夜中近く、終電もないような時間に、30歳の彼の家に出向いた。 すっぴんで、ジーンズで、ぜんぜん好きな人に会いに行くような姿じゃない。 薄手のTシャツにジャンパーを羽織っただけで、冬の夜には寒い格好。 部屋に入れてくれるかどうかも分からなくて、計算ずくめの賭けだった。 彼が私を大人のものさしで扱おうとするなら、 私も今の未熟なものさしで彼にぶつかってやろう。 そう思って、彼を困らせてしまうのを承知の上でやってきたんだ。
部屋の前まで行くと、お風呂場に電気が灯っていて、シャワーを浴びる音がした。 アパートの前の道にしゃがみこみながら、お風呂場の電気が消えるのを待つ。 消えたら、チャイムを鳴らすんだ。 しばらくして、電気が消えた。 その直後に、彼が部屋から出てきた。 なんで?どうして?来ているのが分かっちゃったのかな? でもいずれは鳴らさなきゃいけないんだ。 そう思いながらも、反射的にダッシュしてしまう。 アパートのわき道から、部屋の方を眺める。 二、三分そうしてから、アパートに引き返し、階段を上り、チャイムを鳴した。 ドアののぞき穴の向こう、魚眼レンズ越しに、彼がいるのが分かった。 ガチャリと鍵の開く音がして、いつもの部屋着姿、濡れた髪の彼が出てくる。 その顔、特に目が厳しくて、くじけそうになった。 「さっき家の前にいたでしょ?」「うん」 「ちょっと待ってて」「うん」 もう一度ドアが閉まり、次に彼はまたいつもの服装に着替えて出てきた。 いつものジーンズ。いつものハンチング帽。いつもの靴。 でも、彼は一言も話さずに行ってしまう。私のことを見ない。
彼と私の距離、はじめは5メートル。 彼は足早なのに、私はノロノロで10メートル。 途中で彼が立ち止まってまた5メートル。 信号の色が変わってしまって、歩道のあちらとこちらで20メートル。 着かず離れずを繰り返して、結局公園で1メートルまで近づく。 でも、心の距離は遠い。
大きな切り株の形のベンチに彼が腰掛ける。 彼に促されて、私も隣に座る。 ぽつり、ぽつり、話し始める。 彼のこと、彼の彼女のこと、私のこと。 彼は彼女を誰かのせいで失ったら、人を殺してしまうかもしれないと言った。 大人でおだやかな彼が、ゆっくり言葉を選んでから放った言葉。 その重みから、それだけ彼女のことが大切なのだと分かった。 でも、そこまで大切なら、どうして私に手を出したりしたのだろう。 彼にとって私はなんでもなかったんだ、と思う。 いつも行き着く答え。 彼女にもしてもらえなかったし、かと言って浮気相手にもなれなかった。 すごく悲しい話し合いだったけれど、来てよかった。 もがき苦しむ私を目の当たりにして、どうすれば前に進めるのか、 一生懸命に考えてくれた。 もう私はあきらめるしかないんだなって実感した。
しばらくして、あまりの寒さにファミレスに飛び込んだ。 彼の家は近いけれど、寒さしのぎの場所のリストには乗らない。 彼に近づきたいけれど、部屋には入っちゃいけない。 ピザとコーヒーゼリーと紅茶であったまって、ようやく笑顔が戻る。
深夜2時をまわった頃、結局彼の部屋に行くことになった。 バカだなぁ、この人は。 私、自分から部屋に入れてなんて絶対言わないって決めてたし、 なんならファミレスで一夜を明かす覚悟だってあったのに。 自分から「部屋来る?」って言っちゃうんだもん。 入っちゃいけないって分かってたって、「うん」って言っちゃうよ。 だってまだ好きなんだもん。いっしょにいたいんだもん。
彼の部屋もやっぱり変わらない。 少しだけ変わっていたのは、写真だらけの壁に、新しい写真が一枚増えたこと。 草むらに寝転がる男の人の写真。 素敵な写真だね。私も撮って欲しかった。 こんな素敵な写真を撮る彼に撮られるのを嫌がる彼女は贅沢だ。 でも、ちょっと椎名林檎の「ギブス」みたいで憎たらしい。
彼はベッドに寝転がる。 私はソファに。 掛け布団がないのは十分承知していたけれど、体にジャンパーをかけて、 ソファの上でちぢこまった。 この頃になると、深刻な話題よりはただのおしゃべりの比率が大きくなっている。 ここでもやっぱり彼はバカだった。 「寒くないの?」「うーん、今は大丈夫」 「これから冷えるし、寒いでしょ?」「そうかもね」 「こっち来れば?」「平気だよ」 本当はそっちに行きたいよ。 彼のぬくもりに触れたい。 またしばらくおしゃべりをしてから、もう一度「布団入りなよ」と言う彼。 「じゃあ、隣に行かせて」私も言ってしまう。 疲れのせいか、あっという間に眠りに落ちた。 気づいたら、彼が体に触れてきていた。 彼は私を抱いたけど、きっと私のことなんか見てなかった。 はじめに私を抱いたときと同じ、きっとしたかったからそうしただけ。 さっき彼女のことがあんなに大事だって言ったくせに。 ふとんの片隅で頭を抱えて後悔するくらいなら、抱かないで。 私だって傷つくよ。 いつも笑顔の私が、彼の前ではじめて表情を失くした。黙った。 「ごめん」 彼が一言、言う。 私が欲しいのは、そんな言葉じゃない。 そのまま黙って彼に背を向けて、窓ぎりぎりまで彼から離れて、眠りについた。 カーテンのすきまから、月明かりが射していた。 なんて悲しい夜と距離。
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