■曖昧だから日本人■
何気ない木曜日ではあるんだが、ここのところ、「現代日本社会と伝統文化」の授業がファインプレー続きなのである。過去に何度か休んだことを後悔し始めるぐらいだ。
今日のお話は、「西洋と日本における自然科学の発達から、日本文化の性質を考える」ってのがテーマ。まず、西洋の自然科学は、その出発点に、キリスト教的宇宙観があって、その絶対神が創造した物に間違いはなく、整然とした秩序が貫かれているものだという考えに基づいていた。したがって、そこにある秩序、つまり「法則」を見出そうとするのが、西洋の自然科学の目的であったのだ。
例えば、分類学などがそれに当たる。ウメ・リンゴ・モモ・サクラを、バラ科というひとつのグループにすることで、秩序を与えるわけだ。ちなみに、日本では、ウメ・リンゴという区別はしても、共通項を見出して分類まではしなかった。そんなことをする必要がなかったからである。まとめると、西洋には「外側からの視点」があった。つまりは、それが神の視点であり、それが定点となるわけだ。しかし、日本では定点でものを見る必要はなかった。なぜなら、絶対神がいなかったからである。
さて、ここで日本文化に話を移す。西洋文化と比べてみて、日本文化を3つの単語で表すとすると、「軽」・「あっさり」・「余情」ということになるんだそうだ。まず、「軽」と「あっさり」だが、料理を引き合いに出せば、どっちが重くて、どっちが軽いかはすぐにお分かりになるでしょう。日本料理とフランス料理であれば、どっちが濃くて重いかは食べなくてもわかるはず。では、「余情」ということになると、どうだろうか。過去の文化人が書いた文献には、「言い残す」だとか「秘する」だとかいう表現が出てきており、つまりは、「そこに隠されたものを想像し、それを楽しめ」というワケである。
まとめますと、ちょいと昔の日本人は、「目に映るものに不変のものなどない」と認識しており、それを「あるがままに受け入れるしかない」と考えていたのだ。そして、ケースに応じて、対象となるものを「内側の視点」で見ようとしているのである。ある物事に対して、視覚などの科学的現象(定点/外側からの視点)での認識はせず、「推し量る/想像する」ってのが日本人のスタイルであったわけだ。もともと、島国に暮らしているのだから、判断の振幅も少なく、少ない情報(例:俳句は17文字しか情報がない)でも、想像されるものは似ている。だから、異国の人から見れば、いまひとつハッキリしてものが得られず、「曖昧だ」と言われることがあるけれども、そこは「根気よく自国の文化を説明するしかない」、と先生は仰っていた。
曖昧なところに、味があるんやね、日本人ってのは。
注:時計が止まりそう。
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