日記×エッセイ...みち

 

 

ACIMホームワークと勉強会 - 2018年04月01日(日)

今回の宿題はこちら↓

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特別な関係性へと私の想いが迷い込むときは、聖霊と共に聖なる瞬間に入り、その中で聖霊が私を解放するに任せる。
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こちらの宿題と一週間過ごしました。


なにがあったか、というと特別なにもなかった感じですが、細かく拾うといつもは経験してなかったことがいくつかあるかな?という。

学生時代のある友達に対しての感覚や、「学校」についての感覚を突然思い出したりしました。
わたしにとって、学校って「特別な関係性」を使うということに関わっている感じがあります。

思い出した友達はあまり好きじゃない友達だったんだけど、賢いし明るいし人気がある友達で、何でわたしはその友達が好きじゃなかったんだろうな?って改めて思う時間を過ごしてみました。ちなみに、当時のわたしはその友達を好きじゃないっていう自覚はありません。

もっと正直に・・・当時そういう風には生きれない、今振り返ってもその頃のわたしには無理だーって思うのだけど、わたしがもっと正直に生きていたならその友達との関係性は少し違ったものかもしれないなと思いました。
自分の正しさで生きてて、相手をわかろうとしてなかったなあと。そんなつもりはなかったし、当時のわたしにとってはむしろわかろうとしてたけど、それも自分の狭い指標からでしかやってなかったなあって思いました。
※ここ(↑)の発言を少し気にしておいてください。書いているときにはまったく気付かなかった部分です。この思考パターンは今日の日記後半に書いたこと(それにハマること)につながっています。「わたしのわかろうとしていることでは、足りない」という思考パターン。

今は学生の頃のわたしの倍以上生きているのもあって、改めて見てみると見えるものが少し違うなあと。見ようと思いもしなかったわけで、思い出したから改めて見たって感じで、だから思い出さなかったら更新せずにずっと保管したのかもしれません。



それから、「人を嫌う」というのも特別な関係性だなあって思いました。逆に、この人の助けになりたい、という時もこの感覚が発現するなあって。

人を嫌うということに関しては、「よほどわたしはその人と特別な関係性を作りたいのだな」と思いまして、そう思ったのと嫌っている感情とを一緒に持ってみたときに、なんかとても奇妙な感覚がしました。

そうしたら自分から何かが抜けて、いつもの自分の態度や行動とは少し違ったものを差し出す、そういう自分を見られました。
それと、嫌っているときってなんか「意地を張る」みたいな感覚があるんだな、ということに気づきました。それを使わなくていいのはとても楽だなということにも気づきました。
あ、なるほど。わたしから抜けたのは、「意地」に似てるかも。

逆にこの人の助けになりたい、というときには、「あ、別にそれをわたしがしなくてもいいんだった」「他の人で適任がいるかもしれない」という場所から、自分がさらに理解したいことを学びなおす、みたいに変換することもありました。これもすごく楽です。自分も相手も自由にする感じがあるな。
あ、なるほど。自由にしないようにするのが疲れるのか。


で、昨日はACIM勉強会でしたが、シェアリングを主に行った日だったので宿題は次回も同じものを引き続き行います。
来週はどんな経験ですかね。




余談。

昨晩はとても眠くて、先週の一週間は夜勤入り日や休みがなかったから?なのか寝たりない感じがずっと続いていて、で、やっと次の日はお休みという日が来たので「寝るぞー!」って21時半くらいにもう布団に入りました。

そうしたら夜に、一度起きました。
ぐっすり寝た感じはするのだけど、意外に時間はまだ0時を過ぎていませんでした。そして、ぐっすり寝た感じはあるのにすごく眠くて頭が痛い。眠いのに眠れない。それが気持ち悪い。そんな感じでした。

寝ぐずりする赤ん坊ってこんな感じ?と、なんかじたばたしたい気分を抱えつつ、頭の痛みに意識を向けてセルフプレゼンシングをしていたらいつの間にか寝落ちして朝まで寝ました。

朝起きて、何かがなくなったような感覚。ずうっと持っていたもの。何かがわかりませんが。



昨日の勉強会を振り返って、わたしはわかりたいからコースをやってるところがあるなあ、ということがわかりました。わかりたい欲求が大きいんだなあって。

先週の個人的な日記にわたしは、「わかろうとするから、お腹を緊張させる。わかろうとすることと特別な関係性がつながってた。」と書いているのですが、使い道次第なんだな、と思いました。
個人的な日記に書いた「わかろうとする」というのは、過去わたしが学生時代に友人を「わかろうとした」というのと同じもので、この意味での「わかろうとする」のはしんどくなります。

ワーキングメモリと対人関係の話題を先週読んだのですけど、ここで書かれていることがすごくよくわかります。「わかろうとしすぎる」、まさにこれ。
他のところに使えないくらい容量をとるのが実感として腑に落ちるので、この意味での「わかろうとする」ではないかどうか、注意しようぜという感じです。

しんどくなるのも容量を取りすぎてしまうのも、恐れから来るのだなあと。「足りない」「足りない」ってずうっと求めちゃってたんだなあって。


わたしにとってコースをわかろうとするのは、二種類の「わかろう」が混在しています。ただ心から惹かれるものと、「足りない」思考。
理解しようとすると「足りない」思考がやってくるような気もします。独力で理解しようなど思わず、理解したいぞーと望みながら任せておいたほうがよさそうです。

わたしはコースのテキストを始めたばかりの頃はずっと読めませんでした。読んでも意味が分からないというか、頭に入ってきません。言葉の意味は分かるけど、空回りをする、次の文章に行くまで覚えていられないからまだ戻って読み返さないといけない、そんな感じでした。

それなので、テキストは読んだ途中で開きっぱなしで数か月放置、そしてまた最初から読む、とかがざらでした。
結局はワークブックから始めて、ワークをし終えたら読めるようになりました。それなのでわたしのテキストは前半だけが手垢で汚れています。

これを今振り返ると、よく読むのを諦めないもんだな、と思います。他人事みたいに思います。

そういったことも、昨日の勉強会で振り返ることができました。
どこか、スコーン!と留め金が抜けた感じ。

コースを学習するということに関して、自分にとって難しかったところ・難しいところを話し、他の人が難しく感じるところを聞いていたら、スコーン!と何かが抜けました。

自分はこれについては、たやすいことなんだ。
自分はこれについては、難しいんだ。

ということがわかったというか。。。わかったというよりは、見ることができたって感じか。

自分の得意とすること、それを否定したりとか、あるいは優越感みたいに使ってみたりとか、はたまた相手を否定することに「自分が得意だ」ということを使ったりするなあって思いました。

また逆に、自分にとって難しいこと、それを自分否定に使ったり、他の人もそれは難しいことなんだと思い込んだり、「自分がそれは難しい」ということを他者否定に使ったりするなあって思いました。

朝、そういうことに気づきました。気づいたというよりは、整理されたという感じか?
夜にいったん目を覚ますはずだ、とどこか納得してます。



追記。

ACIMの宿題をしていて、特に穏やかでシェアするようなことは特になかった、という時があります。今回もそういう感じでした。
でも、「あれ?」と思いました。
穏やかな時の経験、それもまた大事だ、と思いました。

というのは、先日ドメイン・フォーカシングのオンラインクラスにて経験したことを思い出したからです。

それは例えば、今ひどいことが起きている自分に対して慈悲を贈るって結構難しいことだと思うのですけど。自分を慰めたいみたいな類はあるとしても、悲しいことが起きているさなかに、その自分に対してただ愛を贈るって難しいことだと思うのですよ。少なくともわたしにとっては難しいです。

だけど、過去に自分にとって悲しいことがあって、その自分に対して愛を贈るということは、今のリアルタイムの自分に対して行うことに比べるとしやすいことと思います。

それがもしもできたとしたなら、その感覚を感じられます。過去の悲しい思いをしている自分に対しての慈悲の感覚、それを感じられます。
もしその感覚をしっかりと感じるということができたなら、その感覚をそのまま今の自分に向けられるか、ということが挑戦できます。

階段をひとつ上って、同じようにもうひとつ上れるか?という挑戦。

だから、穏やかな時の経験というのはひとつめの階段を上るということと同じで、これは上れるぞ、これならできるぞという経験・確信を得られてるわけで、それって結構大事だよなあと思いました。
これなら別に問題ないですよ?っていう、その感覚を覚えられるそういう機会っていうのは大事だよなって思いました。



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