思考過多の記録
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2000年09月15日(金) 微分される自分

 初対面の挨拶代わりに、自分の日記についての話である。
 思えば小学校時代から大学時代まで、途中何度かの中断をはさんで断続的に日記を書き続けていた。書き始めたきっかけはもはや思い出せないが、気がつけば日記を書くのが一日のうちで最も楽しい時間になっていた。まるでご飯を食べたり眠ったりするのと同じような感覚で、僕は日記帳に向かって言葉を吐き出していたのである。
 そして、ある日突然僕は日記を書かなくなった。理由ははっきり分っている。日記が僕の生きているスピードに追いつかなくなってしまったのだ。
 日記と向き合うとき、大抵の場合、人はその日一日を振り返る。それはとりもなおさずその日一日の自分と向き合うということである。そして自分と向き合うとき、人はその日の自分を生み出した自分に作用したもの(愛する人の微笑み、友達の何気ない一言、殺人事件を伝える新聞記事、お気に入りの曲、新しい服、映画のワンシーン、金木犀の香り、雨音、海底に沈む潜水艦のニュース映像等々)、およびそれらに触れたときの自分の感覚や感情を追体験することになる。このとき、書く内容として選択された事象は、すでに自分というフィルターがかかっており、純粋な再現にはならない。また、追体験で流れる時間は、自分の意志で引き延ばしたり、早送りしたり、巻き戻したりが自由自在である。僕は多くの場合、時間をゆっくりにして、何度も巻き戻す。そうやって目を凝らしていると、ある人の何気ない一言に、いくつもの意味が見えてくるのである。しかもそれは、巻き戻すたびに違う。たまさか巻き戻しすぎたりすると、その場所に別の気になる一言を発見してしまったりして、そこでもまたいくつもの意味を見いだしてしまう。そして、そこをまた何度も巻き戻し、スロー再生を繰り返すことになる。その結果、時間はどんどん微分され、それを体験する自分もまた、限りなく微分されていくことになるのである。こうして、僕の日記は際限なく長くなっていった。当然、一日の出来事を記述するのに数日を費やすケースもでてくる。多感な時期でもあり、僕の周辺では毎日のように些細なことから大きなことまで様々なことが起こっていて、それに対して僕の心は、いちいち反応していた。それを日記に書き留めようとすると、さらに数日を要する。そうなると、あることに関する日記が完結しないうちに、新たな出来事が起きるということになる。実際の時間の速さを変えることができない以上、当然起こりうる事態だ。こうして、記述されない微分された自分だけが僕の中に堆積していった。どんなに頑張って日記帳に向かっても、書くことが新たな微分された自分を生み出していくことになる。そういうわけで、僕は日記を書かなくなった。
 そもそもある出来事が一つの意味しか持たないということはあり得ない。また、同じものを見ても、昨日の自分と今の自分、いや、極端なことをいえば今の自分と1分後の自分で同じものに見えるという保証もない。その意味で、日記を書くという行為はある種の徒労であると僕は思う。アキレスはいつまでたっても亀には追いつけない。微分された自分をいくら積分しても、元の自分に戻ることはないのである。限りなく原型に近付くこともあれば、全くかけ離れたものができあがることもある。一度ばらしたジグソーパズルのピースの一つ一つが、絶えず形を変えているようなものである。ただ、元の形が何なのかなど、どうせ誰にも、自分自身にもわかりはしない。それならば、微分され続けた自分を組み合わせて、全く想像もつかなかった自分が騙し絵のように浮かび上がってくるのを見るのも、また一興とも言えるのである。
 そういうわけで、僕はまた日記を書き始めようと思っている。


hajime |MAILHomePage

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