ニュースを見ていたら、コレは世が世なら決して他人事ではないような事件が起きていた。
高校生が、教室の中で級友の胸を刺し、殺人未遂で逮捕されたとのことであった。 この高校生は、自分のサイトにある日記で、その「殺意」を表明し、実行に移した。 サイトのBBSでは何かをひたすらに塗り潰したかのようなイラストもアップされており、 切羽詰った「芸術」とでも云おうか、彼が嗜む写真の作品も報道では取り上げられていた。
学業成績は決して悪しくなく、寧ろ、トップクラス。 嗜む写真もウケがいいのか、展覧会等でそれなりの実績を残しており、所謂「いい子」。 学校側は、いじめはなかったと表明しているが、真実は闇の中だ。
文章等から見受けられるこの高校生の背景を、精神医学者などが分析して語っていた。 あくまで自己中心的であり、周囲のことをきちんと見ていない。 被害者に向けられた殺意よりも、あくまで「殺す」という行為に対し、満足を得ようとしている。 自分に殺意を向けられたらどう思うかというのを一切考えておらず、サディスティックな一面が目立つ。 ・・・・とのことだが。
あたくしはまったく真逆のことを考えていた。 お得意の「分析」は一先ずおいておいて、この高校生の書く文章や撮った写真を見ながら、 ボンヤリと「想って」いたからかもしれない。 同調とは違うのだけれど、己も通ってきた道だけに、この高校生が感じていた「何か」が 決して短絡的ではないように見えてしまったからだ。 「あれを殺す」という表現は、今回の被害者ではなく、自分自身に向けられている信号のように見えるし、 用意周到のように見えて、突発的・・・・。 この少年はスプレーをかけた時点で相手への殺意が消滅していたのではないか? そんなふうに考えた。 揉み合いにならなければ、あの刃渡り7cmのナイフも登場しないままだったかもしれないし、 普段から彼への重圧がもっと軽ければ、そもそも起こり得ないような事件のようにも見える。
自己中心的で、サディスティック・・・・思春期の特徴みたいなものではないか? 「殺す」ことの意味を色々と考えるのも、思春期に誰もが通る道のような気がするし。 実際に何かを傷つけてみないことにはわからないことも沢山ありすぎて、 手当たり次第に、無機質なものを破壊してみたり・・・・なんてのはよくある話だ。 自分や他人を「想う」が故に、自傷行為をしてしまう人もいるし、 そこで初めて「痛み」を知って、以後、鑑みる・・・・という人もわりとよく聞く。
あたくしは、自己中心的でサディスティックだった時代、理由もなく鞄の中にいつもナイフを忍ばせていた。 そのナイフで、生き物を殺したり、自分の体を傷つけたりということはしなかったけれど、 傷つけてみたい、殺してしまいたいという衝動は、心のどこかにいつもあったような気がする。 あたくしが唯一、素直に当時のことを書いていたノートにも、そういう気持ちは明文化されているし、 実際に覚えてもいる。 そして、忙殺の果て、ボンヤリとただ何となく、そのナイフで鞄の端っこや、要らなくなったノートを 無意味に切り裂いてみたりするのだった。丁度、14歳の頃くらいが一番酷かった。 他人や自分にその衝動が向いていたならば、今回と似たような事件になってしまったかもしれない。 そういう意味で、「他人事ではない」と感じた。
高校生くらいならば、そういう「自己中心的」な面をある程度コントロールできるようにしておけ・・・・ という社会の見解があるのだろう。 実質、早い時期にこういう側面を一切見せない人間は、遅い時期に見せざるをえない。 だから、どうしても個人差が出る。未熟とか早熟とか、そういうのとはまた別の問題で。
この高校生の心が、特別に異常だったかというと、それも違う気がする。 程度の差こそあれ、本当に誰もが一度は通るような道だもの。 書いている文章だって、ストレスで荒んでいるかもしれないけれど、正直だ。 恐らく、ウソは書いていないと思う。 「想う」気力があるだけ、まだマシかな・・・・とも思う。 この時期に、凄い勢いで淘汰されると、「想う」ことすら巧く機能しなくなる。 それは大人だって同じこと。 成熟したとされる大人ですら、そういうふうになってしまうのだから、未成熟の者がそうなるのを きちんと理解して「想って」やらないといけない。 他人を傷つけてはならない、勿論、自分を自ら傷つけるようなことも駄目だ・・・・ 簡単なことのようにみえて、意外とそれがわからない。 渦中にいると、大人でさえも見間違う。
そういう、綱渡りのような生活をしているんだという自覚がある人は、「想う」力を持っている。 ポジティブだろうとネガティブだろうと、切に「想う」ということにはパワーが要る。 どのベクトルが間違っているかというのは、この国では凡そ、多数決で決まる。 この高校生は、マイノリティだっただけだ。 この少年を弁護しているのではなく、ただ、あたくしの目にはそう映っただけ。
「想う」ことの難しさを、改めて問われるかのような事件だった。 あたくしは今、誰を、想う?
話はガラリと変わるのだけれど。 どうも養祖父に、大手術の後に見られるちょっとした記憶障害(=ボケ)が出ているらしい。 彼の中ではきちんと繋がっているであろう、混濁した支離滅裂の話の中に、 あたくしや、リョウヘイちゃんの話題が異様に出るらしい。 その話の中では、あたくしもリョウヘイちゃんも、とっても良くできた「いい子」として登場する。 本当はそうじゃなくても、彼の記憶の中ではそういうふうに「想われて」いる。 自慢の孫だと「想われて」いる。 じいちゃんの大事に際し、そっちはそっちで心配なんだけど、くすぐったいようなそんな気分になる。 「想われる」というのは、即ち、そういうことなんだろう。
「想われて」いるあたくしは、幸せ者なのだろう。 様子を見に行きたいのは山々なんだけれど、じいちゃんの期待を裏切るかのようなこの金髪が 彼をショック死させないか、それが心配で(苦笑)。 せめて「想う」人間にきちんとなって、彼を惑わすようなことをしたくない・・・・そういう気持ちが 二の足を踏ませている。 彼が死ぬまで、自慢の孫でいられますように・・・・。
|