日記×エッセイ...みち

 

 

つらつら - 2017年03月11日(土)

今日、ひとつわかったことがあって。

「え?これおかしいよね・・・」と思うことがあった、というAさんの話を聞いていました。
わたしにとってその内容は「とても感覚的にわかる」「それはおかしい」と同意する感じで、なのでそこからこの感覚はわたしは他の何人かの人と共有しているのだな、という感じを受けました。

その話は「そういった発想は出てこない。」という内容でした。
これって誰かを褒める時にも使いますけど、今回はそうではありませんでした。

その発想が出てくるためには恐れがないと出てこないようなもので。
相手を恐れさせてコントロールするのがよい、みたいな印象がする発言だったのですね。

その発想が出るということは、コントロールしようとしたその人自身がそういう恐れを持っている、ということを、たとえ本人は気づかなくても周りにはわかってしまうことになる、というか、そういうこともなんかざっくりと見えて、、、うわあ、すさまじいなと思いました。
容赦ないというか。うん。

恐れがあると、言動が一致しない、言っていることに統一性がない、という表現になるような印象がありましたが、そりゃそうだな、ってちょっと思いました。
恐れがあると信頼につながりにくくもなるのかもなあ。



わたしはそういった、相手を恐れさせてどうにかしよう、みたいな発言を聞くと、息ができなくなるような感覚が体に出てきます。今日、話だけ聞いていた時も、「おおお、軽ーく苦しいのが体に出現してきたぞー」みたいに感覚を感じながらいました。鍼治療でワークしてるのはここだよなーみたいな。
恐れさせられてコントロールされることが怖いのかな、それとも人をコントロールしてしまうことを恐れてるのかな、など思ってみたのですが、どうもそれはしっくりこなくて、なんか、その人に対して一生懸命になる感じがあるなあって思って。

わたしはそれを、「相手」でなくて自分自身に向けるべきなんだろうな、って感じました。

はっきりよくわからないなあ、って感じでこうして書いていたのですけど、書いていたら、幼い頃の記憶が出てきました。
ああそっか、それは一生懸命になるよなあ、みたいな風に思いました。


こういう体の反応、思考の反応についてはあんまり人と共有しないですよね。
ある部分、あ、ここは共有できないやって思ったというか、同じ反応をする感じがしないや、って気づいたっていうか。
そういったことを今日気づいたのですが。(前置きが長いです)

今日、本当にこういう部分は個人的なものなんだなあ、とハッキリ思えた感じがあります。
共有できないから孤独感を感じるとか、誰かと共有したいとか、そういうのではなく、共有できないというのがわかったから、自分でちゃんとやんなきゃ、って思えたというか。
だから、すごくすっきりした感じがあります。

うーん、まだうまく言えないのですけども。


今日のACIMのレッスンは62。
「赦しは、この世界の光としての私の役割です。」
Forgiveness is my function as the light of the world.

誰かを赦す、というのは見かけ上みたいな感じだなあって思ったし、自分を赦していない部分がこうして見えるなあとも思いました。

ただ、今どうなのかがわかる。


...




My追加

 

 

 

 

INDEX
past  will

MAIL