2001年1月8日 全国的に成人の日らしい。 私たちの頃は、1月15日だった。 ハッピーマンデーという制度が成人の日には適用されるらしい。ハッピー・・・・?? まぁ、いいか♪ 成人の日・・・・だからというわけではないが、ダーリンと映画を観てきた。成人映画じゃねえよ、ちなみに(笑)。 公開時、マスコミを騒がせた「バトル・ロワイアル」である。何でも描写の関係でR15という指定がつき、中学生以下は見ちゃいけないんだそうだ。 それに異議申し立て(とは違うか( ̄∇ ̄;))したビートたけし。・・・・映画を見終わって、私は思った。 これは子供にこそ見せなければならないのではないか・・・・? と。 ビートたけしが言っていたことが、何となくわかった気がしたのである。 原作の小説が出てしばらくして、私の周囲でもちょっとばかし話題になった。バイト先でも話が出たし、電車の中でもすんごい顔をしながら読み耽っている人たちを何人も目撃した。・・・・この作品に一体何があるというのだろう? 当時は不思議だったが、今は何となく納得している。付記映画を観てから数日後、ようやく原作を入手。1月23日、ついに読破。自分でも、久々にあんなぶぁ〜っつい本を読んだものだから、ちょっと悦に入っている(爆)。ちなみに容量は1322枚の書き下ろしなだけあって、いくら本を読むのが好きな人でも速読術を身につけていなければ猶に丸1日・・・・いや、それ以上はかかる分量でしょう。 さて。映画のことだが。 作品の進行自体はシンプルでスッキリしている。 演技のことはこの際、どうこう言うまい(笑)。 エンディングに至っては、原作とはほぼ違うニュアンスで伝わってしまいそうなほどにあっけなく、「バカにすんなよ♪」とほくそえみたくもなったのだが、それでもさすが話題を呼んだだけあって、なかなかの力作だと私は思う。 そして。 この作品の中に込められている数々のキーワード(みたいなもの)をR指定をかけた人たちはきちんと分析しきれたのかどうか。これが疑問である。 描写からいったら、この間おじょ〜と一緒に観てきた「カル」の方が心臓にもよろしくないし、よっぽど子供にも悪影響だと思うのは、私の偏見ですかね・・・・?(爆) あらすじに少し触れると・・・・。 B.R.法(バトル・ロワイアル法)という法案が制定され、それに基づき全国の中学3年生から無作為に選出されたとある1クラス(原作では50クラス)が離島へ3日間隔離され、そこで最後の1人になるまで、殺し合いをする。最後の1人だけが島から帰ることができるのであるが、時間切れになって複数人残ってしまった場合は、全員が首につけられたセンサー(みたいなもの)で吹っ飛ばされてしまう・・・・。そんな状況の中での物語。 さて・・・・。そろそろ本題に入りましょう。 先日、同じ映画を観たネットの友達のもりぞうさんから、うちのHPの宿帖(掲示板)にこんな書き込みをいただいた。「友達、殺したことある?」 あるわきゃないのである。 本人も言っている。 あったらそもそも、こんなところで悠々とキーボードなんか打っちゃいないって(笑)。 私はその書き込みに、こうレスをつけた。「風葬なら何度かある。」と。 作家・山田詠美の名作の中に「風葬の教室」という読み切りの作品がある。 主人公の女の子(小学生)が、いじめを苦に自殺をしようと思い立ち遺書を書くのだが、その時に、最後に家族の様子を・・・・と階下へ降りた彼女は、自分の母と姉がこんな話をしているのを耳にするのである。「あなたも小さい頃、よくいじめられたわねぇ。」「・・・・・・でも私は、全然平気だったわ。いじめっ子連中を一人一人殺していったもの。(中略) 全員が死んだ時には、私、クラスの人気者になってたわね。」(後略)自らもいじめられた経験をもつ姉は、心の中で自分をいじめた人間を一人一人静かに抹殺していったのだという。 私もそれに似たようなことをやったことがあるのを思い出した。昔々の話である。 ただ自分の心の中で抹殺が完遂し、自分に嵐が降りかからなくなって初めて、日和見主義の「女の子」という集団の本質が見え、そういう人たちは2度と私の中で大した意味を持たなくなった。私が「みんな」という和の中にいて、例えそこでちやほやされても、自分のいる位置というのを深く考えることはあっても、和を構成する一人一人の顔などを深く追求することはなかった。常に1対1を心がけ、1対1になりえない人たちは私から去り、そうでない人が残り、環境が整備されていった。和を構成する中で、1対1になれる人とそうでない人を見分ける目を養うのに、体も心もガリガリと削ってしまった。 私は、自らを殺さないまでも「痛かった」のだ。 いくら心の中でだけの「仕事」とはいえ、殺す作業というのは容易いものではない。自分が痛い。色々と削らねばならないものがあるから。 「風葬の教室」の主人公は、この後、母と姉が会話するのをずっと聞いていた。すると、2人が彼女のためにシュークリームの中身をカスタードにするか生クリームにするかを話し合っているのである。彼女はこれを聞いて自殺を思い止まるのだ。「こんな素敵な人たちを悲しませちゃいけない。」と。 小学5年生にして自分の確かな存在を理解する子もいれば、30にもなって人の痛みすらもわからず、ただなんとなく嫌がらせをする人もいる。大人と子供の線引きは実に曖昧で、10歳にして大人になってしまう人もいれば、30歳の子供もいたりする。そして、見た目からはわからない「子供」に翻弄されて、心の中での抹殺を完遂することもできぬまま自分の命を捧げることを選ぶ、心優しい人もいるのだ。・・・・自殺してしまう人は、一様にただ弱いだけではないような気がする。 かの映画(原作)でも、殺し合いを避け、自ら命を絶った15歳が何人もいた。 設定が、究極すぎたとはいえ、どうしてこの選択が間違いだといえよう。必ずしも正しい道ではない。だが自殺する人間をただ弱いと判断するには横暴すぎるような気もするのだ。 生への執着がないといってしまえばそれまでか・・・・。 が、しかし、他人を殺し、自分の感情をも殺し、その後に待っているものって一体何? そうまでして呼吸を繰り返すことの意義って何なのだろう? 自ら命を絶つことで、他人を殺すという選択肢をあえて選ばなかった人たちは、基本的に正常だと私は思う。決して健康ではないだろうけど。正常であれば、昨日まで明るく笑いあい、普通に口をきいていたトモダチが目の前でバッタバッタと死んでいくのを、静かな気持ちで眺めるなんていうことはとてもできないはずなのだ。 そしてもう1つ。 人間と他の動物の大きな違いがある。仲間の死に対して弔いを行なうことである。他の動物は仲間が死んでも、葬りはしない。自然に土に帰るのを待つか、仲間たちや食物連鎖の上のものの栄養になったりする。この作品では、殺された15歳たちはこのプログラムが終了次第、清掃業者が死体を集めにくるなどという設定だった。 が、私の生きている国では、誰かが死んだら花を手向け、手厚く葬るという習慣がある。そこにはしっかりと「感情」が伴い色々なことが記憶される。 親しい誰かが死んだら、それに対する感情が自ずと生まれるものである。(それがすなわち葬儀という形になったりもするのだが)が、作品の設定では、他人の死を悼んでいる隙をついて、自分が殺されてしまうかもしれないという危機感が、本来あるべきだった感情さえも殺ぎ落としてしまっていっているのだ。スクリーンを見て、原作を読み、空恐ろしくなってくる。・・・・自然な感情がないというのは怖い。そして、最低限保証された常識の危うさを厭う。人を殺すなんて、してはならないこととわかっていたはずなのに、それでも自分が生き延びるためであるならそうせずにはいられないなんて・・・・ね。 面白いことにこの作品には、(まず日本ではないと言い切ってしまっていることに加え)法律という大前提のもとに取っ払ってしまったものの中に、大きなテーマが隠されていた。要するに、本来はなければならないものをあえて取り除いた状況での惨劇が、我々に色々なことを警告していてくれるのである。 他を敬いなさい。 己を敬いなさい。 それは元来、大人が子供に体を張って教えていくべきものなのである。 深作欣二という大人が、高見広春という大人が、自らの作品という媒体を使って、表現を通して、教えようとしてくれている。年数を経ただけの法律的な「大人」が制限をかけてはならない。 この場に生まれたからには、まずこの場で呼吸する意義を見出すために、大人も子供も痛みの存在を知らなくてはならない。 それあって故の・・・・・・・生への執着である。 ・・・・などと。 支離滅裂な感想文なんか書いちゃいましたけど、この映画を観て思うのは、そんなことよりも何よりも・・・・フィクションよりもノンフィクションで起こることの方が今やこの国では荒々しく、ある種芸術味すら帯びているみたいで。今、本当にヤバいのは、日々全国各地で巻き起こる事件の方で、決して誰かが創造したヴァイオレンス映画や小説なんかじゃないのである。 映画よりも先に、ニュースにR指定をかけるほうが手っ取り早いのに・・・・と思う今日この頃。犯罪が先か、報道が先か・・・・・ってニワトリとタマゴが頭ん中をグルグルしてます(苦笑)