Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2018年05月03日(木) |
福島恵一「耳の枠はずし」 音は自らの響くべき空間を必要とする ― 「タダマス29」レヴュー |
wrote Face Book ”音は自らの響くべき空間を必要とする”、映画のタイトルのようだ、そのココロはおれのことけ?と言おうものなら背後から益子さんにハリセンくらいそうだが、は、さておき、これは重要な宣言のように思えるのだが。
福島恵一「耳の枠はずし」
音は自らの響くべき空間を必要とする ― 「タダマス29」レヴュー Sounds Need Spaces Where They Ought to Actualize Themselves ■
Susie Ibarra盤『Perception』は好きくないと思っていたが、福島レビューにあった「Dreamtime Ensembleというベタな名前」がトリガーとなり、一気にはまり込む事態になる、”生真面目に入り組ませた演奏を楽しんでいる”今さらどうして?感が、「夢みる感覚」と一歩下がった聴取をすることでドープな独自感に囚われ逃げられなくなっている、 ウィリアムパーカー入りのデヴィッドSウェア4のタイコでいいだけ聴いていたのにスージー・イバラ、このおっそろしー才覚にタダマスの後になって気付いています、
Mary Halvorsonの『Code Girl』に、Michael Mantler『The Hapless Child』連想、(!)、 すごい福島恵一の耳の引き出しだ、マントラ−のそれは苦手だった20代だったが聴き直したら、こんなに好きな音楽だったとは!(いやもう初めて聴くに等しい30年越えの聴取だ)、Code Girlへの連想、羽生名人の光速の寄りみたいだ、
Son Lux album "Brighter Wounds"に、「ヴォーカルはアントニーだな、見る構造はスフィアン『エイジオブアッズ』2010が拓いた地平にある/参照点になっている」牽制球、は、益子さんからサウンドの感触は随分違いますよと指摘されたとおり、わたしの偏見である、”構築感”ということではプログレッシヴロックのほうが先達だ、”創造狂気の密度感”といったもの、これがデフォルトになった世界観というのかなあ、 福島恵一の耳の引き出しはここでMercury Rev『All Is Dream』(2001年)を掲げる、マーキュリー・レヴ聴いたことないや、早速聴く、わお!おれは大好きだ、アレンジに漂う変態性、ファンタジー、だけど福島恵一がこれをリスニングルームで鳴らしている光景が想像できない、
ECMThomas Stronen Time Is A Blind Guideも、スフィアン『エイジオブアッズ』もMercury Rev『All Is Dream』も、みんなで聴くような音楽ではない、(あれ?逆説か?ライブは盛況だぞ)、
「草原の輝き」「夜明けのスキャット」「また逢う日まで」「心の旅」を集中聴取した小学生のわたしの耳は、歌詞/旋律/声質は仮の表面であって、アレンジの電子音/リヴァーブ/ストリングス/空間のありように”その向こう側”を妄想するようであったため、ジャズよりも即興のほうが解りは早かった(清水俊彦や福島恵一の批評文は聴こえる音楽表面の”その向こう側”を示していた)、
ポップスのようなジャズは要らんがな、ジャズ好きのポップスの見下しは正当だった気がしたけれどそのジャズはポップスよりクリシェじゃんかとなっていて、ジャズミュージシャンはジャズを見せつけろよ!とわたしは異議を唱える気持ちでいるのである、ポップスや歌謡曲を初聴きジャズ耳で聴いたほうがよっぽどトキメく場合があるんだし、(”ジャズ耳”という語はニフティECM部屋でビョルンスタ海を巡って97年頃に吉村純子ちゃんが言い出したはずだ)、
それにしても益子博之の選曲は面白い、どこをどう巡ってその音源に出会っているものか、
ジャズの特権は今を生きること(菊地雅章)を聴取に敷衍してみれば、ジャズの身体/即興の強度を基点として、耳をそばだてること、全身を触覚のようにして空間を凝視するといった構え(益子博之の言うタクタイルな聴取)に行き着くようだ、おれは「ぞぞけが立つ」サウンドであればジャンルはどこでもいいんだが、
「聴取体験を音や響きの生み出される過程から切断すること」(福島恵一) 即興/作曲/プロダクションの情報を破棄して、耳をそばだてるしかないのだ、50代最強説も援軍だ、
いつか福島恵一が”ビートルズをはじめて接するように聴取すること”と記したテキストがあって、ええっそんなことできるわけないじゃんーと思っていたが、タダマス7年を通じて可能のような気がしている、それはそれですごい体験になりそうだ(昨年SGTを二度聴いただけでしばらくビートルズ断絶しているし)、
笹島やロペスが入っているフィーレコ系のコンピ盤『Aquarius』2013をたまたま聴いているが、ジルオーブリーやNick Hennies『Lineal』2009のような衝撃(まったく色褪せない聴取)からするとなんともファンタジックに甘い、福島恵一/津田貴司の『松籟夜話』はまだなのか、
耳の枠はずし アーカイブ (テキストをプリントアウトして読むべし)
助線の効用―『タダマス28』レヴュー Additional Lines Are Useful― Review for "TADA-MASU 28"
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「ピアノという解剖台、口ごもれる資質 ― 『タダマス26』レヴュー Piano As a Dissecting-table, Ability of Hesitation in Saying ― Review for "TADA-MASU26"」 ■
渇望の向こうに ― 「タダマス25」レヴュー Beyond Thirsty for Something More− Live Review foe "TADA MASU 25" ■
速度と動き ―― 「タダマス24」レヴュー Speed and Movement ― Live Review for "TADA-MASU24" ■
気球が空に舞い上がり… 『タダマス23』レヴュー Kikyuu Ga Sora Ni Mayagali... Review for "TADA-MASU 23" ■
「聴くこと」がもたらす感覚の変容・変質 「タダマス22」レヴュー "Deep Listening" Makes Transformation and Alteration to Senses Review for "TADA-MASU 22" ■
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サウンドの幾何学、多層による構成 「タダマス19」レヴュー Geometry of Sounds, Multi-layered Composition Live Review for "TADA-MASU 19" ■
いま再び始まる − 「タダマス18」ライヴ・レヴュー It Begins Again − Live Review for "TADA-MASU 18" ■
逆光の中に姿を現す不穏な声の身体 − 「タダマス17」レヴュー The Threatening Body of Voice Appeared against the Light − Live Review for "TADA-MASU 17" ■
シンクロ率30%? 80%? 「タダマス16」レヴュー Is the Synchronization Ratio 30% or 80% ? Live Review for "TADA-MASU 16" ■
ミュージシャンシップとは − 「タダマス15」リポート What Is Musicianship ? − Review for "TADA-MASU 15" ■
ジャズにちっとも似ていないジャズの出現可能性、再び−「タダマス14」レヴュー Possibility of Appearance of Jazz which is quite unlike "Jazz" Again − Review for "TADA-MASU 14" ■
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木村充揮(憂歌団)と「逆襲のシャア」 − 第12回四谷音盤茶会リポート Atsuki Kimura(from "Yukadan") vs "Char's Counterattack" ■
アンサンブルの解体/再構築の後に来るもの −「タダマス11」レヴュー Something Comes After Dismantling / Reconstruction of Ensemble − Review for "TADA-MASU 11" ■
他の耳が聴いているもの − 「タダマス10」レヴュー What Another Ear is Listening to − Review for "TADA-MASU 10" ■
ポップ・ミュージック再構築への視点 − 「タダマス8」レヴュー A View Point for Reconstruction of Pop Music − Review for "TADA-MASU 8" ■
兆候から確信へ−「タダマス7」レヴュー A Sign Turns to a Conviction−Review for "TADA-MASU 7" ■
ゆらぎの諸作法−「タダマス6」レヴュー Manners of Fluctuation−Review for “TADA-MASU 6” ■
クラリネットの匿名的な響きとピアノの〈短詩型文学〉−「タダマス5」レヴュー Anonymous Sounds of Clarinete and "Short Form of Poetry" for Piano − Review for "TADA-MASU 5" ■
「タダマス4」レヴュー−ジャズのヘテロトピックな空間 Review for "TADA-MASU4"−Jazz As Heterotopic Spaces ■
ジャズにちっとも似ていないジャズの出現可能性−「タダマス3」レヴュー Possibility of Appearance of Jazz which is quite unlike "Jazz" − Review for "TADA-MASU 3" ■
複数の耳のあわいに−「タダマス2」レヴュー Between Plural Ears − A Review for “TADA-MASU 2” ■
「タダマス」の船出 Maiden Voyage of “TADA-MASU” ■
”「今ジャズ」なるものが、ジャーナリズムによる「フレームアップ」というか、マーケティングに基づいた情報操作であることは、『プログレッシヴ・ジャズ』所載のインタヴューで菊地成孔が述べている通りで、それ以上でも、それ以下でもない。その中から素晴らしい作品/演奏が生み出される可能性もあるだろう。でも、多くは単なる流行りモノで、ムーヴメントとは固定され抜け殻となったスタイルの集団パクリにほかならず、それらすべては1年もたたずに脱ぎ捨てられるモードに過ぎない。それでも「流行りモノ」に触れたいヒトはそうすればいいし、「最新の」流行りモノに誰よりも早くアクセスすることにステータスを置きたければ、勝手にすればいい。 しかし、私はこれまで音楽をそのようには聴いてこなかったし、これからはますますそのようなことはないだろう。流行りモノを追いかけるには、もう齢を取り過ぎた。それは決して感性が鈍くなったとか、新しいものに対する反応が遅くなったということではない。はっきり言って、私にはもう残された時間が僅かしかないのだ。音楽に打ちのめされた経験もなく、ただキラキラと輝く流行りモノを追いかける快楽しか知らないのならば、一生そうしていればいい。だが、私はこれまで幾度となく、音楽の素晴らしさに打ちのめされ、この世にそうした素晴らしい音楽が存在することを知ってしまった。もはや後戻りはできない。明日にはごみ溜めになることがはっきりしている場所を漁っている暇などないのだ。” (福島恵一)
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