■小学生を見て、言語学■
本日、若干の腹痛と睡眠不足で注意散漫。
今日は、少し遅めに家を出たところ、電車に小学生の集団が雪崩れ込んできた。電車がすれ違っただけで、テンションが上昇している姿などを見ると、羨ましくも感じる。途中で、別路線の地下鉄に乗り換えたら、また別の小学生集団が襲来。元気の有り余ってそうな男子を見ると、「将来は、こういう子どものオヤジ狩りに遭うかもしれんのぉ」と、暗い日本の将来を案じてみたり。それにしても、遠足集団に連続して出くわすとは、珍しい。
さて、どちらの集団も、名古屋弁を問題なく話していた。名古屋弁とは言え、「そんなワケないがね」(=そんなワケがないじゃないか)とか、イントネーションが幾らか変化するという程度のもの。「おみゃーさん、何を言うとらっせる」(=あなた、何を言ってるのよ)のような、年輩ネイティブほどの喋りではない。集団は、見たところ、小学生の低学年と思われる。一体、いつの間に習得したのやら。
独特の語尾変化やイントネーションを、誰かに教わるということはまずないのに、気づけば自在に使いこなしている姿を見ると、やはり不思議に思うものだ。己も、小学生の頃から、関西弁・名古屋弁・標準語を、会う人によって自動的に使い分けている。英語もそれぐらい楽に切り替えられればなぁ…。 これもまた不思議。ついでだと、同じ専攻のルーマニア出身の方曰く、ルーマニア語で子どもに話しかけると、日本語で返事が返ってくるそうな。まったまた不思議。お子さんの頃には、脳内で何やらドえらいことが起こっていることが伺える。
残念ながら、子どもの言語習得を専門とはしてはいない(月曜の1コマ目は、このネタ満載。講義日誌の方にも書き残していきたい)のだが、英語教育をやろうとしている者にとっても、ココから明らかになってくる事項(認知過程とか)は、文法学習など(語彙は自ら学ぶしかない)について、活用できそうな気がする。こうしてみると、英語学・教育学以外にも、学ばねばならんことが山ほどあると実感しまくる今日この頃。
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