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ドラマを それも僕の生きる道のようなドラマを 自分の経験と結び付けようとするのは、陳腐なことだ。 それは、とっても独りよがりな感傷に他ならないことだ。
わかってるんですよ。わかってるんですけどねー。むー。
もう遠い遠い昔の昔、病気を抱えている人の傍に居たことがあったですよ。 彼の病気は秀雄先生のように余命を宣告されるものではなかったけれど、 一生付き合っていかなければならないことが分かっている病気で、 当時、それを知ったばかりだった彼は自分の境遇を受け入れられずにジタバタしていました。 私はたぶん、家族以外で彼の病気を知った一人目の人間だったと思います。
私はとにかく彼のことが好きだったし、病気のことを聞いてもそれは全く変わらなかったのですが、 彼に必要とされていると強く感じる時がある反面、無力な自分に茫然とする時もありました。 っていうか、後者の方がだんぜん多かったっすね。情けなかったし、結構ツラいもんでしたよ。 うん、ツラかったなぁ。彼のことを信じるのも難しくなったり。迷いっぱなしで。私も若かったしなぁ (ほほほ)。 で、最終的に彼とは離れてしまうことになったわけで。 でも、何年か後に電話で当時のことを話す機会がありまして、 結局私は何にも出来なかったし、と言ったら、出来てたよ、本当に出来てたよ、と言ってくれた、 その言葉は信じてもいいのかな、とかね。ちょっと都合よく、自分の中で決着つけたわけなんですが。
だから、というわけでもないのですが、 みどり先生の真っ直ぐな瞳の強さが、つないだ手の確かさが、大きな木の下で抱きしめ合う2人が、 画面の美しさもさることながら、私にはとても崇高なものに思えてしまうわけでして。 それは私が為し得なかったことだから。
「別れました」と微笑んでも淋しそうだったり、教会に現れたみどり先生に当惑しながらも無意識に嬉しそうだったり、 本当の気持ちが薄っすらと隠されていた瞳に、本当の気持ちがしっかりと宿った秀雄先生。 これって、本当に演技なんですか、クサナギさん。どうして、そんな目が出来るんですか。
ネックレスをつけてあげるシーンは、とても綺麗でした。 「似合う?」と訊いた瞬間に、みどり先生が"可愛らしいシッカリした女の子"から慈愛に満ちた大人の女性に変わって、 それまでは「はい」だった秀雄先生の応えが「うん」に変わって、これから本当に2人は一緒に生きていくんだなぁ、と。 周囲の人々の気持ちの揺れも丁寧に書き込まれていて、濃密な1時間でした。
うーん、きっと今夜の日記は、明日読むと恥ずかしいぞー。 とりあえず、寝ちゃえ!
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