思考過多の記録
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2014年07月30日(水) |
「寅さん」への共感〜愛だけを残せ〜 |
先日、ある女性と話をした。彼女は人妻で一女の母である。彼女は、自分の夫に対する不満を話した。本当に堰を切ったように、僕が口を挟む間も殆ど与えずに、彼女は喋り続けた。話を聞いていると、何故彼女がその男性と結婚したのか分からなくなってきた。彼女は、夫にすっかり愛想を尽かしたようで、家ではもう夫に対して笑顔を向けらないと言った。 そんな彼女は、ある男性のことを好きになってしまい、その気持ちが抑えられない状態だという。彼女とその男性とは、大学時代に知り合った。その当時から、彼女は彼のことが好きだったというが、彼にはその気はなく、彼女の片思いは実を結ぶことはなかった。その間も2人は友達同士として付き合っていたわけだが、やがて彼は結婚し、2人の子供に恵まれた。彼女の結婚の後だった。
彼女は「死ぬ思いで」彼を諦め、自分の家庭を持ったわけだが、それから月日が流れ、彼と奥さんの関係がうまくいかなくなり、別居状態にまで至った。そして今年、思いもよらず彼から彼女に連絡がきたという。そして、2人は十数年ぶりに会った。彼は、彼女に対して、自分のこれまでのことや今のことについて、本当に心の中の全てをはき出すように話したという。彼女にしてみれば、彼からそんな話をされたことはこれまでにはまったくなく、驚くとともに、やはり嬉しい気持ちにもなったようだ。 何より、彼女に対して彼がこれまで見せたことにないような笑顔で接してくれたことが、彼女にとってはとても大きなことだった。彼の真意は分からないが、そんなことがあれば、彼女の彼に対しての思いがまた蘇ってくるのは必然ではないだろうか。嫌いになって離れたわけではなく、むしろ彼女が忘れよう、諦めようと努力して無理矢理離れたのだから。
彼女にも彼にも家庭がある。しかし、どちらも自分の配偶者との関係は冷え切っており、家庭が安らぎの場ではなくなっていることが共通している。そして、2人とも、自分の子供ためには家庭を壊せないことも分かっている。特に彼女は道徳心が強く、自分が夫以外の男性を好きになったこと自体に強い罪悪感を持っている。そのことで僕が彼女を責めると思ったようだ。 若い頃の僕なら、確かにそういうことに対しては否定的だったかも知れない。一途に1人の人のことを愛し続けることが当然で、それが相手に対しての誠実な態度で、正しいことだと思っていたのだ。この考え方は、倫理的には正しいと今も思っている。しかし、あの頃と決定的に違うのは、そういうつもりで誰かを好きになり、一緒に人生を歩み始めたとしても、状況が変われば、心変わりは誰にも止めることができない、どうしようもなく倫理を逸脱してしまうこともある、ということを実際に見聞きしてきたことで、単純に倫理的に正しいかどうかだけでこうしたことを判断することはできないと分かってきたことだ。 彼女は、彼の家庭を壊してまで自分の気持ちのままに行動するつもりはないと話した。とにかく、彼が心穏やかに今の自分の家庭で過ごすこと、そのことを一番願っている、と言った。そして、それでも彼のことが大好きだ、とも言った。
「不倫」という言葉がある。恋人・配偶者への「裏切り」という言い方もある。どちらも、特定の相手に対して「愛」を誓った以上、それを貫き通すことが道徳的・倫理的に正しく、それを踏み外すことは過ちだ、という考え方に立っている。確かに、これと真逆な価値観が大っぴらに認められてしまえば、社会の秩序自体が崩壊する危険があるだろう。 だが、と思うのである。もう好きでもなければ愛してもいない相手と、恰も「愛」が続いているかのように振る舞い続けることは、果たして「愛」に対して誠実な態度といえるのだろうか。たとえ恋人や配偶者がいても、それを理由に自分の心を裏切り続けることは、本当に正しいことなのだろうか。これが恋人同士であれば、お互いが傷付くだろうが、比較的自分の思うところに従って行動することができる。しかし、「結婚」が絡んでくると話が違ってくる。親に決められた許嫁とは別の人と恋に落ちて、2人で駆け落ちするということがかつてはあった。今も似たようなことがあるのかも知れない。この場合、道徳や倫理という「人の道」に背いたということで世間からは責められるのだろうが、「愛」に対して誠実であったといってはいけないのだろうか。 愛する人と生活を共にし、一緒に人生を歩むことで「愛」を育んでいくことが「結婚」だと普通は考えられている。しかし、もし配偶者の存在や家庭を持っていることが本当に愛する人と結ばれることを妨げるのだとしたら、「結婚」とは一体何なのだろうか。 そう考えてくると、今まではごく当たり前のことと考えていた「結婚」というものが、ますます分からなくなってくるのである。
道徳や倫理を軽視するつもりはない。しかし、どちらかというと「愛」に対して誠実かどうか、自分の気持ちを偽っていないと「愛」に対して誓って言えるのかどうかの方が大切だと思えてしまう。そして、そのような考え方を貫き、それに従って行動することがどれ程大変で、頭で考えるよりもずっとしんどいことなのかも分かっているつもりだ。封建時代にそうした行動をとれば、捕まれば死罪。そうでなければ、世間に裁かれる前に「心中」という究極の形で「愛」を貫くしか道はなかった。 それでも僕は、世間に裁かれるより、「愛」に裁かれることの方が精神的には辛いだろうと感じる。人を愛することは、それ程重く、他に比べるものなどない、それゆえ素晴らしいことなのだ。もし倫理に背いて「愛」を貫けば、世間から制裁を受ける。しかし、「愛」に背いて倫理に従った人生を選べば、その事実が心の中に重い何かを残し、それを一生抱え込むことになる。どちらが正しいとか、どちらが楽かということは、そう簡単に言えないのではないか。それならば僕は、「愛」を全面的に肯定したい。 分かりやすい例えでいえば、親などの他の「誰か」に決められた相手と「愛」のない家庭を築くよりも、世間から後ろ指を指され、肉親との関係が絶たれても、本当に心から愛し合った人と生きていくことの方に価値を見いだす、ということだろうか。勿論、そうやって結ばれても、それがお互いにとっての新たな枷になり、様々な問題が発生して、それが「愛」を変質させることはあり得るけれど。
話は変わるが、僕は映画「男はつらいよ」シリーズが大好きである。多分、全作見ている。まだ学生の頃は、よく分からないままに、ただコミカルな物語として見ていたような気がする。その後、自分で少し本格的に芝居を始めてからは、当時の流行や時代の気分に乗って、寅さんシリーズを「定型の物語」の単なる再生産として少し馬鹿にしていた。だから、テレビで放映されることがあっても殆ど見ることはなかった。 それが、ここ数年、再び寅さんに回帰している。僕自身それなりに人生経験を積み、寅さんに描かれている世界や、人情の機微などが分かってきて、本当の意味で共感できるところが増えてきたからだと思う。 しかし、それだけではない。おそらく、寅さんの恋愛が、本質的な部分において僕のそれに似ているとだんだん分かってきたからである。
寅さんというと、マドンナにふられてばかりという印象が強いが、実はそれは初期の話。中盤からは、どちらかというと寅さんの方からマドンナを「ふる」パターンが多くなってくるのだ。勿論、寅さんは相変わらずマドンナに惚れて、彼女のために奮闘するわけなのだが、その過程で、マドンナも寅さんに好意を抱くようになる。つまり、両思いの状態なのである。普通ならそれでめでたしめでたしとなるところだが、マドンナの思いに気付いた寅さんは、何故かそのまま旅に出て、彼女の前から姿を消してしまうのだ。これは、寅さんが、自分では本当にマドンナを幸せにすることはできない、彼女を幸せにする人は他にいるのだ、と考えて、自分から身を引くのだと僕には思える。 寅さんがマドンナの「幸せ」と考えることの大きな要素に、「結婚」して家庭を持つということがあるのは明らかだ。それはつまり、その人との日常生活を営みながら、精神的も経済的にもその人の支えになることである。そうであれば、必然的にひとつのところに「定住」しなければならないし、自分の自由になる時間はかなり減ってしまう。ある意味、相手に束縛されることになるのだ。もう自分自身のためだけに生きることは許されない。それをよしとして、いやむしろそれを進んで引き受けて生きていくことが「結婚する」ということなのだ。謂わば、地に足を着けた生活をする生き方が求められるのである。 寅さんは、自分にはそれはできないと分かっている。 だからこそ、去っていくのだ。そして、再び自分の生きる場所である「旅」へと帰って行くのである。 並の男なら、相手の自分への好意につけ込んで、適当に遊んでから消えてしまうこともあり得る。そういう狡さや下心は誰でも持っていると思うのだ。だが、寅さんは決してそういうことはしない。それは、「愛」に対してピュアであること、また誠実であることを示しているといえる。
寅さんは、「愛」を貫くが故に、「旅」を住処とする。愛する人に幸せになって欲しい、それが寅さんの「愛」の原理である。そして、自分の愛した人は、決して「旅」の人生では幸せにはなれないことを知っている。もう一歩踏み込んで、相手の人生に決定的にコミットすることを寅さんが避けるのは、そういうことなのだろう。 考えてみると、僕も似たようなものだったのかも知れない。確かに社会人として普通に働いてはいたが、それと平行して、僕は芝居をやっていた。僕にとって、芝居は単なる趣味ではなく、いつしか「生きること」そのものになっていた。そんな僕が、本当に普通の「よき夫」となり「よき父親」となって誰かを幸せにできるのか、僕には確信が持てなかったのだ。もし演劇が障害になってそれができないのだとしたら、僕はその誰かのために演劇を捨てられるのだろうかと無意識のうちに考えていたのかも知れない。 そうであれば、僕はその人の人生に深くコミットすることはできない。その人が幸せになることのサポートはできるかも知れないけれど、僕自身がその人を幸せにすることはできない。だから僕は、演劇という「旅」に生きることを選んだ。そういうことなのではないかと、最近思い至った。 所詮は自分がモテないことの言い訳、アリバイのようなものである。でも、嗅覚が鋭い世の女性達が、僕がそういう男であるということを見破っていたのだともいえるだろう。多くの女性にとって、「幸せ」はひとつところに留まって育んでいきたいもの。そのパートナーとして、僕のような男は相応しくないのだとみんな分かっていたのである。僕に相当の男性的魅力があり、少々の危険を冒してでもこの人の人生の放浪に乗ってみよう、と女性に思わせるものがあったなら、また違った展開があったかも知れない。
ここまで書いてきたことと矛盾するかも知れないが、それでも僕は結婚願望を捨ててはいない。上に書いたような形だけの「結婚」ではない、本当の意味でのパートナーを求める気持ちはずっと持っている。 寅さんにはリリーという流しのシンガー(浅丘ルリ子)がマドンナになる作品が複数あり、最終作でもマドンナはリリーだった。旅に生きる根無し草のような存在であり、でもどこかで安らげる場所を求めている、そんな生き様が共通している2人だからこそ、最高のパートナーになれるのだろう。ファンも、おそらく寅さんが結ばれるとしたらリリー以外にないと考えていたはずである。そんな相手が僕にもいれば、きっと「旅」をしていても「幸せ」になれると思う。 または、僕が演劇を捨て、魂の全てを捧げて「愛」を貫き通したいと思えるような女性が目の前に現れれば、僕の旅は終わり、何処かの場所に2人の「愛」の巣が形成されることになるのだろう。 そのどちらかが起こらない限り、僕は「愛」を求めながら「旅」に生きるしかない。
「旅」の空から僕は思う。その場所が窮屈なら、本当に「愛」のある場所を探して、徹底的に「愛」のために生きてみてはどうか、と。言うほど簡単ではないし、それを実行したら、結構壮絶な人生になるのではないかと思う。 誰にも止められないような「愛」に生きたい。求めても誰もが手に入れられるようなものではない「愛」に。そして、そこに相手と僕の安らぎを見いだしたい。 こうして、僕は「旅」を続ける。
愛だけを残せ 壊れない愛を 激流のような時の中で 愛だけを残せ 名さえも残さず 生命(いのち)の証に 愛だけを残せ
(中島みゆき「愛だけを残せ」)
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