知らんけど

2002年09月02日(月) ぬるま湯

今日から通常通りの授業が始まりました。8月の中旬から集中講義という名の元で、朝から夕方まで同じ授業をやってきたせいか、通常の授業が非常に楽に感じました。冷たい水に慣れてしまうと、常温の水が暑く感じるのと同じ感覚なのでしょう。面白いのは、時間的または知的作業的な感覚でも肉体的な感覚麻痺と同じように麻痺していると言うことです。良く「あの子はぬるま湯で育ってきたから。」という表現もなんだか関係ありそうですね。

ぬるま湯か暑いお湯かは非常に主観的な問題です。他人が特定の人を良く知らずにぬるま湯につかってきたというのは、独断と偏見以外の何物でもありません。しかし、一方で主観的なものとしてこの感覚差を捉えたとしても、ぬるま湯よりも熱いお湯に使っておいた方が、色々な場面で心理的に有利であることは事実です。

例えば、何ヶ月も休み無く働き詰めの人が、急に通常の週休2日の勤務体系に戻ったとしたら、その人は以前より仕事が楽と感じるでしょう。また、夏の合宿で鼻血が出るほど過酷な練習をしたラガーマンが、普段の練習に戻ると非常に楽な練習に感じるでしょう。このような精神的な落差は、しばらく経つと肉体的な経験は残りませんが、精神的な経験としてずっと残ります。

「あの時に比べれば...」のような比較ができると、今やっていることが非常に楽になることがあるはずです。もちろん、今やっていることが人生で一番しんどいことならば、そうは思いませんが。しかし、その経験は後々役に立つはずです。熱いお湯に我慢して入れば、今後、風呂に入るときにはそれよりはぬるく感じるでしょう。そのときに、あなたの隠された能力が発揮される可能性は大なのです。

ただ、熱いお湯を我慢するだけではいけません。我慢するだけではなく、それに適応しようとする精神的な努力は常に必要です。「なんとかこの熱いお湯にも対応したい。」または「しなくては。」という義務感でも良いでしょう。そういった、どちらかというとマゾ的な要素をもって最悪の状態を乗り切れば、後にまっているのはぬるま湯なのです。他人には分からないぬるま湯なのです。なぜなら、人が経験したことの無い熱湯を経験してきたからです。

どれほどまでに、厳しい環境に身を置けるか?耐えられるか?時にはこうした自分をいじめる環境に、自身をさらすのも人生の大きな勉強かもしれません。


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