2004年12月01日(水) ドキュメント


夜中近く、終電もないような時間に、30歳の彼の家に出向いた。
すっぴんで、ジーンズで、ぜんぜん好きな人に会いに行くような姿じゃない。
薄手のTシャツにジャンパーを羽織っただけで、冬の夜には寒い格好。
部屋に入れてくれるかどうかも分からなくて、計算ずくめの賭けだった。
彼が私を大人のものさしで扱おうとするなら、
私も今の未熟なものさしで彼にぶつかってやろう。
そう思って、彼を困らせてしまうのを承知の上でやってきたんだ。

部屋の前まで行くと、お風呂場に電気が灯っていて、シャワーを浴びる音がした。
アパートの前の道にしゃがみこみながら、お風呂場の電気が消えるのを待つ。
消えたら、チャイムを鳴らすんだ。
しばらくして、電気が消えた。
その直後に、彼が部屋から出てきた。
なんで?どうして?来ているのが分かっちゃったのかな?
でもいずれは鳴らさなきゃいけないんだ。
そう思いながらも、反射的にダッシュしてしまう。
アパートのわき道から、部屋の方を眺める。
二、三分そうしてから、アパートに引き返し、階段を上り、チャイムを鳴した。
ドアののぞき穴の向こう、魚眼レンズ越しに、彼がいるのが分かった。
ガチャリと鍵の開く音がして、いつもの部屋着姿、濡れた髪の彼が出てくる。
その顔、特に目が厳しくて、くじけそうになった。
「さっき家の前にいたでしょ?」「うん」
「ちょっと待ってて」「うん」
もう一度ドアが閉まり、次に彼はまたいつもの服装に着替えて出てきた。
いつものジーンズ。いつものハンチング帽。いつもの靴。
でも、彼は一言も話さずに行ってしまう。私のことを見ない。

彼と私の距離、はじめは5メートル。
彼は足早なのに、私はノロノロで10メートル。
途中で彼が立ち止まってまた5メートル。
信号の色が変わってしまって、歩道のあちらとこちらで20メートル。
着かず離れずを繰り返して、結局公園で1メートルまで近づく。
でも、心の距離は遠い。

大きな切り株の形のベンチに彼が腰掛ける。
彼に促されて、私も隣に座る。
ぽつり、ぽつり、話し始める。
彼のこと、彼の彼女のこと、私のこと。
彼は彼女を誰かのせいで失ったら、人を殺してしまうかもしれないと言った。
大人でおだやかな彼が、ゆっくり言葉を選んでから放った言葉。
その重みから、それだけ彼女のことが大切なのだと分かった。
でも、そこまで大切なら、どうして私に手を出したりしたのだろう。
彼にとって私はなんでもなかったんだ、と思う。
いつも行き着く答え。
彼女にもしてもらえなかったし、かと言って浮気相手にもなれなかった。
すごく悲しい話し合いだったけれど、来てよかった。
もがき苦しむ私を目の当たりにして、どうすれば前に進めるのか、
一生懸命に考えてくれた。
もう私はあきらめるしかないんだなって実感した。

しばらくして、あまりの寒さにファミレスに飛び込んだ。
彼の家は近いけれど、寒さしのぎの場所のリストには乗らない。
彼に近づきたいけれど、部屋には入っちゃいけない。
ピザとコーヒーゼリーと紅茶であったまって、ようやく笑顔が戻る。

深夜2時をまわった頃、結局彼の部屋に行くことになった。
バカだなぁ、この人は。
私、自分から部屋に入れてなんて絶対言わないって決めてたし、
なんならファミレスで一夜を明かす覚悟だってあったのに。
自分から「部屋来る?」って言っちゃうんだもん。
入っちゃいけないって分かってたって、「うん」って言っちゃうよ。
だってまだ好きなんだもん。いっしょにいたいんだもん。

彼の部屋もやっぱり変わらない。
少しだけ変わっていたのは、写真だらけの壁に、新しい写真が一枚増えたこと。
草むらに寝転がる男の人の写真。
素敵な写真だね。私も撮って欲しかった。
こんな素敵な写真を撮る彼に撮られるのを嫌がる彼女は贅沢だ。
でも、ちょっと椎名林檎の「ギブス」みたいで憎たらしい。

彼はベッドに寝転がる。
私はソファに。
掛け布団がないのは十分承知していたけれど、体にジャンパーをかけて、
ソファの上でちぢこまった。
この頃になると、深刻な話題よりはただのおしゃべりの比率が大きくなっている。
ここでもやっぱり彼はバカだった。
「寒くないの?」「うーん、今は大丈夫」
「これから冷えるし、寒いでしょ?」「そうかもね」
「こっち来れば?」「平気だよ」
本当はそっちに行きたいよ。
彼のぬくもりに触れたい。
またしばらくおしゃべりをしてから、もう一度「布団入りなよ」と言う彼。
「じゃあ、隣に行かせて」私も言ってしまう。
疲れのせいか、あっという間に眠りに落ちた。
気づいたら、彼が体に触れてきていた。
彼は私を抱いたけど、きっと私のことなんか見てなかった。
はじめに私を抱いたときと同じ、きっとしたかったからそうしただけ。
さっき彼女のことがあんなに大事だって言ったくせに。
ふとんの片隅で頭を抱えて後悔するくらいなら、抱かないで。
私だって傷つくよ。
いつも笑顔の私が、彼の前ではじめて表情を失くした。黙った。
「ごめん」
彼が一言、言う。
私が欲しいのは、そんな言葉じゃない。
そのまま黙って彼に背を向けて、窓ぎりぎりまで彼から離れて、眠りについた。
カーテンのすきまから、月明かりが射していた。
なんて悲しい夜と距離。



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