日記×エッセイ...みち

 

 

つらつら - 2017年06月16日(金)

今日夢の中で、プレゼンシングソマティクスの施術をしていました。
わたしは施術者で首と頭に痛みがあるという方に手を置いて言葉がけをして、クライエントと一緒に感覚していくということをしていたのですが、目を覚ますとわたしの手はわたしの体に置いてありました。
なので、わたしはそのまま夢の続きのように自分の体で続けました。

そうして得られた感覚はとても穏やかで静かで、ああそうだ、また忘れていた、と感じました。
ほんとうに忘れてしまうなあ。

最近日常を過ごしていて、人とのやり取りからとか目に入ったニュースからとかをきっかけにいろんなことを思ったのだけど、このわたしの考え方っていうのは恐れがあるからこのように思うのだなあ、と朝のセッション(?)で少し恐れから離れたことでそう思いました。
わたしの中に恐れがなかったら、こういう考え方にならないなあって。

恐れがない考え方はこうだからこう考えよう、こう考えるのが良い、正しい、そうするとどこかきゅうっとした感覚になるけれど、そうではなくて、単に恐れのない感覚に戻ってみる。
思い出してみる。
恐れがないとき、恐れがあるときと同じような考え方にはならないんだな、変わるなあって、単に気づく。


わたしはまた、やるやる詐欺状態になっていたので、その自分を見ていました。
やるやる詐欺といっても、わたしは冬に崩した体調回復を優先したかったし、7月までは自分が施術することに関してはお休みとしています。興味深いのは、なのに出てくるということ。だから要は、自分を責める自分がまた出てきたぞということです。

わたしは「食べていける、住むところがある」その確保があって、それから「新しい仕事」と考えます。
一方で、「新しい仕事をする」ことで「食べていける、住むところがある」そういうことが確保できると、そう信じてはいないのだなということも思いました。

施術の技術に対してとか施術の内容に対してとか、そういったところとは別の何かに関して、わたしは自分に自信を持っていない。
うーむ。

それから気づいたこととしては、たぶんその持っていない自信に関連しているのだけど、わたしは大切なものほど自分の気持ちを「今」言わないというところがあるな、ということ。
そのときじゃなくて、過ぎ去ってから言うとか。
うーむ。時が経ってから伝えるということが適していることもあるけど、そうじゃない類も中にあるなーみたいな。それは相手を思ってのことか、それとも?ってところですかね。



小沢健二の「流動体について」が頭にまた流れる現在です。

もしも間違いに気がつくことがなかったのなら?


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