つらつら - 2016年08月16日(火) 自分が自分に対して言う、ということがあります。 本で、何かのある考え方を読んで、自分でもそれを納得したという場合に、その考えを自分にも使おうとすること、例えばできなかった、上手くいかなかったなんて時に自分に対してその考え方の言葉を言ってみたりすることがあります。 わたしはよくそういうことをしますが、残念ながらそのやりかたがうまくいっている、という感じはそれほどではありません。 できなかったことを自分で認識するということには使えますし、その言葉を自分にかけた時は、そうかそうかそうだった、と思い直す、ということはできます。 ですが、結局のところまた次の時には同じことを繰り返してみたりして、わかってるのにできないなあ、ってそういう感じになることが多かったです。 昨日のこと。 「できなくてもいいんだよ。できるかできないかが重要なのではなくて、できない、難しいところを探して、そう感じるところに対処していく。そのスタートの部分を決めているだけだから、決めたそれができなくても、できるものでなくちゃいけないと思わなくても大丈夫だよ。」 みたいなことを、話していた相手の方に言いました。 これも、納得してわたしに「仕入れた」言葉です。 「仕入れた」けど使えていない。 もう、証明されてますよね。 「結局のところまた次の時には同じことを繰り返してみたりして、わかってるのにできないなあ、ってそういう感じになることが多かったです。」 そう先に書きました。 できなくてもいいんだよ、というのが浸透していないサンプルがこちらになります。 で。 今朝になって、昨日自分が相手の方に言った言葉が何の拍子か思い出されました。 わたしは目覚めたばかりで、それを昨日言ったということも思い出してはいなかったし、思い出そうともしていなかったし、だから「自分が言ったこと」というよりは、自分とは別の誰かさんが、他の誰かさんに向かってそう言っているシーンを見ている、そのように思い出したそれを受け取りました。 そういうシーンを見ている、という感じなので、昨日自分の言った言葉なのだけど、例えばTVでそういうシーンを見ていて受け取る、というようにその言葉が思い出されました。 「あ、わたし、こういうことを言ったんだ?」と思い出す感じ。 「自分が言葉にして言った」という事実と同時に来るので、本を読んで受け取る、というのとも少し感覚が異なります。 同じ言葉を自分に対して使ったことがあるのですけど、その時に感じていた感覚と今朝の感覚は違っていました。 「自分が自分に対して言っている時に同時に自分が受けている感覚」と、「今朝誰かが言ったかのように、自分の言った言葉を思い出したその時のわたしの感覚」は別の感覚がするなあ、と思いました。 何が違うのかな?って、思ったのですけど、少し変な例えですが、シンゴジラをまだ見ていない人に勧める時に、「情報を入れないでまっさらな状態で見たほうが事前に情報を入れているよりも何倍も絶対に楽しめる!」とわたしは勧めるのですけど、その感覚と近いなと思いました。 マインドが邪魔をしない、ということ。 マインドに邪魔をさせない、ということ。 自分自身に何かの言葉を言おうとしている時、その言葉だけじゃなくて、一緒にマインドもわたしにささやいてきます。 「この考え方が正しいよ」 「みんなに好かれるよ」 「お金を稼ぐために使える考え方だね」 とか。 それらが、寝起きのわたしにはなかったのでした。 昨日それを人に言った時も、ああ、なかったんだなあ、とこうして書いていたら気づきました。 自分に言う時は出てきやすい、と。 思い返すと、母に対して言ってた時も、自分に対して言うのと同じような感覚がしていた時がありました。 人に言うような感覚で自分にも言う・・・ わたしは、「まずは自分ができないことには」と思う方というのもありますが、物事をする動機として「自分のためにやりたい」というものがわたしは多いです。 それなのに。 それに反して自分に対してがいちばんできてない・・・と感じる今日この頃です。 でもこうして書いていると、整理し理解ができるからなのかわかりませんが、書き出す前よりもそれができる自分になっているような気がします。 気だけで終わりませんように! ...
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