日記×エッセイ...みち

 

 

木田恵子著「添うこころ」を読みました。 - 2007年03月23日(金)

いまだ、木田さんの本を読んでいます。
…すごい、ありがたい。
木田さんの言葉は「わかるなあ」と思うことばかりだし、当てはまるパズルのピースが見つかったように、「そうか!そういう理由だったのか!」と感じることも多いしで、読むのが止まりません。
今まで自分が表現できていなかったものが、本の中に言葉として形作られていて…。
うわー、気持ちよすぎます。

うちの母を、今までわたしは自分と同じ「受身資質(0歳人)」だと思っていたけれど、違うんじゃないかと思い始めてきました。
わたしは母に、「そんなに周りばかり気にしなくていいの!」「自分は自分、他人は他人でしょ!」と昔からよく言っていましたが。

これをわたしは、「母は人の影響を受けやすい(気にする)から受身かなー」と思っていました。母もまた、リーダーシップをとってバリバリ引っ張っていくようなタイプでもないし。

でも本によれば、もしわたしと同じ0歳人だったなら、周りを気にするとしたら「自分が迷惑をかけていないか」ということに対してのようです。ふうむ。そうか、そうだな…。

母の場合は「自分が悪く見えないかどうか」で他人の目を気にする感じで。
わたしはそれはどうでもいいと考えがちなので(それも行き過ぎは問題かもしれないが)、気にしすぎでしょ!と母に言っていました…。

母が父に対してぶーぶー言ってた内容を思い返すと、うだつがあがらなくても悩まないという0歳人タイプではないなあ、確かに。。。
わたしが父の味方意見になりやすかったのも、父と考えるルートが似ていたからなのかもしれないなあ。
父が母にぎゃあぎゃあ言われてだんまりを決めるようになると、わたしが代わりに母に意見することがしばしばありました。父はそれを黙って見ていては、よくニコニコしていたのですが、「わかってもらえてる」というのがうれしかったのかもしれないなあと今さら思います。
いや、ほんとにわかりやすいんだけど。

本書に老人に対しての文で、
「耳が遠くなると声が大きくなるように、機能が衰え感覚が鈍くなったために、刺激の強い表現をするようになったのを」
とありました。
なるほど…。

母への対応についてもう一度考え直してみようと思いました。
父の立場になるのは簡単だったけど、母の気持ちに添うのはわたしにとっては少しレベルが上がるかもしれません。
でも、それが出来てうまく物事も流れるようにできたらいいなと思います。

それから全然話が変わるのですが、わたしは報道で「あいちゃん」「まおちゃん」と、選手を「ちゃん付け」で活躍を紹介されるのが好きではありません。
ペットブログを読むのは好きなのですけれど、書かれているブログの文体が赤ちゃん言葉の場合は、人気があったりおもしろいよと紹介されたものだったりしたとしても、見に行かなくなってしまいます。

それで、どうしてペットに対して赤ちゃん言葉を使いたがる人が多いのかなあと最近思っていて、これって選手の報道に対して感じることにも共通することかなと思っていて。

そうしたら本文中に、わたしの感情のその答えが。すごい!

「テレビが“チャン”という呼称を使うのは、親しみを表わすつもりかと思われますが」
まずはこれ。
選手の報道とペットに対しての赤ちゃん言葉の共通点かなと。
確かに。
もしも報道で「ちゃん付け」を使うとしても、コメントする時に言うくらいならそれは「親しみ」と受け取ります。

そして、
「それがいかにも子供をあやすような響きがあって、私には失礼なあしらいのように感じられるのです」
という言葉に、そうそうそう!とものすごい勢いで頷きました。

そしてその後に続く言葉にも納得。
…そうなんだよねえ。その親しみを喜ぶ人も多いんだよねえ。

飽きるまで、まだまだ読みます(笑)
わたしの今いちばん気になる方は、木田恵子さんですねえ。


...




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