知らんけど

2002年08月13日(火) ボランティア再考

掲示板で少し盛り上がった「ボランティア」の話を再度、考えてみました。

私が危惧していることの本質は、「ボランティア」という言葉が、本来あるべきボランティアの概念とは違うことを表現しつつあり、それに気づかず、「ボランティア」という言葉を使って、あたかも自分が「奉仕」していると思っている人達が増えているのではないか?ということなのです。

まず、本当に純粋に心の奥底から無報酬で人の役に立ちたいと思っている人のやることはすべてボランティアですよね。これには皆さん意義はないと思います。しかし、このような事柄の中には「ボランティア」と命名されていない活動が、意外と多くあり、そして、それらの多くは無視されているような気がするんです。

ところが、それとは対照的に、「ボランティア」と命名された奉仕活動をしていれば、行為の中身や、その際の心理的な本質を無視し自動的にそれがボランティア活動だと捉えられてしまう節があるような気がするのです。「節」がです。体よく用意された「ボランティア」という言葉になんとなく自分の行為を当てはめて安心しているような、そんな感じです。

簡単に言うと、ボランティアという言葉と、それに対応する本来的な行為や心にちょっと変なズレあるように感じるのです。

このように感じるには訳があります。

今、これだけボランティアが世に広まったにも関わらず、巷では以前にも増して、人々の「モラルの低下」が叫ばれているのです。実際に、モラルって何だ?と思わせるくらい、今の世の中は道徳的な基準があいまいです。この「ボランティアの生興」と、「モラルの低下」という矛盾の本質は一体何か?

それは、「ボランティア」という枠組みの中でしか、活動ができない人が多いということを示していて、「ボランティア」という枠組みを外れたら、もう、他人のためなんて意識は無くなるってのが、最近の傾向なのではないか?そう思うのです。道端で、タバコのポイ捨てする人が、ボランティアをしている人になれるし、優先座席で何食わぬ顔して座っている人が、ボランティアをしている人になれるのです。「ボランティア」という冠さえかぶれば、みんながすばらしい!なんて言うことがまかり通る社会になんだか不安を覚えるのです。

人の心がわかる心を教養という。

ボランティアなんてことにこだわらず、人の役に立つことを考えればいいのです。そうそう、言葉がなければ概念も生まれない。概念が無ければ意識が生まれない。私は、人々の意識の迷いに「言葉」の迷いを感じるのです。言葉が無意識になる瞬間が一番危ないと思うのです。


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