今日の午前中、一本の電話が入った。 「もしもし、Iですけど」 知り合いのI刑事からだった。 「署の洗濯機が壊れたっちゃねえ。引き取りしたやつでいいんやけど、使えるやつないかねえ?」 「さあ?確かめてないけ、使えるかどうかはわかりませんけど」 「まあいいや。うちの者行かせるけ、よろしくね」
今日は商品が大量に入荷する日で、朝から大忙しだった。 気がつけば、商品の検品や荷出しをしているうちに午後になっていた。 仕事が一段落し、ちょっと一息入れていると、「しんたさーん、お客さまでーす」と呼び出しがかかった。 行ってみると、体格のがっしりした坊主頭の男性がいた。 「しんたさんですか?」 「はあ」 「Iさんの紹介で来ました」 「ああ、聞いてます」 そしてぼくは、坊主刑事と一緒に大型ゴミを捨ててある場所に行った。 そこにはもう一人の刑事さんがいた。 顔は若いが、眼つきの厳しい人であった。 ぼくの顔を見るなり、眼つき刑事は「あ、お世話になりまーす」と挨拶をした。 「こちらこそお世話になりまーす」と、ぼくは返した。 そして、使えそうな洗濯機を探した。 大型のゴミ捨て場は、外部からの投棄を防ぐために、金網で囲ってある。 畳にして四畳半のスペース。 その狭い金網の中を、大柄の男が三人でゴソゴソやっている図というのは、異様なものがあっただろう。
この異様な風景を、遠くから眺めている人がいた。 よく見ると、うちの部門の取引先の人であった。 ぼくが気がつくと、その人はこちらに近づいてきた。 「こんにちは。しんたさん何やってるんですか?」 「実は・・・。あ、ここでは何やけ、ちょっとこっちに来て」と、他の場所に移動した。 「どうしたんですか?」 ぼくは声を潜めて「あの人たち刑事なんですよ」と言った。 「え!!何かあったんですか?」 「ちょっと前に殺人事件があったでしょ」 「え?そんなことありましたかねえ」 「あったやないですか」 「あ、ああ」 「それでその殺人現場になったのが、うちが洗濯機を配達した所だったんですよ」 「え、そうなんですか!!」 「その犯人がまだ捕まってないんですよ。それで、何か手がかりはないかと、事件の前にうちで引き取った洗濯機を調べてるんです」
ぼくたちがヒソヒソ話をしていると、坊主刑事が「しんたさーん、これ持って行きます」と言った。 「ああ、それですか。どうぞ持って行って下さい。お役に立ててよかったです。ご苦労様です」 ぼくは隣にいた取引先氏に「どうやらあれやったみたいですね」と言った。 「そうみたいですね」 「そういえば、あの洗濯機には髪の毛がついとったなあ・・・」 「・・・」 取引先氏は無口になってしまった。 かなり信じ込んでいる様子で、顔が引きつっているようにも見えた。 それを見て、ぼくは何か申し訳ないような気分になり、「冗談ですよ。冗談」と言い、いきさつを説明した。 取引先氏はやっと笑顔を取り戻したようだった。 きっと真面目な人なんだろう。 悪いことしたなあ。
2002年02月27日(水) |
そろそろ卒業の時期ですね |
「雪は残り花は遅れていた しかし彼らは知り尽くしていた ひとつの旅が終わったことを
みんなどこでもいいから吹き飛びたいと言った というのも彼らの行くところはなかったから ひとつの旅が終わった時に
薄暗い空から、雨も降り始めていた でもちょっと見回すと 晴れ間も見えていた
誰かが死んでもいいと言った でももう死ぬところもないだろう ひとつの旅が終わっているから
何かひとつ元気が欠けた 大人たちは喜んだ ひとつの旅が終わっていた
薄暗い空から、雨も降り始めていた でもちょっと見回すと 晴れ間も見えていた
雪は残り花は遅れていた しかし彼らは知り尽くしていた ひとつの旅が終わったことを」
この詩を書いてから、もう26年が経つ。 詳しく言えば、この詩は昭和51年3月1日に書いたものである。 そう、この年この日にぼくは高校を卒業した。 ぼくは卒業式の最中、体育館の窓からずっと空を見ていた。 その日は小雨のぱらつく曇天の日だった。 たまに雲の隙間から日が差し込むのだが、何か気の落ち着かない時間だった。 うっすらと希望は見えているのだが、不安のほうが重くのしかかっていた。 そういう気持ちを表すのにもってこいの天候だった。 この日からぼくは、学生でもなく、社会人でもない生活を5年間強いられることになる。
誰しも過去を振り返る時、真っ先に思い起こす時代というものがある。 ぼくの場合、その理由は定かではないが、なぜかこの日から始まる2年間が思い起こされる。 年齢でいえば、19歳前後である。 その19歳前後の思い出というのは、「あの日、ハエを何匹殺した」とか「あの日、石炭と間違えて猫のうんこを掴んだ」などという出来事だけでなく、その時その時の考え、いや気分まではっきりと覚えている。 もしかしたら、ぼくの心はいまだにその時代に住み着いているのかもしれない。 今の自分は、19歳の心が経験という服を着ているだけではないのだろうか。 落ち着きのなさも、物事に対する雑さも、ほとんど19歳の頃と変わってないような気がする。 よく「しんたさんは頭が白いわりには若いね」とか「とても44歳には見えない」などと言われるが、それはぼくがまだ19歳であるからだ。 こう考えれば、その後ぼくがやらかしたこと、すべてが納得できる。 会社のお偉いさんが朝礼でお言葉をたれている最中に、「異議あり!」と反論して左遷の憂き目にあったことも、11年勤めた会社を考えもなしに突然辞めたことも、金遣いが荒いのも、いまだいたずら好きであるのも、19歳と思えばすべて納得がいくものである。 いまだにうっすらと希望は見えているのだが、不安のほうが重くのしかかっているというのも、ぼくがまだ19歳であるからだ。
どうして19歳なんだろう。 よりによって、今まで生きてきた中で一番辛かった時期を思い起こさなくてもよさそうなものなのに。 例えば、一番楽しかった17歳の頃とか思い浮かべてもよさそうなものである。 しかし、自分史の歴史区分をすると、ぼくにとって高校時代というのは「明治維新以前」つまり「プレ近代」なのである。 何か浮世離れしているのは否めない。 今に直接つながる時代というのは、どう考えても「維新以降」、つまり19歳以降ということになる。 じゃあ、「維新」というのはあったのだろうか? ぼくは高校の卒業式を「維新」と捉えている。 「卒業式の最中、体育館の窓からずっと空を見ていた」ことこそが、ぼくにとっての革命だと思っている。
2002年02月26日(火) |
菅原道真公 御神忌 一千百年大祭 |
2月25日、旧暦の日にちなのか、新暦で換算した日にちなのかは知らないが、この日は菅原道真公が亡くなった日ということである。 太宰府天満宮では、この日を菅公が「亡くなった日」と言わずに、「天神さまになった日」としている。 菅公は903年に亡くなっているから、今年でちょうど1100年経つ。 ということで、天満宮では「菅原道真公 御神忌 一千百年大祭」というのを催している。 こちらのテレビやラジオでは、去年から頻繁にこの祭のCMが流れている。
菅公といえば「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」という歌が有名である。 しかし、それ以上に有名なのが「白紙に戻そう遣唐使」である。 いかに歴史嫌いの人でも、一度は目にしたことがある言葉だろう。 これは別に菅公が言った言葉ではない。 1000年以上後のアホな学生が、年表を覚えるために作った語呂合わせである。 もちろん、遣唐使の廃止は菅公が建議したことなので、大いに関係のあることではある。 その頃は要職にあり羽振りのよかった菅公も、それから7年後、藤原氏の陰謀で大宰府への左遷を憂き目に会ってしまう。 その大宰府では、ほとんどあばら家状態の官舎をあてがわれたということである。 その後ヒッキーになった菅公は、それから2年後の昨日、「都に戻りたい」という無念を残して死んでいく。 菅公の遺体を乗せた牛車が止まって動かなくなった所が、現在の太宰府天満宮の建っている場所だという。
福岡県人のぼくとしては実に面白くない話である。 だいたい「大宰府行き=左遷」という図式は何か! 右大臣より下の位になったから左遷なのであって、大宰府に行くことが左遷だということにはならないはずだ。 こんな歴史を残すから、後世九州は最果ての地というイメージで捉えられるようになるんだ。 以前ぼくは、「横須賀のほうでは、九州に行ったら熊が出ると言ってるよ」と横須賀のおばさんが話していたのを聞いたことがある。 九州のどこに熊が出るのかは知らないが、ぼくの住んでいる北九州は、イタチは出るけど熊は出ない。 隣の宗像市でもイノシシがやっとである。 熊にお目にかかろうと思えば、動物園か阿蘇の熊牧場に行くしか方法はないだろう。 さらに野生の熊を見ようと思ったら、よほどの山奥に行かないと見れないはずである。 どの地方に住んでいようと、これは同じことではないのだろうか。 当時の筑紫(福岡)というのは、大陸との貿易で栄え、いわば流行の最先端をいっていた場所である。 仕事だけで捉えると左遷かもしれないが、そこでは都にはない新しい文化があったはずだ。 菅公は都で得た知識だけを善しとしたのだろうか? 学者としての自分を捨ててまで、出世に執着したのだろうか?
「遠(とほ)の朝廷(みかど)」という言葉がある。 その当時の人は大宰府のことをそう呼んでいたらしい。 遠くにある朝廷(今で言えば福岡本店などというのと同意か)と見なしてそう呼んでいたというのだが、これには異説がある。 「遠」を「遠い場所」という意味で使っていたのではなく、「遠い時代」という意味で使っていたというのだ。 つまり「遠い時代に朝廷のあった所」という意味である。 もしそうであれば、菅公は古都に行って嘆いたことになる。 現代風に言えば、京都に転勤して嘆くようなものである。 まあ、望郷の念はわかるにしろ、菅公はそんなに大宰府が嫌いだったのかなあ。 福岡県は菅公にちなんで、というより気を遣って梅の花を県花にしているのに。 それに県内には菅公ゆかりの地というのが多くある。 北九州市戸畑区に菅原神社という神社がある。 ここは京から大宰府へ赴任する途中に、菅公が足を洗った場所だという。 まるで、「好きな芸能人と握手した手を洗わない」、というファン心理のようなものじゃないか。 県民はここまでして菅公を慕っていたのに、菅公の目はいつも京を見ていたわけだ。 何か寂しい気がするものである。
ああ、そうか! その当時にはまだ「とんこつラーメン」がなかった。 それが菅公は面白くなかったんだ。 さらに、「中洲」がなかったから腐ったんだ。 もし菅公が1100年後に生きていたとしたら、きっと進んで福岡に行きたがったに違いない。 そう思うことにしよう。
昨日の件だが、2,3腑に落ちないことがある。 Tさんに通報してきたお客のことである。 たしかに段ボール箱は駐車場に置いてあったのだが、それは車を停めるのに支障をきたすような場所に置いていたわけではない。 車止めの向こう側にあったのだから。 それに、この段ボール箱は、どこにでもある箱だった。 他のお客も、そこに箱があるのは知っていたはずだ。 しかし、他の人は誰も言ってこなかった。 おそらく、「お店なんだから、別にこういう箱があってもおかしくない」と気にしなかったのだろう。 もしぼくが見つけていても、気にせずに放っておいただろう。 それなのになぜ、そのお客は気になるんだろう?
他のお客さんが気にしなかったのではなく、他のお客さんが来るまでその箱はなかった、ということも考えられる。 ということは、その箱を置いたのは・・・。 裏付けはある。 実は今日、そのお客がまた現れたらしい。 そして、「あのう、昨日の箱はどうなりましたか?」と聞いてきたという。 怪しい。 犯人は犯行現場に戻るという。 昨日駐車場でぼくがドキドキしている時、そのお客は横でボーっと突っ立っていた。 あの時「警察呼ぼう」と言えばよかった。 そして、そのお客の反応を見るべきであった。 残念なことをした。
ところでぼくは今日、朝から店長と会うのを楽しみにしていた。 店長はぼくを見つけると、案の定「昨日何があったんね」と聞いてきた。 ぼくは昨日の日記の順番通りに、わざとゆっくり説明した。 し「ほんと、大変でしたよ。 12時ごろやったかなあ。 お客さんがTさんにですねえ・・・・。 ・・・・ですよ。 それで、駐車場に行ったんです」 店「で、中身は何やんったん?」 し「それでですねえ、・・・・」 店「で、中身は?」 し「やっぱり、こういう時は誰でも怖いでしょう? そこで、箱をですねえ・・・・たんです」 店「もう、中身は何なんね?」 せっかちな店長はイライラしだした。 店長はわかりやすい人で、イライラすると顔が赤くなるのですぐにわかる。 なおもぼくは、「それでですねえ・・・・」を繰り返した。 そして、最後に中身を教えた。 店長は大きな声で「イタチー?!」と言った。 今度は憤慨して顔が赤くなった。
店長と話すのは実に楽しい。 店長が休みの時に、またこういう事件が起こらんかなあ。
2002年02月24日(日) |
うちの店の駐車場は、ゴミ捨て場ではない! |
店で困った問題が起きている。 ぼくの働いている店は、2Fが駐車場になっているのだが、最近そこがゴミ捨て場になっているのだ。 昨日の朝、ぼくがいつものように2Fの駐車場の鍵を開けに行ったところ、市の指定のゴミ袋に入ったゴミが捨ててあった。 もはやカラスに荒らされた後なのか、ゴミはいたるところに散らばっていた。 清掃のおばちゃんがさっそく駆けつけ、「何もこんな所に捨てんでも、よさそうなものなのに。ちゃんと指定日に出せ」などと、ブツブツ言いながら片付けていた。 これまでも、タバコの吸殻を大量に捨てていたり、コンビニやホカ弁の袋にゴミを包んで捨てていた例はあるが、今回のような本格的なゴミは初めてのことだった。
さて、今日の話である。 午前中わりと暇だったので、テレビでオリンピックを観戦していた。 そこに隣の売り場のTさん(女性)がやってきた。 「しんたさん、手が空いてたら、ちょっと来て欲しいんやけど」 何だろうと聞いてみると、「お客さんが、2Fの駐車場に不審な箱が置いてあると言ってきたんよ。行って欲しいんやけど」と言う。 ぼくはそれを聞いて、すぐさま頭の中で「不審な箱」を検索してみた。 検索結果は「爆発物」であった。 おそらく最近「不審な箱」と聞いて、「爆発物」を連想しない人はいないんじゃないだろうか? ちょうど通報したお客さんも一緒にいたので、詳しい話を聞いてみた。 「何かゴソゴソ動いているんです」と言う。 そこでまたぼくは、頭の中で「不審な箱 ゴソゴソ動く」を検索してみた。 「動物」という結果が出た。 さらに検索していくと、「子犬、猫、ネズミ、ヘビ、イグアナ・・・」という結果が出た。 「さて何だろう?」ということで、現場に向かった。
現場に着いてみると、そこには一升ビンが6本ほど入る月桂冠の段ボール箱が置かれていた。 封は開いていたが、ビニールのひもでくくってあった。 中身が何か確認しなければならない。 そう思ったとたん、心臓が高鳴りだした。 考えてみれば、こういう役回りはいつもぼくにやってくる。 人が倒れていた時も、酔っ払いが暴れていた時も、いつも汚れ役だ。 「損な運命を背負っとる」と思いながら、ひもをずらして箱のふたに手をかけた。 心臓は相変わらず高鳴っている。 「待てよ」 ぼくはふたから手を離し、顔を箱に近づけ、犬や猫を呼ぶ時のように、舌を鳴らしてみた。 「チ、チ、チ」 「・・・」 「チ、チ、チ」 「・・・」 反応はない。 「しかたない。開けるか」 もう一度、ふたに手をかけた。 「いや、待てよ」 また手を離し、今度は箱を軽く蹴ってみた。 「・・・」 もう一度蹴った。 「・・・」 反応がない。 「しかたない。開けるか」 再度、ぼくは箱のふたに手をかけ、「損な役回りやのう。もうどうにでもなれ!」と思いながら、片方のふたを開けた。 「!?」 中には、何かビールケース、いや牛乳ケースのようなものが入っていた。 中を覗いてみたが、暗くてよくわからない。 におってみると、やはり何か生き物が入っているのだろう。 糞のような臭いがした。 ケースの前にたたずんでいたが、どうしてもその牛乳ケースのようなものに触る気がしない。 触れたとたんに「バーン」となるかもしれない。 ヘビが出てきて、手を噛み付くかもしれない。 いろんな思いが、ぼくにケースを触らせようとしない。 このままそこにいても埒が明かないから、ぼくは箱を閉じ、それを1Fの事務所前の商品搬入口まで持って行くことにした。 抱えてみるとそれほど重いものではなかったが、いつ「バーン」と鳴るかと思うと、あまりいい気持ちはしなかった。
搬入口に着くと、ちょうどそこには店長代理がいた。 「しめた」と思い、「この箱が2Fの駐車場に放置してあったんですけど」とぼくは言った。 「何それ?」 「さあ?中に牛乳のケースのようなものが入ってるんですけど。それに何か生臭い」 「そこに放っとき」 「そういうわけもいかんでしょう」 「じゃあ、開けてみようか」 ということで、二人で開けてみることにした。 ひもをカッターで切り、ふたを全開した。 しかし、やはり中が暗くてよく見えない。 代理が懐中電灯を持ってきて、箱の中を照らしてみた。 「あっ!」 愛くるしい目がこちらを見ている。 黄土色の小動物、イタチである。 ぼくはイタチが街中を駆けていくのを何度か見たことがあるが、こうやってじっくり顔を拝むのは初めてのことだった。 牛乳ケースのようなものは、罠であった。 足を挟まれて動けなくなっているようだ。 よく見ると、足が一本取れ、血が流れている。
代理とぼくは顔を見合わせて、「どうしようか」と言った。 「死んどったら、生ゴミとして出すことも出来るけど、生きとるしねえ」 「離したら、一発かまされるやろうし。警察に届けましょうか?」 「いや、イタチぐらいで警察は来んやろう」 「でも、不法投棄ということで、一応知らせとったほうがいいんやないですかねえ」 「あ、そういえば、ネズミ駆除とかする所を知っとるけ、聞いてみよう」 代理はさっそく電話をかけた。
「今日の夜、引取りに来てくれるらしいよ。黒い袋で包んどってくれと言うことやった」 そこで店にあった黒い袋で包んだ。 「このままじゃ、不審がられるけ、一筆書いときましょう」とぼくは言い、“中には、罠にかかったイタチが入っています”と白い紙に赤字で書き、その箱に貼っておいた。
夜になって、業者がイタチを引き取りに来た。 「しかるべき場所に捨ててくる」ということだった。 これで、一応この事件は解決したわけである。 が、問題はまだ残っている。 だいたいどこのどいつが、この箱を放置していったんだろう? 自分で捕まえたのなら、自分で始末しろ! そういう処理の仕方も知らない、スーパーの駐車場に放置して何が面白いんだろうか。 生ゴミでもうんざりしているのに、もういいかげんにしてもらいたいものである。 常識をわきまえろ!!
さて閉店後、今日用があって休んでいた店長からぼくの携帯に電話があった。 店「終わった?」 し「今から閉めます」 店「今○○店におるけ、そこに売り上げ流すように代理に言うとって」 し「わかりました。そう言えばいいんですね。ところで、今日大騒動があったんです」 店「え?」 し「不審な箱が2Fの駐車場に放置してあって・・・」 店「何が入とったん?」 し「それが大変なものやったんです」 店「警察呼んだ?」 し「いえ、呼んでませんけど」 店「何やったんね?」 し「今日は言えません。明日言います」 と、ぼくは電話を切った。
店長は気になって、今頃眠れないでいるだろう。
<謀将小泉> 案外真紀子更迭というのは、首相が仕組んだ罠だったのではないだろうか? まず、真紀子を更迭し、宗男議員が外務省に大手を振って出入りできる環境を作る。 そこで宗男を泳がせておき、馬脚を現すのを待つ。 その間、あえて何も言わず、秘密裏に情報を得る。 そういう情報を、自らが疑われることがないように、こういうことが好きな共産党に流し、そして言わせる。 宗男議員は議員辞職。 内閣解散。 第二次小泉内閣において真紀子は内閣復帰。 再び小泉内閣は支持率を上げる。 もし、一連の騒動の中にこういう意図が隠されているとしたら、小泉さんという人はかなりの策士である。
<裏オリンピック憲章> ・まず、オリンピックは白人が始めた、白人のためのスポーツの祭典である、という基本を忘れてはならない。 ・有色人種には、なるべく金メダルを与えないようにしなければならない。 ・もし、ある競技で有色人種が優勝した場合は、次の大会までに、彼らが不利になるようなルールを作らなければならない。 ・審判団は、オリンピックがいかにアメリカに支えられているかを理解しておかなければならない。 ・採点競技において、もしその競技にアメリカ人の優勝候補者がいた場合は、よほどのミスがない限り、アメリカ人を優勝とすること。 ・アメリカ選手の優勝候補者が二人以上いる場合は、白人であることが優先されるのは言うまでもない。 ・アメリカ人選手の演技のみ、観客に歓声を上げさせ、審判の印象をよくする工夫が必要である。 ・アメリカ選手各個人の判断は常に正しいのであるから、審判は謙虚に彼らの言い分を聞き、彼らが有利になるように動きなさい。
<大企業病> うちの母親は以前シルバー人材センターの仕事をしていたが、その時によく「大企業や公務員出身の人ほど仕事をしない」と言っていた。 ことあるたびに「私は以前○○で働いていた」と自慢し、ほかの人を見下す態度をとるらしい。 当然その人一人だけ浮いた存在になり、辞めていくパターンが多いそうだ。 取引先や下請け業者をあごで使っていく過程で、働くという意味を履き違えていったのだろう。 まあ、そういう企業の体質はいかんともしがたいものがあるのかもしれないが、せめて「実社会」に出た時の最低のマナーくらいは勉強してほしいものである。 こういう人たちに限って、「大企業(公務員)出身だから私は偉い」と勘違いしている人が多い。 まずここから改めなければならない。 「企業はその人の人格や能力を表すものではない」ということを知る必要があるだろう。 これと似たようなもので、出身大学のプライドというのもある。 官僚の中には「東大卒以外は人間ではない」と思っている人間が、実に多いと聞く。 こういう人たちも、「東大に入ったのは、東大に入る才能を持っていたというだけのこと。決してそれは社会的な能力や、人物の大きさに関する尺度にはならない」ということを覚えておいたほうがいいだろう。 学校の成績がいいことを「頭がいい」「偉い」と表現する風潮は、もういいかげんにやめてほしいものである。 そういう風潮が、こういう馬鹿を生んでいるのだから。
さあ始めよう。 今日も上り坂だけど、明日は早出だからそうも言っていられない。 早く書いて、早く寝ることにします。
20日が給料日だったので、今日は銀行に行ってきた。 約一ヶ月ぶりに黒崎に出たが、以前と比べると人通りも増えてきたようである。 去年の「黒崎そごう」閉店後の最悪の状態から比べると、かなりいい回復してきているようだ。 今月11日に長崎や黒崎店が閉店したが、その影響も少なくてすんでいるみたいだ。 3月6日には、個人的に心待ちにしていた「ブックセンター・クエスト」が移転オープンするし、北九州副都心の再建は着々と進行している。
さて、今日は黒崎に出る前にちょっと寄り道をしていった。 月明り掲示板の契約が3月で切れるので、更新の手続き、つまりお金を払い込むために郵便局に行ったのだ。 実は「月明り掲示板」は有料レンタルである。 このホームページを立ち上げた当初、別の無料掲示板を使っていたのだが、動作が安定せず、さらに訪問客同士がバトルを繰り広げる展開になった。 嫌気が差したので、その掲示板を閉鎖して、新しい掲示板を探していたところ、今の掲示板が見つかったのだ。 当初は無料版にしていたのだが、使い勝手が悪かったので、有料版の無料体験版を一ヶ月借りてみることにした。 もちろん、お金を払ってまで借りようとは思ってはなかったのだが、有料版は高機能で使い勝手がよかった。 「一ヶ月限定なので、ほかの掲示板にしようと思います」と言ったところ、「この掲示板がいいので、やめないで」という声まであがった。 「しかたない」と思い、「しろげしんたさ〜ん」と呼ばれるのを覚悟で、郵便局に払い込みに行った。
あれから一年が経つ。 今日も去年と同じように、歩いて郵便局に行った。 家から郵便局まで、歩いて20分ほどかかるのだが、その途中春に出会った。 ぼくが待ち望んでいた香りがしたのである。 沈丁花の香りである。 毎年この香りがすると、「これで嫌な冬から解放される」という思いがしてホッとする。 キャンディーズではないが、重いコートを脱いだ気分になるのだ。 天気予報などで「三寒四温」という言葉が聞かれるようになったのも、嬉しいことである。 あとは春一番を待つばかりだ。 春はもうそこまでやって来ている。
ーーーーーー
そういえばさっきから救急車の音が鳴り止まない。 けっこう長い時間なっているような気がするのだが。 もしかしたら、宗像の列車衝突事故のケガ人を運んでいるのだろうか? あのへんは病院が少ないから、こちらに運んできたのだろう。 今回はイノシシが原因らしい。 おそらく、城山から降りてきたイノシシが軌道内に入ってきたのだろう。 つい最近うちの近くで、JRの線路で遊んでいた小学生が電車にはねられる事故があったばかりだ。 JRも線路脇に有刺鉄線を張り巡らすとか、金網に電流を流すとかして、線路に入らせないようにしないと、また同じような事故が起こるだろう。
今日も霊のおかげで更新が遅くなりそうだ。 昨日は霊のことなど書くつもりはなかったのだが、どうしても書けと霊がせがむので、一応霊の顔を立てた次第である。 それで納得したのか、昨日は金縛りにあわなかった。
では、昨日は何を書こうと思っていたかと言うと、「ちょっといい話」を書くつもりでいたのだ。 最近日記を書くのが、「辛い」とか「きつい」とか思うことがよくある。 さすがに一年以上も日記の更新を続けていると、次第に書くこともなくなってくる。 「その日に起こったことや、考えたことを書けばいいじゃないか」と言ってくれる人もいるのだが、毎日変化に飛んだ生活を送っているわけでもないし、毎日お客さんとバトルをやっているわけでもない。 基本的には、午前7時半に目が覚めて、9時に家を出て、10時から店が開店して、午後4時から昼食をとり、8時20分に会社を出て、8時39分に家に着き、9時30分に風呂から上がり、10時30分から酒を飲み、11時からパソコンに向かうだけの毎日である。 仮に「その日に起こったこと」を日記に書くとすれば、毎日「基本的」を書かなければならなくなる。 「その日考えたこと」といっても、いつも何を考えているかと言えば、「これが終わったら、あれをせないけん(あれをしなければ)」ということだけだ。 こんなことを日記に書くわけにはいかないだろう。 こういう変化のない毎日の中で日記に取り組んでいるから、つい「辛い」だの「きつい」だの言う愚痴が出てしまう。
「辛い」「きつい」 もしジョセフ・マーフィーやノーマン・V・ピールといった積極思考の人が、そういうマイナス思考の言葉を聴いたら、「そういうことを口にするのは今すぐやめなさい。さもないと、あなたは口にしたとおりの人生を歩むことになるだろう」と言ってくるだろう。 たしかに以前のぼくはこういう言葉を使わなかった。 こういう言葉を使うと落ち込んでいくような気がしたからだ。 しかし、最近は違う。 こういう、マイナス思考言葉を好んで使うようになった。 それには理由がある。 何年か前に、上岡龍太郎の出ている番組を見たことがある。 その時彼は、マラソンの話をしていた。 「いつも走っているコースに『辛いなあ、きついなあ』と思う場所がある。 よく考えてみると、そこは上り坂だった。 逆に『楽だなあ』と思う場所もあるのだが、そこは下り坂だった。 これは人生でも言えるのではないか」 という話だった。 これを聞いて、何か勇気をもらったような気がした。 ぼくがマイナス言葉を好んで使うようになったのは、この話を聞いてからだ。 「辛い」「きつい」と思う時が人生の上り坂だと思えば、こんなに楽しいことはない。 「辛い・きつい、どんどん来てくれ」という気にもなる。 だから日記を書く時にも、「今日はきついのう。でも上り坂だ。いいことあるぞ」といつも思っている。 書くことが浮かばない時も、この気持ちで何とか乗り切っている。
もしこの日記が何時になっても更新されないでいたら、「しんたは上り坂なんだ」と思うようにして下さい。
最近、寝不足のせいかどうかは知らないが、霊と波長が合っているようだ。 三日間続けて金縛りにあった。 昔から寝不足になるとよくこういう状態になるのだが、これまでは体が宙に浮くことが多かった。 おそらく幽体離脱をしていたんだろう。 しかし、今回のはちょっと違うようだ。 誰かが乗っているのである。 一度目は、18日午前3時半頃だった。 日記を書き終えたぼくは、早く寝ないとと思いながらも、寝付かれずにいた。 その時、人の気配がした。 「誰だろう?」と思っていると、その気配はぼくの肩元にやってきた。 そして布団を掴んで、ぼくの頭までかぶせてしまった。 「おいおい、何が始まるんだ?」と思っていると、急に体が重くなった。 「これは霊やないか!」と思い、こういう時のために覚えておいた“延命十句観音経”というお経を唱えた。 もちろん声は出ないので、心の中で 「観世音、南無仏、与仏有因、与仏有縁、仏法僧縁、常楽我浄、朝念観世音、暮念観世音、念念従心起、念念不離心」 と唱えた。 42文字の、般若心経より小さなお経で、江戸時代の高僧白隠が広めた霊験あらたかなお経だときく。 このお経を唱えると、だんだん体は軽くなっていった。 その日は、これだけで終わった。
二度目は、19日の何時ごろだったろうか? 今度は寝ている時に襲ってきた。 しかし、前日のことがあったので、すぐさま体勢を変えた。 ぼくの場合、金縛りはいつも仰向けで寝ている時にやってくるのだ。 そこで、ぼくは体を横向きにした。 すると霊の奴は去っていった。 しかし、その後しばらく眠れなかった。
三度目は、20日の午前3時過ぎ、つまり今日である。 一度目と同じく、寝付かれずにいた時に襲ってきた。 さすがに頭にきた。 今度はお経を唱えずに、心の中で「おい、いい加減にしとけよ!お前はおれに用があるかもしれんけど、おれはお前に用はない!出ていけっ!!」と一喝した。 しかし霊は離れようとしない。 そこでぼくは、伝家の宝刀「般若心経」を持ち出した。 今まで、このお経を唱えて離れなかった霊はない。 全文唱えるにこしたことはないが、お経が出てこない時には、「摩訶般若波羅蜜多!!」だけでも効果がある。 とにかく一心不乱がコツである。 今日は「摩訶」だけでよかった。 霊はさっさとどこかへ行ってしまった。
どうしてぼくは、こうも霊に好かれるんだろう? 3年前に、車を塀にぶつけたことがある。 その前日に死亡事故現場を通ったのだが、その時霊を連れてきてしまい、それで起こした事故だと思っている。 ばあさんの霊とか、子供の霊とか、霊がぼくの周りにうようよしている。 いつか断ち切ってやろうと思っているのだが、その修行が出来てない。 また、なかなかその暇がない。 しかたないので、しばらく見て見ぬふりをしていようと思う。 たまには、昔みたいに霊を怒鳴り上げたりしてみるか。 ああ、そうだった。 それよりも早く寝て、霊と波長を合わせないようにすればいいんだ。 そのためには早く寝ないとならない。 しかし、日記を早く書かないと寝られないし。 もしかしたら、霊はぼくと会いたいがために、ぼくが日記を書くのを邪魔しているのかもしれない。
「ああ、今日もこの扉を開いてしまった」という気持ちで、この日記のエディタを開いた。 「今日はいったい何を書くんだ?」と自分に問いかけるが、答はいつも「・・・」である。 こういう時、ボブ・ディランなら「その答は、ただ風に舞っているだけさ」(風に吹かれて)と答えるだろう。 無責任な「答」である。 結局は「わからん」と答えているに過ぎないのだから。 しかし、この「答」が60年代初頭のアメリカ人の心を捉えた。 そこからディランの人生が変わってくる。
ディラノジストという人たちがいる。 ボブ・ディランの研究者、つまり「ボブ・ディランおたく」である。 「この歌詞は、○○を意味しているのだ」などとのたまっているらしい。 ディランの詩は実に難解である。 おそらく誰も理解できないだろう。 しかし、「われこそはディランの一番のファンである」というのを誇示している連中は、それではすまされない。 そこでディランの歌詞に、いろいろと解釈をつけだした。 その解釈というのが、実は「こじつけ」なのだ。 しかし世間は、「あの“答”を与えてくれたディラン様を研究している人たちのいうことは正しい」と思うようになった。 ディラノジストの解釈は、実にさまざまである。 中には哲学的解釈をしている人たちもいる。 世間はそういう解釈を受け入れた。 そのおかげで、ディランはついに哲学者と呼ばれるようになった。 最初はディラノジストの解釈を否定していたディランも、哲学者と言われて悪い気はしない。 彼も哲学者として振舞うようになった。 今ではアメリカの英雄である。
拓郎の影響もあってか、ぼくは高校時代からボブ・ディランを聴くようになった。 今でもそうだが、ぼくはレコードを買ったら一番に歌詞カードを見る。 初めてディランのレコードを買った時もそうだった。 「拓郎も気に入っているくらいだから」と期待に胸を膨らませて、歌詞カードを見た。 「・・・。何か、これ・・・」であった。 はっきり言って無茶苦茶だった。 しかしその時は、「これを理解するだけの経験が足りんのやろう」くらいに思っていた。 聴くほどにディランが好きになり、自伝なども読んだ。 しかし彼の生き方などはわかるものの、詩のほうはいっこうに理解できないままでいた。 それから後、自分なりの詩が書けるようになって、ふと思ったことがある。 「もしかしたらディランの詩は、語呂のよさだけで言葉を並べたものじゃないのか」 そういえば、ディランはよくライブで歌詞を変えて歌っていると言う。 多分それは、単語を並べただけの歌詞だから、覚えることが出来ないのではないか。 「関連のない単語を100個覚えろ」と言われても、そう簡単に覚えられるものではない。 イメージが浮かばないからである。 と言うことは、自分の作った詩を覚えられないと言うのは、イメージが浮かばないということであろう。 なぜ、イメージが浮かばないか? それは、詩に意味がないからである。 これに気づいてから、初めてディランを歌手と思うようになった。 実に味のある声である。
アメリカ国民も、そろそろディランを解放してあげたらどうだろう。 まあ、自分たちが勝手に哲学者に仕立てたのだから、引っ込みがつかんか。 ボブ・ディランはいつまでも風に舞ったままである。
ジャンプを見ながら眠ってしまっていた。 結局見たのは、原田の1回目のジャンプだけだった。 ここ最近、日記の更新が3時4時までかかっているので、その疲れが一気に出たものと思われる。 日記も毎日やっていると、特別なことではなくなり、生活になってしまう。 まあ、生活だからこういうこともあるということです。
しかし、どんなことでも、その日やるべきことをやり終えないで寝るというのは、あまり気持ちのいいものではない。 最近、日記を書き終えると、それなりの満足感を覚えるようになった。 普通満足感というのは、そう味わえるものではない。 その満足感を毎日味わえるのだから、これは幸せなことだと言わなければならない。 日記を書く書かないが問題ではない。 その満足感を味わうか味わわないかが問題なのだ。 つまり日記を書かないで寝るというのは、その満足感を放棄することになるのだ。 たしかに今日は夢見も悪かった。 そこには、日記を書かないことへの不満足感があったのだろう。 矢吹丈がホセ・メンドーサとの試合で、「おっちゃん、最後までやらせてくれや」と言ったのも、試合の勝ち負けではなく、その充足感へのこだわりがあったのだと思う。 捉えようによっては不幸な終わり方になってしまったが、実は彼は幸せな人間だったんだ。
それを考えると、ぼくは「たいした生き方をしてこなかったんだなあ」とつくづく思う。 なぜなら、ホームページで日記を書くまでこの満足感を味わったことがなかったからだ。 ジョーの言う「そのへんのやつらのように、くすぶって」いたわけだ。 柔道にしろ、音楽にしろ、何か中途半端だった。 無理に自分を作っていただけで、結局は生活にはならなかった。 ぼくは常々「人生とは日常だ」と思っている。 つまり特別なことではない、ということである。 特別なことをやろうとすると、力んでしまう。 力んでしまうと無理をする。 だから続かない。 ということは、柔道や音楽は、ぼくにとっては特別なことだったのだろう。
ま、とにかく、この歳になって初めて満足感を得られるものに出会ったわけである。 若い頃ぼくが理想とした「矢吹丈」に一歩近づいたわけである。 このまま続けていって、最後は「真白な灰」になって散っていこうと思う。
かつて、日曜日の夜はいつも物悲しかった。 小学生の頃は、6時頃、そう「いなかっぺ大将」や「ハクション大魔王」をやっていた時間くらいから、だんだん悲しくなっていった。 その後の時間帯にあった、「サザエさん」や「柔道一直線」や「サインはV」「アテーションプリーズ」「恋のイニシャルSH」などを見る頃にはもう泣き出しそうになっていた。 中学の頃は、「笑点」のある時間帯から悲しくなっていった。 「おれは男だ!」や「飛び出せ青春」の時間帯には落ち込んでいた。 高校の頃は、「ヤングおー!おー!」の時間帯にはすでに落ち込んでいた。
何でそんなに悲しんだかといえば、翌日学校に行かなければならないからだ。 そこには、「明日から勉強が始まる!」・「まだ宿題をやってない!」という二つの非常に大きな問題が含まれていた。 ぼくは別に学校に行くことは嫌いではなかった。 勉強が大嫌いだったのだ。 その大嫌いな勉強を、「何も家にまで持って帰らせなくてもいいやないか」と、ぼくはいつも思っていた。 さらに土曜日には、「先生は意地悪やのう。わざわざ土曜日に、こんなにたくさんの宿題を出しやがって」と思っていた。
小学校の宿題で一番嫌いだったのは、漢字の書き取りだった。 「何で、一つの文字を20回も30回も書かなければならんのか。必要な文字なら自然に覚えるやないか。くだらんことさせやがって」 ブツブツとこんなグチを言いながらやったものである。 後年この主張は、姓名判断で自然に漢字を覚えたことで証明された。 算数の小数点の計算(特に筆算)も嫌いだった。 「生きていく上で、小数点というのが何の役に立つというんか。九九だけで十分やないか」と思ったものである。 しかし、この主張は、消費税によってはかなくも砕け散ることになる。
夕方になると母が仕事から帰ってくる。 「お帰り」「ただいま」の後、必ず口から出る言葉は「宿題は終わった?」だった。 小学校低学年の頃は真面目に、「終わった」と答えた。 しかし高学年になるとだんだんずるくなり、「あと半分」と答えていた。 実は何もやってなかった。 それがばれて、いつもテレビを見せてもらえなかった。 中学になると諦めたのか、何も訊いてこなくなった。 その頃から、気にはかけながらも、ぼくはあまり宿題をしなくなった。 当然のことながら、予習や復習はいっさいやらなかった。 高校に入ると、さほど宿題は出なかった。 しかし、英語のリーダーや国語の古典のある日は要注意だった。 先生が「今日は17日だから、出席番号17番訳してみ」とやる。 これはある意味、宿題よりひどかった。 当たる日がわかっているのだから、予習を何もやってないと始末が悪い。 しかし、ぼくは予習はやらなかった。 リーダーなどの時間の前に、教科書ガイドを丸写しにしていたのである。 これでよく難を逃れたが、抜き打ちで指されると、もうどうしようもなかった。 こうなったら開き直るしかない。 原文を読むだけ読んで、あとは「わかりません」と言って座っていた。 そのことで先生から文句を言われたり、叩かれたりしたが、いつも知らん顔を決め込んでいた。
「宿題がなかったら、学生時代はどれだけ楽しかっただろう」と、今でも時々思うことがある。 だけど、もし宿題がなかったら、消費税の計算が出来なかっただろう。 それを考えると、宿題に感謝しないとね。
しかし、日記も宿題みたいなものだなあ。
2002年02月16日(土) |
本場の喜多方ラーメンが食べたい |
この4月で今の会社に入って丸10年になる。 今の会社の面接を受けたのは、10年前の今時期だったと記憶している。 「あれからいろんなことがあったなあ」などと考えていると、ふと喜多方ラーメンが食べたくなった。 そういえば、10年前に喜多方ラーメンを食べたことがある。
平成3年の10月末に前の会社を辞めたぼくは、その翌月の11月の中旬、10日ばかり友人と東京に遊びに行った。 別に東京で何かするために行ったのではない。 ただ急に20代の自分に会いたくなったのだ。 東京時代に住んでいた高田馬場、足繁く通った新宿、休みのたびに行っていた神田古書街、アルバイト帰りによく歩いた銀座、野球の練習をした明治神宮、ミニライブをやった代々木公園、他に浅草や池袋などにも足を運んだ。
ついでにというんで、福島まで足を伸ばし、東京時代一番仲のよかったK君にも会いに行った。 K君はラーメンで有名な喜多方に住んでいる。 上野から新幹線に乗り、郡山で下車、そこから磐越西線に乗り換え喜多方に向かった。 喜多方に着き、汽車を降りてまず感じたことは、空気が違うということだった。 これはおそらく、緯度のせいであろう。 それまでぼくは、埼玉より北には行ったことがなかった。 それも浦和である。 北九州と緯度はさほど変わらない。 そういうところでは、空気の違いというものはまず感じられない。 これを知っただけでも、喜多方に行ったかいがあったというものだ。
駅前はラーメン屋だらけであった。 K君に聞くと、「観光客相手の店ばかりで、味は今一」ということだった。 「じゃあ、地元じゃどこが有名なんか?」と訊くと、K君は一軒の中華料理店を教えてくれた。 その日は居酒屋に行き、K君と積もる話をした。 ラーメンを食べたのは翌日だった。 午前中馬車に乗って市内を観光した。 その中華料理店に行ったのは昼時であった。 腹も減っていたので、ぼくらは大を注文した。 しばらくしてラーメンが運ばれてきたが、どんぶりを見てびっくりした。 直径が30センチ以上はあるのだ。 中身もたっぷり入っていた。 ぼくは、ラーメンを食べる時はスープを残さないようにしているのだが、この時はさすがにスープまでは飲むことが出来なかった。 少し口をつけて、ぼくは「これをラーメンと呼ぶなら、九州のラーメンはラーメンではない」と思ったものだった。 とんこつラーメンで育ったぼくにとって、このラーメンはラーメンと呼ぶには異質なものだった。 どうも和風スープの中に、細いきしめんが入っているような気がしてならなかった。 しかし味のほうは、さすがに地元の支持を得ている店だけのことはあった。 かなりおいしかった。 何か懐かしく、郷愁を誘う味であった。 「これなら毎日でも食べれる」と思った。
翌日もこのラーメンを食べようかと思ったが、それはかなわなかった。 K君が会津若松の観光に連れて行ってくれたのだ。 昼食は田楽だったが、これもおいしかった。 昼食後喜多方に戻り、そのまま汽車に乗って東京に戻った。 その後2日ばかりして、北九州に戻ったのだった。
そうか、あれから10年経つのか。 しかし、いまだにあのラーメンの味が忘れられない。 なかなか時間が取れないから、今時点で喜多方まで行くのは不可能である。 出来るものなら、誰か直送してくれんかなあ。
夕方から頭が痛い。 これには事情があって、別に風邪を引いたとか体調が悪いとかいう理由でなったわけではない。 原因は臭いである。 この日記で幾度となく「灯油を買いに行った」と書いているが、実はぼくは灯油の臭いがだめなのである。 今日はその灯油を買いに行ったのだ。 おそらく灯油缶のパッキンが悪くなっていたのだろうが、灯油が車の中に漏れてしまったのだ。 どうもその臭いにやられてしまったようだ。 いつもなら、しばらく新鮮な空気を吸ったら治るのだが、今日は寝不足もたたってかなかなか痛みが治まらない。 ということで、今日はこの日記を早く書き上げて寝ようと思っている。
ぼくがだめなのは、灯油だけではない。 ガソリンや重油もだめなのである。 そういう臭いのする所に5分もいたら、頭が痛くなってくる。 頭の真ん中辺りを釘か何かで刺されたような痛みが走り、それが頭全体に広がっていく。 アスファルトの塗装などをやっていると、てきめんに頭が痛くなる。 そういう場所で交通渋滞に引っかかると、これはもう地獄である。 その場所を立ち去っても、車の中にいつまでも臭いが残ってしまう。 そうなると臭いを消すために、雨の中や寒空の下を窓全開で走らなければならなくなる。 これで風邪でも引いたら、さらに頭が痛くなる。
そういえば、ぼくは車の芳香剤もだめである。 特に柑橘系の匂いはだめだ。 ぼくは基本的には柑橘系の匂いは好きなのであるが、この車の芳香剤だけはだめなのだ。 いい香りが一変して毒ガスになるのだ。 鼻から入った臭いが頭の右側を刺し、そこからまた頭全体に広がっていく。 そこでぼくは好きな柑橘系の匂いを捨て、地味な石鹸の匂いにした。 しかし石鹸の匂いだと、つい家にいる気分になってくつろいでしまい、少しの緊張感もなくなってしまうのだ。 これは車を運転する上において、大変危険なことである。 いっそそういう芳香剤を捨ててしまえばいいのだが、ぼくの車はタバコ臭いから、そういうことも出来ない。 消臭剤も使ってみたが、効き目はない。 しかたなく今は、石鹸に戻している。
さて夕方から始まった頭痛は、今ピークに達している。 そのくせ窓を締め切り、ファンヒーターを焚き、タバコを吸っているぼくは馬鹿だ。
2002年02月14日(木) |
人間は夏向きの動物である |
また眠ってしまっていた。 最近、休みの前の日はいつもこうである。 午前1時ごろからうつらうつらしだし、気がついたら4時5時になっている。 それから日記を書き始めるのである。 もちろん脳は寝ている状態であるから、日記を書くのも思うようには進まない。 今午前6時であるが、起きてからこの時間まで、ボーっとしていたわけである。 おそらく今日の日記の更新は7時を過ぎるだろうが、それからまた寝ようと思っている。 しかし、いつもすぐに寝たためしはなく、だいたい寝るのは午前9時を回っている。 そして起きるのが12時前後、そのまま夜を迎えてしまう。 結局睡眠時間というのは、合計で6時間ということになる。 しかし分割して寝ているわけだから、疲労回復にはならない。 こうやってぼくは疲労の取れないまま、老化の道を歩んでいるわけである。
さて、最近また野生動物の番組を見ることが多くなった。 この間は北海道の野生動物を追っていた。 印象に残ったのは野うさぎだったが、彼らはいったいあの寒さをどう感じているのだろうか? あの体毛がどのくらい有効なのか、一度体験してみたいものである。 人間の場合、帽子などをかぶらなくても、頭はそれほど寒くないものである。 頭に鳥肌が立ったというのは聞いたことがない。 それよりも、いっぱい着込んで完全防御しているはずの体のほうが寒く感じる。 髪の毛というのは、きっと理にかなった防寒具なのだろう。 その理にかなった髪の毛が全身にあったとしたら、これはもう寒さ知らずである。
なぜ人間は全毛動物であることを捨てたのだろうか? アダムとイブが食べた「禁断の果実」というのは、おそらく脱毛剤もしくは体に異変を起こす物質だったと思うのだが、きっとその頃は体毛を必要としないほど暑かったのだろう。
考えてみると、人間というのは基本的に夏向きの動物だと思う。 「いかに暑さに耐えるか?」という体の構造になっているからだ。 ということは、あくまでも夏向きに作られた昔の日本家屋と似ている。 日本人というのは、歴史時代以前の伝統を持っているといわれているから、もしかしたら脱全毛時代の記憶を家屋に反映しているのかもしれない。
逆に全身毛に覆われた動物は、冬向きだといえるだろう。 彼らは年中防寒着を着ているようなものである。 よく夏場に犬が歩いている姿を見かけるが、「ハアハア」言って、いかにもきつそうに見える。 しかし、冬場は溌剌としていかにも楽しそうである。 まあ、最近の犬は人間と一緒に生活をしているためか、暑さ寒さには弱いと聞くが、少なくともエアコンが普及する以前の犬はそうであった。 それを考えると、あのたてがみふさふさのオスのライオンなんかはたまらんだろうなあ。 ファミリーのメスや子から一歩離れているのも、案外「お父さんは暑苦しいからあっち行って!」と言われているからなのかもしれない。 まさに「獅子・・・」である。
2002年02月13日(水) |
長崎ランタンフェスティバル |
昨日から「長崎ランタンフェスティバル」が始まった。 「長崎ランタンフェスティバル」とは、長崎の中華街の旧正月のお祝いを、長崎市がバックアップしたお祭りで、ぼくは過去2回ほど行ったことがある。 湊公園がメイン会場となり、数々のイベントが行われる。 印象に残っているのは、「中国雑技団」と「龍踊り(じゃおどり)」だ。 中国雑技団のほうは、身近な小道具を使った曲芸を見せてくれるおなじみのものだ。 ぼくはこの曲芸のほかに、楽しみにしているものがある。 その一つは、司会である。 このショーは中国の人が司会進行をやるのだが、実に話術が巧みである。 おそらく日本語はペラペラなのだろうが、「ゼンジー北京」みたいなしゃべり方をして受けを狙っている。 お客の拍手が少ないと、演技者はわざと嫌そうなしぐさをする。 そこで司会の登場である。 すかさず、「お客さんの拍手少ない、怒ってるあるよ」と言う。 その間の取り方が実に上手く、面白い。 しかし、会場から拍手が起こっても演技者はまだやる気を見せない。 「まだ拍手少ない、怒ってるあるよ」 一段と大きな拍手がおき、演技者は満足そうな顔をして演技に移っていく。 他国語でお客を乗せていく技術というのはすごいものがある。 もう一つの楽しみというのが、女の子の演技者だ。 背が低く、あどけない顔をしているので、日本でいう中学生か高校生だろうが、演技を見ながら思うことがある。 「この子たちは、化粧や髪型で若作りしているだけで、実際は20代後半から40代くらいじゃないのか?そばによって見たら、案外しわが多かったりして」とか、「演技が終わって楽屋に戻ったら、胸をはだけさせてあぐらをかき、タバコ片手に酒でも飲んでいるんじゃないのか? そして、『ああ、疲れたねえ。冗談じゃないよ。このくらいの安いギャラでやっとれるか』と、さながらストリップ小屋の踊り子さんのようなことを言っているんじゃないのか?」とか、ショーが終わったら宿でマージャンでもやってるんじゃないのか」などと、いろいろと舞台裏を想像してみるのも楽しい。 とにかく、中国雑技団というのは演技はマンネリ化して一度見れば充分なのだが、そういう裏の部分を想像する楽しみを提供してくれる。
一方の龍踊りのほうは、保存会か何かの会長さんが面白い。 龍踊りの説明をし、会場に集まった客に、「持ってこーい、持ってこい」と言わせて悦に入っている。 何でも、長崎の人は「おくんち」の時、龍が去って行くと「持ってこーい、持ってこい」と言って龍を何度も呼び戻させるという。 つまりアンコール・コールである。 それをランタンに集まっている客に言わせるのである。 「声が小さいですねえ。これじゃあ龍は戻ってしまいますよ。はいもういっぺん。持ってこーい、持ってこい、はい!」 「持ってこーい、持ってこい」 この「持ってこい」を言うのが、嬉しくてしかたない様子である。 さて、一通り龍踊りが終わり、観光客へ龍踊りの体験をさせ、龍が戻って行く。 ここで、会長の登場である。 「いいですか、みなさん。ここですよ。持ってこーい、持ってこい。はい!」 「持ってこーい、持ってこい」 2度ほどアンコールをして、龍踊りは終わりになる。 ここで面白いことに気がついた。 観客が「持ってこーい」を言っている時、会長さんはマイクを持ち大声を出して「○○さん。もういっぺんいいですか?」と打ち合わせをやっているのだ。 何か合図を決めてやればいいのに、正直な人である。 おくんちの時は「持ってこい」で龍は何度も戻って来るということだが、このランタンでは2,3度しか戻ってこない。 すべてはこの会長さんの胸の中ひとつである。 会長さんの機嫌次第で何度やるか決まるのかもしれない。 もしかしたら、この祭りを一番楽しんでいるのは、この会長さんではないだろうか?
こんなこと書いていたら、なんか行きたくなってきた。 しかし、長崎まで車で行くと高速を飛ばしても2,3時間はかかる。 往復すると5,6時間ということになるので日帰りはきつい。 行くとしたらJRになるだろう。 今年のランタン祭りは26日までやっているから検討してみるか。
金曜日、またしても電話である。 ぼくが「今度は何ですか?」と訊くと、お客は「お前、騙しやがったな」と言う。 し「何かお客さんを騙すようなことをしましたかねえ」 客「お前、この間芯を換えてないやろうが!」 し「ちゃんと換えましたよ」 客「換えてない!」 し「何が換えてないですか。換えた本人が換えたと言っているんですよ」 客「じゃあ、何でストーブが点かんとか!?おれはチャッカマンで点けたんぞ!」 し「点火プラグか灯油が悪いんじゃないですか?芯はちゃんと換えましたから。チャッカマンででも火が点くのなら、芯は悪くないです!」 客「換えてない」 し「いい加減にして下さい。いちゃもんつけてるんですか!?」 客「何かその口の利き方は!」 し「人をうそつき呼ばわりするからですよ」 客「とにかく、つかんのやけ見に来い!」 「すぐ行きますから、待っとって下さい!」と、ぼくは受話器を叩きつけて切った。
ちょうど配達の人がいたので、一緒に行ってもらうことにした。 行ってみると、お客はベッドに潜り込んでいた。 50代くらいの男性だった。 ストーブが消えたままになっていたので、ぼくが「ストーブを点けてみていいですか?」と訊くと、お客は「ああ」と答えた。 点火ヒーターはちゃんと点いている。 ヒーターを芯に押さえつけてみると、少し煙が出てきた。 そこで、ちょっと力を抜いてやると、火は点いた。 し「お客さん、ちゃんと点きますよ」 客「さっきまで点けとったけよ」 し「でも、電話では全然点かんと言ってましたよねえ」 客「・・・」 何度もやってみたが、火はちゃんと点く。 し「何度やっても点きますけど、どういう点け方してるんですか?」 お客はずっとベッドにこもったままで、ぼくと向き合おうとしない。 こちらが質問すると、たまに顔を出すだけだった。
このままそこにいても埒が明かないので、とりあえず電池だけ交換して、「別に問題ないです」と言って帰ろうとしたら、やっとお客は口を開いた。 「灯油が悪いことも考えられますか?」と言う。 し「ストーブの故障の原因は、ほとんど灯油です」 客「じゃあ、スタンドに行って文句言ってこよう」 し「文句言っても、スタンドは『自分のところは悪くない』、と言って認めませんよ」 客「そうですねえ」 し「今回は灯油も悪くなかったみたいだし、しばらく様子を見てください」 そう言って、ぼくはお客の家を出た。 結局、お客はベッドの中から出てこなかった。 おそらく、ぼくが電話で怒鳴ったので怖かったんだろう。
昨日の話。 閉店前に、夏によくこの日記に登場した、酔っ払いのおいちゃんが現れた。 泥酔状態である。 かかわると面倒なので、ぼくはちょっと距離を置いてこのおいちゃんを見張っていた。 すると、おいちゃんはテレビの前に座り込み、タバコを吸おうとして火を点けた。 もちろん店内禁煙である。 ぼくは慌てておいちゃんに駆け寄り、「おいちゃん、何回言うたらわかるんね。ここは禁煙やろ!」と言った。 おいちゃんは「ちゃんと消しますけ」と言って、火の点いたタバコを床に捨てようとした。 ぼくは頭に来て、「いい加減にしとけよ。帰れ!!」と言い、おいちゃんの手からタバコを取り上げ、腕を取り、店の外に引っぱって行った。 おいちゃんは「何かコラァー」と大声で凄んだ。 ぼくは、さらに大きな声で「『コラァー!』ちゃ、誰に言いよるんか!!」と怒鳴った。 そして「ここなら何ぼ吸ってもいいよ」、と取り上げたタバコを返そうとすると、おいちゃんは「いらん!」と言う。 ぼくは「何が『いらん』ね。あんたのタバコやろ。吸い」と言って、タバコをおいちゃんの口に無理やり差し込んだ。 おいちゃんはしぶしぶタバコを吸い始めた。 ぼくが「おいちゃん、いい加減にしとかんと警察呼ぶばい」と言うと、おいちゃんは下を向いて「いや、何も悪いことはしてません」と小さな声で言った。 ぼくは「今度は警察やけね。わかったね」と言って売り場に戻った。
最近、まともなお客が減って、こんな客ばかりが来る。 ホント疲れます。
今日で長崎屋黒崎店が閉店になった。 ローカルニュースで今日の朝の開店風景を映していたが、知り合いが映っていたのを見た時、一つの時代が終わったような気がして、何か寂しかった。 長崎屋の跡地がその後どうなるのかは、誰も知らない。
さて、ここ数日変な客ばかりが来て困っている。 土曜日の午前中のことだ。 お客さん(中年以降の女性)に「すいません」と呼ばれ、行ってみると、白い石油ストーブを指差し「このストーブ下さい」と言った。 ぼくが「お持ち帰りですか?」と訊くと、「はい、車で来てますから」と言うので、ぼくは車までそのストーブを運んであげた。 それから2,30分のち、そのお客さんから電話がかかった。 少しムッとした口調で「さっき買ったストーブ、違うんですけど」と言う。 しんた「え?お客さんが指差したストーブを持って行ったんですけどねえ」 客「色が違うんです。あなた、その横のストーブをくれたでしょう?」 し「色が違う?確かにお客さんはそのストーブを指差しましたよ。白でした。その横のストーブは木目色ですよ」 客「私はそれが欲しかったのよ。持って帰ったのはカートリッジのキャップも違うし。私が選んだのは手の汚れないキャップがついてたのよ」 し「ちょっと待って下さい。木目の分は手が汚れるキャップのほうですよ。お客さんに渡した分は、手が汚れないキャップがついてたでしょ?」 客「このキャップじゃ手が汚れるほうよ!とにかく持って行きますから、換えて下さい」 そう言って、お客は電話を切った。
しばらくして、そのお客はストーブを抱えてやってきた。 客「これよ、これ。見てちょうだい!」 ぼくは箱を開け、ストーブを取り出し、カートリッジのキャップを開いて見せた。 し「これですよ。お客さんが選んだのは」 客「そんなことはないです!」 し「でも、このキャップは手が汚れませんよ」 客「でも色が違うじゃない」 し「この機種は最初から白しか置いてないんですけど。電話で言われてた木目はこの分ですよ」 と、ぼくは木目のほうのカートリッジを取り出し、キャップを見せた。 し「これだと手が汚れますよ」 客「おかしいわねえ」 し「別に換えてもかまいませんよ。このキャップでいいなら」 客「それは困る。私が選んだの、本当にそれでしたかねえ?」 し「はい、間違いありません」 「じゃあ、最初のでいいですね」と、ぼくは最初のストーブを持って帰らせた。 最後にお客は自分の非を認めたのか、「すいません」と言った。
その日の夕方、ぼくが食事を取っていると、店長が「しんちゃーん、電話が入っとるよ」と言ってきた。 電話に出てみると、月曜日にスト−ブのことで電話でクレームをつけてきたお客だった。
月曜日は「火のつきが悪い」という電話だった。 話を聞くと、どうも灯油が悪いようだったので、そのストーブを配達の人に頼んで店に持って帰ってもらい、芯の交換をして配達した。 芯の交換をしている途中に、そのお客から電話が入った。 ストーブを持って帰ってから、まだ20分くらいしか経過してなかった。 電話の向こうで「まだかー!いつまで待たせるんかー!」などと言って怒鳴っている。 多少酔っ払っていたようである。 ぼくが「まだかと言われましても、今持ってきたばかりじゃないですか」と 言うと、「お前はおれを殺す気か」と言う。 ぼくはムッとして、「早くお客さんのところに持って行きたいので、電話切りますよ」と言って電話を切った。 芯を換え、点火プラグの調整をし、配達の人に持って行ってもらった。 その時はそれで終わった。
つづく
里谷よくやった! 上村ばかり追ったマスコミ、ざまあみろだ。 フジテレビ以外は、里谷に注目してなかったので、ろくな特集が組めなかったようである。 里谷の資料を持ち合わせていないため、急遽上村も呼んで時間稼ぎをやっていたのは、哀れとしか言いようがない。 もし、上村がメダルを獲得したのだったら、おそらく里谷は出演してないだろう。
実はこのモーグルという競技を、ぼくは長野オリンピックを見るまで知らなかった。 初めて見た競技で、日本人が金メダルを取った。 それは感動だった。 それまで、オリンピックを観戦して感動したのは、塚原の「月面宙返り」を見た時と、岩崎恭子が優勝した時と、カルガリー大会の伊藤みどりくらいであった。 優勝後のインタビューもよかった。 里谷に飾った言葉はなかった。 「ある週刊誌の占いで『表彰される』と書いてあった」とか、「金メダル取ったから、就職に有利になると思います」とか、受け答えがそのへんの女子大生なのである。 それを聴いてぼくは、「うそのない子だな」と好感を持ったものである。 表彰式では「帽子をかぶったままで不謹慎な」と言う声も聞かれたが、ぼくは「そういうあんたたちが、基本を教えてこなかった結果じゃないか」と反発したものである。
その後も、ぼくは里谷に注目していた。 フジテレビの入社式の時、スカートじゃなくパンツ姿だったのは意外だった。 「やはり、モーグルの選手もスケートの選手のように、太ももが太くなるのかなあ」と思ったが、今日のテレビでやっていたトレーニングの様子を見る限り、太くはなかった。 ウィンタースポーツにまったく興味がなく、スポーツ新聞もその部分は飛ばすのだが、里谷の文字があると読んでしまう。 しかし、別に好みのタイプでもないのに、どうして里谷が気になるんだろう。 それまではオリンピックで感動しても、だいたいオリンピック選手の帰国風景を見たら終わりになったのだが、どうも里谷だけは違う。
その理由が今日やっとわかった。 彼女、どうも酒好きみたいだ。 おそらく、その匂いがぼくに伝わったのだろう。 どんな酒の飲み方しているんだろう? きっといい飲み方しているんだろうなあ。 一度一緒に飲んでみたい一人です。
帰りのラジオで、ミスチルの「君が好き」という歌が流れていた。 ぼくにとって、ミスチルというのはどうでもいい存在なんだけど、この歌の最初の歌詞に引っかかった。 「・・・願いが一つ叶うとしたら・・・♪」 そういえば小さい頃、「もしぼくの前に、魔法使いのおばあさんが現れて、『お前の願いを一つだけかなえてあげる』と言ったらなんと答えようか」と真剣に考えていた。 友達にそのことを聞くと、3人に1人の割合で「プロ野球の選手にしてもらう」という答えが返ってきた。 「で、お前はどうなんだ?」と聞かれると、いつも答えに窮していた。 漫画家に憧れた時期もあるが、絵が下手だったので早々と諦めている。 お金とか地位とかに憧れたことはなく、かと言って平凡な人生を望んだわけでもなかった。
中学や高校に行ってもそのことを考えることがあった。 その時は「ミュージシャンになりたい」という夢があったので、「もし魔法使いのおばあさんが現れたらそう言おう」と心に決めていた。 しかし、魔法使いのおばあさんは、なかなかぼくの前に現れない。 そしてそのまま社会に出てしまった。 20代、30代と歳を重ねていくうちに、「ミュージシャンになりたい」という夢もだんだんと薄れていった。
その頃だった。 「魔法使いのおばあさんへの願いはこれがいい」と思いついたのは。 それは、「すべての願いが叶う人にしてもらう」というものだった。 これほど重宝な願いはない。 魔法使いのおばあさんに対する願いは一つだけだが、これでぼくはすべての願いが叶うようになるわけだから。 「これでいつ魔法使いのおばあさんが現れても大丈夫だ」と安心したぼくは、気長に魔法使いのおばあさんを待つことにした。
しかしねえ、魔法使いのおばあさんなんて、そうそうぼくたちの前に現れてくれんのですよ。 そのせいか、気がつくと「魔法使いのおばあさんに会えますように」という願いに変わっている。 こんなこと願っていると、「お前の願いを叶えたぞ」と魔法使いのおばあさんが現れてしまう。 ハッと気づいて、「いかんいかん。これは魔法使いのおばあさんの策略だ。あまりにぼくの願いが壮大なものだから、ばあさんこの願いにすりかえたな。危うく引っかかるところだった」と、「すべての願いが叶う人」に願いを置き換える。 それから、ぼくとばあさんの駆け引きが始まった。 「ばあさん、そろそろいいやろ」と心の中で声をかけると、「まだまだ」と言う答が返ってくる。 ばあさんが現れようとする時には、決まって「ばあさんに会いたい」という願いにすりかえられるので、ぼくは願いを置き換える。 するとばあさんは、現れるのをやめる。 こんなことの繰り返しである。 しかし、ぼくは諦めない。 いつかばあさんを引っ張り出してやる。 ああ、いかん! これも願いになっている。 ということは、そろそろばあさんが現れるのか? 騙されたふりして待ってみるか。
とにかく、今日はこの日記を早く書いて、早く寝ないと。 明日は月二回ある早出の日である。 一時間早く家を出るのだが、この一時間が体に及ぼす影響というのは実に大きい。 一時間早く家を出ると言うことは、当然一時間早く起きなければならない。 これで、完全に生活のリズムが狂ってしまうのだ。 朝食はいつもとらないからいいとして、困るのはトイレである。 いつもトイレに入る時間は、早出の日の朝礼の時間にあたる。 かと言って、一時間早くトイレに入って粘っても、そうそう出るものではない。 やはり規則正しく、体は彼の訪れを告げる。 「おお、来た来た!!」 しかし、ここで朝礼を抜け出すわけはいかない。 おならすら我慢しなければならないのである。 余談だが、以前読んだ本の中に「我慢したおならはどこに行くか?」という記事があった。 本当かどうか知らないが、「我慢したおならは血液と混じる」書いてあった。 おならの空気混じるのか、臭素が混じるのかは書いてなかったが、もし臭素のほうが混じるとしたら、ほとんどの人の血は臭いはずだ。 おそらく、おならを我慢したことがない人なんていないと思う。 「日本赤十字も大変やのう」と思ったものである。 もしかしたら、赤十字の人は血液の質を臭いで決めているのかも知れない。 臭いの少ないほうから、「イロハ」順にランク付けし、「この血は無臭だから“イ”。うっ、こ、この血は最悪、“へ”だ!」などとやっていたりして。
閑話休題。 ここで我慢するから、リズムが狂ってくる。 次の周期に無事トイレに行ければいいのだが、たいがい接客や作業でそのタイミングを逃してしまう。 その後、正しいリズムに戻すのに、数日かかってしまう。 「やっと戻ったなあ」と思っていると、次の早出の日がやってくる。 そこでまたおならを我慢しなくてはならない。 悪循環である。 こうやってぼくの血は汚れていく。
ほかに、汚い空気を一時間よけいに吸う、という害もある。 店というのは、人がたくさん集まる場所であるから、当然空気は汚れている。 換気設備があるじゃないか、という人もいるだろう。 しかし、換気設備というのは、店内の空気を吸い取るだけの設備である。 決して新鮮な空気を供給するものではない。 つまり、換気扇は空気清浄機ではない、ということである。 ところで、店内の空気というのは、人の吐き出す二酸化酸素だけで汚れるわけではない。 そこには、ホコリ、動物の毛、ウィルス、商品から発するさまざまな臭い、ジジイの屁などが入り混じっている。 こんな汚れた空気を一時間も多く吸うとなると、当然頭も痛くなってくる。 仕事の終わった後の虚脱感、きっとそこからくるのであろう。
とにかく、明日はこんな状態になるのだから、今日はしっかりと寝だめをしておかなければならない。 ということで、終わりです。
ワイドショーでは、もはやNGO排除問題は過去のものとなり、武部農水相の進退問題や小泉VS真紀子を展開している。 結局、NGO問題で一番悪いのは誰だったのか? その真相の究明はしないままである。
よく事件で、「誰が一番利益を得たか?」というところから、犯人を割りだしていく方法がある。 では、今回の問題では、誰が一番利益を得たのか? 真紀子や野上はともに更迭されている。 鈴木宗男か? いや、彼も党対外経済協力特別委員長を辞任しているし、国民の怒りを一身に浴びわけだから、利益を得たとは考えにくい。 今回の騒動で、支持率ががた落ちになった小泉首相でもない。
では、いったい誰が一番利益を得たのか? その人物や団体は水面下のままなのか?というと、そうでもない。 口にこそださないが、「私たちが一番おいしい」と、最初から言っているところがある。 それは、面白がってこの問題を取り上げ、視聴率を稼いだ「ワイドショー」である。 「NGO=被害者・真紀子=いい人・外務省=悪人・宗男=極悪人」、このイメージを作ったのは、他ならぬ「ワイドショー」である。 国民の真紀子びいきも、彼女の言動を好意的に取り上げたワイドショーが作ったものである。 今回の問題で、NGOは本当に被害者だったのか? 真紀子は本当にいい人なんだろうか? 外務省は本当に伏魔殿なんだろうか? 鈴木宗男が圧力をかけたというが、それは本当に悪いことなのか? こういうことを追求するのが、本当の意味でのワイドショーではないだろうか。 自分たちの作ったイメージに固持するあまり、本来の公平さをなくしてしまったのではないか。
「番組で世論調査を行ったところ・・・」とよく言うが、いったいどこの誰を調査したのか? 果たしてその人たちの声というのは、信用できるものだろうか? 街角インタビューをよくやっているが、この問題については、実際のところはよくわからないのだから、常識を持った人なら「わからない」と答えるはずだ。 しかし、ワイドショーは「真紀子=いい人」観でインタビューをやっているものだから、どうしても「真紀子さん、かわいそう」的な意見を持った人を追求することになる。 そして、とりあえずは少数の反対意見をまじえながらも、ワイドショーの優等生、つまりワイドショーが作ったイメージ通りの答を出す人の意見を多く取り上げる結果になるのだ。
そこから、悪循環が始まる。 「ワイドショーで言うのだから正しい」と、それを自分の意見にしてしまう思慮のない人がでてくる。 詩人の岡本おさみさんが言うところの「見出し人間」である。 しかし、そういう人もワイドショー側から見れば、立派な「優等生」なのである。 優等生は、職場で、家庭で、電車の中で、コンビニで、トイレで、その他あらゆるところで「ワイドショー」を展開する。 それを鵜呑みにした人が現れ、また同じことを繰り返す。 この結果、「ワイドショー」は国民の総意となる。
つまり、今回の問題は、ワイドショーがワイドショー優等生に意見を出させ、それを見たワイドショー優等生に吹聴させ、それをワイドショーが国民の総意のように報道し、その報道を鵜呑みにしたワイドショー内閣が決断し、引き起こしたワイドショー的茶番劇である。 どうやら犯人は見えてきたようである。
先日、海老一染太郎が亡くなった。 よく笑点や正月番組で見ていたが、目をひん剥いて「おめでとうございます」と言うたびに、「この人きっと、口にいっぱい唾を溜めているんだろうな」と思っていた。 しかし、この芸一本で生活していたんだから、凄いと言わざるを得ない。 昨日は弟の染之助が、「おめでとうございます」で送り出したとのことだった。 もうあの顔が見れないのかと思うと、少し寂しい気がする。
ぼくが人の死で一番ショックを受けたのは、手塚治虫だった。 何か少年時代が終わったようで、辛い思いがしたものだ。 その晩、ぼくは「鉄腕アトム」「マグマ大使」「W3」「悟空の大冒険」「ビッグX」「リボンの騎士」といった、一連の手塚アニメの主題歌を聴いた。 今でもそうだが、手塚アニメの主題歌を聴くと、勇気とやさしさが出てくるから不思議である。 その最中、『ところで、「どろろ」の最終回はどうなったんだろう?』という疑問が頭の中をよぎった。 その翌日、さっそく本屋に「どろろ」を買いに行った。 その疑問は「どろろは女の子だった」で解決したのだが、一緒に買った手塚作品の面白さから、狂ったような手塚作品買い漁りが始まった。 2ヶ月ほどそれは続いたが、その間手塚作品に5万円ほど費やした。 そして、あの名作「シュマリ」に出会う。 容姿といい、性格といい、ぼくによく似ている。 「手塚先生はおれをモデルにしたんじゃないか?」と思ったほどだった。 これも手塚先生の死が引き合わせてくれたんだろう。 偉大な人だった。
さて、死んだはずの人が本当は生きていた、という噂はいつの世にもある。 古くはイエス・キリスト。 彼は、聖書では復活したことになっている。 ここにもう一つ、イエスに関する記録がある。 「実はあの時十字架にかけられたのは弟のほうで、イエスは脱出し日本に来ていた。 そして108歳まで生きた。 カゴメカゴメはその時イエス・キリストが教えたものである」というものである。 竹内文書に出てくる有名な話である。 これは、後の源義経=チンギスハーン伝説とは種類の違う説である。 義経の場合は、判官びいき的な要素が強い伝説であり、「そう考えてもおかしくない」、いや「そうであって欲しい」という種類のものである。 一方のイエス・キリストは、「そうであって欲しい」ではなく、「そうだったら面白い」という類のものである。 後に「だからどうなんだ?」というのが、必ず付いてくる話である。
近いところでは、東京裁判で絞首刑にされた、東条英機ほか6名。 「彼らは、連合国に殺されるようなことは一切やっていない。 それを連合国側も悟ったのか、一応絞首刑にしたように見せかけて、実はほかの場所に身柄を移していた。 死体を見破られないように、すぐさま焼かせ、粉々にして海に捨てた。 絞首刑のはずなのに棺には血が付いていた。 骨を粉々にした人は、『ブタか何かの骨のようだった』と証言している」という話。 もしこの話が嘘だとしたら、米国は永久に戦犯国になってしまう。 あのずる賢い米国が、国際法にどう照らしても無罪の人たちを簡単に処刑するようなことをするだろうか? 日本以外の法律家は、あの裁判は無効だと言っている。 もしかしたら近い将来、真実が明らかになるかもしれない。 いくら厚顔無恥の米国といえど、歴史に汚点は残したくはないはずだ。
最後に、これはぼくの憶測であるが、あの初代引田天功は生きている。 どう考えても、あの死はおかしい。 前から容態が悪いなんて聞いてなかった。 突然だった。 「引田天功死す」の報道を聞いた時、ぼくは「これも彼一流のマジックじゃないか」と思ったものである。 「1年ほどで出てくるんじゃないか?」と思ったが、それではあまり芸がないので、「これは10年、20年先になるんじゃないか?」と思うようになった。 その後、「2代目が死んだ後に復活するんじゃないか?」と思い、最近では「いや、2代目を見ていると、もしかしたらあのテロ国家Kに拉致されているんじゃないのか?」と思うようになった。 いずれにしても、ぼくの中では、初代引田天功は生きている。
ラジオでパンの特集をやっていた。 その中で、「フランス人は、パンにスープを浸して食べている人が多い」と言っていた。 別にフランス人に限ったことはないと思うのだが。 例えば、インド人はナンにカレーをつけて食べている。 スープとルーの違いこそあれ、基本は同じである。 日本人の中には、こういう食べ方を「汚い」とか「行儀が悪い」という人がいる。 じゃあ、雑炊はどうなる。 宮崎の冷汁定食はどうなんだ。 これも基本は同じである。
ぼくはこの食べ方が大好きである。 よくフランスパンや食パンやコッペパンなどの無味なパンに、カップラーメンのスープを浸して食べている。 これが実においしい。 わりとアクのあるカップラーメンのスープも、こうするとまろやかなものになる。 カレーヌードルのスープは絶品である。 逆にフランスパンのような堅いパンでも、こうすることによって食べやすくなる。 古くは小学生の頃、給食の時にはいつもパンに脱脂粉乳を浸して食べていた。 給食の時、ぼくはしゃべってばかりいて、食べるのが極端に遅かった。 そこで苦し紛れに編み出したのが、このパンをミルクにつけて食べるという食べ方だった。 この食べ方によって食べるのが早くなったのは言うまでもないが、こうすることによって、アラ不思議、あのくそまずい脱脂粉乳と、味気のないコッペパンが、調和されて程よい味になっているではないか。 この食べ方にしてから、同級生から「汚い」とか「気持ち悪い」とか言われたので、「お前らには、この味はわからん」といつも言い返していた。
ご飯も同様である。 まだ保温ジャーがなかった時代、ぼくの楽しみは、冷えた飯にお茶をかけて食べることだった。 おかずは、さば缶一本である。 世の中にはいろいろな料理があるが、この「冷や飯お茶漬け+さば缶」よりおいしい料理を、ぼくは知らない。 最近は酒が主食になっているので、あまり家ではお茶漬けを食べなくなったが、弁当はいつも茶漬けにして食べている。 そのため、会社にはマイ茶碗を準備している。 弁当を持って行きだした当初は、小学時代と同じく食べるのが遅かった。 食べるのが遅いと、当然楽しみにしている昼寝の時間が減ってしまう。 「これじゃいかん」と思い、小学生の頃を思い出して、ご飯をお茶に浸すようにしたのである。 ご飯が冷えているので、猫舌のぼくにはちょうどいい温度になっている。 こうすることによって、食べる時間が5分短縮された。
さて、パンの話に戻る。 ぼくは菓子パンが好きである。 今でも、サンドウィッチやハンバーガーよりは、ヤマザキの菓子パンを好んで食べている。 保育園に通っていた頃、土曜日はいつもパン食にしていた。 平日は保育園からおかずが出ていたので、弁当にごはんを入れて持って行っていた。 土曜日はその給食が休みだったのである。 そういうこともあって、土曜日には園児のほとんどがパンを持ってきていた。 ぼくがよく持って行ったパンのは、クリームパン、アンパン、コッペパン、ウェハウスパン、バターパン、ドーナツパン(油パンと言っていた)だった。 その中でも特に好きだったのは、バターパンだった。 今のバターパンに比べると、確かにバターの質はよくなかったと思う。 しかし、味がよかった。 特に気に入っていたのが、バターがザラザラしていたことである。 多分、そのザラザラは砂糖だと思う。 パンを噛むと、ザリザリと言うのである。 あの感触をいつも楽しんでいた。 このザラザラが最近のバターパンにはない。 一時期セブンイレブンで売られていたのが、それも今では見かけなくなった。 ヤマザキから、食パンに砂糖を混ぜたバターを塗ったパンが出ているが、あれじゃないんです。 コッペパンに切れ目を入れ、そこの中に砂糖入りの白バターが入ったやつです。 多少高くても、あのバターパンがあれば食べたいなあ。
「やんぽう通信」というコーナーを作った。 紹介文にもあるように、4コマまんが風に書いていこうと思っている。 メインはこの日記なので、毎日の更新は出来ないと思うが、時々覗いてみて下さい。 あ、「緊急告知」はそのうちはずすので、その際は、「頑張る」「生きる」「日庵」のどこかに入れています。 「吹く風」や「歌のおにいさん」には入れないでしょう。
さて、「やんぽう」とは何か? 最近、寝不足のせいか、よくキーを打ち間違っている。 その中でも一番多く間違うのが、「〜やのう」という言葉である。 これを打つ時、どういうわけか「yanpou」と打ってしまう。 もちろん画面には「やんぽう」と出てくる。 例えば、「役者やのう」と打つつもりが、「役者やんぽう」となるのである。 しかしこの「やんぽう」、口に出してみると、間抜けでなんとなくペーソスがある。 ということから、今回の新コーナーで使ってみたしだいである。
ぼくはよくこの手の打ち間違いをする。 例えば、「〜のう」は「〜のぷ」、「何しよる?」が「何しよつ?」という具合である。 新コーナーも増えたことだし、余計なキーばかり打ちすぎて、寝る時間が減ってしまっても困る。 また、腱鞘炎にならないとも限らない。 このへんで、本格的にタイピングの練習をしないと、大変なことになるだろう。 でも、面倒やんぽう。
ところで、今日携帯電話を会社に忘れてきてしまった。 携帯を家に忘れてくることはよくあるが、会社に忘れてきたのはこれが初めてである。 今頃誰もいないところで、着信音が鳴り響いていることだろう。 しかし、不便だ。 夜中に電話がかかることはめったにないので、電話で困ることはない。 用があるなら、家に電話すれば済むことだ。 じゃあ、何が困るかといえば、メールである。 ぼくはけっこうメルマガを取っている。 くだらないのもあるが、けっこう役に立つものある。 今日は「今昔物語」が届く日だ。 こういう楽しみにしているメルマガが、リアルタイムに見れないというのは実につらい。 こういうのも携帯電話依存症というのだろうか? だとしたら、ぼくは病気である。
そういえば、ぼくの携帯は朝8時に「傷だらけの天使」のテーマ曲が鳴るようにセットしてある。 その後も、8時台に2件メルマガがくる。 その時は「火曜サスペンス」のCM前の音楽が鳴るようになっている。 その時間帯は、清掃のおばちゃんが掃除をしているだろうから、きっとびっくりするだろう。 「突然、火曜サスペンスが鳴ったけ、びっくりしたばい」などと言うかもしれない。
ああ、しかし携帯がないと落ち着かんなあ。 明日、朝イチで取りに行くか。 ということで、明日の休みは台無しだ。
小学生の頃から柔道をやっていたせいだろうが、ぼくは長い間O脚に悩んでいる。 ぼくが自分のO脚に気づいたのは、中学の時である。 何気なく保健体育の本を読んでいると、O脚とX脚のことが書いてあった。 最初は何のことかわからなかったが、説明と図を見てそのことを理解した。 そして、「おれはどうなんやろう」と気をつけの姿勢をとり、ひざのところを見たら、しっかり隙間があった。 O脚である。 確かにズボンの線を見てみると、「( )」になっていた。 「カッコ悪いのう」と思い、矯正法を見てみると、「足を広げて立ち、ひざとひざをくっつけ、その状態で地べたに座る」という図が載っていた。 言葉にすると難しいが、イチローがストレッチでよくやっている、あの座り方である。 いわゆる女座りというやつである。 「その座り方をやってO脚を治そう」とやってみたが、痛い。 全然座れない。 焦らずゆっくりやればいいものを、無理やりその姿勢で座っていたため、筋を痛めてしまった。 その痛みが激しかったせいで恐怖心が植えつけられ、その後その座り方が出来なくなった。
ぼくはよく、オープンな性格だと言われる。 どんな人ともわだかまりなくしゃべり、自分をさらけ出すほうなのだが、やはりコンプレックスというものはある。 中学・高校を通じて、5月頃から10月頃までの体操服はトランクスであった。 中学の頃はそれほどでもなかったが、高校に入ると色気づいたのか、毛もじゃO脚の、この醜い脚を女子の前でさらすのは嫌だった。 体操服を着ると、いつも女子の視界に入るのを恐れていた。 もちろん水泳の時間もよくサボっていた。 その頃は、別にO脚を治すための矯正をやってはいなかった。 ただ、自分がO脚であることを忘れようと努めていたのだ。
高校3年の夏、柔道部引退とともに柔道をやめた。 その時、柔道をやめたことでO脚が治っていくんじゃないか、という期待があった。 が、卒業しても東京に出ても、このO脚だけは治らなかった。 いや、治らないというよりも、女座り以外の治し方を知らなかったのだ。 社会に出てからは、「O脚は、一生治らないだろう」と諦めてしまった。 もはや体育もないわけだし、「このままでいいや」という開き直りであった。 開き直ってから十数年後、厄介なことがおきた。 春から秋にかけて、脚に汗をかくようになったのだ。 少し歩いただけでも、ズボンが湿ってくる。 ある日の夜中、布団がびっしょり濡れているのに気が付いた。 おねしょをしたんじゃないか、とびっくりして飛び起きた。 よく調べてみると、脚からどんどん汗が流れている。 こういう理由から、夏季には長ズボンをはけなくなった。 ということで、またO脚に悩むようになった。
しかし、今度は何とかして治そうと、前向きな姿勢になった。 いろいろな本を読み対策を練った。 ひざを縛り付けて寝たり、脚を引っ張って牽引をしたり、風呂から上がってからマッサージをしたり、とにかく涙ぐましい努力をした。 が、一向にひざの隙間は埋まらない。 「やはりだめだ」と諦めかけたときだった。 「思いっきりテレビ」とある本で、O脚を治す方法をやっていたのだ。 「思いっきりテレビ」のほうは、一日2,3回、3分間両脚をくっつけて爪先立ちをする、という簡単なものだった。 実験に参加した主婦は、当初ひざとひざの間が指4本分開いていたのだが、その方法を一週間やると指2本分まで改善されていた。 「これはいい!」とぼくはその方法をやってみた。 しかし、一週間後、ひざの隙間を測ってみたが、相変わらずであった。
今度はもう一方の本の方法を試みた。 これもやり方は簡単で、5センチほどの厚みのある本の上につま先を乗せ、ひざを伸ばし、かかとで立つのだ。 一回につき1,2分、暇があるときにやればいい、と書いてあった。 ぼくはこの方法を、一日何回などと決めずに、気が向いた時にやるようにした。 これをやると、ひざが充分に伸びる。 終わったあと、ひざの裏にズボンが触れる感触が実にいい。 続けていくうちに、階段の上り下りも疲れなくなった。 腰にもいいようだ。 気が付けば、ひざの隙間が狭くなっている。 忘れていても、思い出したときにやる。 やればやるだけ効果がある。
さて、今日のこと。 風呂に入る前に、ちょっとひざの具合を確かめた。 力を入れなくてもひざの隙間は狭くなっている。 「もしや」と思い、少し力を入れてみた。 すると、今まで力を入れても1センチほど開いていたひざ間が、ぴったりとくっついた。 やりましたね。 「一念岩をも通す」である。 あまりに嬉しかったので、日記に書いたしだいです。
半年の通信教育が始まった。 テキストとレコードが送られてきた。 しかし、テキストを見てちょっと失望した。 とても人前で演奏できるような曲ではないのだ。 「ドナドナ」「好きにならずにいられない」はともかく、「ハッシュ・リトル・ベイビー」や「ポートランド・タウン」なんて誰も知らないだろうし、人前でやっても受けないだろう。 しかも、英語の曲ばかりである。 エレック系の拓郎や泉谷の曲をやってくれるものとばかり思っていたのだ。 まあ、拓郎の曲は「イメージの詩」が入っていたが、あくまでもデモで、課題曲ではなかった。 それにこの曲は簡単だったので、すでにマスターしていた。
しかし、乗りかかった船だ。 ぼくは半年間、みっちりとこの通信講座で勉強した。 あやふやだったスリーフィンガーも、何とか形になってきた。 ハンマーリングオン・チョーキング・ミュートなどのテクニックも、この講座でおぼえた。 一番の収穫は、チェット・アトキンス奏法を覚えたことだ。 これは、ラグタイム奏法と似た弾き方で、親指でベース音を、人差し指でメロディーを奏でる。 右指はもちろん、左指も頻繁に動かさなければならない。 課題曲の「フレイト・トレイン」をマスターした時の喜びは大きかった。 歌の伴奏として始めたギターだったが、初めてソロを弾けたのだ。 その後、「サンフランシスコ・ベイ・ブルース」など、一連のチェットアトキンス奏法をマスターしていった。 チェットアトキンス奏法を一応マスターすると、何か自分でもオリジナルのソロを作ってみたくなり、拙いながら3曲ばかり作ってみた。 今ではもう弾けないが、当時はよく友人の前で弾いたものだった。 「よく左指が動くねえ」と言われるのが嬉しくて、調子に乗ってやったものだった。
そういえば、ギターソロで思い出したが、ぼくは「禁じられた遊び」が弾けない。 この講座でも課題曲として取り上げられていたのだが、どういうわけか練習する気になれなかった。 なぜ練習しなかったのかはよく覚えてないが、おそらく「これはクラシックやないか」と思い、意識的に弾くことを避けたのだろう。 なぜなら、その頃のぼくの頭の中には、「フォークギター」しかなかったのだから。
半年が経ち、この講座を卒業したぼくは、かなりギターの腕が上達していた。 レコードから多くの曲をコピーしたが、ほとんどがこの講座でやったことの応用だったので、楽にコピーができた。 今まで聞き取れなかった細かい音も、よく聞こえるようになった。 音楽というのは耳でするものとよく言われるが、この時このことを理解した。
3年になり、いよいよぼくはギターにのめりこんでいくことになる。 ギターの技術が向上するにつれ、作詞や作曲のほうも本格的になっていった。 オリジナル第一弾を作ったのは、高校1年の時、ちょうどギターを始めた頃である。 「怪獣になって、空を飛びたいなー♪」というアホな歌だった。 今となっては、こんな歌恥ずかしくて、とても歌えん。 その後、2年の終わりごろまでに20曲以上作った。 2年の春休みのこと、昼寝をしていると、突然メロディが降ってきた。 ぼくは飛び起きて、そのメロディをカセットに吹き込んだ。 1週間後、そのメロディは「春一番」という歌になった。 もちろんキャンディーズの歌とは違うが、この歌は今でも好きで、よく口ずさんでいる。 この歌が、通信講座で学んだギターの奏法を使った最初の曲になった。 この曲で作曲のコツを掴んだぼくは、その後200曲以上の曲を作ることになる。
しかし、このことがその後の人生を大きく狂わせた。 よく人から言われた「出来もしない夢」を見ることになったのだ。 「出来もしない夢」、つまり「プロのミュージシャンになる夢」は、この「春一番」を作ったことに始まる。 この夢を追いかけて長い浪人生活を強いられ、この夢を追いかけて東京に出、この夢を追いかけて何本もギターを買い、この夢を追いかけて今回の被害にあった。 ということで、この夢の呪縛は、いまだに続いていた、と言ってもいいだろう。
おわり
いやはや、びっくりした。 最近ミラーサイトばかり開いているので、肝心の本サイトのことをすっかり忘れていた。 日記を書き終えて本サイトを開いてみると、なんと「ERROR」の文字が出てるじゃないか。 何度やっても同じ。 「おかしいなあ?」と思い、ASAHIのほうのURLを入れてみると、これは開く。 「もしや」と思い、転送サービスの契約時のメールを見てみた。 「やっぱり」、今年の1月までの契約だった。 慌ててサービスに、「更新のお知らせが着てない」というメールを送った。 合わせて、リンクしてくれている方々に、「URLを変更して下さい」というメールを送信したり、メール掲示のない方々には掲示板への書き込みを行った。 登録しているリンクサイトのURLも変更した。 ということで、寝たのは朝6時半だった。
昼前に目が覚め、アウトルックを開き受信してみた。 おお、速い速い。 YAHOOBBとは比較にならない速さで、返信メールが届いている。 さっそく見てみると、「1月1日にメールは送りました」とのことだった。 「おかしいのう」と調べてみると、このサービスに登録したメールアドレスは、11月に前触れもなく潰れた「セイナ」のものだった。 このメルアドで登録していたところは、だいたい変更していたはずなのに。 不覚であった。 この転送サービス「メルネット」は親切なところで、「事情がわかったので、特別に復活させます」と言ってくれた。 もちろん、「すぐに入金してくれ」ということだったが。
という次第で、一件落着と相成りました。 朝早くメールを受け取った方々には、大変ご迷惑をおかけしました。 またこういう事態が起こるかもしれないので、変更されたURLはそのままにしておいて下さいませ。 ちなみに、このサイトの本当のURLは、 http://www.ne.jp/asahi/m/shin/ です。 またミラーサイトのほうは、 http://shinta.2.hotspace.jp/ です。 控えていたら、来年の今頃便利ですよ。
さて、いよいよこちらでもフレッツADSLの8Mプランが始まる。 ぼくは12月に申し込んだのだが、先日NTTのほうから2月7日開通との連絡があった。 その準備ということで、午後から近くのY電機にLANボードを買いに行った。 パソコンの型式などは控えていったのだが、商品にはどの機種対応なのかは一切書いていない。 一応機種を決め、係員のにいちゃんに訊いてみた。 「VAIOのこの型式なんですけど、これでいいですか?」 「いや、長さとかがありますから」 「長さはこれでいいんですけど」 「長さはそれでいいかもしれないけど、合うとは限りません。故障して使えない場合は交換もしますけど、機械との相性が悪い場合は交換できませんから」 じゃあ、どれが相性がいいのか教えてくれればいいのに、後は知らん顔をされた。 ちょっとカチンときて、「やっぱり、B電器のほうに行けばよかった」と思ったが、時間がないのでそこで買うことにした。 こうなれば、自分の知識と勘が頼りである。 もう誰にも訊かずに、商品を選んだ。 家に帰り、取り付けてみると、「正常に動作しています」と表示が出た。 選択は間違ってなかったようだ。 それにしても、Y電機の奴。 接客の勉強をしろ!
ところで、今日は約一年ぶりにギターを弾いた。 過去十分に弾き込んできたせいか、まだまだ指は動く。 しかし、歌がいかん。 全然伴奏についてこない。 昔はあれだけ息が続いたのに、今は途切れ途切れである。 言葉もはっきり出てないし、練習しないとなあ。 むかし、ある人に「歌はスポーツですよ」と言ったのを思い出す。 やはり心技体、三拍子揃わないと歌なんか歌えない。 また腹筋から始めるか。
明日はギターの続きを書きます。
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