知らんけど

2006年01月31日(火)

7時半起床。8時20分出社。19時退社。ドトールで読書。帰宅後、ネット。

物事の本質を突き詰めることは、全てにおいて疑問を持つということになる。世の中にある常識や慣習、その時代の流行でさえ疑ってかかる必要がある。本質を突き詰めることに意味があるのか?と問われたら、そんな意味を尋ねることに意味があるのか?と問い返したい。本当の姿は一体どんなんなんだ??そういう好奇心から人間は成長してきたのだ。本能なのだからその意味を問うことの無意味さを分かってもらいたい。

俺は世の中にあるありとあらゆる「常識」的なものの見方や考え方には常に「?」を立てる。それは何?それは何故?その結果は?そうした常識へのチャレンジは、俺の知的好奇心の原動だし、その原動なくして生きるということは考えられない。しかし、同時に大きな孤独と闘う羽目になる。常識にチャレンジするということは、世の中の大勢を占める常識的な人々に面と向かって正面に立たなければならないからだ。

常識と正面に立つこと=非常識なんて単純な二元論に陥らないで欲しい。俺は単に常識に立ち向かっているだけで、常識に対して非なる立場に立つつもりなど毛頭ない。常識が何か分からないから問うのであって、決して常識を否定するつもりはないのだ。同時に言えるのは、常識を肯定することもできないということである。分かったつもりが常識的な人々であるなら、俺はあえて「いつまでたっても分かんねーっ!!」といい続けたい。

では分かるとはどういうことなのか?認知心理学としての説明も分からないでもないが、科学的に人間の感覚を分析するのは愚かだ。分かるとは主観的な感覚でしかないし、その感覚を他人とシェアすることは困難だからだ。熱いものを触って「熱い」と感じる感覚は、その度合いは人それぞれにあるだろうけれど、大枠での「熱さ」の感覚はシェアできる。しかし、「結婚」の意味が分かるって感覚はシェアはできない。同じく、「愛」の本質が分かるって感覚もシェアできない。そうした基準のない感覚を分かるっていう常識的な人々の感覚が俺には皆目分からない。一つ確かなことは、分からないことは良く分かるとうことぐらいか。

分かったつもりの中に入りたくない。分からないことを、「分からないね〜。でもこうも考えられるよね。でも、良く分からないね。面白いね〜。」この世界が好きなのだ。だから孤独になる。常識人にはこうした問答は無駄に感じるだろう。なぜなら、常識的に答えはあるのだから。

どちらにしろ、孤独の旅は今に始まったことじゃない。これからも孤独を感じながら常識に面と向かっていくしかないのだ。そう思いを強くした。

何言ってるか分からないのなら、分かる必要はない。分かった振りをする必要もない。「分からない。」と胸を張って言えばいい。そこから好奇心が始まる。しかし、同時にそこには孤独が存在する。それに耐えられないものは常識の範囲におさまっていればいい。俺は孤独を耐えるんだ。


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