Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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これも初見写真。よったん砂川経由入手。新婚旅行での摩周湖、昭和35年秋。
いつだか妹とまりえちゃんとおふくろと4にんで、札幌を7時に発ち遠軽に11時駅前でランチ、午後は摩周湖とドライブ宿泊をした夏の日、助手席の末期がんのおふくろが初夜の物語りを唐突に、ありゃやっぱり稀代の語り部だっぺ、旅館の部屋の襖の隙間には8つの目が縦に並んで俊夫さんが一喝したのだそうだが、あたしゃ初めてで痛いのに泣いたのに俊夫さんはそんなによかったのかときいてきたんだからね、こっちが味おぼえてきた頃にゃ奴さんは組合活動に飲み歩きだからね。
そんなことはどうでもいいよ、この写真、いい顔してるよ、二人ともかわいいよ、ハネムーンベイビーがフーテンの馬鹿息子でごめんごめん。
『これは私の個人的な史観だが、いわゆる「現代音楽」にとって特に1980年代以降は「聴く時代」だったと言えるのではないかと思う。モートン・フェルドマンはエッセイ「Between Categories」のなかで、14世紀のギョーム・ド・マショー以来、西洋音楽の主題は「構築」にあった、と指摘している。作曲する、ということはつまり抽象的な「素材」を何らかの方法や形に寄って「組み立てる」ことであり、素材そのものの経験ではなかった。それに対して「聴く時代」の作曲家たち(もちろんすべての作曲家が、というわけではない)は、音を聴くことや、それがもたらす体験そのものに関心を持つようになってきた。聴くことの創造性を指摘したのはジョン・ケージだが、彼とはかなり異なる美学を持つ多くの作曲家たちも、神秘主義への傾倒、東洋思想の影響、音響や聴覚についての科学的な研究への関心など、様々な観点から、音そのものを聴く体験やその意味に言及しながら創作を行っている。』 CD『田中吉史:リネアーレスピロ』 (fontec) 2015
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