2004年01月16日(金)
昨日の今日とて勢いは納まらず


昨日・・・・。(実は初恋の人の誕生日♪ だからいいことだらけだったのか?)
何だか自分でも信じられないような、「うまい話」が次々と発展していき、
とりあえず、その話も一段落して、落ち着いた頃に、携帯が鳴った。


そりゃぁ、もう、ビックリする人からの本当に久々の電話だった。

↑12年、お会いしてないわ。

この方が、この会社を辞められて、事実上「先生」でなくなっても、
やっぱりあたくしにとっては「先生」で、ずっとそう呼び続けてきた。
年に一度、こちらの達者を報せるために、欠かさず年賀状を書いてきた。
今年の年賀状はDM形態だった為、それを見た「先生」は「観に行くわ〜♪」と
わざわざ連絡を寄越してくださったのであった。


いつも笑顔を絶やさず、明るくて、優しくて、ハキハキしていて、
幼稚園や学校の先生とは少し違うのだけど、唯一の「習い事」としてあたくしは
先生が変わっても、これを8年間続けた。
高校受験が視野に入った、17歳の冬。
あたくしは、ひょっとしたらこの先、「先生」にお会いするチャンスが格段に減るだろうことを
気にして、それを節目として1度お会いしておこうと思い立ち、
当時、名古屋の守山区に住んでいた「先生」に会いにいったことがある。
この時点で、10年ぶりの再会である。

先生はこの時、3人目のお子さんを産んだばかりで、その子はまだ2ヶ月か3ヶ月くらいで
寝返りもうてない月齢・・・・。上には息子さんと娘さんが一人ずついて、
ご長男が5歳のやんちゃ盛り、ご長女は3歳で、2人とも人見知りすることなく、
きゃあきゃあ言いながら遊んだのを覚えている。
あたくしもこの頃は、まだガンガン体力もあったものだから、
それこそ、高い高いをしてあげたり、抱き上げてぐるぐる回ったり・・・・なんてことをして、
楽しい再会を果たしたのであった。
帰り際、上の子ら2人と先生が最寄り駅まで送ってくれて、
電車が来るまで、ず〜っと、

「お姉ちゃ〜〜ん、バイバ〜イ!!」

と手を振ってくれていたのを見て、あたくしはじんわりと涙ぐみそうになった。
「先生」がいつもご家庭でも明るく元気に振舞ってらっしゃるから、きっとこの子達も
こんなに素直で明るくて、元気なんだなぁ・・・・って感慨深くなっちゃって。
丁度あたくしと「先生」が出会ったのは、このくらいの歳だったんだなぁ・・・・と思うと、
10年という月日が、如何に長くて、そしてあっという間に過ぎたか、というのを思い知らされた気もして。


あれから12年。
長男の洋憲くんが高校2年生、長女の友里花ちゃんが中学3年生(この春、高校受験!)
そして、まだ生まれたばかりだった次男の素志くんが小学6年生(この春、中学に進学!)と、
あの時の10年の月日よりももっと長い長い時間が経っていて、その間に色々なことがあったんだな
と、より感慨深くなった。
洋憲くんとあの時のあたくしが、丁度同じ年頃なのだ。
そのことを「先生」に告げると、


「あらぁ〜♪ そんなに前のことだったかしら? 夕雅ちゃん、高校生だったのね〜。」

「えぇ(笑)。丁度、高校2年の2月のことでしたから、今の洋憲くんと同じくらいですよ。」

「まぁっ!! 本当に時間が経つのは早いわぁ。
いつかゆっくりお会いしよう、しようって考えてて、ついつい先延ばしにしちゃってたものだから。
そう・・・・うちの上の子とあの頃の夕雅ちゃんが同じ歳なのねぇ・・・・。」


「先生、私の家に初めて来られた時のこと覚えてらっしゃいます?
私、もう、あの時の先生の年齢を追い越しちゃってるんですよ♪(笑)」


「あら、やだわぁ(笑) それこそ、ついこの間のことのように思えるんだけど。」

「私も今年で30なんですよ(笑)」

「え? 30?? もうそんなに??」

「だって、生まれたばかりだった素志くんが今年の春には中学生でしょ?
私だって、驚いてるんですから・・・・(笑)」


「あぁ、そうよねぇ・・・・(笑) 自分のことはわかっても、よそのことと比べると
本当に随分とお会いしてないことがわかっちゃうわねぇ・・・・このミュージカル、絶対に観に行くから
チケット、用意していただけるかしら?」


「えぇ、勿論です!! 遠いところにお住まいなのに、わざわざありがとうございます!!」

「私、夕雅ちゃんのこと、わかるかしら?」

「さぁ・・・・どうでしょう?(笑) あの頃とはまた少し変わりましたからね。
少し、痩せちゃったんですよ。でも、私は先生のこと、きっとわかると思います♪」


「あら、痩せたの?? いいわね〜〜〜♪」



「先生」・・・・本当にあの頃とちっとも変わらない明るさで、電話越しだというのに、
こちらまで笑顔にさせてくれる。
本当に、パァ〜っと咲いた「ひまわり」みたいな人なんだ。
その「先生」に舞台を見てもらえるだけで、あたくしは嬉しくなった。

まだまだガキンチョだった、6〜7歳の頃のあたくしが先生の頭の中にはくっきりと残っていて、
17歳になって会いに行った時も驚かれたが、29歳になったあたくしを見て、
「先生」はどう感じ、何を思うのかなぁ・・・・。
今、難しい年頃の子供たちを3人も抱えているものの、相変わらず明るくて、
疲れたるやを感じさせない彼女のパワーで、ご家庭はいつも賑やかで笑顔が絶えないに違いない。

あたくしも早く、「先生」に会いたいな。
このお芝居が終わったら、改めて、こちらから出向いていくのもいいな・・・・そんなことを思った。
(当日は、きっとバタバタしてゆっくり話もできないだろうから。)





今朝になって、山賊から別件でまた電話があった。
店に出入りしている、業者の魚屋のおばさんが、
チケットをまとめて30枚買ってくれることになったのだ!!
今朝の寝起き加減で、本当は店になんか行く気はゼロだったのだけど、
せっかく、そのような連絡が入ったのならば、サヨコにお供しないわけにはいかない。
早速チケットを用意して、店に出向いた。

丁度、お昼時で、おばさんも店でランチを食べている途中。うまく居合わすことが出来たので、
早速、チケットをお渡しする。


「あら、お嬢ちゃん、(おばさんはあたくしのことをこう呼ぶ(笑))こんなに早く持ってきてくれるなんて
思ってなかったわ♪ お金、まだなのよ。どうしたらいい?」


「いつでも父の方に預けていただければ結構ですので♪
それに、こんなに宣伝していただいて、こっちが感謝してるくらいなんですから!!」


「何を言ってるのよ。お嬢ちゃんが一所懸命やってるのもあるし、
何せ最近、顔色も良くなってきたじゃないの♪ 調子はどうなの? 大丈夫?」


「えぇ、お陰様で。熱も少しずつ下がってきてますし、食欲もあるし♪
まぁ・・・・太ってきているわけじゃないですけど、上々ですよ♪」


「それは良かったわ! やっぱりねぇ、何か好きなことを十分にやれている時は違うのよ。
あたしは応援しているからねぇ・・・・やれるだけのことをやっときなさいね!!」


「はい! ありがとうございます!!」



おばさんは、いつもあたくしの体調を慮って、色々と差し入れをくれたり
あれこれ気を使ってくださって、なるべく外に出られるようにと、ホテルの食事券やら
それこそ、ディナーショーみたいなものの招待券やらも、プレゼントしてくれる。
こちらは、お世話になりっぱなしなので、恐縮しすぎてしまうこともあるのだけど、
彼女の人脈たるや恐ろしい波状網で、今回も、前もって渡しておいたチラシをあちこちでばら撒いてくれた
そのお陰で、30枚という数字になって返ってきたのだ。

お世話になった人には、深々と頭を下げ、感謝の意を表し、また今後の繋がりにもなるように
その人が喜ぶ状態で・・・・つまるところ、あたくしが元気で笑っていられる状態で、
店に顔を出すことが一番のご恩返しのようだ。
おばさんは、細部にまで気を使ってくれて、小さな子供が劇場をウロウロしないようにと
そういう人たちを除いて、30枚分のお客様を確保してきてくれたのである。
ありがたい・・・・本当にありがたい・・・・。


あたくしは今日、朝食が遅かったので、店では軽くしか食べなかったのだけど、
おばさんにはかつての食の細さを目撃されているので、美味しい、美味しいと言いながら
ケーキを頬張るあたくしの姿は、少しやせ細ってはいるものの、健康に見えたらしく、
安心して帰っていかれた。





あたくしらも程々の時間になってから店を後にし、少し寄り道をした。
実は、この年末に、山賊を本物の山賊に仕立て上げた、養祖父母が田舎から出てきていて、
店の近くに住み始めたというので、そこにご挨拶に行ってきたのだ。
父と血の繋がっている、あたくしの本当の祖父母はもう他界している。

父は、かなり複雑な家庭環境で育った・・・・幼い頃に両親が離婚し、後妻として来た継母にいじめられ
故、一度は孤児院に収容され、そこからこの養祖父母のもとにもらわれていったというわけ・・・・。
親戚たる親戚をたらいまわしにされ、小学4年までに転校7回。
果て、行き着く場所がなく、孤児院へ・・・・という道程であったのだが、
養祖父母の家にもらわれていったからといって、そこで温かく大事にされて育ったかというと
それもまた、少しニュアンスが違う。
かなり厳しい状況で生活していたというのは、それこそ耳にタコが出来るくらい、
昔から何度も聞かされて、あたくしもそれで育った(苦笑)。

実は・・・・。
サヨコと結婚する際も、その身勝手さで一時は勘当同然だったのだが、
あたくしが生まれて2〜3年して、ようやく和解したのだということを、つい最近になって知った。
あたくし自身は、この祖父母に大変に可愛がってもらい、悪い思い出などひとつもなく、
常に、優しいおじいちゃん、おばあちゃんだったのだが、山賊にとってはそればかりでもなかったらしい。
実の子ではないという負い目もどこかにあったのかもしれないけれど、
あたくしの曽祖父にあたる、この家の主人が現役であった頃は、相当に厳しい状況だったらしい。
さすがにその曽祖父も、あたくしが小学生の頃に亡くなってしまったわけで、
今でこそ、普通に付き合いをしていられるわけだが、
曽祖父が生きていたら、今頃、どんなふうになっていたか・・・・それを考えると、
もう子供でないあたくしなんかは、結構身の毛がよだってしまう(苦笑)。


祖父はあたくしと同じ誕生日で、今年81歳になる。
現役バリバリの頃は、奥飛騨の某村の村長を歴任。
長野と岐阜を隔てる峠に、スコンとトンネルを通してしまった立役者で、
今でも建築業界の人に、じいちゃんの名前を出すと、「お、お孫さんですか!!」
頭を下げられてしまうくらいに、実際、実力もあり、行動力もあり、金を動かす権力まであった人なので
東京にいた時代も、祖父の偉大さやその名は轟いていた。
・・・・安房トンネル。って、皆様ご存知??
あのトンネルを作れと命じたのがじいちゃんで、
当時の長野県知事(まだ田中氏ではない)とガチンコで渡り合ったのが
うちのじいちゃん・・・・何か想像つかない・・・・( ̄∇ ̄;)
で、国から予算を大幅にぶんどって、計画を通したところで、じいちゃんは引退して隠居に入った。
トンネルが開通したのは、それから数年経ってからのことだった。


今でもじいちゃんは、あちこちから講演依頼とかが来る人で、その講演の内容によっては、
孫のあたくしの冒険記までもが登場するらしい。
美濃の大垣から奥飛騨の山奥(高山から頑張っても車で1時間はかかるだろうところ)まで
小学3年だったかの時に、1人で電車やバスを乗り継いで行ったことがあるのだ。
こう言っちゃなんだが、本当に辺鄙なところで、バスだって1本逃すと、2時間待ちは当たり前。
本当にその時間通りにバスが来てくれればまだいいものの、それも怪しいようなところだった。
近くに谷川が流れていて、山の上のほうにあったじいちゃんの家からの展望は
夏も冬も、まるで、テレビのハイビジョン並の絶景で、自然だけは豊かなところだった。
それこそ、迷ったら人に聞けではないけれど、聞く人を探すのに大きな手間がかかりそうな
この村に、単身で乗り込んできたあたくしを、祖父は大袈裟に褒めて、
当時では考えられないような額のお小遣いを、ポイとくれたのであった。

じいちゃんにとっては衝撃的だったのだろう。
今でも、当時のことを思い出して、「凄かった、偉かった」と褒めてくれる(笑)。
じいちゃん・・・・あたくし、今年で30よ?(苦笑)

↑いや、大変に助かるし嬉しいんだけどね( ̄∇ ̄;)

あたくしは、一生、彼の孫なんだろう・・・・血は繋がっていなくても、一生そうなんだ。

「少し痩せすぎと違うか?」

と心配されたが、彼らにはあたくしの病気その他の状況については報せてないので、
笑って誤魔化しておいた。
婚期が近いことをそれとなく告げると、頗る喜んでくれて、
面倒なことはいいから、なるべく早めに話が進むといいなと言ってくれた。
60組以上の仲人を努めているだけあって、「煩わしい慣習にとらわれず自由にやりなさい」
助言してくれる高齢の祖父は、とても現役を退いたとは思えない、今の感覚の持ち主で、
そういう部分が、あたくしの障壁を取り払ってくれる気もして、とても頼もしく思えた。


昨日の勢いが、本日まで持ち越し、チケットは売れるわ、何やかんやで、
人運、客運、仕事運、金運なんかがうなぎのぼりの模様・・・・すげぇな・・・・(-。-) ぼそっ
あたくしの場合、ノーマルラインからの振り幅が、他人様より大きいので、
悪い時には本当にどん底まで落ちていくが、上り詰める時というのも結構凄くて、
正に天井知らずの波状攻撃をかますことも、かつて何度かあった。
近年、稀に見るこの伸びようは、今年の凡その運勢を見越しているようにも見え、
早く、結婚の算段を整え、祖父母にも報告できたらいいな・・・・とそんなふうにも思ったのでした。

あさみ


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