日記×エッセイ...みち

 

 

日記を書くこと。 - 2016年10月04日(火)

ここでの文章とは別に、自分しか読まない日記を書いています。
以前に比べてこちらを更新しないのはそれでかもしれません。わたしは文章を書く分量というのが決まっているっぽくて、メールなりSNSなりどこかで文章を書いていると、他で書く文章量は少なくなる傾向があります。

自分しか読まない日記はちょっと変わった使い方をしていて、生まれる前から自分を見守っている、ずっと一緒にいて自分をナビしてくれる存在に向かって書く、という設定で書いています。

基本的にはその日にあったこと、思ったことを、ちょっと聞いてほしいんだけど、と一方的に話を聞いてもらう感じで書いています。
こういったらどう思われるだろうとか、こんなこと言ったらとか、そういった心配が全くいらないので(どうせ言わなくても知ってる、みたいな)、正直に言い、それを聞いてもらうということをしています。

これをしていて興味深いのは、自分が思ったことを書いていくことで、自分の内側から自分の思ってもいなかったこと、でもとてもしっくりする言葉が返答のように出てくることです。

「こういうことが怖い」とか「わたしはこういう風に思ってる」とか書くと、本当に怖がっているものはこれ、という感じで出てきます。だからこういう風に思うことになっている、とか、さらに奥にあるもの、土台となっているものが出てくる感じがします。

それはなかなかおもしろくて、昨晩も寝る前に日記を書いたのですが、布団に横になったらその返答が来て、その返答って自分が頭で考えだして導いている感じではないから書かないでいるとすぐ忘れてしまうので、起きてノートを開いて、・・・あ、忘れた、みたいな。でもまだ自分が思ったどういったこととそれがつながっているかというのは覚えているので、もう一度自分の思考を最初からやりなおしてみて、そうしたら思い出して、書き始めて、書き始めたら最終的にどういう結論だったのかに行くまでに忘れて。そしてもう一回自分の思考をやりなおして、あ、そうそう!そういう返答だった!ということで続きを書く、みたいな有様でした。

自分が思っていることなのだけど言語化できていない、そこまではわかっていない、そういうことを、こういうことを思っているんだよね、と出されるような感覚に似ています。

昨晩それで教えてもらった(という方が感覚に近い)ことは、自分がやりたいこと、価値があると考えていること、それをできることを信頼していないということ。
助けがないと思っているということ。
「自分が信じたいそれを信じられていないのは、周りでそうしていない人をたくさん見ているからだ」「周りに見るかどうかで自分は信じる信じないを決めている」と思っているようだけど、見ようとしていない場合にはそれが存在していたとしても信じないことになるよね、と。
つまりは自分自身が決めているんだ、と。
周りにたくさん見えるから信じる、のではなく、信じてるから周りにたくさん見るように思っているのだ、と。

さてどうしたものかというわたくしです(^_^;)

信じるってなんだ・・・?
意図したら信じられるわけでもないじゃない? 無理やり信じることとかできないじゃない?

と、質問を投げかけておく。

と、終わろうとしたら返答が来た。早いな。

「試してみる」のだそうです。
・・・ハイ。


...




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