Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2018年11月26日(月) インプロの消滅、あるいはフィードバック現象としての即興





Nurse With Wound
ナースウィズウーンド、ちょっとだけ聴く、いまのおれにはむりだわー、心臓がキュッと痛み、イタタタタww、


丸の内仲通り、六本木ヒルズ、東京ミッドタウンのイルミネーション、


クロスオーバーイレブンでエアチェックした9月15日、パットメセニーアンドライルメイズ、
ECMスペシャル、国内盤廉価盤、ジャケ、並べる、木造アパートの夕刻、


Overhang Party / Abe Toyozumi Duo 2CD、


宮内庁に馬車の馭者の靴を納めている小澤靴店で制作してもらった黒革靴、こんなの10万とか20万とかのモンダイではないだろう、どんな音楽が好みなのかというからヨーロッパだな、ドイツのレーベルで、ならBMWの最上級モデルの新車を最短の12月に導入するという、そこで鳴るECMはそれはそれで聴いてみたいけれど、いいのか1700万円、


三菱UFJ銀行系の運転手を4年していた、万引きGメン、クレーム対応、予備校センチェリー送迎、夜間現金輸送トラック130万キロ無事故、運転して眠くなったことなぞないぜ、詳しい都内の道は知らん、


履き心地サイコーだぜ、丸の内みみまんが勤める東京駅前ビルに新年ご挨拶会として、アルマーニのスーツで決めてBMWを運転して行くからよ、目があってもおとーちゃん!と声をかけたらダメだぜ、



道玄坂の珈琲店トップ、昭和27年創業、洲崎の僧正が、


たださんは、あのタイションのピラーズを Spotify でヘッドホンで聴くのか?と問う、タガララジオ53の決定的な間違いは、そこだ、


益子さんはぶっとおしで聴かなければだめだという、







インプロの消滅、あるいはフィードバック現象としての即興

 四谷音盤茶会、通称「タダマス」。多田雅範と益子博之が毎回異なるミュージシャンをゲストに迎え、音盤を聴きながら議論を交わしつつ、NYのジャズ・シーンの最新動向を独自の視点から「定点観測」し続けているイベントである。別冊ele-kingのために行われた対談「タダマス番外編」の中から、誌面に掲載されなかった即興談義をここにお届けする。

——いわゆるインプロの面白さはどのように考えていらっしゃいますか。

多田 そもそもインプロヴィゼーション/コンポジションっていう二分法が有効かどうかが疑わしいよね。

益子 全く有効じゃない。

多田 そういう二分法はもう無いんだよ。だからあなたが言うように中動態なんでしょ。インプロしてるのかコンポジションされてるのかっていうことではなくて。

益子 不毛な議論として、これは即興だから偉い、譜面に書いてあるから偉くないみたいな話があるじゃないですか。昔のジャズの人たちってそういうことを言いがちだったんだけど、非常に素朴な議論ですよね。それって聴いてる側にも音楽自体にも全く関係がない。たとえばリー・コニッツの自伝があるじゃないですか。あのなかでコニッツが「チャーリー・パーカーは即興演奏家じゃなくて作曲家だ」って言ってるんですよね。

多田 なるほど。

益子 それは別に良い悪いではなくて、チャーリー・パーカーは実際すごい音楽をやってたんだから、それが即興かどうかなんて関係がない。彼のことを卓越した即興演奏家だって持ち上げる人はいっぱいいるんですけど、リー・コニッツに言わせれば、チャーリー・パーカーは知ってることしかやってないんですよね。

多田 そう。コンポジションだ。

益子 聴いたことあることしかやってないから、チャーリー・パーカーは即興演奏家じゃなくて作曲家なんだっていう。

多田 「いーぐる」の後藤雅洋と「メグ」の寺島靖国でしたっけ。ジャズはインプロか旋律かっていう論争が僕が若い時にありましたよ。それと同じなんですよ。

益子 音を聴くだけじゃわかんないですよ、即興なのかどうかっていうのは。一番エピソードとして面白いのは、ヨゼフ・デュムランの新しいアルバムが出てて、珍しくフェンダー・ローズじゃなくてアコースティック・ピアノしか弾いてないんですけど、そのバンドの成り立ちが面白くて。デュムランが即興ばっかりやってるから、久しぶりに自分の曲をやるバンドがやりたいなって言ってメンバーを集めてやったんですよ。でもやってみたら即興の方がいいじゃんってことになって(笑)。だから全編即興のアルバムになったんですが、聴いてみると、かなりコンポジションされてるように聴こえるんですよ。だから実際にやってることと聴こえ方ってやっぱり違う。そしてデュムランは自分が意図してやりたいことを譜面に書かなくても、バンドで即興でやればできてしまうっていうことなんですよね。

多田 現代ジャズにおいてインプロだけを取り出して語ることの意味は僕はあまりピンとこないですね。たとえばインプロっていうものにもなぜか歴史がありますよね。デレク・ベイリーの変遷とかですね、エヴァン・パーカーが出てきてとか。最近っていうほどでもないけど、そこにミッシェル・ドネダっていう人が出てきたでしょ。ドネダは演奏の果てに自分の個性も消して、風景の音楽とか自然の音だとか、つまりフィールド・レコーディング的なものへとどんどん近づいて無名性を獲得していった。僕はもうそれはインプロっていうジャンル自体が消滅したんだっていう認識なんですよ。ミッシェル・ドネダ以降にインプロは成り立たないだろうと考えていて。そういう無名性や自然への回帰と、ジャズにおける生々しい演奏が、トーンとか響きへと移行していって、誰でもないものになっていくこと。もしくは演奏する/演奏しないっていう行為が等価になる、つまり聴こえないものにも同じ価値を聴くようなアンテナが要請される時代になったこと。それは哲学的な事態でもあると思うんだけども。

益子 ある音楽が即興によるものかどうかってことよりも、即興に対する態度の問題が重要になってきていると思うんですよね。演奏をする、音を出すっていうこと自体は、周りの音を聴いてなくてもできるんですよ。譜面に書いてあればそれを見ながらその通りにやればいいわけだし、即興でも周りを聴かずにただ出したい音を出せばできるわけですよね。けれどもたとえばソロ演奏をやるということは、その場の環境によって音の響き方が変わるということでもある。とても残響が長いところもあれば短いところもあるし、音が甲高く響くところもあれば低音が強調されてしまうところもある。つまり自分が音を出した時に聴こえてくる、その場所に特有の響き方というものがあって、ソロ演奏ではその響き方から影響を受けることがある。周りをどれだけ聴いてどれだけ影響を受けるのか、そこに今の即興演奏の面白さの問題が詰まっていると思うんですよね。

——つまり即興演奏をフィードバックの問題系として捉えるということですよね。

益子 そうそう。聴くことの優位というか。

多田 フィードバックの面白さですよ。お互いに聴いてない演奏っていうのもあるからね。大抵は酷い演奏だけど。

益子 全く相手のことを聴いてなくたって、コード展開が決まっていてそれに乗って吹けばいいような音楽はできちゃいますからね。だけど即興演奏って相手を聴かないとできないんですよ。

多田 聴こえていない音も含めて聴かないとできないよね。

——この前アルヴィン・ルシエが来日して、トーク・イベントで「即興は存在しない」という話を持ち出していたんですよ。彼は自分が作った作品をパフォーマンスではないもの、即興ではないものとして考えている。でもたとえば「I Am Sitting in a Room」が代表的ですが、彼の作品というのはその場所の環境とのフィードバック現象を発生させることによって、どんどんサウンドを変えていくというものなんですよね。つまり今議論しているような意味での「即興」の核心を突いたものとも言えるわけですね。

益子 記譜された音楽でも即興性がゼロの音楽って存在し得ないですからね。機械がやるんじゃない限りは。音量が少し変わるとか、音の長さが少し変わるとか、毎回違うわけですよね。だから人間が演奏する限りは即興の余地がない演奏にはなり得ない。そうした時に周りからのフィードバックを受けるか受けないかという態度の違いが大きくなっていく。すると聴くことが占める領域がどんどん大きくなっていく。

多田 よく聴かなければよく反応できないって話だよね。与えられたシチュエーションをよく聴いてわかっていなければ、どの音が一番心地よいのかを本能的に出せない。それは聴く要素と音を出す要素が拮抗してきているっていうことですよね。

益子 聴くことが極北までいくと、全く演奏しないっていう、フィールド・レコーディングに等しい状態になる。だからそれってグラデーションの問題だと僕は思っていて。フィールド・レコーディングでも聴いたものをどう切り取るのかっていう人間の作為はあるとは思うんですけど、それが極北だとすると、それに対して人間が演奏するっていう即興性のグラデーションを描いていくことができる。つまり即興性というのは聴くことに対してどのように対処するかっていうことなんですよね。

——「聴くことのない即興音楽」はどうでしょうか。たとえば『Post Improvisation』っていうデレク・ベイリーとハン・ベニンクのデュオ・アルバムがありましたよね。

多田 片方が先に演奏をしてテープに録音して、郵便(ポスト)で相手に送って、送られた相手はそれを流しながらインプロをすると。それって今の話でいうとインプロじゃないんじゃないですかっていうツッコミですね。片方は相手のことを聴いていないから。

益子 それもまた「聴く」っていう態度の反映だと思うんですよ。つまり「聴かない」っていうことも一つの選択肢であって。相手のことを全く聴かない人たちで演奏をして、面白いか面白くないかって言ったら面白いかもしれないし、実際にそういう音楽はあるわけですよね。

多田 『Post Improvisation』は演奏している人同士の「聴く」「聴かない」ということの構造をパッケージにしたということですよね。僕はとても面白く聴きましたよ。だって片方が聴いてないっていう状況って、今までそんな作品聴いたことなかったんだから。

益子 プロセスがどうなっているのかを話すのは楽しいんですけど、このプロセスがこうだから面白いとか面白くないっていうのは、あんまり意味がないんじゃないですか。

多田 うん。気持ち良いかどうかは別だから。さっきアルヴィン・ルシエの名前が出たけど、2013年のアルバムで『(Amsterdam) Memory Space』っていうのがあるのね。ルシエの作品を現代のヨーロッパのインプロヴァイザーが演奏していて、それが素晴らしいのよ。曲自体はもともとは「(Hartford) Memory Space」というタイトルで、1970年に作曲されたものなんだけども。当時演奏されたものはやっぱりその時代らしいなあっていう肌触りなの。でも今の演奏家が演奏すると、今の人たちの感覚で聴き合っていて、それこそインプロになっている。それを現代音楽の文脈だとか記譜がどうなっているかだけで語ろうとしてしまうと、その場所で本当に起こっている喜びに焦点が当たらなくなってしまうと思うんですよね。


多田雅範
益子博之

聞き手・構成 細田成嗣





















Niseko-Rossy Pi-Pikoe |編集CDR寒山拾得交換会musicircus

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