”BLACK BEAUTY”な日々
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Boogie
俺が初めて行ったライブハウスは新宿のアンティノックだった。高校1年生の梅雨の時期だったと記憶している。
中学時代の俺は実に普通の少年だった。聴く音楽は尾崎豊、浜田省吾、長渕剛、ハウンドドッグ、洋楽はREOスピードワゴン、マドンナ、ブライアンアダムス、ワム、カルチャークラブ等々。中学生でアルバイトもできないから親から貰った小遣いを工面し、当時地元にあった「麗紅堂」とか「友&愛」とかのレンタルレコード屋に行ってはこれらのレコードを借り、カセットテープにダビングしていた。 よくあったパターンで、46分のカセットテープでLPのA面を録音してたら、A面の収録時間が23分以上あった為、A面の最後の曲の間奏の途中でテープ残量が無くなってしまい、「ああー!!54分を買えばよかったー!!」なんて事があった。 今も明け方近くに放送しているが、土曜の夜の「ベストヒットUSA」は毎回欠かさずチェックしていた。
そして、高校入学。席が近かった岡部君というクラスメートと仲良くなった。 細かい部分は記憶があいまいだが、多分「どんな音楽聴いてんの?」みたいな質問を受けたのだろう。俺の音楽の趣味は相変わらずだったので上記のアーチスト名を挙げると、これまた記憶があいまいだが岡部君が以下のような事を俺に言ったのだった。
「ヘイ、そんな商業音楽なんてクソ喰らえだぜ!俺がもっとカッコイイロックを教えてやるぜ」
数日後、岡部君は俺に1本のカセットテープを貸してくれた。家に帰ってラジカセでそのテープを再生してみた。
スピーカーから飛び出してきたのは超高速で1曲があっという間に終了してしまう楽曲の嵐だった。ギターはチェインソーの如き殺人的サウンドで、ボーカルは何を歌っているのかさっぱり分からない。 これは最早、「音楽」というより「シロモノ」と呼んだ方が適切であった。
岡部君が俺に貸してくれたテープは、当時「世界最速」と謳われた日本のハードコアパンクバンド「S.O.B」のアルバムだったのである。
翌日、岡部君に感想を求められると、「うん。結構いいね」と俺は大嘘をついた。生意気盛りのこの時期、「カッコイイ」と言われたものを否定するのはやっぱりカッコ悪く、許せる事ではなかったからだ。
ただ、S.O.Bには何というか甘いものを全て排除するようなストイックさがあった。何か切実な衝動のようなものを感じる事ができた。
岡部君との親交はさらに深まり、放課後、岡部君の家に遊びに行く事が多くなった。 岡部君の部屋は俺の全く知らないポスターが何枚も張ってあり、本棚に目を移すと雑誌「宝島」のバックナンバーが並んでいた。レコードのコレクションもまたすごく、俺が知っているレコードなんて1枚もなかった。
そして極めつけはラフィンノーズのソノシートだった。 これはまだインディーズだったラフィンのボーカルであるチャーミーが新宿アルタ前でソノシートを無料配布した時のもので当初の予測を遥かに上回るファンが殺到した「新宿ソノシートばらまき事件」の戦利品だった。 けど俺はそんな価値を知る由もなく、ただのクニャクニャした薄いビニールにしか見えなかった。
※最初は短くまとめようと思ってたのですが、すごーく長くなってきました。20代の読者のみなさん、頑張ってついてきて下さい。
そして高校1年の6月頃、岡部君に「ライブを観にいかないか?」と誘われた。場所は新宿アンティノック。出演はリップクリームとS.O.Bの2バンドだという。 正直、何か得体の知れない恐怖を感じた。しかし、ここでひるんではならない。何しろ何かと多感な15歳である。盗んだバイクで走り出す事を真剣に夢 見ていた15歳である。
恐怖を悟られないよう、行く事を岡部君に告げた。岡部君はニヤニヤしながら頷いた。
ここで俺は最大の問題に直面した。
「一体、ライブハウスという場所にはどんな服装で行けばよいのか」という問題だった。
とりあえず、津田沼のパルコに入っていた中高生御用達の洋服店「LEO」に行ってみた。まさかパーソンズやセーラーズを着てライブハウスに行くのはおかしい。散々迷った挙句、当時の俺がパンク的だと判断した長袖のTシャツを購入した。Tシャツの表面には色んな字体で色んな単語が散りばめられていた。 そして、家に帰るとGパンのヒザの部分をカッターナイフで切り、裏からガーゼをあてがい、安全ピンで止めた。
そして運命の日がやってきた。船橋に住んでいた岡部君と駅で待ち合わせた。 約束の時間に現れた岡部君の姿に俺は愕然とした。上着は梅雨の湿気が多い天候にも関わらず皮ジャン、もちろん鋲つき。下はブラックジーンズ、髪型は多分ダイエースプレーで固めたであろうツンツンヘアーだった。
俺は失敗した。素直に岡部君に相談して「ライブハウスの服装」についてレクチャーを受ければよかった。もっともたとえレクチャーを受けたところでそんな格好をする勇気はなかっただろうが。
総武線で新宿に到着。目的地アンティノックへ向かう。俺の心臓はBPM190のブラストビートを刻み続けていた。
店内に入ると店員、お客さん、誰一人笑っている人はいなかった。 そして客の鋲つき皮ジャン率は確実に90%を超えていた。 学校では今の日本は戦力を放棄した徹底した平和主義に立脚していると教わった。けれど、ここアンティノックではそんな理屈は全く通用しなかった。
時間と共にどんどん客が入ってくる。そして満員に膨れ上がったとき、S.O.Bが登場。今は亡きボーカルのトッツァンが絶叫する。 客同士が激しくぶつかり合い、殴り合いも始まっている。岡部君の姿が見えない。俺は生まれて初めて「生命の危機」を感じた。 そしてあろうことかぶつかり合いの波が後方にいた俺の場所に少しづつ押し寄せて来たのである。そして間もなく俺はその暴力の波に飲み込まれた。
モヒカンのお兄さんが「ダセエ乗り方してんじゃねえぞ!」的な言葉を吐くと、俺に向かって思い切りぶつかってくる。それに便乗して他の客がどんどん俺めがけてぶつかってくる。目の周りが腫れているのを感じた。それと同時に体中のあちこちが痛い。
そうこうしてるうちにS.O.Bが終演を迎えた。すると若干の静けさが会場に訪れた。すると岡部君が放心状態の俺を見つけ、ゲラゲラ笑いながら俺の肩を何度も叩いた。
そしていよいよジャパニーズコアの帝王、リップクリームが登場する。 暴徒と化した客に、またしても俺は飲み込まれていった。 後半、多分俺は泣いていたかもしれない。
嵐の2時間弱が過ぎ、岡部君と帰路に着いた。総武線の車中で岡部君が「俺も最初の頃は怖かったよ。けど結構慣れるとそうでもなくなるんだよなー」 と言っていた。
家に帰ると腫れ上がった俺の目を見て母に「あなたは一体どこで何をしてきたの!!」と叱られた。
こうして俺のライブハウスデビュー戦は終了した。 そして岡部君の言うとおり、何度かライブハウスに行き、慣れると負傷する確率はぐっと低下した。 ガーゼの「消毒ギグ」でも俺は無傷で生還する事ができた。そんな実社会では何も役に立たないスキルが磨かれていったのである。
あれから20年の歳月が流れ、ライブハウスは健康的な場所に変貌した。 着ていく洋服に迷う事もなく、生命の危機にさらされる事もない。モッシュも一定の秩序の下に行われ、被害といえばせいぜいTシャツを脱がされる位となった。
岡部君は今何をしてるだろうか。もう結婚してパパになっているだろうか。 そして、今もライブハウスに通っているのだろうか。
もし連絡が取れるのならば、自分のバンドのライブに呼んであげたい。 彼と出会わなかったら、俺の人生は音楽とは全く無縁のものになっていたかもしれないからだ。
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