何故人を殺してはならないのか。
 「なぜ人を殺してはいけないのか? 出題者を説得するつもりで述べなさい。」
 これは弘前大教育学部の二次試験で出題された小論文のテーマだそうです。

 同じ青森県内で先月開かれた教育研究全国集会の少年事件を考えるシンポジウムにてこれと同じ問いを投げ掛けた地元の高校生が居たそうです。
 その問いを正面から受け止めて答えられた教師は居なかったらしい…。

 『如何して人を殺してはならないのか?』
 その場で問い掛けられたのが僕だったら如何言うでしょう。色々どうでもいい心の篭もらぬ言葉を連ねるだけかもしれません。
 今僕が言えるのは「誰かを殺すだけの理由があるなら殺したければ殺せば良い。けど、殺した後で一番苦しむのは殺した君自身だ。」其れだけです。人は人を殺してはならない、なんて科白は僕には言う資格がありません。

 「人間は地球上に増え過ぎたから人間同士が殺し合って数を減らすのは過ちではない。」
 かつて僕にそんな事を言う人が居ました。そういう考えもあるのでしょう。でも其の考えに基づいて自分自身が殺されようとする其の時に、「過ちではない。」と言えはしないのではないでしょうか。

 もし、「殺す」という行為によって得られる快楽だけを目的に人を殺したとしても、後から「殺した」という事実の重みと意味に追い詰められて行くのは必須。
 ある苦しみから一時逃れる為に誰かを消したとしても、消えた事により自分の中の誰かに更に苦しめられる事もあります。

 ところで、今日、ぎんさんがお亡くなりになったそうです。
 齢百歳以上の双子姉妹きんさんぎんさんで有名だったあのぎんさんが。
 何故でしょう。大往生だと言うのにお年寄りが逝ってしまうのは悲しい。

 充分生きて、之以上生きても苦しいだけ。そんな状態でもお年寄りには死んで欲しくない。浅ましくても苦しくてもずっと生き続けて欲しい。そう思います。
 是は僕の心無い願い。

 知り合いが無免許で盗んだ車に乗って暴走した挙句に死んだ事があります。
 その時は別に何とも思いませんでした。悲しいとも可哀想だとも思えませんでした。
 彼の担任の教師が、彼が死んだ事を泣きながら伝えるのを目にしてから、はじめて胸が痛くなりました。しかし、僕は彼が居なくなった事が悲しいのではないのでしょう。
 彼と似たような事件を起こして死んだ若者の報道を見る度にあの先生は悲しそうにするだろう、其れが僕には悲しかったのです。

 僕の血族は毎年死んでいきます。彼らが弱い訳ではなく、百人を超える数の僕の親族の誰かが毎年死ぬのは仕方ない事なのです。
 僕が殺した人間も、僕が看取った人間も、皆僕と繋がっていて僕は其の繋がりを無視出来ません。
 一人が死ぬ度に繋がっている誰かが悲しみ、其の悲しみで更に誰かが悲しむ。これこそが、(殺人経験の無い)人が人を殺さず生きる理由の一つだといえるのではないじゃないでしょうか。


 「人は人とつながっていて、一人を殺すことは周りに大きな悲しみを招く」
 シンポジウムが終わった後に青森の高校生にそう自分の意見を伝えた新聞記者が居たそうです。
2001年02月28日(水)
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