Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2016年02月07日(日) 松籟夜話、第五夜。1






「かえりやま氏特製スピーカー、鳥肌立つほど生々しい音!」(津田)、ほんまやー、
おらも開演前にサウンドチェックでジョビン三月の水、モチアンヘイデンFor A Free Portugal 、カヤグム演奏をかけてみた、骨格が露わになる鮮やかさ、だ、ジャズはジャズ喫茶が脱色される、それにしても「ひとの声」というものは強靭だな、倍音成分が次元のちがう周密なのか、脳認識が声紋を解析するセンサー密度が高いのか、



それはさておき。松籟夜話、第五夜。



ジムオルークの耳を借りる、肩越しに耳の風景を見る、オルークのTzadic 盤で聴いた静寂からかすかに妖しく沸き立つ響きのカゲロウ、気配によってざわざわと世界の見えかたが変容してゆくさま、(霊的な体験が禍々しいものとして身体を強張らせ対象への接近を不可能にすること、や、女の子の微細な言動や身動きがチャーミングにもゲスにもしてしまうこと、までは逸脱に過ぎる、)



ジョン・フェイヒィの1967年盤にオルークが魅せられたのもわかった(ちなみに月光茶房にはアナログがあってその音も鮮烈だ)、キースロウ在籍時こそのAMMの演奏に内在する謎(の一部)も判明した、



これらに呼応する津田さんのセレクトする西山?なんたらという録音作家の盤にもぞぞけが立ち、



だいたい、ガスターデルソルの長靴盤が傑作だ、ジルオーブリーのカイロ盤こそが21世紀フィーレコ耳の揺るぎない名盤だ、と、単発打ち上げ花火のように断言するわたしだが、・・・、後者は福島さん経由で知った音源だったけれど、長靴盤こそが傑作だと福島さんも判断していたとは今回初めて認識する、では、なぜ、どういう理路で、どういう見解で傑作だと言えるのか、おれにはまったく歯が立たなかった、



長靴盤もフェイヒィもAMMもカイロ盤をも、見事に一本のスジに耳の経路を辿ることができるのだった、わたしたちは演奏を聴くのではない、立ち上がりや気配や兆候を聴くのだ、(というふうに講演がなされたわけではない)、具体的にどの部分の微細な動きや響きのありように耳をそばだてているのか、タダマスでもそうだけれど、聴いているポジションが微妙に違うとか、言葉にするときの言語中枢の働かせのクセが異なるとか、いろいろあるところで、その差異こそが、事態をより明確する手がかりとなっている、差異こそが公共のいしずえ、



そうよ、ミニマリズムつうかミニマルミュージックの勘所は、サウンド変化による聴こえの変容、であって、ライヒのイッツゴナレインからそう、繰り返せばミニマルミュージックだなんてあほかね、オルークがマイルスを挙げるのも当然なのだ、様式に堕した作曲家が無理解を助長した、




全然ハナシがとぶけれど、西尾維新原作アニメ『化物語』再放送を観て今さらながらにドキドキしているんだが、ヴィジュアルの斬新に対してサウンドが追い付いてないね、津田さんたちのスティルライフ Stilllife やフィーレコの成果をアニメ界は取り入れるべきだな、





群馬県太田市に住んでいた頃だ、店頭で聴いてメルツバウを集めようかな、とか、ジム・オルークも集めようかな、とか、無職のくせに。ハロワで失業認定をして、まだまだ人生の夏休みだと、17号バイパスを新宿ディスユニオンやロスアプソンやガーデンシェッドや渋谷タワレコに向かい、10万円分の袋を二つ三つジャズ喫茶四谷いーぐるでCD山積みしていたジャンキー小僧。後藤さんから最近のECM特集やらない?と言われた夜の歓びは、今はないコンビニの角までが懐かしい。


ガスターデルソルの『Upgrade & Afterlife』1996を、調布在住のまことくんから聴かせてもらった衝撃。まことくんは何を手がかりにこの盤に手が伸びたのだろう。ミスチルも出しているトイズファクトリーからの国内盤だった。雨後の音響派が耳新しく、パナソニックの『ヴァキオ』とエキスメンタルオーディオリサーチとの3枚がシーンの頂点かなと勝手に思っていた。インプロ完全即興盤を聴く耳の態度が明らかに変化していた。JAPOレーベルのAMMIII、キースロウのギタードローンとラジオのアクティビティに以前度肝を抜いていた耳が、時代を迎えてきたー、とか。








いかん、まとまらん、つづきはウェブでじゃない、またあした、











Niseko-Rossy Pi-Pikoe |編集CDR寒山拾得交換会musicircus

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