2009年08月15日(土) |
海津桟橋物語−出征の日 |
スキー汽船や竹生島めぐりといった楽しいレジャーや、海津の住民の日常の足として活躍した海津桟橋にも、戦争のいまわしい記録がのこされています。
赤紙(召集令状)で召集された若者たちが、桟橋から出発する光景を、海津の写真館「三羊館」の館主は撮影しておられました。
その方たちの多くは遠く祖国をはなれ戦病死されました。清水の桜で有名な海津の共同墓地にお参りにいくと、戦争というもののすさまじさを伺い知ることができます。
墓地正面の桜の下には戦死者の方が多く葬られています。
「砲弾型」のお墓は明治の年号が刻んでありますので、日清、日露戦争で戦死された方でしょう。
その両脇の先がとがったお墓は太平洋戦争で戦死された方です。共同墓地のあちこちにある同じ型のお墓はすべて先の大戦で戦死された方で、どうやらお墓も戦死者のための規格品が大量生産されたようです。
こちらは、ほろよいの親戚筋にあたる方で「シベリア抑留」中に亡くなっています。
この方はフィリピンの「レイテ島の戦い」で戦死されています。
この方はビルマで戦死。昭和19年8月はあの悪名高い「インパール作戦」が終了した1ヶ月後で、大変な思いをされたことでしょう。
この方は比島(フィリピン)で戦死
この方は中華民国(中国大陸)山西省で戦死
どの方にも家族があり、戦争がなければそれぞれの人生を歩めたのに、遠い異国の地で「ふるさと」を想いながら息絶える無念さは、いかばかりだったでしょうか。
戦死された方々の魂をいやすための「忠魂碑」は、海津のまちなみが一望できる湖岸に立っています。
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