Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2018年05月20日(日) "Monologue | an Improviser" Masabunli Kikuchi







"Monologue | an Improviser"
Masabunli Kikuchi__________

耳に聴こえてくれば良し、聴こえてこなければとりあえず音を出してみる。そうすれば いやでも次が聴こえてくる。そうなればもうこっちのペースだ。音楽なんてものは理論じゃない。単に感覚の問題じゃないか。といってもその感覚に個人の歴史がなきゃ何も始まらない。俗にいう「blood, Sweat & tears」の歴史だ。それを英語で"paying due" と言う。だからそこいらの唐変木がシャカリキになって「理論」を勉強しても何も始まらない。

音楽の場合(たぶん美術でも同様だと思うが)理論は所詮システムであり、便法にすぎない。たとえばひとつの和音に含まれる1音を変化させたいと欲するとき、従来のハーモニーの理論に則した方法での変化であれば、それは単にシステム内でのalterationにすぎない。だがそれを自分の感覚に添って変えるのであれば、そこに個人の感覚が介入してくるし、選択行為そのものも個人的な歴史を反映する場と解釈してさしつかえないと思う。そしてそれを成功させるためには、己の感覚を間断なく磨いておかなければならない。ショート・カットはあり得ないのだ。

最近、といってもこの10年余りだが、live venueあるいはconcert hallでのソロが多くなってきている。ソロ演奏の場合自由な展開は望めるが、反面、精神的、肉体的な観点からすると、とんでもない重労働と言える。 多くの場合1時間ずつの2セットで構成されるが、その2時間を隅々までコントロールしようとするには、想像を絶するエネルギーとコンセントレイションが要求される。その上それら2時間の一瞬一瞬で自分への責任を全うしなければならない。そしてその間、無数とも言えるさまざまな問題に遭遇する。ところが3年くらい前にある出来事を契機として、突然自分が目指している音宇宙が方法論的な意味合いで視えだしたのだ。この出来事について書くのはまたの機会にゆずるが、その方法についてちょっと触れておこう。

これは俺個人の感覚を媒体としておぼろげに認識しだした仮説にすぎないが、音楽にはそれを構成するelementが無数に存在する。単体としては pitch、timbre、Overtone、tacet、Sustainなど、また複合体としてはharmony、rhythm などがベイシックなものとして考えられるが、そうした個々のelement の持つダイナミックス(音響力学的なエネルギー)の時間上で縦軸あるいは横軸での対比が、さらなるダイナミックスの対比を生み、時間の流れに沿って音楽を構成していく。数学に長けていれば formula を割りだすことはいとも簡単にできるのだろうが、大事なのはそれらのダイナミックスを瞬時に測り得る感覚をどう磨くかでないかと思う。   

ここ4~5年、この無意識の認識に基づいてピアノを弾いてきたようだが tonality からの離脱が自由だし、従来のシャチホコばったharmony をいとも簡単に否定できるから、とにかく面白くて面白くてしようがない。(6/14/05)





Niseko-Rossy Pi-Pikoe |編集CDR寒山拾得交換会musicircus

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