつも自分がいる。 この先も、ぼくはずっと自分をしていくだけである。 言い換えれば、歳というのは、ぼくにとって、ただの飾りにすぎないのだ。 あくまでも主体は自分、飾りに振り回されるのは、まっぴらである。
ぼくは10代の頃、20歳になったら、自分の中で何かが変わると思っていた。 また、20歳になった日に、何かが変わったと思っていた。 だけど、何も変わらなかった。 19歳最後の時間に、ぼくはトイレの中にいた。 20歳最初の時間も、ぼくはトイレの中にいた。 20歳の変化をトイレの中で期待していたのだが、20歳の時間になったからといって、トイレの中の状況は何一つ変わらなかった。 ただそこには、日常が綿々と続いているだけで、そこには何も変わらない自分がいた。 それは、30歳になっても、40歳になっても同じことだった。 やっていることはいつも同じ。 目に触れるものを見、耳に触れることを聞き、肌に触れるものを感じ、心に触れることを思っているだけだ。 そこには確固たる自分が存在している。 そう、自分はいつも自分なのである。
ぼくは昔から、ポパイの『おれは、おれで、だからおれなのさ』というセリフが好きである。 天上天下唯我独尊の姿勢が実にいい。 この人も、おそらく歳を気にしてはいないだろう。 だから、ああいう爺臭い顔をしていても、オリーブを愛していけるのだろう。 願わくば、この先もぼくは歳を気にしない、歳に振り回されない人間でいたいものである。
そういえば、最近ギターを弾いてない。 前はカチカチだった右手の指先が、今はふにゃふにゃになっている。 指使いなどは体が覚えているだろうが、もはやそれに耐えられるだけの肉体ではなくなっているということか。 まあ、10分も弾いたら、もう押さえることは出来ないだろう。
そういえば、元憂歌団の内田勘太郎さんは、普段イメージトレーニングはやっているが、ギターには触れないと言っていた。 お客の前で弾かないと、集中できないのだそうだ。 そこがプロたるゆえんだろう。 ぼくのようなギターをかじっただけの人間は、誰もいないところでやる時は集中できるが、人を前にすると集中できなくなる。 大勢の人を前にするとなおさらで、心臓はバクバクし、ひどい時には吐き気さえ催してくる。
15年ほど前に、よく通っていたパブがあった。 生演奏でうたわせてくれる店だったのだが、そこで初めて歌をうたった時はひどかった。 イントロが始まったとたんに胃が痛くなった。 その痛みが緊張からきているのはすぐにわかった。 が、どうしようもない。 もう演奏は始まっている。 何とか1番を歌い上げた後に、気分が悪くなって座り込んでしまった。 その上、緊張をごまかすために大声を張り上げたので、のどまで痛くなっている。 カラオケならリモコン一つでキャンセルすることも出来るのだが、生演奏だとそう簡単にキャンセルするわけにはいかない。 「どうしよう」と思っている時だった。 ぼくの異変に気がついたバンドのボーカルの人が、2番を歌い出したのだ。 それで安心したのか、胃の痛みも治まってきた。 何とか立ち上がり、ボーカルの人といっしょに歌った。 その後、ぼくはどこでうたっても、あまり緊張することはなくなった。 が、立ってうたうのは相変わらず苦手である。 人の結婚式などでうたう場合などには、必ずギターを持っていき、それを口実に、座ってうたわせてもらうようにしている。
ところで、あのジョン・レノンは、ライブの前に吐いていたという。 まあ、繊細な神経の持ち主だったというから、あながち嘘だとは言えないだろう。 ビートルズがコンサートをやらなくなった原因は、きっとその辺にもあるのだろう。 しかし、ああいう人でも、緊張するのだろうか。 それを考えると、ぼくのような男が緊張しているなどというのは、人様に対して失礼なことである。 何も期待されていない人間が、勝手に緊張している姿というのは、滑稽この上もない。 いくら歌がうまいだの、ギターがうまいだの言われてチヤホヤされても、所詮は趣味の範疇でしかない。 本音のところは、誰も何も期待してないのだ。 緊張するだけ損である。
2002年11月25日(月) |
パソコン前夜 その2 |
思えばよく揃えたものだ。 書棚5台分のコミック。 そのほとんどを、ここ6年間で買った。 手塚治虫から買い始め、長谷川町子、白戸三平、横山光輝、水木しげる、つのだじろう、楳図かずお、つげ義春、鴨川つばめなど、学生時代によく読んでいた懐かしいマンガ家のものを買い漁った。 その後は、小林まこと、さくらももこ、西岸良平、弘兼憲史、浦沢直樹といった現役作家のものを買い続け、現在に至っている。 実家のどこかに、小学生の頃に買った『サイボーグ009』や『おそ松くん』、中学の頃に買った『男一匹ガキ大将』や『天才バカボン』、高校時代に買った『水滸伝』、東京にいた頃に買った『エースをねらえ』や『三国志』など、かなりの量のコミックが眠っているはずだから、全部出すと、書棚があと2,3台は必要になるだろう。
パソコンを持つ前は、歴史書に加えて、これらのコミックも読んでいた。 日記に中断されることがなかったから、どんなにマンガでも一気に読んだ。 そのせいで、徹夜することもしばしばあった。 「しんちゃん、眠そうな顔しとるねえ。昨日飲んだんやろ?」と聞かれても、「いえ、昨日は徹夜して、マンガ読んでました」などとは言えない。 「いい歳して、何がマンガか!」と言われるのがおちである。
何でそんなにマンガが好きなのか。 それは、ぼくがマンガ世代だからである。 そのおかげで、マンガは活字に劣る、といった偏見を持たずにマンガに接することが出来る。 マンガの良さがわからないと言う人がいる。 これは悲しいことだ。 名作と言われているマンガを、「所詮マンガだからね」の一言で読まない人がいる。 これもまた悲しいことだ。
ところで、今はどうか知らないが、ぼくが小学生の頃は、学校にマンガを持って行くのは禁止されていた。 しかし、ぼくのカバンの中にはいつもマンガが入っていた。 休み時間に読むと、「先生、しんた君は学校にマンガを持ってきています」とチクる奴がいるので、みんなが黒板に集中している授業中に、こっそりと読んでいた。 よく「しんたは授業中、突然笑い出す」といって『変なヤツ』扱いされていたが、実はマンガを読んで笑っていたのである。 そんなこと口が裂けても言えないから、『変なヤツ』扱いを甘んじて受け入れていた。
今のように日記に追われる以前は、結構深くマンガを読んでいた。 そのおかげで、元気や勇気をもらったこともある。 人生観が一変したこともある。 深い哲理に触れたこともある。 最近はそんな読み方が出来ない。 そんな読み方をする時間がない。 じゃあ、そんな読み方を邪魔するパソコンをやめればいいじゃないか、と思われるかもしれないが、いったんハマったものを、そう易々と捨てるわけも行かない。 パソコンを扱うようになってから、失ったものものは多い。 が、得たものも、また多い。 と言えるだろう。
2002年11月24日(日) |
パソコン前夜 その1 |
ホームページを始めてから、ぼくの睡眠時間は確実に短くなった。 立ち上げた当初は、「日記を書き終わるまで寝らん!」という信念を持って日記を書いていたので、4時になろうが5時になろうが、書き終わるまで寝るようなことはなかった。 そのため、体調を崩すこともよくあった。
その反省をふまえて、最近は午前2時までに日記が出来なければ、翌朝に持ち込むようにしている。 ところが、昨日は朝が早かったり、こけたりしたせいで、11時をすぎた頃から居眠りを始めた。 居眠りから覚めて、時計を見ると、まだ12時半である。 以前なら「さあ、頑張って書くぞ!」という意気込みでパソコンに向かったのだが、昨日はそこで諦めてしまった。 「もうだめばい。寝ろ」と思い、寝てしまった。 そのために、朝、会社に出かける寸前の更新になってしまった。 今後は、こういうことが多くなるだろう。
さて、ホームページを始める前、というより、パソコンを持つ前は、だいたい12時から1時の間に寝ていた。 その時間まで何をやっていたのかというと、本を読んでいたのである。 その当時は、歴史書が主な読み物だった。 昭和史が中心だった。
昭和史に関しては、いろんな人の本を読んだものだ。 一連の昭和史を読んで、今まで習ってきた昭和が、いかに嘘で固められたものかというのがよくわかった。 政府や軍の主導で行われたと教えられた先の戦争も、元はといえば、当時の国民の世論から発したものだった。 その世論を生んだのが、アメリカの謀略だった。 しかし、そうし向けたのは中国国民政府だった。 その中国国民政府がそうし向けた原因は、中国共産党にある。 その中国共産党の元は、ソビエト連邦だ。 結局、日本とアメリカという二つの防共大国は、その本来の共通の敵であるソビエトに踊らされていたのだ。 その一方の防共大国が戦闘能力を失った時に、ソビエトは満州を南下、朝鮮半島まで進出してきた。 日本としては、江戸幕府や明治政府が恐れていた『ロシアの南下』が、現実のものになってしまったのだ。 一方のアメリカは、戦友となるべき日本を自分の手で潰したために、本来の敵である共産主義と、一国で戦わなければならなくなった。 その結果が、38度線だ。 その結果が、ソビエトから派遣されたペテン師、金日成だ。 その結果が、親愛なる将軍様、金正日だ。 その結果が、拉致問題・核開発・ミサイル・飢餓だ。 その結果が、ワイドショーだ。 その結果が、『頑張る40代!』だ。
上に書いたことは、もちろん教科書には書いていない。 というより、教科書に書いていても、日本史の授業で、そこまで行くことはまずない。 だいたい5.15事件か2.26事件くらいで、3学期が終わってしまう。 ところが、書かなくていいことはしっかりと書いている。 南京虐殺、創氏改名、強制連行、従軍慰安婦・・・。 あちらの言い分のオンパレードである。 中国にしろ韓国にしろ、元はといえば、北朝鮮と同じ儒教国である。 儒教の教えは仁義である。(仁=他に対するいたわりのある心,義=人のおこないが道徳・倫理にかなっていること。 以上『大辞林』より) 老子曰く『大道すたれて仁義あり』。 仁義が行き届いていれば、仁義という言葉はいらないのである。 仁義がないから、「仁義、仁義」と声高に叫ぶ。 儒教国、つまりは仁義のない国である。 礼を逸した国。 言いがかりをつけて金をむしり取ろうとするたかりの国。 そんな国に弱腰で臨むこと自体がおかしい。 明治期の外交のように、毅然とした態度で臨めばいいのだ。
と、まあ、パソコンを持つ前は、本を読みながら夜な夜なこういうことを考えていたのである。
今日は早出だったため、8時過ぎに会社に着いていた。 売り出しの準備が一通り終わって、暇をもてあましているところに、隣の売場のKちゃんがやってくるのが見えた。 Kちゃんはぼくに気づいてない様子だったので、ぼくはKちゃんの売場に行って、身を隠していた。 Kちゃんが売場に入ってきたら、脅かしてやろうと思っていたのだ。
こういうのはタイミングの問題である。 Kちゃんとの間合いを測り、Kちゃんがちょうどいい位置に来た時、ぼくは猛然とダッシュした。 ところが、遭遇する予定の場所にKちゃんはいない。 「えっ!?」と思い、Kちゃんを目で探した。 その時だった。 ツルッ!。 まさしく「ツルッ」という感触だった。 右足が滑ってしまったのだ。 ダッシュで勢いづいているぼくの体は、野球のランナーが滑り込むような姿勢で倒れ込んだ。 倒れ込むと同時に、左足が、前にあったショーケースを蹴っていた。 「ドターン!!」という大きな音がした。 この音にはKちゃんだけでなく、周囲にいた人全員が驚いた。 まあ、当初のKちゃんを驚かすという当初の目的は達成したのだが、おかげで今つらい思いをしている。。 受け身をとったので、頭や背中を打たなくてすんだのだが、久しぶりの受け身で肩を痛めてしまったのだ。
学生時代は柔道で倒し倒されを毎日やっていたので、転ぶようなことがあっても大したことはなかった。 自転車で事故にあった時も、5メートルほど飛ばされたにもかかわらず、かすり傷を負った程度ですんだ。 後日後遺症の出るようなこともなかった。 しかし、柔道をやらなくなってから、もう20年以上になる。 当然、転ぶコツも忘れている。 受け身のとりかたも下手になっている。 体も硬くなっている。 今回は、骨に異常はなさそうだから、日常生活には支障がないとは思うのだが、じめじめした痛みと闘わなければならない。 さて治るのにどのくらい時間がかかるのだろうか。
そういえば、最近理由もなく痛みが走ることがよくある。 突然痛みに、その時は「何でだろう?」と首をかしげているのだが、後日その痛みが、その何日か前に打撲していた箇所だったり、何日か前の運動疲れだったり、ということを思い出す。 痛みの伝わり方が遅いのも困ったものだが、その原因をすぐに思い出せないというのは、もっと困ったものである。 ああ、歳はとりたくない。
2002年11月22日(金) |
傷つくのはあんたたちだ |
若い頃、ぼくはよく「お前は、優しすぎて押しが利かないから、販売は不向きだ」と言われていた。 彼らは一様に「何が何でも売ってやろう、という気概を持っている人こそが、販売人向きだ」と言うのだ。 ぼくは決して優しい人間ではないが、そう言われるたびに「優しいことがどうしていけないんだ。口ではいつも『お客さんには、常に優しい気持ちで接しましょう』と言ってるくせに」と思い、憤慨していた。
しかし、優しい云々は別として、ぼくは『何が何でも・・』という考え方は嫌いである。 「じゃあ、自分なりの販売の仕方をしてやろうじゃないか」と考え出したのが、個性を売り物にする販売方法だった。 商品の説明をするわけではない。 無理強いもしない。 ただ、淡々と自分を売っていくのだ。 この方法だと、広く浅くという売り方は出来ないが、特定のお客さんと深いつながりができ、そのお客さんからいろいろな情報を得ることが出来た。 この方法で、例の『押し人間』と対等に渡り合っていたのだから、ぼく向きの販売方法だったと言えるだろう。
この『何が何でも』という考え方とよく似た考え方に、『人を押しのけても』という考え方がある。 もちろん、『優しすぎる』と評されたぼくにとっては、嫌いな考え方である。 前の会社にいた時、そういう考え方の人がけっこういた。 ぼくが接客しようとすると、横から割り込んでくるのだ。 そして、「しんちゃん、このお客さんはおれに譲って」と言う。 『人を押しのけても』人間でないぼくは譲ってやったのだが、あまりいい気持ちはしない。 しかし、そういう考え方の持ち主というのは、得てして他人を気にしているものである。 他人の言動に、いつもビクビクしているようにも感じる。 中には人を押しのけといて、後でフォローしてくる馬鹿もいる。 「悪かったね。知っている人かと思ったけ」などと言い訳している。 どう見ても、知っている人に接している雰囲気ではなかった。 みっともない奴である。 言い訳するくらいなら、最初からそういうことをしなければいいのだ。
ぼくはかつて、こういう人は、高度成長時代やバブル期の産物かと思っていた。 しかし、バブルがはじけた今でも、この『何が何でも』や『人を押しのけても』人間には、たびたびお目にかかる。 こういう人を相手にすると、実に疲れるものである。 別にそういう人がいてもいいのだけど、ぼくには関わらないでほしいものだ。 ぼくは決して優しい人間でも、寛容な人間でもないから、そういう人たちを、顔色を変えずに受け止めることが出来ない。 先にも言ったが、そういう人たちは神経質だから、ぼくの顔色が変わったことぐらいすぐにわかるだろう。 さらにぼくは、何が何でも、そういう人には一言言わないと気がすまない性格である。 また、人を押しのけても、気に入らない人には毒づく人間である。 傷つくのはあんたたちだ。
先日、ワイドショーを見て大笑いした。 特に笑うような内容ではなかったので、そのことについて出演者は何もコメントをしなかった。 しかし、ぼくには充分笑える内容だった。
何がそんなにおかしかったか。 それは、蓮池さんのお兄さんが、例のシャッターの前で記者団に囲まれていた時に、最後に発した言葉だった。 「(弟に)、『七三分けはやめな』と言いました」 いつも冷静沈着なお兄さんだから、別に笑いをとろうと思って言ったのではないだろうが、案外その発言は、彼一流のギャグだったのかもしれない。 その発言に関して、お兄さんは何も説明を加えなかったので、その辺のところはわからないが。
さて、なぜぼくがその発言で笑ったのかというと、別に蓮池さんの七三分けが似合わないからではない。 北朝鮮当局は、日本に帰国させる5人を、日本国民に、裕福で幸せに暮らしていると思わせるために、彼らに精一杯のおしゃれをさせたはずである。 北朝鮮では一番のおしゃれだろう。 髪型も、平壌で一番の美容院で整えたはずである。 その結果が、あのタラップから降りてきた時の、スタイルだったのだ。 しかし、服装はともかく、あのヘアスタイルを見たほとんどの人が、「ダサイ」と思ったはずである。 センスのいいお兄さんのことだから、タラップを降りてくる弟の姿を見て、きっと「あっちゃ〜」と思ったことだろう。
おそらく、先の「七三分けはやめな」発言は、弟に対してではなく、北朝鮮に対しての痛烈な皮肉だったに違いない。 「いくら偉そうなことを言っても、所詮それだけのファッションセンスしか持ち合わせていない国じゃないか」 お兄さんは言外に、そう言いたかったのだろう。
そういえば、ぼくが小学生の頃、髪を真ん中から分けることを『朝鮮分け』と呼んでいた記憶がある。 どうして真ん中分けが『朝鮮分け』になるのかわからないが、確かにその頃は、そう呼んでいた。 それはさておき、小学生の頃、ぼくの周りのほとんどは『坊ちゃん刈り』をしていた。 しかし、中には横分けしている奴もいた。 横分けすると、馬鹿な奴でも賢く見え、貧乏人でも金持ちの子に見えたから不思議である。 ぼくも横分けに挑戦したことがあるのだが、額の上のツムジがじゃまをして出来なかった。 髪が硬いせいで、ツムジのところが浮いてしまうのだ。 ということで、いまだにぼくは前髪を垂らした、小学生時代の延長のようなヘアスタイルである。 強いて名前を付ければ『中年坊ちゃん刈り』となるのだろう。
ぼくは昔から、髪をくしやブラシでとく習慣がない。 寝癖がついている時にブラシでとくぐらいで、その他の時は、何もしないか、手ぐしである。 また、ドライヤーも20代と30代前半は使っていたが、20歳までと30代後半以降は使っていない。 髪を伸ばしていた時期は、髪を洗った後、犬のように頭を振って水を切っていた。 髪が長くない今、タオルで軽く拭いた後は、自然乾燥である。 ドライヤーを使っていた頃はいつもつけていた整髪料も、今は全然使っていない。
テレビでは毎日、北朝鮮の異常な性格の持ち主である指導者の、豪勢な暮らしぶりを紹介している。 それとは対照的な、飢餓にあえぐ国民。 そういうものを見せつけられるたびに、いつも憤りを感じている。 そういう時、ぼくのようなヘアスタイルに無頓着な者でも笑ってしまう、『朝鮮七三分け』は貴重であるといえる。 今までは『北朝鮮ウォッチャー』だったが、これからは視点を変えて、『七三分けウォッチャー』でいこうと思っている。 それにしても、北朝鮮はいろんな意味で、話題に事欠かない国である。
「親友」
君と遊んでいたのは、いつの頃からだっただろうか。 時々けんかもしたけど、 ぼくらは仲のいい友だちだった。 小学校でのいたずらも、 廊下に立たされた時も、 いつもぼくらはいっしょだった。 奇妙なノリの中で ぼくらはつき合っていた。 奇妙なノリの中で ぼくらは目立っていた。
中学の頃だったろうか。 ぼくは君と話すことに、 なぜか心苦しさを覚えた。 おそらく君もそうだったのだろう。 その時から君とのつき合いを 空々しく感じていった。 いっしょに学校に行ったことも、 同じクラスになって、抱き合って喜んだことも、 おそらく『親友』という言葉がさせた 行為だったのだろう。
その後ぼくらは別々の道をたどった。 つき合いも以前ほどではなくなり、 『親友』という言葉の魔力も次第に失せていった。 ことあるごとに『親友』を強いる君に 嫌悪感を抱いていたぼくだったが、 いつしかそんな感情も薄らいでいった。 とりあえず今は、君との縁も消滅している。
上の詩の「君」は決してぼくの「親友」ではない。 彼がぼくを「親友」と呼んだのは、つき合いが長かったからである。 つき合いと言っても、小さい頃から近くに住んでいたので、いっしょに遊んでいただけの仲でしかない。 中学になり、高校になり、彼がぼくの力になってくれたとか、ぼくが彼の力になってあげたということは一度もなかった。 また、膝を交えて語り合ったこともない。 いっしょに遊ばなくなった彼は、ぼくにとっては「かつて友だちだった人」にすぎない。 ぼくにとってそれだけの存在の人間なのに、彼は、ぼくが昼寝をしている時、勝手に家に上がり込んできて、たたき起こしたり、誰も許可してないのに、勝手にぼくの本を持ち出したりした。 そのことを追求すると、「いいやん、親友なんやけ」と言う。 人の家に勝手に上がり込むことや、人の本を勝手に持ち出すことは、親友のすることではない。
ぼくは小中学校のつき合いより、高校時代のつき合いの方を大切にしている。 別に意識してそうしているのではなく、自ずと高校のつき合いのほうに行ってしまうのだ。 ぼくは、43年間同じ場所に住んでいるが、成人して以降は、この場所で小中学時代の友だちに会ったことがない。 近くに大型のショッピングセンターがあるので、そこで会ってもよさそうなものだが、それもない。 いったいあの頃、ここに住んでいた人たちは、どこに行ってしまったのだろう。 小中学校の同窓会のお誘いがあるわけでもない。 というより、そういうものの企画すらない。 「どうしてますか?」というような電話もない。 個人的に飲みに行くようなこともない。 幼なじみの、その後の動向も知らない。 知っているのは、死んだ奴のことだけである。 それも風の噂で、である。
現在ぼくは、先の「君」に限らず、小中学校時代の友だちだった人たちとは疎遠になっている。 しかし、これはぼくだけに限ったことではない。 人の話を聞くと、皆そういうものらしい。 やはり、誰もが異口同音に、小中学校時代よりも、高校時代のつき合いの方が大切だと言う。 高校の同窓会にはよく行くが、中学校の同窓会には行ったことがないと言う人が多い。 幼い頃いっしょに遊んだ友だちよりも、多感な時期に語り合った友だちのほうが、よりつき合いやすいのだろう。
今後、小中学校の同窓会があれば行ってみようとは思っている。 が、特に会いたい人などはいない。
床屋に行ってきた。 毎月一度行っているのだが、いつものことながら、これを書かないと髪を切ったことに気づいてくれない人がいるので、今月も書くことにした。
今日は休みだったのだが、いつもと同じ時間に起き出し、いつもと同じ時間に家を出た。 ぼくの行っている床屋は、二人の理容師がいるのだが、一人は家事が忙しいのか、あまり店には出てこない。 ほとんど一人でやっている状態である。 そのせいで、一番に行かないと、9時台に行ったとしても、店を出る時間が1時・2時になったりする。 床屋で待たされるのは辛いものである。 いちおう「少年マガジン」が置いてあるが、見るマンガは決まっているので、すぐに読み終わってしまう。 後はすることがないので、居眠りをしている。 しかし、いすに座っての居眠りは、腰は痛いわ、肩は凝るわで、疲れる疲れる。 一人でやっているので、時間短縮のために、肩も揉んでくれないから、ちょっとばかり朝が辛くても、早く行くに限る。 今日は一番乗りだった。 一人でもお客がいると出るのが昼になるので、いつも緊張してドアを開けている。 そこに人のいなかったときの喜びといったらない。
髪を切り始めてしばらくは誰も来なかったのだが、40分ほどたって一人のお客さんが入ってきた。 それから続々とお客さんが入ってきて、ぼくが帰る頃には4人の人が順番を待っていた。 最後に入ってきた人は、店を出るのはおそらく4時頃になるのではないだろうか。 その間、その人もそうだが、床屋の姉ちゃんも昼飯を食えないことになる。 ぼくも月に半分の休みを削っている(火金が休みなのだが、金曜日は午前中出勤をしている)のだが、どこも大変である。
「そんな人手の足りん床屋に行かんで、もっと理容師の多いところに行けばいいのに」と、よく言われる。 しかし、ぼくはこの床屋には中学生の頃から通っているのだ。 今までの人生の中で、一度だけ坊主にしたことがあるが、それをこの床屋でやった。 それからずっとこの床屋に通っているのだ。
中学生の頃、他の学校ではまだ坊主にしなければならない学校が多かったのだが、ぼくの行った中学校は調髪自由だった。 ぼくは2年の時に、日本海軍に憧れた時期があった。 その時期、東郷平八郎にのぼせていた。 そして、「日本人は坊主じゃないといけん」などと騒いでいた。 で、親の反対を振り切って坊主頭にしたのである。 しかし、坊主にして後悔した。 前にも話したが、ぼくの額のすぐ上にはツムジがある。 それが坊主だとはっきりとわかるのだ。 「お前、こんなところにギリがあるんか」と言ってからかわれたものだ。 しかも、ぼくは額が狭いので、坊主頭が似合わない。 「もう2度と坊主なんかするか」と思い、その後は長髪に走るようになる。
高校の頃はほとんど床屋には行かなかった。 金鷲旗柔道大会の前に、先輩に「長髪だと弱く見られるから、スポーツ刈りにしてこい」と言われ、しぶしぶ床屋に行ったくらいだ。 後は、20歳くらいまで床屋には行っていない。 ほとんど、自分でちょこっと切っていた。 その後サラリーマンにならなかったら、おそらく今でも髪は自分でちょこっと切っているだろう。 そうであれば、床屋での、順番待ちというストレスもたまらないだろう。 今でも長髪に憧れているので、定年でも迎えたら、また髪を伸ばすことにするかなあ。
日課にしていることがある。 朝、会社に行ってすぐにお客さんの休憩所でタバコを吸うことである。 今日もいつものようにタバコを吸っていた。 そこには自動販売機のほか、ビン・缶とその他のゴミ箱が2つずつ用意されている。 ビン・缶入れの横には、掲示板がある。 そこにポスターなどが張っている。 今日、ポスターを見ていて、ふと下に目をやると、そこにチラシが山積みにされていた。
何のチラシだろうと見てみると、そこには『ホットホットパーティ』と銘打って、「木曜日と金曜日限定で、アジア料理を食べ放題、ビール・日本酒・ウィスキーなど飲み放題。期間は12月2日から27日まで、年が明けて1月6日から31日まで」と書かれていた。 裏を見ると、「男性4000円(税込み)、女性3500円(税込み)。グループの幹事さんにはプレゼントを進呈。30名以上のグループの場合は、土・日・平日も承ります」などと書いてある。 いちおう「パーティ」とは書いているが、期間を考えると、これは忘年会・新年会の誘致である。 しかし、このチラシには一切「忘年会・新年会」とは書いていない。 あくまでも「パーティ」という名にこだわっている。 いったいどこの店だろうか? と、店名を見て驚いた。 何とそのチラシは、スペースワールドのチラシなのだ。 確かに入園料と2アトラクションチケット付きとなっている。 酔っぱらって、タイタンや惑星アクアに乗って大丈夫なのか、と思い、よくチラシを見てみると、チケットは観覧車とカーニバルストリートのゲームのものだった。
しかし、市のシンボル的存在のテーマパークが、どうして忘年会なんだろう。 焼酎片手に宇宙を満喫しろとでも言うのだろうか。 理解に苦しむところである。 はたして東京ディズニーランドが、「忘年会は、ぜひうちで」と呼びかけるだろうか? ハウステンボスが、「うちで新年会をしろ」と言うだろうか? 夢を売る商売が、現実を売ってどうするんだ。 こんなことやっているから、いつまでたっても工業地帯から脱皮できないのだ。
宇宙を売り物にするなら、そのスペースシャトルを飛ばしてみろ。 そうすれば、忘年会なんか企画しなくても人は集まる。 飛ばすのが無理なら、そこから皿倉山の山頂まで、ロケット型のロープウエイでも作ったらどうだ。 いつも同じ人が凝り固まった頭で考えるから、こんなしょうもない企画しか出てこないのだ。 そのうち、「大宇宙カラオケ大会」をやるのは目に見えている。 「私たちの固い頭では、こういう企画しか出てきません」と正直に言って、一般市民からアイデアを募集したほうがいいんじゃないか? いずれにしても、これが今の北九州である。 八幡製鉄所が創業してから、今日で101年たった。 鉄のように固まった頭を、溶鉱炉で溶かす時期が来ている。
昨日の日記は、何のことかわからなかったかもしれない。 「あんなことは、『吹く風ノート』にでも書けばいいのに」と思った方もいるかもしれない。 なぜ、ああいうことを書いたのかというと、最近マンネリ化してしまった日記に活を入れたかったからである。 11月に入ってから、酔っぱらいのおいちゃんのことを4回も書いている。 これをマンネリ化と言わずに、なんと言おう。 いくらその日あったこととはいえ、「ほかに何もなかったのか」と自分に問いたくなる。 確かに、その日一番印象深かったことではあるが、「おいちゃんが、小便しかぶった」ではねえ。 そういえば、今日もおいちゃんは寝小便をしていた。 今日は、はっきり言いましたよ。 「おいちゃん、あんたいくつになってこんなことするんね。恥ずかしいやろ」 おいちゃんも、今日ばかりは恐縮して、下を向いて「すいません」と小さな声で謝っていた。 ああ、またやってしまった。 こんなふうだから、マンネリ化から脱皮できないのだ。 これをいかにして打開していくかが、これからの課題となるだろう。 また、これからも、新しい文章表現を模索していきます。
さて、先月末から懸案になっていたホームページの件だが、「ASAHIネット」の契約を今年いっぱいで打ち切ろうと思っている。 そのため、ホームページは引っ越さなければならない。 どこを使おうかと迷っているところだが、当面は、家で使っている「ぷらら」か、実家で使っている「WAKWAK」を使おうと思っている。 なお、これはぼくだけの懸案であって、皆さんにはぜんぜん関係のないことです。 今まで通り、"http://beatles.to/shinta"にアクセスしてもらったらいいでしょう。 ただ、相互リンクをされている方は、ASAHIのURLにしてもらっているので、訂正をお願いします。 また、携帯で見ている方は、追ってURLをお知らせしますので、しばらくお待ち下さい。 (現在、暫定的に「ぷらら」を使っているが、アカウント名が今ひとつ気に入らないので、もう一度登録し直します。この作業が来月になるので、お知らせも来月ということになります。悪しからず)
もう一つ懸案になっていることがある。 掲示板である。 最近は書き込みも、以前ほどではなくなったので、掲示板を一つにしようと思っている。 また、レスが滞りがちになるので、今度はレスなしにしようか、などとも考えている。 その際、言いたいことがあれば、メールしてくれたら、時間をかけて返事を書きます。 ただ、ぼくはメル友になるような男ではありません。 知らない人からメールをもらっても、お返ししませんし、友人からメールをもらっても、「はい、わかりました」とか「ああ、そうですか」などという素っ気ない返事しか書けませんので、そのへんはお察し下さい。
今日は、今後の予定ということで書いてみました。
2002年11月16日(土) |
トーキング・ブルース |
「ブルース1」
たまらない、たまらない。 わけのわからない虚脱感がぼくを揺さぶる。 何も間違ってはいない。 ここにあるのは、ぼくの踏みしめてきた道だ。 誰かに邪魔されているわけでもない。 確かに歩いてきた道だ。 なぜなんだ。 こんなことはなかったはずだ。 おそらくこの先も人生を追いかけていくだろう。 間違いない。 これだけは決して間違いない。 怖れは将来に対してではない。 ましてや過去に対してでもない。 今 − 。 部屋の中ではブルースが鳴っている。 これも一面ぼくの人生じゃないか。 どこが、どう違うというのだ。 たまらない、たまらない。 この虚脱感はいったい何なんだ。 心のあり方だっていうのか。 そんなもんじゃない。 にじみ込む、何かなんだ。」 説明のつかない、わけのわからない、 逃れることの出来ない、 不思議な、不思議な、何かなんだ。 たまらない、たまらない。 いつまで続くのかもわからない。 そんな、ぼくの人生の一面なのか。
「ブルース2」
今のあり方は、すべて今のあり方で 過去何があったのか、過去何をしてきたのかを、 ぼくは問わないことにしよう。 例えば意識にしろ今のあり方で、 その中に潜む心も今のあり方で、 それはそれで否定することをしない。 ただ、それを意義づけるようなことだけは、 ぼくは避けることにしよう。 今はいくつもに分かれた心というもの ひとつひとつに強くありたい。 その中に絡みつくような、 そんな愚かなことは、 ぼくはやめることにしよう。 強くたって弱くたって関係ない。 それは今が流れているから起こる現象にすぎない。 そんな流動的なことを正当化するような卑怯な考えは、 ぼくは持たないことにしよう。 何もかも、今そのままでありたい。 今そのままでいるようにしたい。 そして不変の中に飛び込みたい。 ぼくはそれだけにしよう。
「ブルース3」
自信過剰に猜疑心。 自惚れと自己満足。 どことなく似合わない仕草は、 お前たちを道化師へと変貌させる。 お前たちの持つ異様な臭気が、 変な仲間を呼び込んで、 また自己満足を繰り返す。 真夜中の妖怪。 場末の文化人。 夢を持たない、 自称詩人たち。
「ブルース4」
一秒一秒の長さが、ぼくにはわからない。 長くもあり、短くもあり、 またその中で、 長くもあり、短くもあり、 そのずっと極まったところに道がある。
ぼくにはあなたたちの一秒がわからない。 あなたたちにはぼくの一秒がわからない。 一秒が人生なのです。 一秒が個性なのです。 一秒が神なのです。 一秒が宇宙なのです。
「ブルース5」
その時その時の忘れ物が、 ぼくの心の煩悩となる。 思い出話は、忘れ物を繕おうと、 何かと一生懸命だ。 いったいその時、何を忘れたのか。 そのことも忘れてしまって、 思い出話は、そのことを思い出そうと、 今もなお、やまない。 複雑な忘れ物は、 ぼくの性格を形作る。 個性は確立したものじゃない。 いつも確立しつつあるものだ。 そんな時、夢は語れない。 忘れ物は前へと進ませてはくれない。 今もなお、日々の忘れ物は、 ぼくの未来を形作ろうとしている。
「ブルース6」
君がどうなっているのか、 今のぼくには関係ないことだ。 幸せになっているのか、 不幸だと思っているのか、 そんなことを考えるのもおっくうだ。
ぼくは現実の君を知らない。 知りたいとも思わない。 時折夢に現れる君も、 想い出の延長だとしか思えない。 いまだ心が繋がって君が現れているとしたら、 それは素晴らしいことなんだろうけど、 そうそう奇跡なんて起こらない。 今そうであろう君の姿も、 今そうであろう君の言葉も、 みんな想い出の延長でしかない。 想像だけの産物だろう。
そういえば、ぼくは君の想い出を、 そう多く持っているわけではない。 少なすぎるくらいだ。 あの頃は、決して楽しい時期ではなかった。 くだらぬ悩みに沈んでいた時期だった。 被害妄想と自己顕示欲。 この二つが、いつもぼくの中にあった。 そこに君の存在という希望を見つけた。 来る日も来る日も、君のことを想い続けた。 それで世界が変わると思った。 それでぼくは大きくなれると思った。 それが一つの救いだった。
だけど、振り返ってみると、 ぼくの人生は、 思っていたほど悲劇ではなかったし、 ぼくという男は、 思っていたほど大した奴ではなかった。 それを知った時、 君への想いが白々しいものへと変わった。
君がどうなっているのか、 今のぼくには関係ないことだ。 幸せになっているのか、 不幸だと思っているのか、 そんなことを考えるのもおっくうだ。
パソコンの電源を入れ、エディタを開き、日にちを書き込み、そのまま何も書かずに眠ってしまった。 まあ、日記にできるほど大した一日ではなかった。 だが、それでも「頑張る40代!」は妥協を許してくれない。 いつも何か書けと言ってくる。
そういえば、昼間、十何年かぶりに知り合いにあった。 知り合いと言うより、お客さんと言ったほうが正しいかもしれない。 そう、彼は、ぼくが前の会社で楽器担当をしていた時の、お客さんだった。
その当時、店の近くにアマチュアミュージシャンのサークルがあった。 彼もそこの会員だったのだが、ぼくの店には、よくそこのメンバーが買い物に来ていた。 最初はギター弦やピックといった小物を買っていくだけのただのお客だったのだが、時が経つにつれ、彼らとよく話をするようになっていった。 決定的に仲がよくなったのは、ぼくがモーリスギターをバックにつけ、ミュージックコンテストを開催してからだった。 その時の応募者は十数名だったが、そのほとんどが、そのサークルのメンバーだった。 そこからぼくと彼らの親交は深まっていった。 彼らは自分の夢を語りだした。 みな一様にミュージシャンになりたいという夢を抱いていた。 同じ夢を抱く者として、ぼくは彼らに親近感を抱いた。 「しんたさん、彼女ができました」と言って、彼女を連れてきた奴もいた。 彼らが進学・就職で悩んでいる時には、相談にも乗ってやった。 彼らが大学生になった時には、一緒に飲みに行ったりもした。
そういう付き合いが、彼らが就職するまで続いた。 そのメンバーの中でも、一番プロへの情熱を傾けていた奴が、「しんたさん、ぼくもようやく夢と現実がわかるようになりました。これからは、仕事中心でやって行こうと思います。音楽はやめませんけど、あくまでも趣味にとどめておきます」と言った。 この言葉で、ぼくと彼らの関係が終わったように思えた。 その頃から、彼らは、あまり姿を見せなくなった。
その後、彼らの後輩たちがよく店にやってきたが、彼らのように親密にはならなかった。 ぼくの担当部署が増えたというのもあるが、彼らに先輩たちが持っていた情熱が感じられなかったからだ。 ただ「音楽やってまーす」という人間を、ぼくは好きになれなかった。 例の先輩の「夢と現実」の話を聞きながら、ぼくは「その夢、おれが引き受けた」と思っていた。 その時から、ぼくは再び夢に情熱を傾けるようになっていった。 だから、情熱の感じられない人間を、どうしても好きになれなかったのだ。
さて、昼間あった彼は、現在37歳だと言っていた。 ぼくとは8つ違いである。 子供が二人いるらしいが、下の子が体が弱く、病気がちだと言っていた。 これも現実である。 いまだ夢に情熱を傾けているぼくには、何か遠い世界の出来事のような気がした。
11日のことだった。 その日は忙しく、ぼくは倉庫と売場を行ったり来たりしていた。 夕方、ぼくが倉庫から売場に帰ってくると、例の酔っ払いおいちゃんが座り込んで相撲を見ていた。 いつものことなので、放っておいたのだが、それが間違いだった。 相撲が終わって、おいちゃんはいつものように「ああ、大将すいません。ありがとうございました」と言って帰ろうとした。 「いいえ」と言いながら、ぼくはおいちゃんのいるほうを見た。。 すると、おいちゃんの座っていた場所にタバコの吸殻が落ちているのが見えた。 ぼくが倉庫に行っている隙に、おいちゃんはタバコを吸っていたのだ。 「おいちゃん、ちょっと待ち。あんた、またここでタバコを吸ったね」 「・・・・」 「何回言うたらわかるんね」 「・・・・」 「約束しとったやろ。今度ここでタバコを吸うたら、相撲を見せんち」 「・・・・」 「もう明日から、ここに来たらいけんよ」 おいちゃんは、ぼくが文句を言っている間、子供が叱られている時のように、下を向いて黙ったままだった。 帰り際、おいちゃんは小さな声で「ごめんなさーい」と言った。
これで、おいちゃんもしばらくここには来ないだろう、と思っていたが、甘かった。 翌12日、ぼくは休みだった。 おいちゃんは、ぼくがいないのを見計らって、売場に相撲を見に来た。 そして、またタバコを吸い出した。 売場に女の子しかいないので、文句を言われないだろうと思っていたのだろう。 ところが、うちの女の子は気が強い。 「おいちゃん、タバコ吸ったね」と言うなり、テレビのスイッチを切ってしまった。 おいちゃんはテレビのスイッチの入れ方を知らないらしく、しばらく黙ったままで、そこに座っていた。 たまたま、そこに店長代理がやってきた。 「おいちゃん、どうしたんね?」 「テレビの電源切られた」 「何か悪いことしたんやろ」 「いや、何もしていません」 「テレビが見たいなら、つけてやるけ、おとなしくしときよ」 「はい、わかりました」 結局、おいちゃんは最後まで相撲を見ていたという。
昨日その話を聞いたぼくは、「おれは絶対見せん」と息巻いていた。 おいちゃんもさすがにその空気を察したか、昨日は売場どころか、店の中にも入ってこなかった。
ところが今日、またおいちゃんはノコノコと店の中に入ってきた。 ぼくの売場には近寄らなかったが、ほかの売場に行っては大声を張り上げている。 ぼくが事務所から売場に戻っている時だった。 おいちゃんが前を歩いていた。 いやな予感がした。 そのままぼくの売場に行くのではないだろうか。 ぼくは先回りして、おいちゃんの入場を阻止しようと思った。 が、運悪く、ぼくは他のお客さんに捕まってしまった。 「○○はどこにありますか?」 「ああ、○○はですねえ・・・」 売場に戻るまで、5分ほどの時間を要した。 おそらくおいちゃんは売場に座り込んでいるはずだから、また一戦交えなければならない。 「面倒だなあ」と思いながら、ぼくは売場に戻った。 が、そこにおいちゃんはいなかった。 帰ったか、と思っていると、後ろのほうからおいちゃんの声がした。 「えっ?!」と思って後ろを振り返ると、何とおいちゃんは売場の外から相撲を観戦していたのだ。 売場の外、つまり通路である。 おいちゃんは例のごとく座り込んでいる。 しかし、通路に座り込まれると、他のお客さんが迷惑する。 ぼくは躊躇せず、テレビの電源を切った。 しかし、切られたからといって、ぼくに文句を言うほどの度胸は、おいちゃんにはない。 おいちゃんは「くそー、切られた」と言って、その場を離れた。
閉店まで、おいちゃんは休憩所にいた。 他の人が構ってやるので調子に乗っている。 相変わらず、自慢話をし、誰かが話の腰を折ると、「なめるなよ、きさま」などと言っている。 しかし、ぼくはもうおいちゃんは飽きた。 話をするのも面倒だ。 ぼくが何も言わず、キッと睨むだけで、おいちゃんは目をそらし黙ってしまう。 おいちゃんも、もうぼくの売場に来ることはないだろう。 もし入ってきたら、有無を言わさずつまみ出す。 おいちゃんの小便の始末をしてから、ぼくはおいちゃんに対して、強くなった。 おいちゃんもそれを知っているから、ぼくに頭が上がらないのだろう。 気の小さい子供である。
昨日、お客さんから「今月の5日に修理に出したのだが、まだ直らないか」という電話が入ったという。 ぼくが修理を受付けたお客さんだったのだが、その際ぼくは「1週間から2週間ほどかかります」と言っておいた。 実際のところはメーカーに出してみないとわからないが、だいたいそのくらいが目安である。 昨日ぼくは休みだったため、電話を受けたのはパートさんだった。 そのパートさんは、いったん電話を切り、代理店に連絡した。 ところが、代理店のほうは「そんな修理を受けた覚えがない」という返事だった。 こちらが「こちらからはもう出ているんですけどねえ」と突っ込むと、先方は「じゃあ、今週中に着くでしょう」といい加減なことを言ったらしい。
今日、そのパートさんからその報告を受けた。 そんなことはない。 ぼくはちゃんと5日に佐川急便で出荷したのだ。 伝票を調べ、さっそく佐川急便に電話した。 「5日に出荷した品物の件ですけど、先方がまだ着いてないと言うんですが、どうなっていますか?」 「お問い合わせ番号は?」 「××××ですけど」 「えーっと、その分は5日の日に集荷し、ちゃんと翌日6日の午前9時31分に着いてますよ。なんなら受取りがありますから、FAXで流しましょうか?」 「お願いします」 しばらくして佐川急便からFAXが届いた。
ぼくはパートさんを呼び、「昨日電話を受けた人に連絡して」と言った。 パートさんは、その代理店に電話した。 「もしもし、○○ですが、××さんいらっしゃいますか?」 「はい、××ですけど」 「昨日の件、佐川急便に確認したら、ちゃんと6日にお宅に届いている、ということだったんですけど」 「おかしいですねえ。じゃあ、メーカーに確認とってみますから」 「お願いします」
ぼくはパートさんに、「昨日届いてないと言ったくせに、どうしてメーカーに確認するんかねえ。おそらく、昨日は何も調べんかったんやろうね」と言った。 「そうでしょうね」 「あの代理店は北朝鮮か。ずさんな報告しやがって」 パートさんはそれを聞いて笑い出した。 こういう状況は、今なら北朝鮮に例えたほうがわかりやすいだろう。
結局、先方が調べた結果、修理品は佐川が言ったとおり、6日の午前中に代理店に到着していた。そして、すぐさまメーカーのほうに送ったということだった。 修理品に関しては、完了が15日で、16日にこちらに送ってくるらしい。
それにしても、いい加減な代理店である。 パートさんの話では、電話を受けた人は、若い男性だったという。 何の緊張感も持たずに仕事をしている光景が目に浮かぶ。 おそらく、女子従業員を捕まえて、飲みに行く約束でもしていたのではないだろうか。 それとも、北朝鮮のずさんさを笑っていたのだろうか。
パソコンの前に座ったまま、空しく時が過ぎていく。 今日は別段これといったことはやっていない。 朝、日記の更新がすんだ後に、黒崎に行った。 先日、本屋に注文していたコミックを取りに行ったのである。 今日は車で出かけた。 本を買ったあとで、井筒屋で北海道物産展をやっていたことを思い出した。 前々からバター飴とホワイトチョコレートが食べたかったので、そちらに向かった。 2階の正面玄関から入ったのだが、えらく人が多い。 北海道展の影響かと思いながら、6階にある催場に行ってみた。 「え!?」 北海道物産展などやってないじゃないか。 やっていたのは「冬のワコールセール」だった。 北海道物産展のことを店員に聞こうと思ったが、催場の中に入るのは躊躇する。 幸い、店員がぼくの横にいたので聞いてみた。 「すいません。北海道物産展は何階でやっているのですか?」 「北海道物産展は昨日で終わりましたよ」 「え、そうなんですか」 「はい」 しかたなくぼくは井筒屋を出た。
その後、1時間ばかり黒崎の街をうろうろしていたが、灯油を買わなければならなかったのを思い出した。 いったん家まで戻り、灯油缶を積んだあと、近くの米屋に灯油を買いに行った。 灯油は値上がりしていた。 昨年は1缶498円代だった灯油が、今年は578円になっていた。 2缶買い、家に帰った。
家に帰ってからはすることがない。 ちょっと腹も減ったので、再び外出することにした。 今度は先月末にオープンしたイオンへと向かった。 ここは車で5分ぐらいの場所にある。 今日で2回目だ。 前回はプレオープンの時に行ったので、建物の中はごった返していたが、今日はお客も少なく、ガラの悪そうな高校生ばかりが目についた。 他の店には目もくれず、ぼくは1階にあるレストラン街へと向かった。 が、行ってみて唖然としてしまった。 パスタの店ばかりである。 別にぼくはパスタが嫌いなわけではないが、こうパスタの店ばかりだと興ざめしてしまう。 結局入ったのは、ステーキやカレーの店だったが、ここのメニューにもパスタがあった。 ぼくは、チーズカレー生卵付きを頼んだ。 ここのカレーは石焼きカレーで、ビビンバの入れ物にカレーが入っていた。 味の方はまあまあだった。 しかし、座る場所を間違えた。 あまり人は入ってなかったが、窓際に座りたかったので、ぼくは迷わず窓際に座った。 横には若い男が座っていた。 見た感じは普通の兄ちゃんだったのだが、この人には特徴があった。 癖なのか、病気なのかは知らないが、何秒か置きに口の中で「ゲッゲッ」と言っている。 最初は、こういうのも大変だなあと思っていたが、だんだん聞きづらくなっていった。 ぼくが水を飲んでいる時も「ゲッゲッ」、スープを飲んでいる時も「ゲッゲッ」、カレーを食べている時も「ゲッゲッ」である。 そちらの方に気をとられて、途中からカレーを食べるのもうんざりした。 店に入ってから出るまで、ずっとぼくは「ゲッゲッ」を聞かされた。 食後コーヒーでも飲もうかと思っていたが、コーヒーを飲んでいる時も「ゲッゲッ」を聞かされたらたまらない。 カレーを食べ終わると、ぼくはすぐに店を出た。 「ゲッゲッ男」はまだ座っていた。
さて、カレーを食べはしたものの、何か物足りない。 そこで、パンを買うことにした。 試食で食べたミルクパンがえらくおいしかったからである。 ミルクパンを3つばかりトレーに入れ、レジに並んでいると、再び後ろから「ゲッゲッ」という声が聞こえた。 振り向くと、そこには先ほどの「ゲッゲッ男」が立っている。 もう勘弁して欲しい。 ぼくは支払いを済ますと、さっさとイオンを出た。
家に帰ってから、ミルクパンを食べたのだが、その最中も「ゲッゲッ」が耳について離れなかった。 ああ、いかん。 こんなこと書くんじゃなかった。 また耳の中で、「ゲッゲッ」が始まってしまった。
東京にいる頃、ぼくはよく事件児と呼ばれていた。 今日、ふとそういうことを思い出した。 別にぼくが事件を起こしていたわけではない。 ぼくの周りで事件が起こるのだ。 事件とは言っても、警察沙汰になるような事件ではなく、笑いのネタになるような事件ばかりだったが。
昼間、バックヤードで仕事をしていると、突然「ガッシャーン!」という音がした。 「何かあったんだろうか?」 しかし、それほど大きな音ではなかったので、ぼくはのんびりと歩いて現場に行ってみた。
現場はぼくの売場だった。 じいさんが床の上に座りこんでいた。 手に商品を持ち、何かを探している様子だった。 「どうしました?」とぼくが近寄っていくと、じいさんは「いや、ちょっと転んでしまって」と言う。 その人の後ろの方に、めがねが落ちていた。 ぼくはそれを拾って、「これお客さんのでしょ?」とめがねを手渡そうとした時、あることに気がついた。 床に血が落ちているのだ。 じいさんが手に持った商品にも血が付いている。 よく見ると、じいさんの頭から血がわき出ている。 4,5センチほど切っているようだ。 「お客さん、大丈夫ですか」 「いや、頭をちょっと打ってねえ」 そう言いながら、じいさんは立ち上がろうとした。 ぼくは慌てて、「じっとしといて下さい」と言った。 そして、他の従業員にティッシュを持ってきてもらい、切ったところを押さえていた。 ぼくが「救急車呼びましょうか?」と言うと、じいさんは「いや、大したことはない。頭の怪我は大げさやけねえ」と、20年前に、ぼくが頭を切った時に吐いたセリフと同じことをこのじいさんは言った。 「いや、結構切ってますよ」 「ほう、そんなに切っとるですか」 じいさんはハゲ頭だから、切ったところがすぐにわかる。 「4,5センチくらい切ってますよ」 「ほう」 「病院行ったほうがいいですよ」 「どこの病院に行きますな。 「どこの病院・・・」 「わたしゃ、隣の区の人間だから、この辺は知りませんばい」 「だから、救急車呼んで、病院に連れて行ってもらいましょうよ」 「だから、どこの病院に?」 「・・・」
ぼくはそこにいた女子従業員に、「おい、この辺に外科はないんか?」と聞いた。 「この辺の外科ぁ?」 「知らんか?」 ぼくも、その女子従業員も、じいさんと同じく違う区に住んでいるため、会社近辺にある病院なんて知らない。 「やっぱり、救急車呼んだほうがいいんやないんね」と女子従業員は言った。 すると、じいさんが「いや、もう大丈夫やけ、帰りますばい」と立ち上がろうとした。 「だめですよ。病院に行ったほうがいいですよ」 「だから、どこの病院に?」
「女子従業員は「とりあえず、店長呼んでくる」と言って、事務所に走って行った。 店長が来るまで、その場はぼくとじいさんの二人だけだった。 別に話すこともないので黙っていると、またじいさんは「帰りますばい」と言う。 「打ったところが打ったところだけに、しばらく動かんほうがいいですよ」 ところがじいさんはよく動く。 おまけによくしゃべる。 「しゃがんでカラオケテープを探していたんやけどなかったですわ。ははは」 「じゃあ、立ち上がった時にこけたんですか?」 「そう、立ち上がった時にフラッとしてねえ。で、後ろに倒れたんよ」 「ああ、立ちくらみしたんですね」 「昨日、老人会で神湊に行ったですたい。飲んでねえ。酒がまだ残っとったですかなあ。ははは」 「じゃあ、帰ろうかな」 「え!? だめですよ。じっとしといて下さい」
店長がやってきた。 「どうしました?」 またじいさんは同じ説明を始めた。 店長がじいさんの頭を見て、「うわー、ひどく切ってますねえ」と言うと、じいさんはまた「頭の怪我は大げさですけねえ」と言った。 「家の人は?」 「ばあさんは黒崎に買い物に行っとります」 「じゃあ、救急車呼びましょうか?」 「どこの病院に行きますな」 「それは、救急車の人が決めるでしょう」 「ああ、そうですか」 「じゃあ、呼びますから」 そう言って、店長は救急車を呼びに行った。
しばらくすると、救急車が到着し、担架が運ばれてきた。 救急隊員は、「お名前は?」など2,3の質問をして、意識の確認をしているようだった。 そして、ぼくがずっと手で押さえていた傷口のティッシュをはずし、ガーゼで傷口を塞いだ。 「じゃあ、担架に乗って、仰向けになって下さい」 じいさんは、一人で担架に乗り、「こうですか?」と言って、うつ伏せになった。 「・・・。逆です」 「ああ、逆ですな。ははは」 担架は運ばれていった。
そのあと、ぼくはその辺に飛び散っていた血を拭いて回った。 そのぞうきんは、先日酔っ払いおいちゃんの小便を拭いたぞうきんである。 「小便のあとは血か」などと独り言を言っているところに、昼出のパートさんがやってきた。 「しんたさん、どうしたんですか? 掃除なんかして」 「いやね、・・・」とぼくは、じいさん事件の話をした。 「ああ、それで救急車が来てたんですね」 「今回は、正月みたいに意識不明じゃなかったけよかったけど」 「それにしても、しんたさんの周りで事件ばかり起きますねえ」 言われてみるとそうである。 正月の事件の時も、まずぼくに情報が入った。 イタチ事件の時も、そうだった。 酔っ払いおいちゃんの騒ぎには、いつも巻き込まれている。 それに今回の事件である。 事件児しんたが復活した。 これからどんな事件が起こるのだろう? 楽しみである。
昼食の時、新聞(毎日)を読んでいると、2ページにわたって『九州山口 地方で頑張る日本一の元気企業』という特集が載っていた。 そこには、九州山口に本社があり、何らかの分野で日本一を持つ企業名が羅列してあった。 我が北九州からは、「三井ハイテック」「安川電機」「TOTO」「ゼンリン」の名があがっていた。 「三井ハイテック」はIC部門で日本一らしい。 また、「安川電機」は産業用ロボットで日本一とのことだった。 「三井ハイテック」や「安川電機」は知らない人もいるかもしれない。 しかし、「TOTO」「ゼンリン」は説明の必要がいらないほど、有名な企業である。 特に「TOTO」に至っては世界一である。
まあ、どの企業が日本一などということは、どうでもいいことだ。 今日ぼくが問題にしたいのは、そういう企業が地元にどれだけ貢献しているか、ということである。 確かに、市や県には貢献しているだろう。 税金をたくさん払っていることだし、市が主催している、いろいろなイベントにも参加している。 では、市民県民レベルではどうなのだろう。 例えば、「TOTO]の本社が市内にあるから、市民は『ウォシュレット』を安く手に入れることが出来るのか。 「ゼンリン」の本社があるから、カーナビや住宅地図が安く手にはいるのか。 そういうことは全くない。 ぼくたち市民は、全国の相場で買っている。
また、地元に関連のある企業も同じことが言える。 東芝の電球を作っている工場があるが、北九州市民は東芝の電球を全国の相場で手に入れている。 三菱化学の最大規模の工場がここにはあるが、そこで作っているCD−Rを横流ししてもらっているという話は聞いたことがない。 まあ、八幡製鉄所発祥の地だからといって、個人で鉄を格安で手に入れようとする人はいないとは思うが。
これは北九州に限ったことではない。 辛子明太子の「ふくや」。 ここは福岡市で名前があがっていたが、福岡市民が『ふくやの辛子明太子』を安く手に入れているという話は聞いたことがない。 『ブリジストンタイヤ』を、いくら創業者の出身地だからといって、久留米市民が安く買っているというのも聞いたことがない。 出光の創業者は宗像の出身だが、恩恵を受けているのは宗像大社だけで、その地のガソリンが決して安いわけではない。 県内にトヨタや日産の工場があるからと言って、そこの車を安く手に入れることは出来ない。 それが出来るなら、迷うことなく、工場まで行って車を買うだろう。
何が言いたいのかというと、「市民に貢献して下さい」ということだ。 市民を無視して、何が元気企業だ。 手前味噌なことばかりやって、市民に元気を与えられるとでも思っているのだろうか? お酒だって、酒蔵に行けば安く手にはいるのだ。 どうして企業にそれが出来ない。 そうすることによって、企業と地元のつながりも出てきて、ちょっとしたアイデアや情報の提供、つまり地元の人から元気をもらえることになる。 元気企業とは、地元の人に愛されるの企業のことだ、とぼくは思っている。
2002年11月09日(土) |
おいちゃん、しかぶる |
このところ、毎日のように酔っ払いのおいちゃんが現れる。 今日は昼間から酔っ払って、他のお客さんにからんでいた。 まあ、この間警察に捕まったばかりなので、トラブルを起こすまでは至ってない。 ぼくのいる売場の隣にある、お客さんの休憩所から時折怒号が聞こえてきた。 「コラー、殺すぞ」 しかしいつものようなドスはきいてなかった。 そのうち静かになり、帰ったものとばかり思っていた。 ところが、たまに「コラー、文句あるんか」とか、「せわしいんたい!」などという声がする。 覗いて見ると、おいちゃんは海老のような格好をして寝ている。 休憩所にある団子屋さんに、「また、おいちゃんの怒鳴り声が聞こえたんやけど」と聞いてみると、団子屋さんは「寝言よ、寝言。時々寝たままで何かしゃべりよるんよね」と言った。 「しかし、今日は珍しくおとなしいね」 「うん、そう言われれば、そうやねぇ。来てすぐは、ほかのお客さんに絡みよったけど、いつもの迫力はないねぇ」 「まあ、起きたらまた荒れるやろうけ、何かあったら呼んで」 とぼくは、自分の持ち場に戻った。
それから30分ほどしてだろうか、さっきの団子屋さんが、「しんたさーん」と血相を変えて走ってきた。 「どうしたと?」 「おいちゃんが、おしっこ漏らしとるんよ」 「ええ?! 寝小便したんね」 「うん、床がもうビショビショ」 「わかった、すぐに行く」 ぼくは、バックヤードに行き、ぞうきんとバケツを用意した。
現場に駆けつけてみると、団子屋さんの言うとおり、おいちゃんの寝ているベンチの下は、一面おしっこだらけになっていた。 ズボンの股付近が濡れている。 ぼくが「おいちゃん」と声をかけても、全然起きる気配がない。 しかたなく、ぼくはおいちゃんのおしっこの後始末をした。 そこにいたパートさんが見かねて、「ゴム手袋でもはめて拭いたらいいのに」と言ってくれたが、ぼくは「たかだか、小便やないね。別に毒薬を触るわけじゃないんやけ」と言って、ぞうきんを絞った。
閉店時間になった。 おいちゃんはまだ寝ている。 ズボンはまだ乾いてないようだ。 「おいちゃん。もう時間よー」 起きない。 ぼくは何度かおいちゃんの体を揺さぶっった。 ようやく目を覚ました。 しかし様子が変だ。 普段なら、ここで大声を上げて、「なんか、コラー!」とくるところだが、今日はそれがない。 「おいちゃん、店閉まるよ。早よ帰らな」と声をかけても、ボーっとしている。 おそらく、「ここはどこか?」などと考えているのだろう。 もしかしたら、「私は誰?」と思っているのかもしれない。 顔が腫れている。 声にも力がない。 高校生のアルバイトをつかまえて、「おまえはおれの子供だ」などと訳のわからないことを言っている。
何分か後に、おいちゃんは立ち上がり、ヨタヨタしながら店を出た。 外は寒い。 股の部分は濡れたままだから、応えるだろう。 ぼくたちは、「今からどこに行くんやろうか」「おそらく、警察やろう」「警察が自分の家ぐらい思っとるけね」などと言い合った。
さて、明日は朝一番に、おいちゃんが寝ていたベンチを拭かなければならない。 これが苦痛です。 臭かったからなあ。
はい、今日はぼくの誕生日です。 しかし、公表してなかったのに、なぜわかったんだろう? 昨年何かで言ったのかなあ。 まあ、いいや。
今日で45歳。 あと5年で50歳か。 あっという間だろうなあ。 このサイトも、長くともあと5年で終わってしまうことになる。
今の心境を一休ばりに言えば、「誕生日 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」といったところだろうか。 まあ、長生きというのはぼくの辞書にはないから、「めでたくもなし」というのはないことになる。 ということで、「めでたし、めでたし」である。
めでたいと言えば、昔博多にいた仙涯という名僧を思い出す。 仙涯は、その悟境もさることながら、書画にも優れた人だったという。 ある人が「娘が結婚するので、何か一筆たのみます」と、仙涯のもとにやってきた。 仙涯はさっそく筆をとると、『死ね死ね』と書いた。 依頼人は顔をしかめ、「『死ね死ね』とは、あんまりにございます」と不平を訴えた。 仙涯は涼しい顔をして、「では、続きを書こう」と言い、『と言うまで生きよ 花嫁子』と書き添えた。 『死ね死ねと 言うまで生きよ 花嫁子』 依頼人は、丁重に礼を述べて帰ったという。
「めでたい」を漢字で書くと、「目出度い」となる。 ぼくは小さい頃、よく人から「出目金」などと呼ばれていた。 別に目が出ているわけではない。 ただ目が大きかっただけだ。 小学校も高学年になると、みんなも目が出ているのと、目が大きいのは違うというのがわかったようで、それからは「出目金」などと呼ぶ人はいなくなった。 ただ、相変わらず目にちなんだあだ名で呼ばれてはいた。 「めんぐり」である。 あまり好きなあだ名ではないが、今でもこれをメールアドレスのアカウントなどに使っている。 本当は「しんた」を使いたいのだが、この名前ではなかなかアカウントがとれない。 かといって、他になにも考えつかないから、小学校以来のあだ名でまかなっているわけだ。
「めでたさも 中ぐらいなり おらが春」は一茶の有名な句である。 中ぐらいのめでたさとは、どういうものなのだろうか。 彼の一生を見ると、そういう中庸を保てるような人ではなかったような印象を受ける。 俳句の大家がめでたくて、遺産相続でもめたことがめでたくなかったのだろうか。 そういう場合、人の気持ちというのは負の方に傾くと思うのだが。 もし意中の人から愛を告白されても、家に重病人を抱えていたりしたら、それをハッピーだとは思わないだろう。 「気持ちはうれしいけど、今はそれどころじゃない」となるはずだ。
さて、今日から45歳である。 いいかげん44歳と書くことにうんざりしていたので、しばらくは新鮮な気持ちで年齢を書けることだろう。 また、一級下の者と同学年扱いされなくてすむ。 「しんたさん、失礼ですけど、おいくつですか?」 「44やけど」 「おっ、おれと同い年やん」(急にタメ語である) 「何年生まれ?」 「33年」 「一級下やないか」 というやりとりもしなくてすむ。 めでたいことである。
夜のことだった。 突然、耳の後ろから声が聞こえた。 「おい、今日は何もしなくていいぞ」 「え?!」と思い、後ろを振り向いてみたが、そこには誰もいなかった。 「もしかしたら、天の声かもしれない」、とぼくは思った。 その天の声に勇気を得たぼくは、日記をさぼることにした。
さて、さぼろうとはしたものの、他にすることがない。 最近はまっている浦沢直樹のマンガ『20世紀少年』も、早々と10巻読んでしまった。 そこで寝ればいいものを、明日は休みだからと、つい夜更かししてしまった。 結局、いつもの習い性で、パソコンの前に座ってしまい、「せっかくだから日記でも書こう」となったわけだ。
ところが、それからがいけなかった。 いくつかのソフトをインストールしながら日記を書いていたのだが、突然パソコンが固まってしまった。 全然動かない。 仕方なく強制終了したものの、再起動さえしなくなったのだ。 何度も何度もパソコンをいじくり、どうにか起動できるようになったのは、午前6時だった。 今日はここまでにしておこうと思い、朝起きてから日記を書くことにした。 と、重要なことを思い出した。 金曜日は、朝9時までに会社に行かなければならなかったのだ。 ということは、遅くとも8時には起きなければならない。 「2時間かぁ」 でも少しでも寝たほうがいいと、布団の中に潜り込んだ。
最悪の状態で、8時を迎えた。 とにかく眠たい。 何とか布団から這い出し、顔を洗った。 8時半に家を出た。 何とか9時に会社に着いた。 10時半に仕事が終わり、すぐ家に帰った。
で、家に帰って熟睡、とはならなかった。 相変わらずパソコンの調子が悪い。 増設しているほうのハードディスクが、カチカチ言っている。 おかしいと思い、アクセスしてみると、そこにあったデータが全部消えてしまっている。 そこには、書きかけの7日の日記が入っていたのだ。 再びパソコンとの格闘が始まった。 しかし、午後6時、ついにハードディスクは回復しなかった。 結局、7日の日記を8日の午後7時に書いているわけだ。 仕事には遅れなかったが、日記の方は大幅に遅刻してしまったということになる。
さて、今書いている日記と、本来の日記のテーマは全然違う。 本来の日記には何が書いてあったのだろうか。 今、あまりに眠たいので、全然思い出せない。 さて何だったか? しかし、ポンコツのパソコンのおかげで、眠たいながらも何とか日記を書くことができた。 喜ばしいことである。 そういえば、今日の運勢は「転んでもただ起きない」、となっていた。 これも天の声なんだろうか。
毎年この時期になると、店を休みにして、社員旅行などの催し物がある。 まあ、社員旅行と言っても、日帰りの小旅行に過ぎないのだが。 今日はその日だった。 1ヶ月ほど前に、「バスハイクがいいか、食事会がいいか」というアンケートをとった。 その結果、食事会と決まった。
行き先は、宗像にある玄界灘に面した国民宿舎だった。 この国民宿舎のすぐ前は海水浴場なのだが、季節に関係なく魚を食べに来る人でいつも賑わっている。 ぼくも友人と、何度か食べに来たことがある。 「清酒白鶴まる」のCMの舞台になった漁港のすぐ近くにあるので、魚はいつも新鮮だ。 そんな新鮮な刺身の定食が、1000円程度で食べられるのも魅力の一つになっている。
今日は午前9時に会社集合になっていた。 そこから国民宿舎の送迎バスで、途中みかん狩りをし、宗像大社と鎮国寺に参拝してから、宴会場に向かう、というスケジュールになっていた。 国民宿舎着は12時の予定だった。 最初はぼくもこのバスに乗るつもりでいた。 しかし、バスに人員制限があるのと、早起きしてみかん狩りに行くよりは、ゆっくり寝ていたいという自分勝手な理由から、直接車で行くことにした。 ぼくの家は会社と国民宿舎のほぼ中間に位置しているため、国民宿舎の逆方向にある会社に行く手間を考えたら、直接行くほうが楽である。 また、団体行動をしなくてすむので、好きな時に帰ることができる。
さて、12時半に宴会が始まったが、最初から白けた。 そう、車で来ているので、酒が飲めないのだ。 道路交通法改正前なら少しは飲んでいたかもしれないが、今日は乾杯で飲んだコップ1杯のビールだけだった。 後は、ウーロン茶や緑茶ばかり飲んでいた。 酒なしで魚を食べるということは、ぼくの過去の経験ではなかった。 お茶で食べる魚のまずいこと、脂が乗った魚の脂をお茶が分解してしまう。 そうこうしているうちに、お決まりのカラオケが始まってしまった。 すぐさまぼくは部屋を出、ロビーのテレビで北朝鮮関連の報道番組を見ることにした。
最近、以前にも増して北朝鮮は異常な国だと思うようになった。 いや、あそこは国じゃない。 以前、北朝鮮のことを「カルト国家」と言った人がいたが、それは正しい。 しかし、あそこは国ではない。 2000万人の信者を抱える新興宗教の団体と言ったほうがいいだろう。 近所に新興宗教の教会があったら、そこに住む人が迷惑するように、あの国があるおかげで、東アジアの国々はみな迷惑している。 たちの悪いご近所さんを持ったものである。 昨日のニュースで、「日本が交渉に応じないなら、ミサイル実験の延期を再考する」と言っていたが、彼らにとってのミサイル実験というのは、近所に住んでいるたちの悪い人が、気に入らない人の家の玄関に、小便やうんこをばらまくのと同じ感覚である。 「そういう嫌がらをされたくなかったら、金を出せ」と恫喝してくる。 拉致・核・麻薬・偽札、彼らは金のためには手段を選ばない。 まるでオウムの世界である。 尊師は目が悪かったが、将軍様も目が悪いのだろう。 世界や世の中がまったく見えてない。 あの一連の将軍様を称える歌を聞いた時、ぼくは「ショーコー、ショーコー、ショコショコショーコー」という歌を思い出した。 まだあったなあ、「ショ、ショ、ショ、ショ、ショ、ショ、ショ、ショーコー」、・・・馬鹿らしい。 案外、あの国が崩壊した時に、将軍様は薄暗い隠し部屋で金を抱えて寝ているのかもしれない。
そんなことを考えながらテレビを見ていると、いつの間にか、お開きの時間になっていた。 結局、酒は飲めず、お茶の作用でまずくなった魚を食べ、北朝鮮を見、あげくの果てにオウムを思い出してしまった、年に一度の社員旅行は終わった。 帰りの車の中、まだ頭の中では「ショ、ショ、ショ、ショ、ショ、ショ、ショ、ショーコー」が鳴っていた。
1974年、ぼくが高校2年の頃に、クラスで「幻想の1978」という言葉が流行ったことがある。 1978年に何かが起こりそうな気がしていたのである。 ぼくたちは、いつもそれを話題にしていた。 当時流行っていた人類滅亡にあやかったわけではないが、ぼくたちは真剣にそれを議論していた。 誰かがポツンと「幻想の1978」と口走り、その響きがよかったので流行った言葉であり、別に深い意味があるわけではなかった。
その頃、ぼくたちは1978年を追い続けて、一日一日を精一杯生きていた。 ある者は、期待に胸を膨らませて1978年を語った。 ある者は、悲観した口調で1978年を語った。 ある者は、「このまま歳をとるだけだ」と言った。 クラスの中の誰が、この年を言い当てただろう?
ぼくにとっての1978年。 あまりに、前年の1977年が辛かった。 就学するでもなく、仕事をするでもなく、ただ無為に数ヶ月を過ごした。 その頃友人たちは、みな、その時の自分を持っていた。 その時自分を見失っていたのは、おそらくぼくだけだったに違いない。 暗い暗い毎日だった。 そんな内にこもった日々が1977年だったが、ようやく年末あたりから、外部と接触を持ち始めた。
明けて1978年、幻想の年の幕開けの日、ぼくは大声を張り上げて、歌をうたっていた。 酒を飲んでは、力の限り歌っていた。 まだ、酒の飲み方もろくに知らなかった。 人の迷惑も顧みずに、とにかく歌っていた。
キャンディーズが解散したのが、その年の4月だった。 気がつくと、ぼくは東京にいた。 ギター一本だけ持っての旅だった。 年の暮れ、外部に接触を持ち始めたぼくは、極端にも、まったく知らない人の渦の中にいた。 それが良かったのか、悪かったのか? とりあえず、ぼくは一つの節目を、ぼくなりの極端さで乗り越えていた。
街には「悲しい願い」が流れていた。 「東京ララバイ」が日々を潤していた。 銭湯通いの毎日が続いた。 テレビはなかった。 ラジオだけの生活だった。 21の歳だった。 すべてが初めての経験だった。 楽しくもあった。 悲しくもあった。 そんな日々は活字にもなった。
その夏、郷里では深刻な水不足に悩んでいた。 ぼくは、いつも情報を求めていた。 いつしかぼくには、福岡が切れないものになっていた。
酒も強くなった。 飲み方もうまくなった。 金遣いも荒くなった。 貧乏も充分経験した。 二千円で、一ヶ月を過ごしたこともあった。 確かに強くなった。 個性も確立しつつあった。 自分なりの生き方を探していた時期でもあった。 歌も相変わらず続いていた。 それから始まることを暗示する年でもあった。 決して幻想ではなかった。 土臭い、人間らしい日々の連続であった。
ぼくたちは来るべき日を追い求めて 一日一日を精一杯に生きている。 ある者は、その日がいつであるかを探している。 ある者は、その日の自分を想像している。 ある者は、日々の延長上にその日を置いている。 何が正しいのか 彼らは、彼らの価値観でそれを知るだろう。 そして、その日もまた、過去の一部でしかないことを 彼らは、彼らの人生の中で知ることだろう。
「秋なりき」 かの鎌倉の茶番劇は楽しかりき 北鎌からの道々 ふり向くと皆茶番を演じ たまに世辞笑いを見せにけり 白々しき笑いの続きけり ああ、楽しきかな かの北鎌から続く道々 皆世辞笑いを浮かべけり
これを書いたのは昭和53年だから、もう24年前のことになる。 日付は11月6日になっているが、ここに書いていることは、前日5日のことである。 その日の午前、ぼくたちは東京駅から国鉄横須賀線(当時)に乗り込んで、鎌倉へと向かった。 ぼくたちのグループと、当時はあまり親しくなかったグループとの合同の小旅行だった。 当然、そのグループのことをよく知らないから、どうしても自分のグループで固まってしまう。 かと言って、毎日顔を合わしている仲だから、目が合えば、つい作り笑顔を浮かべてしまうことになる。
北鎌倉駅で降り、茶店で和菓子と抹茶を注文した。 もちろん席は別々である。 グループの代表同士が、「どういうルートで行こうか」などと話し合っている。 結局、そこから寺回りをしながら、鶴岡八幡宮まで歩いて行くことになった。 ゆっくりと歩いて行った。 ゆっくりと、というよりは、トボトボと言ったほうがいいかもしれない。 なぜなら、彼らがいると思うと、何か荷物を背負っているようで、重苦しく感じたからである。 もちろん、グループごとに分かれて歩いている。 途中コミュニケーションも何もない。 時々、お互いの目が合うと、ニヤッと作り笑顔を浮かべるだけである。 ぼくが「何か白けるのう。おれたちだけで来ればよかった」と友人にこぼすと、友人も「そうだね」と相槌を打っていた。 ぼくは、その当時は、かなり人見知りする人間だった。 だから、特に白けていたのかもしれない。 友人は相槌は打つものの、別にどうでもいいという感じだった。
さて、白けたムードで東京に戻り、翌日彼らと会った。 お互い「昨日はどうも」と言いながら、また作り笑顔である。 ぼくは、東京にいる間、この人たちとは友だちにはなれないだろうと思っていた。
ところが翌年、ぼく一人だけが、彼らと急接近することになる。 たしかに、鎌倉に行った当時のグループが崩壊していたこともあった。 しかし、何よりも大きかったのは、ぼくの性格だった。 人見知りだと勝手に思っていたのだが、考えてみると、ただ人の中に溶け込むのに時間がかかるだけの話である。 「安っぽい付き合いはしたくない」という理屈付けはしているものの、根は「人気者で行こう!」なのである。 前のグループの人間からは、「おにいさん、最近付き合いが悪くなったね」と言われたが、そういう自分の性格に気づいたぼくは、もう止まらなかった。 気がついたら、そのグループの中心にいた。 そして、さらにグループの輪を広げていった。
さて、今日ぼくがこんなことを書いたのには理由がある。 実は、明日までに、自己申告書を会社に提出しなければならないのだ。 その自己申告書の中に、『自分の性格』を書く欄があるのだが、そこでいつもつまずいてしまう。 特に自分の性格を振り返ることもないので、だいたい「温厚、誠実」などと心にもないことを書いてしまう。 今年は気の効いたことを書いてやろうと思い、ちょっと自分の性格を省みたわけである。 ということで、今年は、「根は『人気者で行こう!』です」と書こう。
「ああ友と よき酒を 時を憂いて飲みあかしたい 今も昔もこの酒つげば心地よし」(詞 吉田拓郎『我が良き友よ』より)
確か高校の卒業アルバムに、この歌詞が載っていた記憶がある。 ぼくは、数ある拓郎の歌詞の中でも、ここの部分が一番好きである。 また、いつも秋になると、この歌のこの歌詞が、頭の中で鳴っている。
高校時代、一番楽しかったのが、2年の秋だった。 おそらく、高校時代のすべてが、この時期に集約されている。 運動会が終われば、真面目に参加しなかったにもかかわらず、打ち上げキャンプをやり、修学旅行が終われば、反省会(何の反省か?)をかねた打ち上げキャンプをやった。 キャンプはいつも、学校の裏にある皿倉山(北九州市のシンボル的山)の中腹でやっていた。
最初のキャンプは、10月の頭だった。 テントと酒だけを用意して、各自好き勝手なことをやっていた。 酒が好きな人間は酒を飲み、バイク好きな人間はバイクを転がし、説教好きな人間は説教していた。 ぼくはといえば、ギターを弾きながらガンガン歌っていた。 あの時歌ったのは、拓郎の一連の歌や、陽水の『断絶』『東へ西へ』『能古島の片想い』、泉谷しげるの『春夏秋冬』『おー脳』などだった。 声を張り上げて歌っていたせいで、2,3日声が出なかった。 また、タバコを覚えたのもこの時だった。 初めて吸ったタバコは、ハイライトだった。 初めて吸った時に、倒れたとか吐いたとか、人はいろいろ言っていたが、ぼくの場合、酒が入っていたせいか、まったくそんなことはなかった。 ただ、味はなかった。 タバコのおいしさを知るのは、それから3年後である。
そういえば、修学旅行の打ち上げキャンプは、11月2日3日だったと記憶している。 ちょうど今日のような寒さで、震えながら酒を飲んだのを覚えている。 さすがに初回の運動会の打ち上げほどには人は集まらなかったが、楽しかった。 この時もぼくは、ギターを弾いてガンガン歌っていたのだが、何よりも楽しかったのは、みんなと話せたことである。 教室では聞けない話を聞いたり、将来について語り合ったり、充実したキャンプだった。 その時ぼくは、「10年後も、20年後も、こいつらといっしょにキャンプしたいなあ」と思っていた。 しかしその後は、3年の夏休みに一度キャンプをしただけで、それから後は一度もキャンプをすることはなかった。
『我が良き友よ』が流行ったのは、高校2年の冬だった。 このキャンプより、少し後に流行ったことになるが、ぼくはこの歌のこの歌詞を聴くと、いつもその頃のことを思い出す。 その時集まった、一人一人の顔が、今でも目に浮かぶ。 みんな歳食って、40面を提げ、女房子供に手を焼きながらも生きていることだろう。
ところで、この『我が良き友よ』は、残念ながら、同時期に『22歳の別れ』が流行っていたため、邦楽のベスト10部門では1位にはなれなかった。 しかし、ぼくの中では堂々の1位だった。 当時は『22歳の別れ』を聞いて、「こんな軟派な歌なんか嫌いだ」と思っていたものだった。 しかし、時が流れて、改めて『22歳の別れ』を聞いたとき、「何といい歌なんだ」と思ったものだ。 同じような境遇の歌に、キャンディーズの『春一番』がある。 この歌も、同時期に『およげ!たいやきくん』が流行っていたために、1位にはなれなかった。 が、ぼくの中では堂々の1位でだった。 しかし、『およげ!たいやきくん』は時が流れても、いい歌だとは思えない。 実に残酷な歌である。
<緊急報告> 長らくお世話になった、ASAHIネットによる『頑張る40代!』を、お終いにしようと思っています。 その件については、近々日記か何かでお知らせします。
2002年11月02日(土) |
酔っ払いおいちゃん、逮捕される |
夕方だった。 突然、聞き覚えのある怒号が聞こえてきた。 「こら、きさま〜。なめとるんかっ!!」 お客さんの休憩所からだった。 ぼくは走ってその場所まで行った。 案の定だった。 聞き覚えのある声の持ち主は、酔っ払いのおいちゃんだった。 久しぶりの登場である。 おいちゃんは、ベンチで惣菜を食べながら、酒を飲んでいた。 「おいちゃん、何大きな声出しよるんね。他の人が迷惑するやろ」 「あ、大将。すいません。でも、子供が生意気なこと言うもんで」 おいちゃんの視線の先には、4.5歳くらいの小さな子が二人いた。 脇には二人のじいちゃんらしき人が座っていた。 「生意気なことっち、まだ子供やん。いい歳して子供相手にケンカなんかしなさんな」 おいちゃんは、「はい、すいません」と言いながら、また子供に向かって、「こら〜! 前科者をなめるなよ」などと凄みだした。 「前科者やないやろ、小心者やろ。いらんこと言いなさんな」 「はい。もう言いません」 「本当やね。大人しくしときよ」 「はい、すいません」
ぼくの姿が見えなくなるまで、おいちゃんは静かにしていた。 が、ぼくが売場に戻ると、子供の泣き声がしてきた。 それから、今度は違う声が飛んできた。 「こら、きさま。子供を泣かせやがって! 表に出れ!」 「何を〜!」 ぼくはまたおいちゃんのいる場所に走って行った。 おいちゃんに絡んでいたのは、子供のじいちゃんだった。 今度は人が入って止めていた。 じいちゃんには、娘が「お父さん、もういいけ帰ろう」と言っている。 しかし、じいちゃんの怒りは収まらない。 おいちゃんには店長代理が「おいちゃん、人に迷惑かけるなら出て行き」と言っている。 しかし、おいちゃんは言うことを聞かない。 「おれが悪いことしたか!」 ぼくが「人に迷惑かけよるやないね」と言うと、おいちゃんは「子供がこちらを見るけたい!」と言い返す。 「じゃあ、こっち側向いとったらいいやん」、とぼくは子供と逆の方向を指差した。 おいちゃんは黙った。 ぼくは、じいちゃんに「すいません」と謝ったが、じいちゃんはまだ怒りが収まらないのか、おいちゃんを睨みつけながら外に出て行った。
それからしばらくして、またおいちゃんの騒ぐ声が聞こえた。 が、だんだんおいちゃんの声は遠のいていった。 「どうしたんだろう」と思っているところに、店長代理がやってきて、「おいちゃん、逮捕されたよ」と言った。 「逮捕ですか」 「うん、あのじいちゃんが連絡したみたい。よっぽど頭にきたんやろうね」 「かわいい孫を泣かされたからですね」 「ま、これでまたいっとき来んやろ」 「案外、作戦やったかもしれんですね。今日は寒いけ、警察で寝たかったんやないですか」 「ああ、そうかもしれんね」
ところで、酔っ払いのおいちゃんは、いつも地下足袋を履いているのだが、その格好といい、頭の形といい、『あしたのジョー』に出てくる丹下段平に似ている。 これからは、矢吹丈ばりに「おっちゃん」と呼ばなければならない。 しかし、段平おっちゃんはボクシングの優秀なコーチだが、こちらのおっちゃんは何をコーチしてくれるんだろう。 強いてあげれば、酒のコーチか。 「立つんだ、ジョー」ではなく、「飲むんだ、しんた」となるわけか。 しかし、おっちゃんのように酒を飲みながら小便をちびる芸当は、ぼくには到底出来ない。 だめな弟子である。
いよいよ11月になった。 11月はぼくの誕生月なのだが、ぼくにとってあまり良いイメージの月ではない。 振り返ってみると、この月はそれほどいいことがなく、かといって悪いこともなかった。 なぜ良いイメージがないのかと考えてみると、それは天候が大きく作用しているように思われる。 ぼくの記憶の中の11月の天候は、曇りのち時雨、時々晴れである。 今日の天気がいい例だ。 午前中は今にも振り出しそうな天候だった。 午後からは晴れたものの、快晴状態はあまり続かず、大半は雲の合間に青空が覗いていた程度だった。
小学生の頃は、よく誕生会をやっていたが、決まって雨が降っていた。 その後も、誕生日といえば、曇りか雨である。 東京にいた頃、仲間が誕生日を祝ってくれた時も、そういう天候だった。 それに加えて、これといったいい思いもしてない。 高校の頃、誕生日にある友人から、最悪のプレゼントを受け取ったことがある。 その友人が、「彼女ができた」と言うのだ。 「ふーん、よかったやん。で、誰?」 「○子」 (え・・・!?) ぼくは顔では表情を変えなかったが、心の中は真っ暗になった。 「○子」、ぼくの好きな人の名前だった。 その日も雨だった。 ぼくはけっこうイメージを引きずるほうなので、ぼくの持つ11月のイメージというのは、そういう誕生日の思い出からきているのかもしれない。
ああ、もう一つあった。 ぼくの住む八幡地区には、11月に八幡製鉄所の創業(1901年11月18日創業)を記念した、起業祭という祭がある。 この祭の間、八幡製鉄所の工場見学ができ、街にはたくさんの出店が出る。 今は行われなくなったが、以前はサーカスやモーターショーなどもやっていた。 現在、この祭は11月2日から4日まで行っているが、以前は創業日を尊重して、17日から19日まで行っていた。 中日の18日は学校も休みだった。 小学生の頃、17日になると、先生が校内放送で「明日は起業祭で学校はお休みです。・・・。起業祭に行く人は、厚着をして行くように」と言っていた。 起業祭の頃は寒かった。 ぼくもコートやオーバーを引っ掛けて、出かけたものだった。 今でも、ぼくの年代から上の人は、よく「昔は起業祭には雪が降りよった」と言う。 たしかにその頃は、よく雪やみぞれが降っていた。 寒いのが大嫌いなぼくが、そんな寒い時期の祭にいいイメージを持っているはずがない。
そういう、あまりいいイメージを持ってない誕生月、11月が今日から始まった。
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