2005年02月18日(金)
義務教育ってなぁに?


あたくしが通っていた小学校で励行されていたことの一つに「あいさつ」がある。
「オアシス(オアサス)運動」といって、児童の書いたポスターなどが、
廊下に貼ってある光景も見受けられた。

●オ・・・・おはようございます
●ア・・・・ありがとう(ございます)
●シ・・・・失礼します
 サ・・・・さようなら
●ス・・・・すみません(でした)

と、この4つ(5つ)がきちんと言えるようになりましょう、というのが励行内容だった。


小学校低学年の頃は、「おはようございます」一つとっても、なかなか気恥ずかしく、
加えて新しいコミュニティに入って間もないということから、皆と一緒にならできるんだけど
1人だとなかなか・・・・声に出して普通に言うことそのものが、結構、勇気のいることだったりも(苦笑)。
こういう励行運動がなかったら、きっと高学年になっても同じだったと思う。
小さい頃からきちんとやっておいて、その日々の積み重ねが、自我の芽生えと共に「礼」や「モラル」として
きちんと根付くんだな・・・・というのに気付いたのは、義務教育を卒業してから随分と経ってから。
気付くのが遅くても、きちんと遂行できていたのならいいけれど、
こういう教育を受けなかったら、あたくしは社会の中で、もっと惨めな暮らしを強いられてたかもな、
などと思う。・・・・やっぱ、どんな世界でも挨拶は大事だ。


義務教育を通して、物凄く厳しく指導されてきたこととして、もう一つ。
何だかよくわからないのだけど、下駄箱の靴の整頓に関しては、煩すぎるほどに厳しく指導された。
常軌を逸しているとも思えるくらいに徹底していて、朝、先生が

「下駄箱を見てきました。●●君、○○さん、▲▲君、
今から行って、自分の靴をきちんと揃えてきなさい。」


と、まるで連絡事項を伝えるように根気よく指導していたことを思い出す。

「お隣のクラスの子たちはきちんとできるのに、どうして自分の靴を揃えることができないの?
靴を脱いだら揃える! 上履きも同じです!」


異常なほどに、下駄箱の整理整頓に関しては口喧しく言われてきた気がする。


同様に大人になり、例えば義務教育を卒業して、高校に入るなり、
下駄箱がグチャグチャになっているその光景を見て、ちょっとした違和感を感じた。
上履きと体育館シューズ、その他色んなものがグチャグチャに突っ込んであるそれを見て、
どうにかならないものかしら・・・・とため息が出た覚えがあるのだ。
で、三つ子の魂百まで・・・・ではないけれど、あたくしは、お片付けやお掃除が苦手なクセして、
靴だけは、どんな場所においてもきちんと揃える子になった。

靴は、日本においては常に身につけているものではなく、体を離れることが多い。
そして、離れたその後に、それがその人となりを映す鏡だということに気付いたのは
これもやっぱり大人になってからだった。
お里が知れるというのは本当に怖いことで、日本が「恥」の文化で成り立っているというのが
急に恐ろしく感じることも、日常的だったりした。


クラスに1人は、授業妨害・・・・とまではいかなくとも、落ち着きのない子がいて(苦笑)、
授業中に勝手に席を立ち歩いたり、先生がいくら注意をしても、まるっきり効いてない子もいたりした。
が、それはクラスに1人、2人いるくらいで、常識ある子は45分〜50分の正規の授業枠を
少なくともきちんと座って先生の話を聞いたり、挙手をして発言するものであった。
たまに、それらやんちゃな子達をとっ捕まえて、先生の代わりに注意をしたりする子もいたものだ。

が、最近、主に小学校を中心として、うちらの時代では少数派だった授業妨害族が多数派になり、
平気で授業中に立ち歩いたり、酷いのになると、先生の発言すら遮るような大きな声で私語をしたり、
もっと酷いのになると、先生に対して嫌がらせを重ねて、挙句、教室から追い出して
自習時間にしてしまう・・・・なんていう現象が珍しくないらしい。

最初は、「え???」と思ったけれど、本当らしい。
まぁ、中学くらいになると、先に待つ進路のことも考えて、小賢しく振舞う子も増えているみたいだけれど
それにしたって、根っこの部分はおいそれと変えられない。
少なくとも、小学生のうちに培った何かというのは、大人になってからも、思わぬ場面で顔を出すもの。
これら、「しつけ」の範疇に入る物事を今、学校は、「ゆとり教育」という方針に従って
放棄する傾向にあるのだという。


嫌な傾向だな・・・・と思わずにはいられない。
先生が悪いとか、学校が悪いとか、文部科学省が悪いとか、いやいや家庭が悪いとか、
そういうことを言っているのではなく、
家庭では「学校がやってくれるもの」、学校では「家庭ですべきこと」と同じ子育てなのに、
垣根を作っちゃって、肝心のしつけをする人が誰もいない・・・・というこの劣悪な環境が
恐ろしいなと思うのだ。

まぁ、確かに。
無責任な親が増えた。
熱心でない教師や、ありえない教師も増えた。
けれど。
受けてきたしつけを、次世代に伝えることくらいはできるだろう??


あたくしたちは、学歴競争社会の末裔で、どんなものにも順番が付けられた。
授業の成績、考査の点数、偏差値、各種スポーツ、絵の上手い下手、字の上手い下手、
音楽のセンス、家庭科のセンス、最終学歴のランク、入社した会社、そこでの就業成績、
果ては、年収、結婚相手の条件、住んでいる場所etc.etc.
枚挙に暇がないくらいに、どんなものにも順位が存在した。
そしてあらゆる分野で淘汰され、あらゆる分野で可能性を発見し、
あらゆる分野で努力するチャンスがあった。

今の子たちが聞いたらビックリするんじゃないだろうか・・・・?
ちなみにうちの中学では、3学期制、中間・期末考査の他に実力テスト、長期休暇明けのテスト、
国語に限り、学校一斉漢字テストが2ヶ月に1回、
そして冬休み明けには学校一斉百人一首テストまであった。
これは受験生である3年生も一緒で、3年生にはこれに加えて新聞社主催の模擬試験が年に4回あった。
(今でもこの模試は存在するが、任意になっているはず。この頃は、強制受験させられていた。)
プラス、塾、習い事である。・・・・今考えると、死にそうなスケジュール(苦笑)。
ここまで学校がやってくれて、それでも自己が見出せないとなると、もう後は部活に必死に打ち込んで
それを伸ばすしかない。
うちらの頃は、まだまだ公高私低の傾向が強く、どう転んでも私立は負け組み。
よっぽどの名門でない限り、親だって私立へ行くことにいい顔をしなかった。


あたくしは、理数の分野で淘汰され、美術でも結構淘汰され(爆)←途中からは放棄すらもし(爆笑)、
体育も抜きん出ていたわけではなく、文字も及第点程度のものだった。

ただ、国語力でだけは抜群の才覚があったようで、コレを見出してくれたのは、何を隠そう
小学1年生の時の担任の先生である。朗読が上手、作文が上手と褒めてくれて、
当時はまだ、人前に出ることが恥ずかしかったにもかかわらず、1年生の学年末には全校児童の前で
自分の声で以って、自分の作文を読んでいたのだから不思議。

ピアノを習っていたわけでもないのに、音楽・・・・特にリズム感の才覚ありと発掘してくれたのは、
小学3年の時の担任の先生である。
この先生はあたくしに、難しいリズムが譜面に並ぶ曲では必ず打楽器をやらせてくれて、
それをどんどん伸ばしてくれた。
やがて、私生活では音楽には全く触れていなかったにもかかわらず、
少しではあるがスコアが読めるようにもなり、ピアノを習っている子には全く叶わなかったけれど
歌も楽器も好きになっていった。

体を動かすのは嫌いではなかったものの、あまり運動神経はいいとはいえなかったあたくしの
リズム感を買ってくれた先生はもう1人いて、それが小学5年の時のクラブ活動の顧問の先生だ。
この先生が、あたくしに踊ることの楽しさを教えてくれた。

そうして中学に上がり、物凄い音楽教育がなされている中、
1年の学年末に音楽の教師から直々にお呼びがかかり、
今までやったことのない指揮者をここで初めて任命された。
クラスの中でもやったことのない指揮者を、どうしてあたくしに任せることにしたのか、
そこらへんの経緯は不明だけれど、コレを機に、クラス単位でも学年単位でも、このポジションの
常連の仲間入りをしたのである。

あたくしの声を買ってくれた先生もいた。
とある音楽コンクールのアナウンスをやってくれる人を探して欲しいと合唱部が打診され、
その打診の中から、あたくしが推薦されたのだ。
で、この流れで、放送委員でも放送部でもないのに、翌年の運動会のアナウンスまで任命された。


と、義務教育の間に、沢山淘汰されたわりには沢山のチャンスにも恵まれたわけで、
加えて、総合的に何が一番楽しくて、やりたいこととして残ったかというと、執筆と芝居である。
芝居には、リズム感も朗読技術も声色も身体表現のセンスも必要で、
まぁ、どれも及第点そこそこのあたくしではあるけれど、淘汰されていないものを掻き集めたら、こうなった
・・・・といった感じ。
無論、ここからの努力が大変なわけだけど、せっかく先生たちに発掘してもらった、
あたくしの「いいところ」を、あたくしが自分で放棄してしまうのは勿体無いような気がしていたのだ。


この世界を見てきて思ったこと。
それは、あたくしが小学校で受けてきた指導の内容が凝縮されたものであった。
挨拶ができない者は淘汰される。
自分のものをきちんと整頓できないものは淘汰される。
目上の人間に敬語を使うこと、一緒に作業・創作する人を敬うこと、
間違った時には素直に謝罪をする、迷惑をかけたら頭を下げる、
自分の意見をきちんと言う、相手の言っている事もきちんと聞く、
これができないと淘汰される。

当たり前のことなんだから仕方がない・・・・?

その当たり前のことができない子供、その子供が大きくなった大人が増えてきているの。
ただ、淘汰されないというだけで、どんどんだらしのない人間が増えてきているの。
凶悪犯罪も増える。不安定な人たちや、不安を抱える人たちも増える。


あたくしは思うのよ。
「義務教育」ってね、大人が履き違えてやしないかって。
大人が子供に教育を受けさせる義務じゃなくて、
子供が教育を受ける義務、きちんとしたしつけをしてもらう義務というのが先んじてあるのであって、
大人の勝手で、「教育してやっている」なんて思っているようではダメだと思うわけ。
勿論、子供の自主性云々というのを取りざたして、論じるつもりは欠片もなくて、
大人たちは、まず、まっとうな「礼儀」を教え、育む義務があるものとし、
子供にはそれを享ける義務があるというふうに、考え直さなければダメだと思う。
中学生くらいになると、私学でもない限り「義務教育なんだから退学させられることはない」みたいな
生意気なことを言うアホンダラがいるんだけど、コレも違う。
義務教育なんだから、きちんとした教育を受ける義務があるんです。権利じゃないんです。
15歳までは、義務として、教育を受けなければならない。
そしてそれは、子供が取捨選択できるものでもないし、大人が押し付けるものでもなく、
人間を作るという作業上の「義務」なので、放棄は許されないのです。
教育する側の立場、される側の立場が別として考えられている場合が多いように思うけれど、
根源を正すと、同じ義務の上にいるわけで、教授する方も享受する方も別ではない。
ただ、教えてくれる人には「ありがとう」と言わなければならないし、
教える側もいい加減であってはならない。


あたくしの知り合いに、昨今の教育事情から、公立の小学校ではなく、
いきなりフリースクールへ通わせる選択をした親がいた。
フリースクールが悪いと言っているわけではない。
公立の状況を全く体験もせずに、先んじて、フリースクールという選択肢に飛びついた親の怠慢な態度が
たまらなくて、正直、腹が立った。
公立の良さも悪さも全て把握した上で、わが子が対応しきれていないと察知した時に
初めて、この選択肢を出すのならともかく、随分身勝手だなぁ・・・・と、半ば呆れた。

あたくしの親友にも、不登校からフリースクールを経て、今、立派な社会人になっている子もいる。
なのでフリースクールが悪い、とは全く言い切れないのだけど、
小学校入学から、公立の短所だけを論い、フリースクールの長所だけしか見えなくなっているこの親は
「教育の責任転嫁」をする典型的な形として、あたくしの印象に残った。
なんか、人間として頭が悪そう・・・・というか、入ってくる情報を分析する能力が著しく欠落している、
そんな印象も持った。

↑ダメだこりゃ( ̄∇ ̄;)


まぁ、この人とは、1回だけしか個人的に話をしたことがないんだけど、
如何せん、世間知らずというか、あたくしよりもうんと年上なのに、常識というかモラルが欠如している。
きっと、この人が受けてきた教育そのものに問題ありきなんだろうなぁ・・・・と、
話した後に、どっと疲れた(爆)。
加えて、彼と話したセッティングが、自己啓発セミナーの成果を発表する場だったりしたんで、
余計に胡散臭く思えたり( ̄∇ ̄;)( ̄∇ ̄;)( ̄∇ ̄;)
当時あたくしは、まだ大学生だったんだけど、
その時ですら、この人の非常識さ加減には辟易としてしまったので、
よっぽどな大人・・・・っつう区分なんだろうな、きっと(苦笑)。

↑もうね、どうしても好きになれないの(爆)

バカな大人にならないように、あたくしも今からでも頑張ろう。遅すぎるということもないし。
親になってから慌てても、それはそれで手遅れだし・・・・。
こうやって、自分が教えられてきたことを、丁寧に思い出して反芻するだけでも、
少しは違うかもしれないから、それを実践しよう。

あさみ


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