2004年06月12日(土)
生きるありがたみ


思ったとおり・・・・と言っちゃ先方に失礼だが、あたくしの出した返信メールは、
昨日の差出人のところにきちんと届いていたようで、幾分、落ち着きを取り戻した
その彼から、更なる返事のメールが届いていた。
一部抜粋しながら、昨日の続きで少しばかりお話をしようかと思います。


「ありがとう。君からのメールでなんだか救われた気がするよ。」


真性:小心者のアサミンジャー・・・・自分では「救済目的」でメールを出したわけではない。
ただ、この彼が見失ってはいけないものをハッキリとさせて、今後も更なる躍進を遂げて欲しかった
ただそれだけの思いで、キーパンチに没頭したというフシも否めない。
だけど、彼があたくしのメールを読んで、「救われた」と言ってくれることについては、
ホント、素直に嬉しいと思う。伝わったんだなぁ・・・・って思う。


そのメールを読むと、彼は自分の器について再認識するのと同時に、
あたくしが恩師を亡くして初めて気づいた時のように、もっと沢山のことを学んでおきたかった
という気持ちがあるということが吐露してあった。
相変わらず、潔くて、素直で、でも頑固で、屈強だから、参ってしまう(苦笑)。


「実際は指導する立場になって、まだまだ先生に聞きたいことがたくさんあるなあって今も感じているんだ。
自分の勉強不足を思い知らされることがとても多くてね。
だからもう先生を必要としていないなんてことは言えないんだけど」



いない人のことを必要としてしまう、この空虚な気持ちは痛いほど良くわかる。
如何せん、あたくしもそういう茨の道を通ってきただけに・・・・。
あたくしは前のメールにこう書いた。


「貴方の場合は、それぞれの人が亡くなっても、
きちんとそれぞれの人からもう学ぶべきものを全て吸収し、
心の「独立」を果たしているから、きっと、こういうふうに感じるのだと思うのよ。」



正直、本当にそう思っていた。
「涙」も出ない、哀しいという気持ちも沸き上がってこない、
そんな彼に何か言ってあげられるとしたら、師から受け継いだ何かを、
既に自分のものにしているからだよと、それだけをただ言いたかった。
事実がどうかとかいうのは別として、今、「指導者」としての立場にもあるこの彼が、
あれこれ試行錯誤をしていたということは先刻承知だし、人一倍努力家でもあるので、
脆くても何かしらの結果は手に入れているはずだと確信していたから、そう書けた。

しかし彼は、折り返してのメールでこう書いてきた。


「でもやっぱり最近自覚しているのは、自分の演技の基盤となっているのは
N先生(自殺した恩師)からもらったものが一番大きかったんだなあってこと。」

「いづれにせよ指導者なんて器じゃないことは重々承知してる。まだ若いしね(笑)。
そのへん、T先生(今回お亡くなりになった恩師)みたいなドクターにはなれない。」



彼にとってもあたくしにとっても、殊、芝居の世界のことになると、一番最初についた、
例の恩師からの影響が強く出ているらしかった。
高校演劇なんて、お遊びの世界だったんだ・・・・きちんとしたトレーニングを積まなければ、
決して大きな舞台に立つことも出来ないし、自分自身の管理も出来ない・・・・
そう教えてくれたのは、この世を去るまで、あたくしがずっと師事してきたあの先生で、
それは何もあたくしだけが特別にそう思っていたわけじゃなく、彼もまた、少なからず
自分にとって大きな影響力をもたらした一人の人物と認めてしまっているようだ。
そんなあたくしと、この彼の違いといえば、その後に出会った師の数と勉強の量。
あたくしが極端に劣っていた・・・・とは思えないけれど、ある分岐点を迎えた時、
あたくしと彼には、人脈や時間の浪費という点で大きな差が出来ていたように思われる。
嗚呼・・・・彼は、本当にいい人たちに出会えたんだなぁ。
正直、羨ましくて仕方がなかった。


しかし、あたくしは自分で選んでしまった道への責任があり、
「あっちにすればよかった」「こっちにしておけばよかった」などと、首を振り振り
後悔している暇などなく、そうこうしているうちに、中央ではリタイア。
きっとそれがあたくしの「運命」で、何足も草鞋を履いてしまったツケだったのかもしれない。
諦めきったか・・・・というと、そうでもなく、手薬煉を引いて次のチャンスを窺っているのは
もう隠しきれたことではない。
出版のことも、歌(短歌)のことも、舞台のことも、どれもあたくしにとっては
呼吸をするのと同じくらいに大事なことだから。


色々と寄り道に寄り道を重ね、或いは、専門の医師に相談しながら、
もう旬は過ぎたといわれる齢に達し、それでもまだあたくしは、より高く飛ぶために、
何ができるかを模索中である。

↑四十路メジャーデビューでもいいじゃないか!

彼のメールにはまだ続きがあり、


「君から心の独立が果たせてるって言われてね、自分は本当は心の独立はできてないんだけど
『独立しよう、独立しよう』って常に背伸びしてるんだなあって気がついた。

でもこの背伸びはいいことなのかもね、アキレス腱運動にもなるし(笑)」



( ̄∇ ̄;) どうしようもないオチをつけてくるところあたりに、彼の強がりが見えたり、
でも、「背伸びしてる」と自覚しているあたり、妙に素直すぎるというか(苦笑)。
でもこれが、彼の持ち味であり、いいところでもあるんだ。
しっかりとしたアキレス腱に鍛え上げるがよい・・・・(-。-) ぼそっ(爆)


「君は自分のことも含めていろんな分析ができるんだな。えらいな。」


最後に「ありがとう。」と結んであった。
それに。えらくなんかないんだ、ちっとも・・・・。
あたくしが自分や他人に施す分析は、憶測の域を出ていないものも多いし、
こういうことをマメにするようになったのも、元はといえば病んで、その手の病院に行くようになり、
運命的に出会ってしまった、あのインチキ医者:オーアエがあたくしに色々と吹っかけるものだから、
正当化するに当たっての材料を色々と探してくるようになり、その上でまだ何か言われるようであれば、
元来の頑固さを少しだけ取り除いて、そういう意見も受け止めようと、心を柔らかくした結果かもしれない。

でも、そのおかげで「人間」そのものが見えてくるようになったし、
病んだこと全てが、自分にとって悪いことだった・・・・とは言えなさそうだ。
それに気付かせてくれたのはこのメールをくれた彼であり、
今は会いにいっていないけれど、オーアエの加担も少なからずともあったということになるだろう。

この時期書いた、長編小説の途中までを読むと、昔より描写がやたらと細かくて、
登場人物の人数も格段に増えた。
え・・・・? 昔のヤツ??
確かにベース50人くらい出てくる、「キャプテン翼」クラスのものもあったわよ(爆)。
でも、『雑』の連載とは別の、超個人的嗜好作品の長編小説はそんなものの比ではない(爆)。
全てのキャラは「アンパンマン」の登場キャラより個性的で負けてねぇ( ̄^ ̄)と
自負している(ぎゃははははははは _(__)/彡☆ばんばん!)。
ま・・・・発表しようにも、スペース的問題があって、しばらくOS閲覧が出来そうにもないので
お蔵入りですがぁ・・・・( ̄∇ ̄;)


要するに、あたくしが病んで得たものも結構あったということだ。
それこそ、今までは憶測でしか書けなかったものが、実に生々しくなってきたし、
生きとし生けるものに触れ、その末期までを見届けると、いくら小説の中でも
簡単にその人の人生を終わらせることが出来ない。


だから、まずは近しい人をかなりよく見るようになった。
知らなくてもいいことに目を瞑るのも、たまには必要かもしれないが、
すぐそこに、自分の求めている『何か』がある可能性を、みすみす見逃すことは
「不良ゲージツ家」としては、許せないのだ(苦笑)。
故、分析もするし、正当化もするし、拒否もする。
あたくしには決定的に「拒否」という方法論が欠落していたのであるが、
治療の道筋の中で、その選択肢をラクに選べるようにもなったと思う。

↑中島美嘉の「雪の華」でも同現象(爆)

何にせよ、嬉しかったのは、メールをくれたこの彼が、「ありがとう」の言葉をくれたこと。

「君は自分のことも含めていろんな分析ができるんだな。えらいな。」

彼は教えてくれた。
あたくしが当たり前にやっていることにスポットを当てて、
「それは特別なことなんだよ」と・・・・。
照れくさかったけれど、やっぱり嬉しかった。
十人並の感性では生きていけないと知ってしまった今、あたくしは自分の着眼点と感受性を大事にして、
たまには強情に、そしてたまには素直に、物事をまっすぐ分断したり、
正月の松飾にある竹のようにも切り込んでみたりして、この日常で新しい発見を続けていこう。
今のあたくしに許された行動範囲でできるだけのことを重ね、「今以上」を目指しながら。

↑パイオニア精神で・・・・(笑)

幼い時代はこういうことに沢山恵まれたが、互いにみそじを見据えると、ものの見方が固定化してくる。
這った、立てた、歩いた、喋った、三輪車に乗れた、自転車に乗れた、逆上がりができた!
あの感動をいつまでも手元においておきたいと誰もが思うものの、なかなかそれが出来ないのが人間。
同時に、同じような失敗を繰り返してしまうのも人間。
しかしその失敗の中で、新しい発見をするのも人間なのだ。

昨日、「ホーム・ドラマ」の出産シーンを見ていて、何でか泣けてきた。
出産シーンなんて、もうドラマでは「やりつくした感」すらあるというのに、加えて、
ドキュメンタリーなんかでも、死ぬほどやっていたりするのに、ここにきて、
新しい命の誕生の尊さが身に沁みるようになった。
あたくしが病んでどうしようもなくなっている時に、

「生き直しなんて、いつからでも出来るものよ。」

と、先人からありがたい言葉を頂戴した。
人の死と、そして新しい誕生を同時に受け止めたあたくしは、
みそじにもなって、単純明快だけど、「リセット」という道を知り、
今、とても新鮮な気持ちでいる。

多分「死」という決まったゴールがあるからこそ、そこへのプロセスへのこだわりが
個々に発生するのだろう。
「生きる」のがそれぞれの歓びだったりするのだろう。
・・・・自殺には、結局、主張がない。
あたくしは、この目でそれをしっかりと見てきたから、自ら命を絶つのは嫌だ。
・・・・学んだんだ。
生きる苦しみから逃れるために死を自分だけで選ぶのは、命持つもの、全てにおいて最低だって。

それでも死ななければならないところまで追い込まれてしまう人がいる、この社会が哀しいって。

自殺のニュースを聞くたびに思うのは、
「ひょっとしたらこの人も、あと少し、生きたかったかもしれない・・・・。」
って、そんなことばかり。
最近、突発的に他人の命を奪ってしまった少女のことばかりが大々的に報道されているけれど、
ちょいと抜けた弁護士の会見で、すっかり論点がずれてしまっていて、
切った方も切られた方も、浮かばれないような事件になってきている。
まだ、救いがあると思うのは、加害者とされている少女が、外へと感情を顕にした事かもしれない。
事が転じれば、被害者と加害者が入れ違いになっていた可能性も高そうだし、
加害者一人、静かに生きるのをやめてしまう可能性も窺われる。
「死の耽美」が「殺意」という感情に昂ぶったこと、いいこと・・・・とは決していえないが、
切った方も切られた方も、何だかなぁ・・・・というふうで、この子達はこれから、
決して「自分の思うように」生きられないという、その事実だけが沈痛に残る。


だからせめて、自分だけは「勝手に死ぬ」ということを避けなければならない気がしてくる。
他人の生き方に口を挟めないだけに・・・・。

あさみ


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