日記×エッセイ...みち

 

 

つらつら - 2017年11月23日(木)

知人がしんどそうにしてるから、という話題でした。
その方の知り合いの方は、お付き合いしてる相手の人が喜んでくれるから自分はそれをするのが嫌なのだけどやっている、という感じの方ということでした。

「それって承認欲求でしょ?自分に自信がないから相手にやってあげて、でもそれじゃあしんどくなってしまいますよね」

わたし自身も承認欲求があるので、わたしもそれと似たようなことになるのってあるなあ、と思いながら聞きました。
そうなのよ、しんどくなるよねえ、みたいな。
しんどくならないためにこういう行動をするよねえ、みたいな。
でもこの話に出てくる方はわたしのような行動にはしないんだなあ、わたしよりも人とつながることへの価値観が高いんだなあ、みたいな。
それもいいなあ、と思ってみたり。

それらのことは特に言葉にして伝えてはないですけど、その会話があった後、じわじわと自分自身のことが自分が使った言葉を通してわかってきました。

わたしの辞書には、自分がやりたいことを諦める選択は載ってないようです。

その場は退いたとしても、なくそうとはしないということに気づきました。
(気づいていなかったことに気づいた)

今回の話だったら、それがたとえ承認欲求が混じっていたとしても自分がやりたいことをやらせよう、心地よくなるようにしてやらせよう、とわたしは自分自身にしているのだなと。

でももちろんこれは意識できているときの話。
承認欲求があるな、と認識していればそれがあったとしても別に問題がない、みたいな感覚ですかね。

やりたいことはやっていいよとして、むしろ嫌だなあと感じるもののほうに意識を向けてみる、そしてそれが取り去れるかどうかを見る。
そういう自分の傾向に気づきました。

「それって『今』嫌なものなのかしら?」
「過去の出来事から何か学習してそれを使ってるだけだったりしない?」
「それとも・・・?」

そう問いかけて、嫌だなあと感じてたものが「今」新たに感じてみるもの、「今」新たに感じてみようと興味を持つものに変化するかもしれない。
もしくは「やりたいこと」だったはずのものの興味がぎゅうっと激減するかもしれない。

そういうことをしてるなあ、と思ったのでした。

誰かと話すことで気づくことってわたしはだいぶ多いですねえ。
自分がいつもどうしているのか、ということすらわたし自身はよく知らないのだなとそう認識できるのは楽しいです(笑)



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