思考過多の記録
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あんまり人気がありすぎるものは、基本的に信用しないことにしている。最近は本物志向だとか、消費者の目が肥えてきたとかいろいろいわれているが、多くの人が受け入れるものは、ある一定以上のレベルであってはならないという目に見えない基準があるようである。言い換えれば、限りなく本物に近い偽物のみが「本物」として認められるということである。 まあ、そもそも「本物/偽物」「高レベル/低レベル」という区別の基準そのものが無効化している昨今であるから、こんな議論は成り立たないのかも知れない。それでも敢えて言わせてもらえば、(僕も含めて)多くの人々は、自分の手に負えるものにしか興味を示さないものである。自分の身の丈よりちょっとだけ背伸びすれば届きそうなものを、人は最も手に入れたがる。しかし、せいぜいそこまでである。自分より巨大すぎるものや、複雑でどうにも理解できそうもないものに対して、人は無関心を装う。またある時は、あからさまな敵対心を抱く。いずれの場合でも、人はそれを抹殺しようとする。 いつまでも孵らない「脚本家の卵」として、僕はこれまでいくつもの物語を人前で発表してきた。そのどれもが、全面的に受け入れられてきたわけではない。いつも言われることは「難しくて分からない」であった。また、毒や風刺や屈折を含む作風は、ほんの一握りの人たちからの賛辞と、圧倒的多数からの拒否という反応を生んだ。僕がわざと見る人たちに違和感を抱かせるような仕掛けを脚本中に作ってきたので、まさに狙い通りだが、何となく寂しい。野原で叫んでいるのではない。見せる相手あっての表現である。 では、どんな物語が受け入れられているのかと思ってみれば、高視聴率のドラマ、ヒットしている映画、ミリオンセラーのCD、多くの観客を集めている大劇団のミュージカル…、その多くが手を変え品を変えたありふれた物語の安売りではないか。人々はこんなものに熱狂するのかとびっくりしてしまう。しかもそれが、もう何年、いや何十年、ことによれば何百年も続いているのだ。とすれば、苦労して物語の定型を壊し、音階をばらし、約束事を無効化しようと奮闘してきた芸術家達の苦労は、一体何だったのだろうか。一度壊れたかに見えても、伝統的なものは新しいものに人々が飽きるのを、なりを潜めてじっと待っているのだ。そして流行が去ったとき、古いものは何事もなかったかのように再び姿を現す。ほんの少しだけ、流行したものの装いを纏って。そして、人々はそれを受け入れる。勿論、これは芸術だけの話ではない。 そうはいっても、僕自身、どうしようもないお涙ちょうだいの物語と分かっていても、不覚にも涙腺が弛むことが増えてきた。歳かも知れない。年齢とともに、新しいものを理解し、受け入れる能力は衰える。ここ最近の僕の作品は、「分かりやすくなった」と評判だ。同時に、「毒がなくなってつまらない」とも言われている。そんなわけで僕は、誰もが受け入れることのできる安手の物語だけは、絶対に作るまいと心に誓っている。そうはいっても、できるだけ多くの人に受け入れられたいという願望も勿論あるわけで、これはどう考えても矛盾している。おそらく今まで新しいものを生み出してきた人達は、たとえ周りから理解されなくても、自分の思うところを貫くという強い意思があり、それが結果として後生に大きな影響を与えるようなもの(=本物)を遺すことがにつながったのだろう。そういう人達こそが、我々などには決して手の届かない本当の巨人のような存在といえよう。 そして、ここまで偉そうなことを書いてきたが、僕のような中途半端な人間は、実は少しだけ背伸びして漸く普通の人に手が届くというレベルかも知れないと思ってしまうのである。
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