| 2003年11月07日(金)
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朝(あした)にわらふ花をこそ詠む |
昨日の〆の一首
この宵の袖濡らしたる我はなほ朝(あした)にわらふ花をこそ詠む
の意味、わかった? と、試しにぷよ2に聞いてみた。
上の句はともかく、下の句は全滅であった( ̄∇ ̄;) これが現代短歌と和歌の修辞の違いでもあり、趣きでもあるんだろうけれど。 「朝にわらふ花」というのは、直訳すると「明朝に咲く桜」という意味だ。 「宵」と「朝」を掛けたのはわかったと言っていた。 下の句を、彼はこう解釈したらしい。
「朝にわらふ花」=「目覚めてくる子供たち」=「色紙に書き付ける子の名前」
でも・・・・あたくし的には、こっちの現代解釈の方が自分に合っているような気がして、 ぷよ2の言語センスもなかなかだなぁと、見直したところだった。
「花」というと、和歌の世界、大概「桜」と訳される。 で、「わらふ」であるが、これは口語訳すると「(花が)咲く」という意味になる。 何故「咲く」が「わらふ」なのかは、平安時代の人に聞いとくれ。
「袖を濡らす」という表現は「泣く」ことを意味し、 夜な夜な泣くことを、今でも「枕を濡らす」なんて言うが、あれと似ている。 無論、物理的に袖が濡れることもこう言うのだが、ここが和歌の修辞の面白いところで、 海辺の仕事をして袖が濡れたことに掛けて、貴方のことを思い、泣いていますよ・・・・ みたいな歌も存在するのだ。なかなか巧くできている。
つまるところ、現代的にかつフランクに上記の歌を、それこそ「夕雅流」に訳すと、こうなる。
「今夜は泣いちまったけどさ、明日の朝になれば、あたくしのことだから また桜の花でも眺めながら呑気に歌でも詠んでいるさ♪」
この季節柄「桜」っつうのがいかんなぁとは思ったものの、風流はどこから来るものかわからず、 勢いで詠んだはいいけれど、やっぱり、春には春の、秋には秋の趣きっつうのがあるよなぁ・・・・ と、ちょい反省。 推敲してみた。
この宵の袖濡らしたる我はなほ朝(あした)に染まるもみぢをこそ詠む
秋の歌はどうも、しみじみしすぎていかんと思う。特に和歌は、秋の歌においての明るい修辞が どうも少ないような気がする。 イメージがグワッと変わってしまった( ̄∇ ̄;) 何だか涙を引き摺っているような感じがする。 やっぱり、「わらふ花」でないとダメだったんだな・・・・そんなことを思った。
我流の現代短歌だけではなく、きちんと勉強をしているフリくらいはしたいものだ(笑)。 昨日も書いたが、あたくしが歌を詠む姿勢というのは、実に横着で、 本当にこんな歌に値段を付けていいものなのか?? と自問自答する日々が続いている。
それにすぅ〜っと気付いて、「反応」してくれた人がいた。 これが、すごく嬉しかった。 見ていてくれるんだなぁ・・・・って、感動した。
その人に、一首献上したいなぁと思う。
ひさかたのサスは太陽より熱く醒ます手立てもうしなうほどに
和歌・現代短歌の修辞をミックスしてみました。 今のあたくしの状態です。 「ひさかたの」というのは有名な枕詞で、「光」「日(陽)」などを導き出すことばです。 その枕詞のすぐあとに、「サス」ということばを持ってきたのにもちゃんと意味はあって、 あたくしにとっては、「ピン」や「サス」は日常用語で、電球とか蛍光灯とかと同じ位置にある。 舞台照明の一部である、「サス」はすぐに熱を帯びて、非常に熱い。 太陽がじりじりと近づいてくるような感覚すらある。 しかし、そのすぐ真下に自分が覚醒した状態で存在するというのは、最高に気分がいい。
ちょっとした口語訳を付けてみましょう。(現代短歌ですが( ̄∇ ̄;))
「久し振りに特サスの下に立てるっていうのは気分がいい! あれは熱くて参ってしまうが、それでもこのまま突っ走りたい気分よ♪」
気分的にはこんな感じ。 心配しないでね、大丈夫よ、あたくしは。 小さなことでクヨクヨ悩むんだけど、こうやって歌も詠めるし、舞台にも立つことが叶う。 貴女もそれを見守っていてくれる。嬉しいよ。
思ったんだ。「朝(あした)にわらふ花」というのは、自分のことも含めて詠んだんじゃないかって。 今は泣いているけれど、昇華を果たすために、花として咲くために、「わらふ」ために 今があるんだって。 ぷよ2の意訳もなかなかいいもんだと思ったけれど、 ここはやっぱり自画自賛して、自分だけの意訳を心に秘めて、また明日から頑張ろう♪
作業そのものが嫌になってしまい、自分から「わらって〜」指示を出して、 本当に壊れたみたいにゲラゲラ笑って誤魔化す人というのも、目撃したことがある。 ホント、文字通り笑うしかない、逼迫した現場でだけ、コレは許される(爆笑)。 役者もバラシで働いていた若かりし時代が懐かしい・・・・。
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