この1年で、クサナギツヨシの顔つきは激変したと思う。 それは、去年の秋口から急に私の視線を奪い始めた生え際のあたりとか、 役作りゆえの8kg減量とか、茶色から金色を経て黒に戻って更に変遷を続ける眉色とか、 そういうことに拠るところも無くはないのだけれど、なんというか、もっと根っこのところで変わった気がする。 でも、もっともっと深いところにある、喩えるならば、小さな鉱石の真中で小さく強く熱を発している芯のところは、 まったく何も変わっていないような気もする。
自分がクサナギツヨシを贔屓にしているのだとハッキリ自覚したのはいつだったのか、 今となっては記憶が曖昧なのだけれど、少なくとも94年には間違いなく罠におちていたので、 すでに9年以上の月日が経っているわけです。
9年だって。生まれた子供が小学3年よ(月並みな実感の仕方だな)。
特にここ3〜4年は、彼がどんどん変化していくことへの嬉しさと淋しさと、 反対に変わらずにいることへの安堵の気持ちを繰り返し味わってきたけれど、 なんだか最近はどうでもよくなってしまいました。 それは、投げやりな「どうでもいい」では決してなくて、 どんどん変わっていくクサナギツヨシも、変わらないクサナギツヨシも、 ぜーんぶまとめてクサナギツヨシであることが、ちょっとした奇跡のように思えるからなんだよ、オヤビン。
とは言うものの、最近は、中居ファンの特権だったはずのビジュアル反抗期の悩みまで与えてくれちゃって、 そんなこんな全てに対して、どーんと大きく構えられるほど私の胸は大きくない(比喩)のですが。 ま、ビジュアルに関して言えば、2年もの長きにわたって愛を試され続けても、 とうとう負けなかった実績を持つ私であり(俗に言う板前時代)、 それだって、今になってみれば何がそんなにツラかったんだろね?と首を傾げてしまうくらいですからねぇ、 きっと、ノープロブレム。だいじょうぶ、まいふれんど。
それから、これはオヤビンに感謝しておかなければいけません。 ご多分にもれず今日も一日バタバタで、自分の至らなさに落ちこみ多数、おまけに右足首の痛みもまだ引かないし、 目下の不安は終電逃して乗ったタクシー代1万円超を果たして経費で落として貰えるのだろうか?ということだ、 ってな夜でも、こうやって日記を綴るエネルギーを私に与えてくれること。 社会人になって、仕事用の文章しか書かない時期が長く続いて、気がついたら自分の文章が書けなくなっていた私に、 もう一度、書くことの楽しさを思い出させてくれたこと。 ありがとう。
でもって、29歳のお誕生日おめでとう。 何よりも、誰よりも、貴方自身にとって素敵な1年でありますように。
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