Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2018年05月04日(金) |
Biliana Voutchkova and Michael Thieke Chicago シカゴ |
Biliana Voutchkova and Michael Thieke
Chicago シカゴ
惹き込まれる、耳をそばだてる、そしてこの響きは何だろうかと思う、機械から排気が漏れているサウンドだろうか、(この快楽は機械文明へのノスタルジア、懐かしさに起因しているだろう)、じきにこれは楽器のコントロールによって倍音が舞っているのだと認識する、わお、この美しい生命体のような響きよ、、
冒頭からこのサウンドは「人間が演奏している」「楽器もしくは発信の正体」を離脱しているように感じられる、
ヴァイオリンとクラリネットであると予め承知することを拒んでいるサウンドとも言えるし、響きへの傾倒は空間を把握することに感覚は研ぎ澄まされる、それはフィーレコ耳の哲学の基底、
じきに立ち現れる二人の奏者という聴取認識、すぐさま即興としてどうかという価値判断を駆動させる構えになるところだけれど、どうもそれは有効ではないと思わされる、(その価値判断のアンテナこそが批評されなければならないだろう)、
それに、どうも二人の奏者という聴取認識すらが有効ではないようだ、
こういう、感覚が愛撫されるような快楽、
かつてイギリス在住のなるとさんが、目の裏側を撫でられているような感じが気持ちいいとエヴァンパーカーエレコトロアコースティックアンサンブルのライブを感想していて、若い女子がそのようなと震えた記憶がよぎる、
エヴァンパーカーエレコトロアコースティックアンサンブルのCDは、あれはスティーブ・レイクが我々の膨大な演奏の中から編集して仕上げたものだとエヴァンは語っていた、(編集はやだなあと思った当時のおれ)、
もちろんこのサウンドはエヴァンパーカーエレコトロアコースティックアンサンブルとは異なる、が、同じ欲望の系譜にあるように思われる、
二人の奏者という聴取認識すらが有効ではないようだ、というのはこのサウンドはコンサートのライブ録音で、二人の演奏は過去の二人の膨大な演奏の断片が時折り再生されながら、で、断片の選択と構成は当日の会場や二人のコンディションによって決められるという、その意味でコンポジション作品なのだという、(クラシックの新しいレーベルを立ち上げる最初の作品3CD、
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