tition
DiaryINDEX|past|will
「無私の愛よ永遠に」平成二年刊 −たま出版、瓜谷社長の証言−
たま出版に瓜谷社長は初期の真光組み手であり、光玉のとの経緯を「無私の愛よ永遠に」平成二年刊に於いて書き残している。
(瓜谷氏の超宗教・超宗派への道の提言に対して) 以下引用
◆脱宗教から精神世界探求の旅路
確かにこの教えによって、自分はまぎれもない霊的開眼をした。そしてそれによって自分なりの霊的思想を身につけることができた。しかもそれは自分自身の精神世界に深く根を下ろしたものである。そこからは当然無限の探求を目指して進もうという意欲が湧いてくる。そうなるとそれ自身自主独立で、何ものにも頼ることなく、常に自由でありたいと願わずにはおられない。そのような自覚が高まってくると、本来、誰にでも通用すべき普遍的真理たるべき霊的思想が、一教団のドグマ(教義)として、独占されることに対して疑問をもつに至った。また万人に等しく備わり、元来誰にでも可能な筈のまな手のような業を、その教団に属する、いわゆる信者だけに与えられる特権的な技とする独断と僭越にも承服することができなくなった。私はこの師にめぐり会い、これからそのユニークで現代人に説得カのある教義の世界宣布をしようとする時から、いわゆるどこにもある一般の新興宗教団体のような形をとらず、もっと自由で開かれた超宗教的な運動形態をとってはと、師に対ししばしば進言した。筆者は昭和三十九年一月の本教の機関誌に広報部長としての年頭の挨拶の中で次のような一文を寄せた。「思うにこの信仰(神向)は、単に数ある既成あるいは新興宗教団体の中の一つとしての存在意義のみならず、万人がこれを承認し万人がこれを悟らねばならぬ世界と宇宙の神理を明示しているという点に、その優れた存在の意義があります。特に今後に来るべき文明が霊文明であることを明言し、人類の進むべき方向が何処であるかを明確に示竣していることは、今までの何れの教えにもない画期的な点であります。従って本信仰はある特定信仰の教理やご利益を宣伝する類のものと異なり、全人類が従わざるを得ない深くて高い神理を明かにして、世界に宣布せんとするものであります。……」
このような理想に燃え、超宗教、超宗派の道を進むことを強く感じていたのである。師もこの意見には一応賛成ではあったが、顕著な真光の業の実績などにより信者が増えるに従い、やはり通常の宗教セクトと同じような団体を形成し、数ある新興宗教団の一つとしてひたすら信者数を増やすという量的拡大の道を歩み始めた。
間もなくS界真光文明教団という麗々しい名称の下に宗教法人の認可が降りた。 そしてしばらくは世田谷区にある自宅兼事務所で布教活動を行なったが、本部になる殿堂の建立の計画がされ、東横線沿線の格好な土地が求められ、その建設が始まった。 その着工に先立つ地鎮祭の時、私も妻もその式に列席した。 式の途中、何故か物凄い突風吹き、周囲に張られた式幕が風で吹き飛ばされそうになった。 妻はこの余りにも強烈で、突然の風が、何かの予兆だと言い、本教団の前途が波乱に満ちたものであることを示すものと私に語った。
そしてこの予言は的中した。 本殿ができたのが昭和四十三年三月、その後教団自体は大いに伸びたが、初代教主O師(光玉の事)はその六年後、昭和四十九年六月、この本殿で、突然の急死をしてしまった。 その直後から後継者をめぐって二人の人物がそれぞれの正当性を主張し譲らず、遂に裁判まで持ち込まれ、その決着に五、六年を要した。 その結果一方が名称を変え、同じ教義の下に、同じ初代教主をいただいて、宗派活動をするようになり今日に至っている。 間もなく正式名称継承した方の教団から、第三代を名乗る人物が現われ、別派をつくり三つの教派に分裂してしまっている。
思うにこれはあらゆる宗教セクトが陥る宿命的な運命である。 宗教の時代はとっくに終わっているのに、現世的な名誉や財産に捉われ、神の経綸を説きながら、自らはそれを実践できないでいるこの悲喜劇が多く繰り返されている。 ああ何と悲しむべき現象であろうか。
この立派に殿堂が建つ前後よく妻と語りあったものである。
「これからの人を教化する宗教あるいは精神運動の場はすべからく幕舎でなければならぬ」そのように神(妻の)から授かったと彼女は何度も私に語ったことがあるが、私もその通りだと思った。 こういう点では不思議なことに、二人は必ず意見が一致し、何の葛藤もなくお互いの心中を語りあうことができた。
この本殿の建立が始まった頃、本来なら幕舎であるべき所なのにという思いと、万時に宗教セクトをますます強化し信者の拡大に走るその姿と、主神の代行者よろしく自らを特別神聖化して行くO師(光玉氏の事)の行方に、これではついていけないとの思いがつのった。 そしてある日二人で世田谷の本部に伺いO師(光玉氏の事)に面会した。 その時二人は信仰を離れることを決意はしていたが、いきなりそこまで言うのは、多年導きいただいた教主たる師に礼を失すると思い、その時は取りあえず、道場長、その他幹部的な役をいただいていることを辞したい旨お願いした。
師は顔色を変え、いつもの温顔がきびしくなった。 師は静かに信仰をやめかねない二人の態度に、もしこの信仰を去れば、それなりの罰や祟りがないとは言えない。 またこれから何かにつけ神の庇護を受けられなくなると、翻意を促すように告げた。 厳しい一瞬であった。 入信間もなく訪れた二階にある神殿のあるご本部の日本間である。 師の言葉は、決意の決まったわれわれ二人には空しかった。 しかし温情ある師から受けた現世的恩義は忘れることはできない。 それは感謝せねばならないし、その気持ちは十分あった。
そして師は、その豊かな霊感を見抜いて、妻に、もし将来あなたが、霊的な指導者として独立するなら援助は惜しまない。 だからもうしばらくここで修行を続けなさいとも語った。 しかしそれは妻が最もなりたくないことで、心中はとんでもないことと思ったが、その場ではその過分なお言葉に、最大級の謙遜な気持ちをこめて、師にその好意を感謝しつつも、はっきりご辞退申し上げた。 このような妻には人一倍強い霊感、霊能を持っていながら、これで信者を集めたり、これを仕事にするようなことは全然念願になかった。 やはり本質はあくまで精神世界的な、一求道者であった。 その意味では二人は文字通り、同じ道を歩む互いにかけがえのない同志であった。
このような一幕があって、折角本部殿堂ができたというのに、二人は次第に足が遠のいていった。 どんな立派なものであろうと、いや立派で堂々たる殿堂である程、二人には何の魅力もない空しいものしか思えなかった。
「無私の愛よ永遠に」たま出版 P87-92 1990年6月20日
<注>
たま出版、瓜谷社長自身がすでに岡田光玉に対し手かざしを一宗教を越えた運動にしていこうという提言をしているにもかかわらず、それを聞き入れず一宗教として量的拡大の道を選んだという証言。過去においても現在でも宗教を超えた手かざし運動をしていこうと提言する教団幹部はいるし組み手もなぜそうしないのか疑問に思うであろう。陽光子統一BBSでも真光の統一が語られているが、岡田光玉の時代から真光はそういう方向をもっておらず、ただひたすら人集め金集めに突っ走ってしまったと言うこと。真実板でも初代だけは信じたいという文明教団元幹部の証言があったが、初代の時から人類教にしようなんて気持ちはさらさらない。岡田光玉にとっても手かざしによって人類の霊的開眼を促すことなど出来ない事は解っていた。宗教でなく社会運動にしようとすればボロが出てしまう事。最初から茂吉から学んだ手かざしを使って金儲けをしてやろうと言う魂胆があったからこそ、瓜谷社長の提言を受け入れず怪しげな新興宗教にしてしまったのだ。
教団を去れば神の守護が受けられなくなる、罰や祟りがないとはいえない...と、教祖の岡田光玉氏自身が言っている。それ故、現在の真光系教団もこの体質を受け継いでいると言えよう。
tition

|